第93話 指揮官の責任
10月某日、オペレーション・ギデオン――第7次首都圏奪還作戦から、しばらくが経過していた。
負傷した隊員たちも、軽傷者から少しずつ戦列へ戻っていく。富士病院で治療を受けていた苫米地 杏南と諏訪 明登も、ようやく退院の日を迎えていた。
もっとも、2人が完全に戦場から解放されたわけではない。
命令を受けた杏南と諏訪は、守山駐屯地へ向かい、師団司令部の一室に通されていた。
室内には、35普連第2中隊長の天津種 麗二等陸佐。そして、もう一人。第10師団長にして、守山駐屯地司令を兼ねる幸目 勇仁陸将がいた。
2人を前にした瞬間、杏南は背筋を伸ばした。師団長直々の呼び出し。それだけで、ただ事ではないことが分かる。
(これは……何の呼び出しだろう……?)
隣に立つ諏訪も、無言のまま正面を見据えている。幸目陸将は、机上の書類に視線を落としていたが、やがて顔を上げた。
「諏訪 明登一等陸士と、苫米地 杏南二等陸士で間違いないな」
「はい」
杏南と諏訪が同時に答える。幸目は2人の顔を順番に見た。その表情からは、感情を読み取ることができない。
「貴官ら2人に聞きたい。貴官らは、先のオペレーション・ギデオンにおいて、上官の命令を無視し、撤退を図ったそうだな」
杏南と諏訪は、一瞬だけ互いの顔を見た。何を言われているのか、2人にはすぐに理解できた。
あの時、地下道で出会った天津種二佐が、自分たちを「命令違反者」として報告したのだ。
杏南は一度だけ息を吸い、落ち着いた声で答えた。
「……そのような事実はありません」
幸目は表情を変えなかった。机の上に置かれた書類を一枚めくる。
「しかし、ここにはこう記録されている」
紙をめくる音が、静かな室内に響いた。
「天津種二佐は、海岸線での持久戦を命じた。しかし部下数名がその命令を無視し、箱根方面へ撤退した――とな」
諏訪の眉がわずかに動く。
――やはり、そういうことか。
諏訪は天津種へ視線を向けた。
「……天津種二佐が、そう証言されたのですか」
天津種は、ゆっくりと顔を上げた。
「そうだ」
その返答に迷いはない。
「敵の奇襲によって戦況が混乱していたのは事実だ。しかし私は、海岸線での持久戦を命じた」
天津種は2人を見据えた。
「だが君たちは、その命令を無視して離脱した」
諏訪の拳が、わずかに握られる。あの地下道で何が起きたのか。それを知らない人間が聞けば、確かに天津種の話は筋が通っているようにも聞こえる。だが、事実は違う。
杏南は冷静に口を開いた。
「……確認させてください」
天津種の視線が杏南へ向く。
「天津種二佐は、海岸線での持久戦を命じた、と」
「その通りだ」
杏南は一瞬だけ視線を落とした。そして、顔を上げる。
「私たちが受けた命令は、それとは違います」
その瞬間、室内の空気が変わった。幸目が杏南を見る。天津種の表情が、わずかに強張った。
「ほう。では、どのような命令だったのか」
諏訪が一歩前に出る。その声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。
「敵が掘った地下通路を兵站拠点にし、そこで籠城する――それが天津種二佐の命令でした」
天津種の目が細くなる。やがて、天津種は小さく息を吐いた。
「戦場ではな、諏訪一士。命令と違う行動を取った時点で、それがどんな理由であれ――それは“逃亡”だ」
「部隊が崩れるのはな、敵のせいじゃない」
天津種の声が低くなる。
「命令を守らない兵が出た時だ」
(こいつ……)
諏訪の目に怒りが浮かぶ。しかし、杏南はそれを制するように口を開いた。
「発言よろしいでしょうか?」
「許可する」
幸目の短い返答。杏南は天津種を見た。
「私と諏訪一士は、天津種二佐と接触したタイミングは同じではありません。ですが、共通するのは、敵が掘った地下道にいたという事実です」
「地下通路を拠点にするなど、私は命じていない」
天津種は即座に否定した。
「戦場の混乱で、君たちが誤解したのだろう」
堂々巡りだった。どちらの証言が正しいのか。杏南と諏訪は、天津種から命令を受けた。しかし、その命令を直接聞いた者の大半は、すでに戦死している。証言できる者は少ない。杏南は、そこで一つのことを思い出した。
「私たちは、あの戦場でGASTによって救護されました」
天津種の表情が、ほんの一瞬だけ動いた。
「天津種二佐も、GASTによって救護されていたのではないでしょうか?」
「……」
「天津種二佐を保護したGASTの隊員がいれば、新たな証人になると思います」
その瞬間、杏南は、天津種の顔に浮かんだ微かな動揺を見逃さなかった。
(やっぱり……)
幸目も、杏南の言葉に反応した。
「……なるほど」
幸目の視線が天津種へ向く。
「天津種二佐。貴官はGASTによって救護されたのか」
天津種は、一瞬だけ言葉に詰まった。だが、すぐに答える。
「……その通りです」
「だが、それが何だと言うのですか?」
杏南は静かに続けた。
「私が地下道で中隊長と接触したのは、9月30日の午前中でした」
「私が接触したのは、その日の夕方です」
諏訪が続ける。
「つまり、私たちは時間こそ違いますが、同じ地下道内に半日近く留まっていた可能性があります」
杏南は幸目を見る。
