模擬幻影
――午前中の講義を終えて、午後。
第三訓練場は、張り詰めた空気に包まれていた。
整然と整列する新人隊員たちの顔には、これから始まる模擬幻影との戦闘に、緊張と不安の色が浮かんでいる。
SEUでは、3か月以内に模擬幻影を自力で討伐しなければ、正式な隊員にはなれない。
この訓練はその合否を大きく左右する、最初の大きな関門だ。
瑠衣も、列の中に静かに立っていた。
表情に焦りはなく、ただ淡々と目の前の訓練場を眺めている。
瑠衣にとって、こんな訓練はおままごとに過ぎない。しかし、厳格に定められたSEUの規則に則って動かなければ、瑠衣が成し遂げたい事も達成する事はできない。
もどかしい思いはあるものの、順番にこなしていくしかない。
正式な隊員になる。そして序列を上げ、味方を増やす。そして、柊咲夜と謁見する。まずはここからだ。
やがて、訓練場の扉が開いた。
「やあやあ、皆さんお待たせしたね。じゃあ、はじめていこうか」
現れたのは、軽薄そうな笑みを浮かべた男。
清潔な軍装の肩には《SEU》の紋章、そして“序列第999位”の刺繍。
「あいつは……たしか……」
瑠衣が小さく呟く。
思い出したのは、数日前、星風と食事をしていた時に現れた男――井ノ崎とかいう男。
その瞬間、隣にいた星風が、あからさまに「うげっ」と顔をしかめた。
(……わかりやすすぎるな)
瑠衣が横目で見ると、彼女は明らかに目を逸らしていた。
「な、なんであの人がここに……」
「さあな。でもどうやらあいつが試験官みたいだな」
「あわわ……こっちに来ますよっ」
井ノ崎は星風に気付くと、目を輝かせて近づいてくる。
「星風さん! どうしてここに? 君はもう模擬訓練は済ませたはずじゃなかったかい?」
「井ノ崎上官、お疲れ様です。これは、えーっと……」
「もしかして……まさか……!」
井ノ崎が両手を胸元で組み、瞳をキラキラさせながら続けた。
「僕の試験官としての初デビューを見に来てくれたんだね!?」
「えっ!? いや、ちが――」
「嬉しいな……! 星風さんが、僕に会いに来てくれたなんて……!」
否定の声など、彼の耳には入っていない。
早くも“幸せな勘違い”モードに突入していた。
「やっぱり、君は僕の隊に来るべきだよ。雰囲気は柔らかいし、君が来れば、みんな大喜びさ」
そう言って、井ノ崎が星風の手にそっと触れようとした――その瞬間。
「そこまでにしておけ」
すっと割って入るように、瑠衣が井ノ崎の前に立った。
星風が安堵したように肩を落とす。
一方の井ノ崎は、ぴくりと顔を引きつらせた。
「……また君か。この間といい、いつも邪魔をするよね、義影くん?」
「邪魔? そりゃこっちのセリフだ。この間といい、星風に付きまとってるのはあんたじゃないか」
井ノ崎が口元をひきつらせる。
「いやいや、僕はただ、後輩を思って――」
「思ってるのは自分のことだけだろ?」
「なんだと?」
井ノ崎の声が、一段低くなった。
瑠衣は目を細め、静かに言葉を続けた。
「はぁ……ったく。星風が言えないなら、俺が代わりに言ってやる。……こいつは、お前の隊になんか入りたくないんだよ。だから、そうやってしつこくするのはやめてやれ」
その一言に、井ノ崎の笑顔がぴたりと止まる。
わずかに目元が痙攣する。
だが、表情だけはどうにか繕って、ぎこちなく口元を引き上げた。
「……フフ。なるほど。義影くんは、随分とお節介なんだな。まあいい。そんな君にぴったりの訓練が用意されてるよ」
そう言いながら、井ノ崎は端末を取り出した。
親指でさっとスワイプしながら、訓練対象の設定を確認。
誰にも気づかれないように、項目をいじる。
【訓練対象:義影 瑠衣】
【模擬幻影ランク:下級 → 中級】
【致命攻撃制限:ON → OFF】
設定変更を終えた井ノ崎は、何事もなかったかのように振り返る。
そして、さりげなく声を張った。
「それじゃあ、模擬幻影、起動」
訓練場の床に、低く重い電子音が響いた。
ホログラム装置が作動し、中央に影のような“黒い霧”が発生する。
霧は徐々に膨れ上がり、輪郭を持ち始める。
そして、赤く光る眼、牙のように伸びた爪、黒い筋肉に覆われた異形の姿が、静かに現れた。
「……あれ、いつもと違くないか?」
「なんか、やたらごつくね……?」
列の後方で、訓練生たちがざわめき始める。
“模擬”とは思えない、異様な気配がそこにはあった。
星風もまた、目を細めて幻影を見つめていた。
体表の厚み、爪の鋭さ、呼吸に混じる殺気のような圧力。
これまで自分が戦ってきた下級幻影とは、明らかに“体格”が違う。
「あれって……」
星風の喉がひりついた。
視線を横に向けると、井ノ崎が薄ら笑みを浮かべたまま、前に出ていた。
「さ、はじめようか」
飄々とした口調。
だが、その声はどこか軽く――星風には、まるで“試すように”聞こえた。
井ノ崎の端末操作を見た者はいない。
違和感はあれど、確証もない。
「義影瑠衣、前へ」
井ノ崎の号令に、瑠衣が一歩前へ進み出る。
訓練場の中央、模擬幻影と対峙するその背は、静かで揺るぎなかった。
「義影さん、気を付けてください。上官、何か設定を変えた可能性があります」
「問題ない」
星風の忠告に、瑠衣は軽く手を挙げて答えた。
そして、腰に差した武装刀を抜く。
幻影が唸り声を上げる。
その爪が床を叩き、四肢が地を蹴った瞬間、戦闘が始まった。
「……なるほどな」
瑠衣は、その動きを見た瞬間、幻影が模擬用の下級ではない事を悟った。
先日対峙した幻影よりも、明らかにスピードが違う上、筋肉もあんなに隆起していないからだ。
井ノ崎が何故そんな事をしたのか、それは嫌がらせに他ならないだろう。
だが、詰めが甘い。
今の瑠衣にとって、下級が中級に変わった程度では、嫌がらせにすらならないからだ。
幻影は咆哮とともに地面を蹴り、鋭い爪を振りかざして襲いかかる。
訓練用とは思えない、剣呑な殺気を放ちながら――。
だが――その刹那。
瑠衣の姿が、消えた。
訓練生たちの視界から、本当に一瞬だけ、義影瑠衣の姿が“抜け落ちた”のだ。
次の瞬間。
――カンッ!!
