第97話 燻る火種
空間の仲裁によって、一触即発だった食堂の空気は、ひとまず収まった。
輪床は自分の感情に任せて胸倉を掴んだことを反省し、何も言わずに席へ戻っていく。周囲の隊員たちも、ようやく張り詰めていた空気から解放されたように、少しずつ食事を再開していった。
しかし、要だけは違っていた。
彼は何事もなかったかのように席へ戻っていたが、先ほど空間から受けた注意を気にしている様子はない。厚巳を侮辱したことについても、輪床と衝突したことについても、自分の考えを改めるつもりはないらしかった。
その様子を、和戸が少し離れた場所から見ていた。
「あいつ、連隊長の言葉が響いていないようですね」
空間の言葉に、和戸は小さく頷いた。
「ええ、組織として1つにまとまらないといけない時に…困ったね。」
「……。」
空間は、要のいる方へ視線を向けた。
先ほど自分が厳しく注意したにもかかわらず、要はまるで何も感じていないかのように、周囲の隊員と会話を交わしている。いや、正確には会話というより、いつものように何かに対する不満を口にしていた。
誰も口には出さなかった。だが、食堂の空気は、先ほどよりも確実に重くなっていた。
オペレーション・ギデオン――第7次首都圏奪還作戦は、35普通科連隊に甚大な損害を与えた。
多くの隊員が戦死し、負傷者も数え切れない。生き残った者たちも、心身ともに無傷ではなかった。
それでも、次の戦いは待ってくれない。部隊は再編され、訓練は再開されている。だが、人間の心まで編成表のように簡単に組み替えられるわけではなかった。
要は、相変わらず自分の信念を曲げようとはしない。
たとえ上官であろうと、納得できないことがあれば批判する。本人にとっては正しい意見を述べているだけなのだろう。しかし、戦友を失ったばかりの隊員たちにとって、その言葉はあまりにも鋭かった。
輪床との衝突を経ても、それは変わらない。
隼人もまた、過去から抜け出せずにいる。諏訪との確執を抱え、訓練でも本来の力を発揮できていない。本人もそれを自覚しているが、心の中に残った傷を、自分の意志だけで消すことはできなかった。
そして、部隊の中には、他にも燻っている火種がある。誰もが、それぞれの傷を抱えていた。ただ、それを口にしていないだけだった。
「おーい! 矢戸が目を覚ましたそうだ!」
その声に、食堂の空気が少しだけ変わった。声を上げたのは二河だった。
「そうか、良かった…。」
富貴が安堵したように息を吐く。
「非番の時に見舞ってやろう。」
諏訪もそう言って、周囲の隊員たちと顔を見合わせた。
矢戸 聡士一等陸士。
オペレーション・ギデオンで重傷を負い、意識不明の状態が続いていた隊員だ。その矢戸が、意識を取り戻した。それは、この場にいる誰にとっても喜ばしい知らせだった。
――ただ一人を除いて。
益子は腕を組んだまま、浮かない顔をしていた。周囲が矢戸の回復を喜ぶ中、彼だけが、まるで関係のない話を聞いているような表情をしている。
それに気づいた隼人が声をかけた。
「良かったですね、益子一士。」
「ふん…。」
益子はそれだけ言うと、興味がないと言わんばかりに席を立った。その態度を見て、隼人は思わず呟いた。
「ツンデレなのかな…。」
益子の足が止まった。一歩進んでから、ゆっくりと振り返る。その顔を見た瞬間、隼人は自分の言葉が軽率だったことを悟った。
益子の表情には、先ほどまでの不機嫌さとは違うものが浮かんでいた。怒りだ。それも、ただの冗談に腹を立てたという程度のものではない。
「あ? ふざけるな。俺とあいつとの間に、そんな生ぬるい関係があるわけねぇだろ。」
低い声だった。抑えているつもりなのだろう。だが、その声の奥には、隼人の想像以上の苛立ちが滲んでいた。
「益子。」
家泉 興図三等陸曹が、静かに声をかけた。
「見舞ってやれよ。退院したら、同じ部隊で顔を合わせるんだ。少しは話してやれ。」
「ああ? 何で俺があんな奴と!」
益子は吐き捨てるように言い放ち、そのまま食堂の出口へ向かって歩き出した。その背中を、家泉は黙って見送る。だが、益子の胸の内では、別の感情が渦巻いていた。
