第78話 絶望の伏兵
――2020年10月1日 4時00分――
肩を軽く揺さぶられ、僕は浅い眠りから目を覚ました。
「おい、段場、起きろ。交代だ」
「あ、はい……」
素早く身を起こし、小銃を手に取る。周囲では交代を終えた隊員たちが、ようやく短い休息を得ようと身を横たえていた。
箱根山中は静まり返っている。しかし、それは決して平穏を意味するものではない。遠くでは断続的な銃声と砲撃音が夜明け前の空気を震わせており、この戦場がなお激しい戦火の中にあることを嫌でも実感させられる。
ここは比較的敵の気配が薄く、束の間の休息を取るには最も安全な場所だった。それでも、安全などという言葉とは程遠い。
今夜の哨戒は、瑛松 理央二等陸曹と二人だった。それが僕をひどく落ち着かなくさせていた。あの日の一件以来、まともに瑛松二曹の顔を見ることができない。
別に会話ができなくなったわけではない。ただ、互いに何もなかったように振る舞おうとするほど、かえって意識してしまう。
重苦しい沈黙だけが流れていく。
……気まずい。
足音だけが静かな森に響く中、不意に瑛松二曹と目が合った。思わず僕は視線を逸らす。
そんな僕を見て、瑛松二曹はゆっくり歩み寄ると、誰にも聞こえないよう耳元で小さく囁いた。
「切り替えなさい」
その一言だけだった。暗闇では表情までは分からなかったが、その声には普段の冷静さとは違う、どこか照れを含んだ響きが混じっていた。益子一士があれほど大声で騒いでいたのだ。気付いていないはずがない。
「あ、あの……」
ようやく絞り出した僕の声に、瑛松二曹は少しだけ間を置いて答える。
「……しないわよ?」
僕の思考は一瞬で真っ白になった。いや、そういう意味じゃないです。僕には杏南がいますし――いや、そうじゃなくて。ええと……何を言えばいいんだ…。
「……いえ、何でもありません」
結局、何一つ言葉にならず、僕は情けなく頭を下げた。瑛松二曹は小さくため息をつくと、それ以上何も言わず再び前方へ視線を戻した。2人の間には、先ほどまでとは違う意味で気まずい空気が流れていた。
その頃、休息中の隊員たちの輪では、突然、悲鳴が響き渡った。
「うわあああああああああああああああああっ!」
飛び起きた木山は、全身を震わせながら虚空を見つめていた。夢の中で、彼は再び引き金を引いていた。放った銃弾は敵ではなく仲間を撃ち抜き、血を流しながら倒れていく光景が脳裏から離れない。
「おい木山、落ち着け!」
山下陸士長に肩を掴まれ、ようやく現実へ引き戻される。木山は涙を流しながら、震える声で繰り返した。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
仲間への誤射。あの日以来、その記憶は悪夢となって彼を苦しめ続けていた。
誤射の件は瑛松二等陸曹と久里浜三佐へ報告済みだったが、心の傷だけは簡単に癒えるものではない。その様子を見ていた瑛松二曹は、小さく周囲へ視線を巡らせた。
「敵に気付かれたかも」
悲鳴は静かな山中では想像以上によく響く。久里浜三佐もすぐに判断を下した。
「もう出発した方が良さそうだな」
隊員たちは休息を切り上げ、慌ただしく装備をまとめ始める。そして4時20分、一行は再び月白展望台を目指して歩き始めた。
周囲に敵の姿は見えない。しかし、それが安全を意味しないことは誰もが理解していた。グーリエ星人は巧妙に姿を隠し、こちらが油断した瞬間を狙って襲いかかってくる。隊員たちは互いに間隔を保ちながら、森の奥へ慎重に進んでいった。
