第96話 縁の下の力持ち
気持ちを切り替えた杏南とは対照的に、隼人の心は晴れないままだった。
訓練が再開されてから数日が経っても、その状態は改善する気配を見せていない。以前なら難なくこなしていた動作で足が止まり、判断を求められれば一瞬の迷いが生じる。その僅かな遅れが積み重なり、訓練全体の動きまで鈍らせていた。そして今日もまた、隼人は上官の怒声を浴びていた。
「段場! てめぇ、いつまでも腑抜けてんじゃねぇ!」
豆小玉三曹の怒声が、訓練場に響き渡る。隼人は何も言い返さなかった。返す言葉がない。
自分でも分かっているのだ。自分の動きが鈍っていることも、集中できていないことも、訓練に身が入っていないことも。
分かっている。分かっているからこそ、余計に腹が立つ。
山下陸士長から投げつけられた言葉が、頭から離れない。
――お前が許せない。
その言葉が、何度も脳裏に蘇る。
渚陸士長を死なせたのは、自分の判断ミスだった。
あの時、自分がもっと冷静に動いていれば。あの場で、別の判断をしていれば……そんな「もしも」を考え始めれば、きりがない。隼人は拳を握りしめた。
(ちくしょう……分かってる。でも、どうすれば……)
答えは出ない。
前へ進まなければならないことは分かっている。それでも、過去に足を取られたまま、隼人は一歩も進めずにいた。
そんな彼の姿を、少し離れた場所から眺めている男がいた。運天要である。
「(はあ、あいつ…何やってるんだか…。いつまでも過去に囚われるなよ。)」
要は小さく息を吐いた。
俺は運天要だ。
オペレーション・ギデオン(第7次首都圏奪還作戦)では、大きな怪我もなく、すぐに原隊へ復帰することができた。
初陣は大敗だった。俺自身も、戦場で何か大きな戦果を挙げたわけではない。敵を倒したわけでも、仲間を救ったわけでもない。
それでも、俺は生きている。だからこそ、次は違う。この悔しさを胸に、次の戦いでは絶対に勝つ。そのために、俺はもう動き始めている。訓練を重ね、技術を磨き、次の戦場で役に立つための力を身につける。過去を振り返っている暇などない。
そう考えていた。しかし、オペレーション・ギデオンが残した傷は、俺が考えている以上に深かった。
俺が所属している35普連4中隊は、壊滅的な被害を受けている。多くの仲間が戦死し、中隊長の享乱三佐をはじめ、生き残った隊員の中にも意識不明の重体となった者がいる。
まともに動ける隊員は、俺と角南陸士長の2人だけだ。そのため、現在の訓練は35普連3中隊との合同訓練になっている。
本当は、もう1人いた。だが、その男は退官した。まあ、戦場でビビっていたのだから、辞めても驚きはしない。
要にとって、厚巳 千宏三曹という男はそういう存在だった。戦える者が強い。敵を前にしても引き金を引ける者が生き残る。任務を遂行できる者に価値がある。それが、この男の考えだった。
だから、戦場で動けなかった厚巳を、要は評価していなかった。むしろ、自分たちが生き残るために戦っている最中、何もできずに立ち尽くしていた姿が、今でも許せなかった。そんなことを考えながら歩いていた時だった。
「お、未来の英雄じゃん!」
背後から、聞き覚えのある声が飛んできた。
「ちっ、会いたくない奴に会った…。」
振り返ると、そこにいたのは同期の星野 橘花二等陸士だった。
星野は、会うたびに人を小馬鹿にしてくる、非常に鬱陶しい女でもある。だがこいつは、そんな俺の反応などまるで気にしていない。
「そう言うなよ、ウチとあんたの仲だろう。」
「どんな仲だよ…。」
「同期の仲。」
「……ついて来んな!」
「何でよ~、一緒に飯食おうぜ~」
星野と話している時間が惜しい。次の訓練までにやることはある。こんなところで、星野の相手をしている暇などない。だが、こいつは俺の反応を面白がるように、一定の距離を保ちながら後ろをついてくる。
俺は無視することにした。
食堂へ向かう途中、35普連3中隊の隊員たちとすれ違った。その中の一人が、ぽつりと口を開く。
「なあ、厚巳さん、大丈夫かな?」
俺の足が止まった。
「だいぶ参ってましたよね。PTSDとかになってなければいいんですが…。」