甲高い金属音が、幻影の頭部で爆ぜた。
瑠衣の武装刀が幻影の額、その奥の脳部を正確に貫通した音だった。
幻影の動きが一瞬止まる。
時間がゆっくり流れたかのように見える中、
瑠衣はすでに次の動きに移っていた。
刀を抜く“反動”を使って体を回転させ、
二撃目の突きが幻影の胸部へ一直線に走る。
狙うのは、
幻影の“心臓”に宿るもう1つの核。
――スパンッッ!!
鋭い破裂音とともに、胸部が一瞬だけ光り、核が砕け散り、霧のように消えた。
幻影は、何が起こったのか理解する暇もなく、
その巨体を支えられずに崩れ落ちる。
ドシャッ!
訓練場の床が震えた。
瑠衣はすでに後方へ歩き始めており、
刀には核の欠片ひとつ残っていない。
「…………」
場が凍りついた。
揺れる空気音だけが響く。
「い、今……何が……?」
「頭……と、胸……同時……? うそだろ……?」
新人たちの誰も、瑠衣が“動いたところ”すら見ていない。
一撃ではない。
二点同時貫通。
それは“下級”はもちろん、“中級”の幻影でも通常は不可能なほどの急所破壊。
しかも、訓練用の補正すら無視した速度と精度だった。
井ノ崎の顔からは、血の気が引いていた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。機械の不調かもしれない……」
動揺を隠せず、声が裏返る。
「も、もう一体だ!」
端末を乱暴に操作し、再び黒い霧を生み出す。
第二の幻影が現れ――
吠えるより早く。
――ガンッ!!
頭部を叩き割る音。
――ズギュッ!!
核を貫く音。
霧が散り、巨体が地に伏す。
どよめく会場内。
瑠衣は、静かに刀を戻す。
「……で、これで訓練は終わりでいいか?」
振り返りながら、淡々と告げた。
井ノ崎は握った拳を震わせながら、
固まった笑顔を無理矢理ひねり出した。
「……あ、ああ。合格、だね。す、素晴らしいよ、義影くん。驚いた」
その目は引きつり、声も若干震えていた。
「そうか、ならよかった」
そう一言だけ答えると、瑠衣は歩き出した。
星風がその後ろに駆け寄ってくる。
「すごかったです、義影さん……!」
星風は目を見張りながら、小さく息をのんだ。
「まさか、あんな一瞬で……頭部と核、両方を……!」
「……予備動作が甘かった。間合いも読みやすかったな」
瑠衣は淡々と応じる。自らの力量を誇示するような様子はなく、あくまで冷静な分析だ。
「それでも普通は、対応できませんよ。私だったら命がいくつあっても足りません」
星風は感嘆を込めて続ける。
「本当に……義影さんって、強いんですね」
「……まだ訓練の段階だ。評価するのは早い」
瑠衣は視線を逸らし、端末をちらりと見やった。
「でも、私はちゃんと見てましたよ。動きも、気配も、刀さばきも……全部、無駄がなかったです」
その言葉に、瑠衣はふと肩の力を抜いた。
「そうか……なら、よかった」
ぼそりと漏れた声は、どこか照れ隠しのようでもあった。
星風はそんな瑠衣の様子に、柔らかく笑う。
「ふふっ。じゃあ、次は――」
そう言いかけて、指を口元に添え、意味ありげな笑みを浮かべた。
「……でも、座学だけは心配ですね?」
「……否定はしない」
瑠衣は小さく息をつきながら認めた。
「だったら――私が教えます!」
星風は明るく言い、ぴょんと小さく跳ねるように笑った。
「それは助かるな。宜しく頼む」
今度は、瑠衣もわずかに口元を緩める。
2人が並んで訓練場を後にする姿には、戦いの緊張感とは打って変わった、どこか静かな連帯感が宿っていた。
その背を、井ノ崎は遠巻きに見ていた。
もはや笑っていなかった。
口元の形すら作らず、ただ目だけが――鋭く細められていた。
爪が、手のひらに食い込むほど拳を握りしめていた。
忌々しげに、静かに吐き出す。
「……義影……瑠衣……ッ!」
その声は誰にも届かない。
訓練場に残るのは、床に沈んだ幻影の残骸と、試験官の歪んだ表情だけだった。




