お見舞い
瑠衣の問いに、星風は小さく息を整えてから答えた。
「えっと……あの方は、薬師寺亮上官です。SEUの序列第2位で……黒羽上官よりも上の階級なんですよ」
「……あれが、2位?」
思わず眉がひそむ。
どう見ても、戦士というより遊び人。
前髪は整いすぎているし、目つきは遊び慣れている。軍人としての格式高い誇りや威厳は皆無。
あの軽薄な男が、黒羽よりも格上──?
そんな瑠衣の疑念を見て取ったのか、星風は肩をすくめながら苦笑した。
「普段は“エテルナ”っていうホストクラブのオーナーもしてるらしいです。浮遊要塞の下層にある酒場ですけど……」
「そうか。お前も行ったことがあるのか?」
「行ってませんよ! そんな怪しいところ!」
顔を赤くして慌てふためく星風に、瑠衣は思わず口元を緩めた。
「どんなイメージを持ってるんだよ……」
しかし、軽口とは裏腹に、彼の視線は鋭く光っていた。
黒羽真白が、薬師寺の登場と共にあっさりと刃を引いた。
あれだけの殺意を引っ込めさせる何かが、確かにあの男にはある。
──あのふざけた見た目の裏に、どんな“力”が潜んでいる?
答えは出ない。だが、底知れぬ者だという直感は確かだった。
「ところで、冷国さんは……?」
ふと周囲を見渡した星風が尋ねると、瑠衣は軽く肩をすくめた。
「さっきの騒動の後、気づいたらいなかった。音も気配もなく、スッと消えてたぞ」
「え……?」
「まぁ面倒ごとに関わりたくなかったんだろうな」
星風は少し黙ったあと、ぽつりと呟いた。
「でも、あの人はすごく真面目な方なんです。……きっと、義影さんのこと、ちゃんと見てたと思います。後でお礼とか、何かあるかもしれませんよ」
「礼なんて別にいいんだけどな」
瑠衣はその一言で話を打ち切るように言い、話題を変えるように歩き出した。
その後、黒羽と冷国が立ち去ったことで訓練は自然解散となり、星風と瑠衣は連れ立って寮へと戻った。
しかし、今回の黒羽の暴走の件が引き金となり、後に大事件になるとはこの時誰も予想だにしていなかった――――。
◇
夕暮れ。
星風と別れた瑠衣は、基地内の食堂で簡素な夕食を済ませたあと、自室で手元の資料に目を通していた。
「……午前は座学か。“黒影石の理論と運用”、“幻影の成り立ちと現代史”、“武装刀の仕組み”。午後は“擬似幻影との模擬戦闘および体術訓練”……」
読み上げる声は低く、どこか気怠げだった。
配布された新人用カリキュラム表には、みっちりと一週間分の予定が詰まっている。模擬幻影の討伐試験に合格できなければ除隊処分──それは知っていたが、単位制の座学までもが厳格に管理されているらしい。
「座学か……退屈な話ばかりだな」
ソファに身を預け、資料を顔の上にかざしてため息をつく。
戦闘にはある程度自信がある。
だが、理論は苦手だ。
星風はその逆で、戦闘こそ未熟だが、座学に関しては講師顔負けの知識量だと自称していた。
「……彼女に頼るしかないか」
勉強漬けになる事に関しては気が重いが、今さら落第などできる立場ではない。
と、そこへノックの音がした。
「義影さん、入っても大丈夫ですか?」
星風の声だった。
「ああ」
返事をすると、静かにドアが開き、私服の彼女が小さく頭を下げて入ってきた。
「何かあったか?」
「えっと、これから鷹野さんのお見舞いに行こうと思うんですが……一緒にどうですか? まだ目を覚ましてないかもしれませんけど。病室が同じ敷地内の“第一療養所”の中にあるので」
星風の手に提げたカゴにはお見舞いで渡す用のフルーツが盛られていた。
「……療養所?」
「SEUに併設された病院です。怪我人や精神的なショックを受けた隊員も、あそこで治療を受けてます。……鷹野さんも、あのあとすぐ運ばれて」
「そうか……。じゃあ、俺も行く」
そしてふたりは、深まりゆく夕暮れの空の下、第一療養所へと足を運んだ。