(弱い奴等から死んでいく。これで心置きなく辞めれるだろ…。)
益子にとって、矢戸は「弱い奴」だった。それは、単なる戦闘能力の評価ではない。
矢戸は、学生時代からいじめを受けていた。不登校になりかけながらも、どうにか高校を卒業した。彼を支えていたのは、弱い自分を変えたいという思いだった。
強くなりたい。誰にも負けない人間になりたい。その思いから、自衛官を志した。
だが、現実は甘くなかった。自衛官になってからも、矢戸はいじめを受けた。
自衛官候補生の頃から、同期や先輩たちによる執拗な嫌がらせが続いた。厳しい訓練を受け、身体を鍛え上げた者たちから向けられる悪意は、学生時代のものよりも苛烈だった。
それでも、矢戸は辞めなかった。耐え続けた。そして、オペレーション・ギデオンを迎えた。
あの戦場で、矢戸をいじめていた隊員たちの多くは、敵の奇襲を受けた。恐怖に呑まれ、判断を失い、戦場から逃げ出す者もいた。そして、その多くが戦死した。その光景を、益子は見ていた。
自分より強いと思っていた者たちが、恐怖に屈していく。誰よりも弱いと思っていた矢戸が、それでも戦場から逃げなかった。
そして撤退の際には――。
瀕死の重傷を負った矢戸を、益子自身が背負っていた。あの時、矢戸を背負った自分の足は、何度も止まりそうになった。敵の攻撃が続いていた。いつ死んでもおかしくない状況だった。
それでも、益子は矢戸を置き去りにはしなかった。いや、置き去りにできなかった。そして今になって、益子は気づいてしまった。あの戦場で、自分を生かしたのは誰だったのか。
「あいつがいなければ、俺は死んでいた。…あいつが強いなんて、ありえねぇ。クソが…あんな奴に、あんな弱い奴に…俺が…。」
認められなかった。矢戸が強かったことを。少なくとも、あの戦場では、自分よりも強い部分があったことを。そして何よりも。自分が、そんな矢戸に救われたことを。益子にとって、それは屈辱だった。
自分は強い、自分は戦える。弱い奴は、戦場では生き残れない。そう信じてきた。
だからこそ、その「弱い奴」に命を救われたという現実が、自分の中にある価値観を根底から揺さぶっていた。
益子は、矢戸を見舞おうとはしなかった。見舞えば、矢戸と顔を合わせることになる。そして、その目を見ることになる。自分を救った人間の目を。それだけは、どうしても耐えられなかった。
「……。」
その背中を、家泉は複雑な表情で見送った。
(益子、運天、そして段場……。空間一佐が言う通り、35普連は再編どころか、バラバラだ。このままじゃ、次の戦いも持たないぞ。)
家泉の視線の先には、食堂に残った隊員たちがいた。誰もが生き残った。それなのに、誰もが同じ方向を向いているわけではない。戦場で生き残った者たちが、戦場の外で互いの傷を抉り合っている。
そして、その傷の奥には、それぞれが抱え込んだ「負けたくない」という感情があった。強くなければならない。弱くなってはいけない。失敗してはいけない。仲間を死なせてはいけない。自分だけは、間違ってはいけない。
その思いが、隊員たちを前へ進ませることもある。だが、強すぎれば、他人の痛みを見えなくする。自分の弱さを認められなくする。そして時には――仲間を傷つける。
35普通科連隊は、再編された。
新しい連隊長も着任した。新しい隊員も補充されるだろう。だが、編成表の上で人員を埋めただけでは、部隊は一つにはならない。
隼人の中には、諏訪との確執が残っている。
要の中には、戦場で結果を出せなかった悔しさと、強さへの執着がある。
益子の中には、矢戸という存在を認められない歪んだ自尊心が燻っている。
そして、そんな彼らを見ている家泉の胸にも、言いようのない不安が残っていた。このままでは、次の戦いに耐えられない。その予感だけが、はっきりとあった。
登場人物紹介
段場 隼人……主人公
和戸 一暁……35普連2中隊のベテラン
空間 瑠衣……35普連の新連隊長
二河 錬……35普連2中隊の陸士長
富貴 彪雅……35普連2中隊の三等陸曹
諏訪 明登……隼人と仲が悪い
益子 武朗……矢戸を認めたくない
家泉 興図……35普連2中隊所属の三等陸曹