佃 琢也陸士長と白川 和萌一等陸士だった。
2人とも、厚巳三曹のことを心配しているようだった。
「ふん」
「厚巳三曹は、戦場でびびって戦えなかった腰抜けだ。あれが三曹になるまで居座っていたのだから、質が悪い。」
その瞬間、空気が変わった。
「おい! お前、何て言った?」
声を上げたのは輪床 圭慎三等陸曹だった。厚巳と同期の隊員である。
要は、自分が何を言ったのか理解していた。しかし、取り消すつもりはなかった。
「お前、厚巳のことを馬鹿にしたよな?」
「今、厚巳さんを侮辱したよな?」
輪床と佃が詰め寄り、白川も険しい表情で要を見ている。要は3人の視線を受けても、怯まなかった。
「今、言った通りです。俺は厚巳三曹と行動をしていましたが、あの人は戦場でびびって何も出来てませんでした。上官として、尊敬する所など、見つかりませんでした。」
言葉を選ぶつもりもなかった。むしろ、ここで引けば自分の考えを否定することになる。
オペレーション・ギデオンで、要は何もできなかった。仲間が倒れていくのを見ながら、自分もまた、ただ生き残ることしかできなかった。だからこそ、戦える人間にならなければならない。その焦りが、要の言葉をさらに鋭くしていた。
「俺は、仲間が次々に倒れる地獄で、”使えない先輩”の背中を見ていました。その結果、部隊は壊滅した。俺たちは、ビビって立ち止まるために自衛官になったわけじゃない。もし、あの場で厚巳三曹が職務を果たせていれば、助かった命があったはずです!」
「何だと!」
白川が声を荒げた。
「待て、要!」
星野が慌てて要の肩を掴む。しかし、その制止も間に合わなかった。
輪床が一歩、前へ出る。その顔からは、先ほどまでの驚きが消えていた。代わりに、抑えきれない怒りが浮かんでいる。
「…お前には、あの時の厚巳の苦しみがわかるのか?」
輪床の声は震えていた。
「厚巳はな、お前ら新人とは違う!中堅として、すべてを背負って戦地に立ち続けていたんだ。あいつの体が動かなくなったのは、腰抜けだからじゃない。お前が想像もできないほどの重圧に、心が耐え切れなくなったからだ!」
「結果は同じでしょう!心が折れて、体が動かなければ戦力ではない!俺たちには、そんな弱さを見せられる余裕はない!」
要の言葉には、迷いがなかった。だが、その冷徹さこそが、輪床の怒りに火をつけた。
「黙れ!」
輪床の手が要の胸倉を掴んだ。次の瞬間、要の背中が壁に叩きつけられる。食堂にいた隊員たちが、一斉に振り返った。
「お前のような、戦場の重さも知らねぇガキに、厚巳を侮辱する権利はねぇんだよ!」
輪床の拳が握り締められる。その拳が振り上げられた瞬間だった。
「そこまでだ! 輪床、手を下ろせ!」
鋭い声が食堂を貫いた。全員が一斉に振り返る。そこに立っていたのは、空間 瑠衣一等陸佐だった。
35普連の新しい連隊長である。先日の挨拶で見せた穏やかな笑みは、今の彼女の顔にはなかった。
空間は2人のもとへ歩み寄る。
輪床は一瞬、拳を止めた。連隊長の視線を受け、やがて要の胸倉から手を離す。要もまた、空間に直接見咎められたことで、僅かに顔を強張らせた。空間は2人の間に立つ。
「ここは戦場ではない。内輪で拳を振り上げるとは、規律をどう考えているのか。」
静かな声だった。しかし、その声には有無を言わせぬ力があった。空間はまず輪床を見る。続いて、要へ視線を移した。
「運天二士。貴官の信念は理解できる。しかし、それは仲間を侮辱してよい理由にはならない。」
要は黙っていた。自分の考えが間違っているとは、まだ思っていない。戦場で戦えなければ、仲間を守れない。それは事実だ。空間は続けた。
「そして輪床三曹。貴官の戦友を思う気持ちは評価する。だが、暴力は何も解決しない。感情に流され、部隊の秩序を乱すことが、本当に厚巳三曹の名誉を守ることになると考えるか?」
輪床の拳が、ゆっくりと下がる。それでも、怒りは消えていなかった。空間は2人を見たまま、深く静かに息を吸った。
そして、声を落とす。
「2人とも、厚巳三曹が退官したという、その一瞬しか見ていないようだな。」