寮を出て、SEU基地の敷地を横断する。
その隣に建つ白壁の病棟は、夜の帳が下りる中でも静謐な空気を湛えていた。玄関前には銃を携えた警備兵が一人、無言で直立不動の姿勢を保っている。
星風が受付で名前を告げると、すぐに端末で確認が行われ、案内係が現れた。
しばらく歩くと、鷹野のいる病室が見えてきた。
そして扉を開ける。
そこには、窓際に背を向けて椅子に座る彼の姿があった。
「……鷹野さん」
星風の呼びかけに、男がゆっくりと振り返る。
右腕には包帯が巻かれ、空虚な表情のまま、それでも微笑もうとする顔がそこにあった。
「よう。来てくれたんだな」
「……はい」
星風は駆け寄って、ベッド脇に立つ。
「その……体調は、大丈夫なんですか?」
「ああ、大丈夫さ。命に別状はないって医者も言ってたしな。右腕もこの通りさ。……まぁ、まだ何も持つことすらできないけどな」
苦笑交じりの言葉は、どこか遠くを見つめていた。
まるで、現実感がないかのように。
その笑みは薄く、虚勢にしか見えなかった。
瑠衣はそれを、一目で見抜いていた。
「私……早く元気になって戻ってくるの、待ってます!」
星風の声は明るかった。
いや、明るくあろうとしていた。
それでも鷹野は、ゆるく首を振る。
「……悪いが、もう戻らない」
「え……?」
「引退するよ。俺はもう、前線には立てない」
その言葉に、病室の空気が変わった。
重く、張り詰めた沈黙が落ちる。
風の音すら聞こえない、白い箱のような空間。
「……なあ、星風」
ぽつりと、彼は言った。
「お前は、まだ……俺が戻ってくるって、信じてんのか?」
「それは……」
声が震える。
目の前の鷹野は、以前の彼ではなかった。
肩の広さも、声の強さも、どこか縮んでしまったように見えた。
それでも星風は、必死に笑おうとしながら頷いた。
「……でも私は……また鷹野さんと一緒に現場に出たいんです。だから、元気になって、戻ってくるって信じてます……っ!」
その言葉に、鷹野は視線を落とした。
ベッドの布団を握る手が、わずかに震える。
「……ありがとな。でも、無理だ」
「えっ……?」
「俺は、もう……現場には戻らない。今回を持って引退するよ」
その声には、一片の迷いもなかった。
「……そう、ですか……」
星風はそれ以上、言葉を紡げなかった。
鷹野の沈んだ表情が、すべてを物語っていたから。
「……俺は」
鷹野は、右腕の包帯を見つめながら呟いた。
「……由梨花を、守れなかった」
それは呟きというには、あまりにも重く、深い響きだった。
彼の瞳はどこか遠くを彷徨い、記憶の中へと沈んでいく。
「戦いの最中に、恋人を失った。ただの仲間じゃない。……あいつの目の前で、俺は立ち尽くしていた。何も、できなかった」
声にわずかな震えが混じる。
言葉にするたび、その痛みが形を持って胸を締めつけるようだった。
「動けなかったんだ……足が、手が……あの瞬間、俺の中の何かが壊れた」
鷹野の目元が赤く染まり、唇がかすかに震える。
それでも、涙は落ちなかった。
「今でも、目を閉じるとあの光景が蘇る。……由梨花の、最後の顔が」
彼は俯いた。
「すまない、星風……。今の俺には、誰の顔も見たくないんだ」
それが、鷹野義純の“限界”だった。
心の深い部分で、何かがぽっきりと折れていた。
星風は何かを言おうとしたが、声が出ず、小さく「……わかりました」とだけ答えた。
「……これ、お見舞いのフルーツです。良かったら召し上がってください」
そう言って会釈し、振り返る。
足早に病室を後にする星風の背中は、どこか寂しげだった。
静かになった病室。
その空間に、瑠衣だけが残されていた。
彼は鷹野の虚ろな横顔を、無言で見つめていた。
やがて、一歩だけ近づき、低く、そして静かに問いかける。
「……このまま逃げるのか?」
