規律の番人
――大和皇国第一養成所。
国内屈指の治療設備を誇る国家直属の医療機関であり、SEUの指揮下に置かれた数少ない拠点のひとつ。
幻影との戦いで傷ついた者たちの“終着点”とも呼ばれ、特に重傷者は例外なくこの施設へと運ばれる。
その一室に、鷹野義純はいた。
右腕に巻かれた包帯はまだ真新しく、神経が戻り切らぬ箇所に微弱な痺れが残っている。
けれど、彼にとって真に痛むのは“腕”ではなかった。
森園由梨花――仲間であり、最愛の恋人を失った喪失感。
あの瞬間、護れなかった自分自身への怒りと、罪悪感。
何度も噛み締めた奥歯から血の味が広がり、それでもなお足りぬほどの後悔が胸を苛んでいた。
(……あの時、俺がもっと早く動いていれば……)
そのときだった。
──コン、コン。
小さなノック音。
しかし、その音はやけに重く、室内の空気を震わせるようだった。
扉が静かに開く。
足音ひとつなく、ぬるりと影が差し込んだ。
「…………っ!」
鷹野は思わず跳ね起きた。
心臓が強く脈打つ。
まるで本能が、相手の“格”を理解したかのように。
そこに立っていたのは──
──《SEU序列第4位》、五十嵐 桃。
SEUにおける序列は、そのまま“力”の格付けを意味する。
第4位──それは、問答無用でほぼ全員が頭を垂れる数字だった。
その姿を見た瞬間、鷹野の背筋は硬直した。
身長は160センチにも満たないだろう。
だが、そこから放たれる“圧”は異様だった。
まるで巨大な“鬼”が人間の皮をかぶって立っているかのような威圧感。
顔には般若の鬼面。
その目孔の奥からは、何も映さぬ深淵がのぞいており、その素顔を見たものは誰もいないという。
──“鬼の五十嵐”。
SEUの中で、恐れられながらも絶対的な信頼を集める存在。
その恐怖は“強さ”に基づくものではなく、“規律”と“処断”を何より重んじる姿勢によるものだった。
「失礼する。……腕の傷は、もう痛まないか?」
仮面越しの声は、静かだった。
しかしその“静けさ”こそが、恐怖だった。
「は、はい……っ! あ、ありがとうございます……!」
鷹野は即座に敬礼し、直立する。
汗が、耳の裏を伝って落ちた。
だが、五十嵐は無反応のまま、一歩、室内へと足を踏み入れる。
──その瞬間。
気圧が変わった。
空気が“重く”なるという、言葉では表現できぬ感覚。
まるで何者かが天井から鷹野の全身に覆いかぶさってきたかのような、重圧。
「……今日はどうして来てくださったんでしょうか……?」
鷹野は、喉を無理やり動かしてそう言った。
「なんだ? 上司が部下のお見舞いに来てはいけないのか?」
「い、いえ決してそういうわけでは……」
「冗談だ」
(……冗談に聞こえねぇよっ!)
仮面越しの声には、笑いの気配も、緩みも、一切なかった。
まるで処刑宣告の直前に「冗談だ」と添えられたような、救いのない重みだけが残る。
鷹野は無理やり笑顔を作ろうとするが、口元がひきつるだけだった。
「ところで、お前に聞きたいことがある」
「は、はひっ! なんでしょうか?」
思わず声が裏返る鷹野。
すると五十嵐は、懐から数枚の報告書を取り出す。
パサ、と音を立てて開かれたページ。
そこには──
義影瑠衣の名があった。
その瞬間、鷹野の心臓が再び跳ねた。
やはり、彼のことだ――。
「……列車襲撃の件で確認したい点がある」
語調は穏やかだった。
だがそれが、逆に恐ろしかった。
「お、お答えできる範囲であれば……!」
すると、五十嵐は手を机に思い切り当てて言った。
「……答えろ。“義影瑠衣”という男は、確かに“混血新人類”を一撃で退けたのか?」
「はいぃ! それは……ま、間違いありません……!」
声が、上ずった。
脳裏に浮かぶのは、あの時の記憶。
ピエロの化け物。
恐怖のあまり何もできなかった自分。
そして現れた“通りすがりの男。自分は途中から意識を失っていたのでその時名前は知らなかったが、報告書を見る限り彼で間違いない。
「その力……乗客からの証言によれば、重力を操るような能力だったとあるが──」
鷹野の全身から血の気が引いた。
(そこを、訊かれるか……!)