要が顔を上げる。輪床もまた、空間を見る。空間の視線は、2人のさらに向こう側を見ているようだった。
「厚巳三曹は、オペレーション・ギデオンにおいて、最後に何を為したか。貴官たちはそれを知っているのか?」
要の表情が僅かに変わった。輪床もまた、言葉を失う。厚巳が戦場で何をしていたのか、要は知らない。
少なくとも、要が見ていた厚巳は、敵を倒すこともできず、戦闘に参加することもできなかった男だった。だから、要にとって厚巳は「戦えなかった男」でしかない。
だが――空間は知っていた。厚巳が何をしていたのかを。
「……今から、話そう。」
空間の脳裏に、あの日の光景が蘇る。
―回想―
2020年9月30日 夜――
国道135号線、湯河原町付近、静岡県との県境。
オペレーション・ギデオンの戦場で、厚巳千宏三等陸曹が最後に果たした任務の記憶だった。
そこは、もはや道路と呼べる状態ではなかった。路面には車両の残骸が散乱し、建物の壁面には銃弾が無数に食い込んでいる。敵味方双方の発砲音が途切れることなく響き、時折、どこかで砲弾が炸裂するたびに、地面そのものが揺れた。
硝煙と血の臭いが混じった空気を、厚巳 千宏三等陸曹は荒い呼吸とともに吸い込んでいた。
足が重い、腕が上がらない。頭の中では、さっきから警報のような音が鳴り続けている。
―――逃げろ、ここにいるな、危ない
その感覚は、初めて戦場に出た時から、何度も厚巳を苦しめてきた。銃声が聞こえるたびに体が竦み、敵の姿を見れば足が止まる。
自分は兵士に向いていない。何度、そう思ったことか。それでも、厚巳は歩いていた。いや、歩いているというより、引きずっていた。自分の体を。そして、背中に背負った仲間を。
「羽毛、頑張ってくれ……。もう少しだ。この先なら、電波が……」
背中から返事はない。羽毛 大和一等陸士の体は、厚巳に預けられたまま微動だにしなかった。
それでも厚巳は歩き続けた。何度も足を止めた。そのたびに、背後から聞こえる銃声に身を竦ませた。振り返ることもできない。
怖かった。ここにいることが怖い。このまま進むことも怖い。だが、それ以上に怖かった。このまま羽毛を置いていくことが。だから厚巳は、また歩き出した。
国道135号線を進む途中、厚巳は何度も進路を変えた。理由を説明することはできなかった。右側の路地を見て、足を止める。そして、左へ進む。しばらく歩いたところで、前方から敵の銃撃が始まった。
厚巳は反射的に身を伏せた。弾丸が、さっきまで自分が進もうとしていた道路を切り裂いていく。厚巳は震えながら、羽毛を背負い直した。
「……危なかった……」
それだけ呟く。自分でも、なぜあの場所を避けたのか分からない。ただ、嫌な感じがした。それだけだった。
厚巳は再び歩き出した。やがて、静岡県側へ抜ける。その瞬間だった。ポケットの中の携帯電話を取り出す。
「……電波……」
画面を見る。圏外の表示が消えていた。
「抜けた!」
思わず声が出た。
「この電波で救助を要請できる!」
ようやく助けを呼べる。そう思った瞬間、全身から力が抜けた。厚巳はその場にしゃがみ込み、震える手で携帯電話を操作する。
だが……
「……え?」
画面に表示された文字を見て、厚巳の顔が引きつった。
バッテリー残量――ゼロ
「くそっ……!」
携帯電話を握り締める。ここまで来た。あと少しだった。助けを呼べるところまで来たのに。厚巳は歯を食いしばった。そして、背中の羽毛を見た。
「羽毛、すまねぇ、携帯を持ってるか調べさせてく……」
言葉が止まった。羽毛を背負い直そうとした。だが……さっきまで確かに感じていた重さがない。厚巳の手から力が抜けた。
「……羽毛?」
ゆっくりと地面に下ろす。その顔を見た。
「羽毛……」
返事はなかった。厚巳は、しばらく動かなかった。いや、動けなかった。何かを理解することを、頭が拒んでいた。
「ああ……」
声が震えた。
「羽毛……羽毛――!」
あと少しだった。あと少し早ければ。あと数分、早く電波の届く場所まで来ていれば。厚巳は羽毛の肩を掴んだ。
「羽毛、起きろ……」
返事はない。
「なあ……起きろよ……」
何度呼びかけても、羽毛は目を開けなかった。
「羽毛、羽毛……。すまねぇ」