その言葉に、鷹野の肩がピクリと震える。
「悔しくないのか。恋人を目の前で殺されて……怒りは湧いてこないのか?」
その瞬間だった。
鷹野の中で、何かがはじけた。
「──お前に……お前に、何がわかる!!」
怒号と共に、鷹野は立ち上がり、瑠衣の胸ぐらを掴んだ。
そのまま勢いよく壁に押し付ける。
「お前に……あの瞬間の恐怖が、絶望が……わかるかよ!!」
顔を歪め、怒りと悲しみの混じった瞳で睨みつけてくる。
それは怒りというより、叫びだった。
助けを求める魂の慟哭だった。
胸ぐらを掴まれながらも、瑠衣の瞳は静かだった。
その瞳には恐れも、怒りも、同情もなかった。
あるのは、ただ冷えきった決意の色。
──やがて、ぽつりと口を開く。
「――俺は、悔しかった」
「え……?」
その声は低く、静かだった。
けれど、その言葉のひとつひとつに、深く研ぎ澄まされた熱がこもっていた。
「目の前で家族を殺された。何もできなかった。ただ……見ていることしかできなかった」
瑠衣の目がわずかに伏せられる。
遠い記憶を掘り起こすように、まぶたの奥に焼き付いた光景がよみがえる。
──悲鳴。血の匂い。小さな手を伸ばしながら、崩れ落ちていった妹の姿。
「……っ」
対する鷹野は、目を瞬き、言葉を失っていた。
彼には瑠衣の過去も、背景も、何も分からない。
ただ、何かが、激しく燃えているということだけが伝わってくる。
「俺が止めなきゃ、同じように家族を失う人間が、また出る。だから誓った。あいつらを絶対に許さんと。だから落ち込んでいる暇なんてなかった」
声には怒気でもなく、悲嘆でもなく、ただ凍てついたような意志だけがあった。
そのまま、瑠衣は掴まれた鷹野の手を、そっと外した。
無理に振り払うのではなく、ただ静かに。
力が抜け、鷹野の手が膝の上に落ちる。
まるで心の中の支えを失ったかのように、彼の肩がわずかに沈んだ。
混乱と動揺。
……そして、理解できない何かを前にしたときの、呆然とした目。
瑠衣はその顔を一瞥し、淡々と言い放った。
「……お大事に」
その一言は、まるで冷水のようだった。
情けや慰めではなく、事務的な別れの言葉。
だがそこには、もうひとつの意味が込められていた。
──前を向く準備ができたとき、また会おう。
そんな、淡い祈り。
そして瑠衣は、振り返ることなく病室を後にした。
「――義影さん」
廊下で待っていた星風が駆け寄ってきた。
だがその顔は、いつもの元気なものではなかった。
今にも泣き出しそうな瞳に、強く噛みしめた唇。
「……私、鷹野さんのこと……何も考えていませんでした。戻ってきてほしい、なんて……無神経でした……っ。自分が何を言ったか、ようやく分かりました……」
項垂れるように俯いた彼女を、瑠衣は無言で見下ろした。
そして、そっとその頭に手を置いた。
「……そう自分を責めてやるなよ。お前はお前のやり方で、必死に支えようとしただけだ」
「でも……っ」
「言葉で誰かを救えると思った時点で、偽善だ。だが――その偽善にすら、救われる奴もいる」
星風が驚いたように顔を上げると、瑠衣は少しだけ優しい目をしていた。
「お前がいなきゃ、鷹野は誰にも見舞われずに、ずっと一人で塞いでたはずだ。……それだけで、お前の言葉には価値があった」
「……義影さん……」
星風の瞳が、潤んだまま細かく揺れる。
「今後あいつがどうするのかはわからない。このまま引退するのか、それとも復帰するのか――。ただ、星風。お前は、今できることをした。それで十分だ」
そう言って、瑠衣は彼女の肩を軽く叩くと、再び歩き出す。
「行くぞ。無理に元気を出す必要はないが……立ち止まるな。前だけ見てろ」
「……はいっ!」
震える声で、けれど確かに星風は返事をした。
その背に、瑠衣の言葉が静かに残る。
──立ち止まっている暇なんて、ないのだから。