その力を見たのは、確かに自分や星風を含めた一部の乗客だけ。
しかし公式記録に載せるには不明瞭で、“異常”すぎた。
何故ならそんな力、今まで見たこともきいたことも無いからだ。
だが──五十嵐は見逃していなかった。
“規律”の番人。
“曖昧”を最も嫌う者。
「そんな力……我々ですら把握していない。──新人が、使えるような力ではないはずだが?」
「……というと?」
「――義影瑠衣。まだ、SEUに入隊してから1週間も経っていない新人との事らしいじゃないか。そんな新人が、混血新人類を相手にたった一撃で、それも撤退を余儀なくされる程のダメージを与えたなど信じられるか?」
「……はい。私も最初は信じられなかったです。しかし、あれは紛れもなく彼の力であり、彼が我々を助けてくれたのも事実です」
瑠衣がSEUの新人であるということは鷹野の耳にも既に入っていた。
五十嵐上官が信じられないのも無理はないだろう。
しかし、鷹野が見たのは紛れもない事実であり、そこに嘘はない。
「とてもじゃないが信じられない。ただの新人ではないだろう。だから──私自身がこの目で真偽を確かめる必要がある。……違うか?」
「……い、いえ……そう、ですね……」
五十嵐は静かに呟き、仮面の下の口元で何かが歪むような気配を残した。
そして、鷹野の目の前で、ゆっくりと腰に差した武装刀の柄に指を添えた――。
それは自然な動作のようでいて、明確な“威嚇”だった。
触れたのは一瞬。
だが、それだけで病室の空気が一変する。
凍てつくような静寂。
体の芯が一気に締め付けられるような感覚。
“斬られる”という言葉が、脳裏に浮かんだ。
──違う。
これは殺気だ。
それも、純度の高い“実戦の気配”。
鷹野の全身から、汗が噴き出した。
喉がカラカラに乾き、声が出なくなる。
(な……なんなんだ、この空気……! まるで、俺の命が試されてるみたいじゃねえか……!)
ただの確認。
ただの尋問──そのはずなのに。
目の前の少女は、明らかに“戦闘態勢”に入っていた。
──なぜだ。
《《なぜ、そこまで彼に執着する》》。
「……その男は、只者じゃない」
仮面の奥から、ぽつりと漏れた声。
五十嵐の声音には、怒りも、疑念もない。
だが、その冷静さこそが、逆に恐ろしかった。
「SEUの術式体系にも、武装刀による共鳴解放でも重力干渉能力など存在しない。ならば、彼は何者なのか。私はそれを知る必要がある」
「…………っ」
鷹野は、言葉を飲み込む。
何も言えなかった。
何せ義影が何者なのかも──
なぜ、あれほどの力を持っているのかも──
自分だって、わからないのだ。
だが、ただひとつ。
“救われた”という事実だけは、誰にも否定できなかった。
万が一彼が、人間でなくても。
怪物じみた存在だったとしても──。
殺気だつ五十嵐を前に、恐怖を抱きつつも、恐る恐る鷹野はこう言った。
「……五十嵐上官が不審に思うのも無理はありません。ですが俺は、あいつに命を救われました。
……星風も、乗客も、みんな……彼がいなければ、今ごろ全滅してた。ですから――」
「感謝の気持ちは否定しない。だが、それと真偽は別だ」
五十嵐は淡々と返す。
「“真実”を捻じ曲げるほどの恩義など、私には不要だ。
私が守るのは──“秩序”だ。それを乱すものは何人たりとも容赦はしない」
その言葉に、鷹野の背筋が凍りつく。
感情ではない。
正義でもない。
ただ、規律と秩序のみ。
それが、彼女・五十嵐桃の“正義”だった。
「混血新人類を一撃で退けた。幻影をも凌ぐ重力操作の力。“義影瑠衣”という正体不明の新人隊員」
五十嵐はゆっくりと背を向け、病室の扉の方へと歩き出す。
「──これから、確かめに行く」
「っ……ま、待ってください!」
思わず、鷹野が叫んだ。
だが、振り向いた五十嵐の言葉は冷たかった。
「安心しろ。私は“斬る”つもりはない。今はまだ、な」
そして、扉を開ける間際──彼女は最後に言い残した。
「ただし、もし彼が……“人類に仇なす者”だったなら。
その時は、例外なく──“処す”」
重い音を立てて、扉が閉まろうとする。
その直後だった。
「――五十嵐様」
廊下の向こうから、静かな声が響いた。
現れたのは、眼鏡をかけた長髪の女性。
きっちりと整えられた制服。無駄のない所作。
明らかに五十嵐の直属だ。
彼女は小声で、しかし端的に報告する。
「冷国怜が、黒羽真白によって殺害されかけました。
……止めたのは――義影瑠衣です」
五十嵐の動きが、完全に止まった。
「――……何?」
次の瞬間、空気が震えた。
「それだけではありません。黒羽真白は、義影瑠衣を独断で……“スラム”へ異動させています。
正式な承認手続きは、一切なし」
沈黙。
だが、それは嵐の前触れだった。
五十嵐の指先が、ゆっくりと震え始める。
怒りを抑え込むように、拳がきしむ音を立てた。
「……またか。また、規則を踏み躙ったか……黒羽真白……!」
低く、噛み殺した声。
だが、その奥にある激情は、誰の目にも明らかだった。
「緊急集会を開け」
即断。迷いはない。
「はっ。直ちに」
「黒羽を、徹底的に洗い出す。これ以上あいつの好き勝手にはさせん」
そう言い捨て、五十嵐は踵を返す。
病室の中で、そのやり取りを断片的に聞いていた鷹野は、何が起きているのか理解できず――
ただ、胸の奥がざわついていた。
(……まずい……)
理屈ではなく、本能が告げている。
今、確実に“何か”が動き出した。
しかもそれは、誰かが止められる類のものではない。
怒りに震える五十嵐桃。
規律を破った黒羽真白。
その中心に、またしてもいる義影瑠衣。
鷹野は、知らず知らずのうちに毛布を強く握り締めていた。
――これは、嵐の前触れだ。
そう確信せずにはいられなかった。