木山は戦闘に加わらず、負傷した紅林陸士長の介助に専念している。苦痛に顔を歪める紅林を支えながら、木山は静かに自分へ言い聞かせた。
(俺がしっかりしないと、紅林陸士長も危険に晒される。しっかりしろ、俺……)
誰かを守るという役目が、皮肉にも木山へ冷静さを取り戻させていた。
浅井 社一等陸曹は、周囲へ鋭い視線を配りながら山道を歩いていた。奇襲と激しい電波妨害によって部隊は分断され、本部との通信も完全に途絶している。現状で最も可能性が高いのは、月白展望台までたどり着き、援軍要請を行うことだった。その判断を下したのは、瑛松 理央である。
作戦自体に異論はない。だが浅井には、どうしても割り切れない思いがあった。自分たちを指揮しているのが後輩である瑛松だったからだ。
能力に不満があるわけではない。しかし階級で言えば、まず指揮権を持つのは久里浜三佐だ。その次は吉良三尉ではないのか。昨夜、その不満を吉良三尉へ漏らしたところ、一喝されてしまった。
「そんなものに拘って、任務の本質を見失うな!」
言われていることは理解できる。それでも浅井には釈然としなかった。そもそも月白展望台への移動自体、当初の作戦には存在しなかった行動である。石橋方面へ戻り、敵の侵攻を食い止めるべきではないか――そんな思いも捨て切れない。
しかし久里浜三佐は迷わなかった。瑛松と合流するまで、自分たちは無策だった。だから今は彼女を信じる。そう言い切ったのである。
ここで自分が反発すれば、隊の結束は崩れる。それだけは避けなければならない。浅井は胸の内の不満を押し込み、無言で前方を警戒し続けた。その時だった。
(2時の方向に敵兵……2体)
杏南が小さく身構える。
(9時の方向に一体……木の上)
ほぼ同時に理央も敵影を捉えた。2人の銃口が寸分違わず敵へ向く。乾いた銃声が森へ響いた。しかし――
「く……外した……」
理央の銃弾は木の幹を砕くだけに終わる。
「一体仕留め損ねた……」
杏南の弾丸も敵装甲に弾かれ、火花を散らした。木の上に潜んでいた敵兵が一気に飛び降りてくる。その瞬間だった。
浅井の放った一発が、空中の敵兵を正確に撃ち抜いた。地面へ叩きつけられた敵へ、すかさず手塚が止めを刺す。一方、杏南が撃ち漏らした敵は、山下の射撃に反応して体勢を崩した。
その一瞬の隙を、隼人は見逃さなかった。引き金を絞る。銃弾は敵の頭部を正確に撃ち抜き、そのまま地面へ倒れ伏した。
(やった……)
隼人は胸の内で小さく拳を握る。一方、坂下は思わず苦笑していた。
(弘法も筆の誤り……)
百発百中に近い杏南が撃ち漏らしたことが、それほど意外だったのである。そして、浅井もまた、自分より先に敵影を察知した理央を横目で見ながら、その実力を改めて認めざるを得なかった。
(仕方ねぇ。先輩としてフォローしてやるか、チクショウ)
納得したわけではない。それでも、この女は間違いなく優秀だ。少なくとも今は、隊を乱すような真似だけはするまい。そう心の中で決めた。
「敵の持っている通信機器を壊せ。通信を傍受されると、俺たちの位置だけでなく、人数や装備も筒抜けになる」
久里浜三佐の指示に、僕たちはすぐ取り掛かる。
「了解」
だが、そこで思わぬ壁に直面した。敵兵の装備を調べても、それらしい通信機器が見当たらない。どれが通信装置なのか、外見だけではまるで判別できなかった。
結局、携行品を一つ残らず破壊し、遺体もその場へ埋めるしかない。グーリエ星人の通信技術は、自衛隊の想像をはるかに超える水準に達している。その事実を、改めて思い知らされるのだった。