厚巳は、その場に崩れ落ちた。自分は何もできなかった。敵を倒すこともできなかった。仲間を守ることもできなかった。羽毛も救えなかった。
「……いや」
厚巳は呟いた。震える手を地面につく。
「いや、まだだ!」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。羽毛は死んだ。それは分かっている。それでも――
「羽毛、すまねぇ、ちょっと待っててくれ」
厚巳は立ち上がった。何かできることがある。まだ、何かできる。そう思わなければ、立っていられなかった。厚巳は羽毛の遺体を道路脇へ移動させた。そして周囲を見回す。
敵がいるかもしれない。危険かもしれない。それでも、厚巳は歩き出した。しばらくして、一軒の民家を見つける。住民がいた。
玄関先で何度も頭を下げ、事情を説明した。幸い、住民は厚巳の話を聞き、電話を貸してくれた。厚巳は震える手で受話器を握った。そして、番号を伝える。
オペレーション・ギデオンの本部、月白展望台。
「35普通科連隊、厚巳です! 現地点より湯河原の状況を報告します!」
声は震えていた。だが、報告内容は明確だった。
35普連4中隊の壊滅状況、確認できた死傷者。部隊がどの方向へ分散したのか。そして、湯河原周辺に展開する敵部隊の位置と、おおよその規模。厚巳は覚えている限りの情報を伝えた。
自分が何を見たのか。どこで敵と接触したのか。どの道が危険だったのか。どこを通れば比較的安全に移動できる可能性があるのか。
厚巳は、戦場で敵を倒すことはできなかった。だが、戦場から持ち帰った情報を伝えることはできた。電話の向こうで、その報告を聞いていた者の中に、空間瑠衣一等陸佐がいた。
当時、作戦本部にいた空間は、厚巳の声を直接聞いていた。その時のことを、今でも覚えている。声は震えていた。何度も言葉に詰まった。だが、報告そのものに混乱はなかった。
厚巳は、自分が見たものを一つずつ伝えていた。部隊が壊滅したという絶望的な状況に置かれながら、それでも戦場から得た情報を本部へ届けようとしていた。
その報告は、後にGASTの派兵にも影響を与えることになる。
そして、作戦終了後、空間は別の証言も耳にした。
厚巳は、あの戦場で羽毛だけを運んでいたわけではなかった。敵の銃撃が交錯する中、角南陸士長を救出した。負傷した隊員の応急手当てを行った。運天二等陸士を戦線から離脱させた。廃墟となった街を歩き回り、残された物資を探した。
それは、誰かの目に留まるような華々しい戦果ではなかった。敵兵を倒したわけでもない。重要拠点を奪取したわけでもない。戦場を変えるような英雄的な行動でもない。ただ、その場にいた仲間を一人でも多く生かそうとした。
その結果として、これまで何人もの隊員が生き残った。
空間は、食堂の中で向かい合う2人を見つめた。
「厚巳三曹の最後の行動は、部隊の壊滅を防ぐことはできなかったが、彼の報告によって、我々は敵の動向を正確に把握することができた。彼の取った行動は無駄ではなかった、と記録されている」
要は黙っていた。輪床も、何も言わない。
「更に、厚巳三曹は、敵の銃弾が交錯する戦線合で、角南士長、羽毛一士、そして運天二士を救出し、怪我の手当てや、廃墟となった街中を奔走して物資を探していたとも聞く。」
空間の視線が、要へ向く。
「厚巳三曹は、腰抜けなどではない。彼の働きは、目立つことはないが、誰も見ていないところで、仲間を生かしていた。彼の最後の任務は、決して馬鹿にされていいものではない。」
「厚巳……」
輪床の声が震えた。目には、涙が浮かんでいた。厚巳と同期だった輪床は、誰よりも彼のことを知っていた。厚巳が臆病だったことも知っている。戦場に出れば、敵の姿を見ただけで足が竦むこともあった。銃を構えることさえできなくなることもあった。それでも――
誰かを助ける時だけは、なぜか動いた。危険な場所を避ける。敵の接近を察知する。仲間を連れて、安全な場所へ移動する。なぜか厚巳は、そういうことだけは妙に上手かった。