「救助された場所が同じなのか。それに、当時の弾薬消費量を照合すれば、私たちがどこで戦っていたのかも分かるのではないでしょうか?」
幸目はしばらく黙っていた。やがて、机上の電話に手を伸ばす。
「浅原君、幸目だ」
受話器の向こうから返事が聞こえる。
「すまんが、調べて欲しいことがある。石橋の海岸線で保護された隊員の詳細だ」
幸目は短く指示を出した。
「保護地点、保護時刻。それと、可能なら当該部隊の弾薬消費記録も確認してくれ」
しばらくして、師団司令部へ、詳細な報告書が届けられた。幸目は書類を受け取ると、黙って目を通していく。その表情が、少しずつ変化していった。
「……ふむ」
幸目は一枚目の資料をめくる。
「この報告書によると、天津種二佐が保護された場所は、件の地下通路とみて間違いない」
天津種の顔が強張った。幸目は顔を上げる。
「天津種二佐。貴官はここで何をしていたのだ?」
「……持久戦をするための拠点です。私は、その可能性を検討していただけです」
幸目は答えず、別の資料へ目を落とした。そこには、当該地点で確認された弾薬の消費状況が記されている。幸目の指が、ある箇所で止まった。
「……妙だな」
幸目が資料を指で叩く。
「天津種二佐」
「はい」
「海岸線で持久戦をしていた部隊の弾薬消費とは思えん」
天津種の表情が変わった。
「弾薬が――ほとんど使われていない」
室内の空気が凍りついた。諏訪が口を開く。
「あの戦いでは、補給路が断たれていました。弾薬が足りず、敵から鹵獲して、それでも足りないほどでした」
諏訪は天津種を見る。
「海岸沿いで持久戦をしていたのなら、弾薬はもっと消費されているはずです」
幸目が、天津種へ視線を戻した。
「天津種二佐。貴官は先ほど、海岸線で持久戦を命じたと言ったな」
「……はい」
「だが、報告書では貴官は地下通路付近で保護されている」
天津種の口元が、わずかに強張った。
「……戦況が変化したのです」
「ほう」
「持久戦の拠点を確認するため、私自身が地下通路を偵察していました」
諏訪が低く呟いた。
「偵察、ですか」
天津種が睨みつける。
「何だ?」
「半日以上、地下にこもって偵察ですか」
「兵が指揮官の判断を測る立場ではない」
天津種の声が荒くなる。しかし、幸目の声がそれを遮った。
「天津種二佐」
「……」
「確認する」
幸目は、机の上の報告書を見た。
「貴官は海岸線で持久戦を命じた」
次に、天津種を見る。
「そして地下通路では、持久戦の拠点を“検討していた”」
天津種は答えない。幸目は、静かに問いかけた。
「……その間、部隊はどこにいた?」
天津種は答えなかった。室内に、重い静寂が落ちる。
諏訪が小さく息を吐いた。これが答えだった。天津種の証言には、明らかな矛盾がある。杏南も、天津種を見つめていた。
海岸線で持久戦を命じたというなら、なぜ自分自身が地下道にいたのか。地下道を持久戦の拠点として検討していたというなら、なぜ部下たちは、その命令に従わなかったのか。
そして何より、天津種の命令を聞いた隊員たちは、ほとんどが戦死している。
自分の証言を否定できる者が、もうほとんど残っていないことを知っていたからこそ、天津種は2人に責任を押しつけようとしたのだ。
幸目は、報告書を閉じた。
「……結論は明白だ」
天津種が顔を上げる。幸目の表情は厳しかった。
「作戦報告と現場証言に重大な齟齬がある。さらに、貴官の保護地点も、貴官自身の証言と一致していない」
幸目は椅子の背もたれに身体を預けた。そして、はっきりと告げる。
「天津種二佐」
「貴官には、作戦報告における重大な虚偽の疑いがある」
天津種の顔が固まった。
「本日付で、貴官の指揮権を停止する。調査終了まで、職務から外す」
「……!」
天津種は言葉を失った。自分が仕組んだはずの裁きが、逆に自分へ向けられた瞬間だった。幸目は視線を杏南と諏訪へ向ける。
「諏訪一士、苫米地二士」
2人が姿勢を正す。
「現時点で、貴官らに命令違反の事実は確認されていない。原隊復帰を命じる」
「了解しました」
杏南と諏訪は同時に敬礼した。2人が司令室を出ようとした、その時だった。
「待て」
幸目の声に、2人が足を止める。幸目は椅子に座ったまま、2人を見た。
「覚えておけ」
その声は、先ほどまでよりも静かだった。
「戦場で判断を誤ることは、誰にでもある」
幸目の視線が、天津種へ向いた。
「だが――」
天津種は、ただ黙って幸目を見返している。
「その責任を部下に押し付けた時点で、指揮官ではない」
室内が静まり返る。天津種は何も言えなかった。幸目は最後に、短く命じた。
「以上だ。下がれ」
杏南と諏訪は、もう一度敬礼した。そして2人は司令室を後にした。
残された天津種は、椅子に座ったまま動かなかった。自分が守ろうとしたものは、もう何も残っていない。中隊長としての立場も。部下からの信頼も。
そして、何よりも――自分自身が正しい指揮官だったという、最後の拠り所さえも。
天津種 麗は、ただ一人、静まり返った司令室に取り残されていた。
登場人物紹介
苫米地 杏南……本編のヒロイン
諏訪 明登……隼人との確執がある若手
天津種 麗……35普連2中隊の中隊長
幸目 勇仁……第10師団の師団長で、守山駐屯地の司令