それを、輪床は何度も見てきた。佃も白川も、厚巳に救われた経験がある。だからこそ、2人は厚巳を慕っていた。彼が敵を倒せなくても、前線で戦えなくても。自分たちが生きているのは、厚巳のおかげだと知っている。
だが―――要だけは、違った。
「……」
要は何も言わなかった。空間の話を聞いても、表情を変えない。ただ、胸の奥では別の感情が渦巻いていた。
(どれだけ上官が評価しようとも、辞めた時点で、全部終わりだろ)
要にとって、厚巳が退官したという事実は変わらない。
戦場で何をしたか、誰を救ったか、どれだけ仲間から感謝されていたか。そんなものは、要にとって二次的な問題だった。
自衛官として戦場に立つ以上、敵と戦う力が必要だ。任務を遂行する力が必要だ。そして、自分はその力を身につけなければならない。要は、そう信じている。だからこそ、厚巳の行動を認めることができなかった。
いや――認めてしまえば、自分が今まで信じてきたものまで否定することになる。
初陣で何もできなかった自分、仲間を救えなかった自分、それでも、生き残った自分。その悔しさを、要は「もっと強くならなければならない」という思いに変えていた。
だから、要は気づいていない。厚巳が「臆病だったからこそ」生き残ってきたことに。危険を恐れたからこそ、危険を誰よりも早く察知していたことに。そして、その力によって何人もの仲間が生き残っていたことに。
それを知る者は、まだ誰もいない。厚巳本人でさえも。彼自身は、自分がただ臆病なだけだと思っている。戦闘能力に秀でたわけでもない。敵を倒せるわけでもない。だからこそ、自分には自衛官を続ける資格がない。そう考え、退官を選んだ。
しかし――
その「臆病さ」が、戦場で何度も彼自身と仲間を救ってきたことを、厚巳自身は知らない。それが特別な力だと知る者もいない。
ただ一つ確かなのは、厚巳千宏という男が、誰にも見られていない場所で、何度も仲間を生かしてきたという事実だけだった。
空間は、そんな厚巳の姿を知っている。だからこそ、要の言葉を聞き流すことはできなかった。
「運天二士。」
「……はい」
要が顔を上げる。
「貴官は、先ほど厚巳三曹を腰抜けと評したな。」
「……」
「ならば、聞こう。」
空間の声が、低くなる。
「貴官は、厚巳三曹が救った隊員たちの前でも、同じことが言えるか?」
要の表情が固まった。答えは返ってこなかった。食堂の空気が、再び静まり返る。空間は、それ以上追及しなかった。
ただ、要を見つめる。やがて要は、視線を逸らした。輪床は何も言わない。佃も、白川も。誰も要を責めなかった。
空間は2人に背を向ける。
「……食事中だったな。続けろ。」
それだけ言うと、空間はその場を離れていった。輪床は、しばらくその背中を見送っていた。やがて、要へ視線を戻す。
「……運天。」
要は答えない。
「俺は、お前が厚巳を嫌うことまで否定するつもりはねぇ。」
要の眉が僅かに動く。
「だがな。」
輪床の声には、先ほどまでの怒りはなかった。ただ、疲れが滲んでいた。
「知らねぇことまで、知ったような顔で言うな。」
要は黙っていた。
「厚巳が何をしてきたのか。あいつが何を背負っていたのか。お前は何も知らねぇだろ。」
「……」
「だったら、せめて黙ってろ。」
輪床はそれだけ言うと、要から離れた。佃と白川も、輪床の後を追う。星野だけが、要の隣に残った。
「……なあ、要。」
「なんだよ。」
「ちょっとくらい、認めてもいいんじゃない?」
「何をだよ。」
「厚巳さんのこと。」
「……俺は間違ったことを言ったつもりはない。」
「そう。」
星野はそれ以上、何も言わなかった。ただ、要の横顔を見つめる。要は視線を落とした。
自分が間違っているとは思っていない。厚巳を認めれば、自分が今まで信じてきたものが揺らいでしまう。
強くなければならない。戦える兵士でなければならない。戦場で立ち止まってはいけない。その考えだけが、要を支えている。だから、要は何も言わなかった。
登場人物紹介
運天 要……隼人の同期で、自身の力を過大評価している。
星野 橘花……第408会計隊所属で、要の同期
輪床 圭慎……厚巳の同期
空間 瑠衣……35普連の新しい連隊長
羽毛 大和……オペレーション・ギデオンで戦死した。