敵兵の遺体を埋め終えると、一行は再び月白展望台を目指して歩き始めた。周囲は薄明に包まれ始めていたが、森の奥にはなお濃い闇が残り、木々の隙間を吹き抜ける風だけが不気味な音を立てている。
誰も口数は多くなかった。先ほどの遭遇戦で敵の索敵能力と装備の高さを思い知らされていたからである。姿が見えないからといって、安全とは限らない。誰もが銃を構えたまま、一歩ずつ慎重に前進していた。
その静寂を破ったのは、糸原の鋭い声だった。
「また敵が!」
全員が反射的に身を伏せる。
「戦闘用意!」
理央が短く命じると、芦屋が双眼鏡を覗き込みながら敵情を報告した。
「敵は1個小隊。数では不利…。」
前方の斜面に姿を現したのは、20体を超える帝国兵だった。先頭には分厚い装甲をまとったリザードマンや鬼人族が並び、その後方には銃を構えた兵士たち、さらに上空には有翼種の影まで確認できる。理央は瞬時に戦力差を計算した。
「久里浜三佐、このままでは包囲されます。戦術的撤退をしましょう!」
久里浜はしばらく敵を見据えたまま沈黙し、やがて静かに首を振った。
「……いや。」
その口元には、不敵な笑みが浮かんでいる。
「絶好の機会だ、瑛松。」
理央は思わず久里浜を見る。
「敵は我々が一個分隊程度だと侮っている。ならば、その油断を利用する。戦力を集中させ、一気に仕留める!」
即座に命令が飛んだ。
「浅井、奥戸、芦屋、段場は左翼の尾根へ展開! 斜面を登ってくる敵を迎え撃て!」
「了解!」
「手塚、渚、山下は右翼の岩場! 対戦車火器を準備!」
「吉良、一橋、久木田は中央の窪地で火力支援!」
命令は淀みなく伝わり、隊員たちは訓練そのままの速度で持ち場へ散開した。その様子を見ながら、浅井は内心で舌を巻いていた。
(やっぱり久里浜三佐は違う。)
自分なら退却しか考えなかった。敵の油断を逆手に取り、地形を利用して迎え撃つ発想は浮かばなかった。一方、帝国軍は散開した自衛隊員たちを見て、逃走を始めたものと誤認していた。
「追え!」
咆哮を上げながら、リザードマンたちが斜面を一気に駆け上がってくる。
久里浜は敵との距離だけを見つめていた。
「……まだだ。」
十分に引き付ける。そして敵が完全に射界へ飛び込んだ瞬間、大きく叫んだ。
「射程に入った、手塚!」
八四ミリ無反動砲が火を噴いた。
榴弾は先頭を走るリザードマンの足元へ命中し、凄まじい爆炎と衝撃波が敵集団を呑み込む。先頭部隊は吹き飛び、後続は突然の爆発に足を止めた。
「対戦車兵器だ! 伏せろ!」
帝国兵の隊列が乱れた、その一瞬だった。
「撃て!」
左翼尾根に展開していた浅井たちが一斉射撃を開始する。
「奥戸、奴らの右側面だ! 芦屋、左側面!」
「了解!」
三方向から浴びせられる正確な射撃に、敵兵は遮蔽物のない斜面で次々と撃ち倒されていく。敵は完全にこちらの思惑にはまっていた。
隼人も必死に小銃を構える。しかし、周囲では歴戦の隊員たちが淡々と敵を撃ち抜いていく一方で、自分だけが呼吸も照準も定まらない。
(落ち着け……落ち着け……。)
そう言い聞かせても、引き金を握る指の震えは止まらない。敵影へ向かって夢中で連射する。
放たれた銃弾の一発が、偶然ゴブリン族兵士の首元、装甲の継ぎ目へ吸い込まれた。敵兵は悲鳴を上げ、その場へ崩れ落ちる。
「あ、当たった……?」
自分でも信じられなかった。敵を倒したという実感よりも、偶然命中したことへの驚きが先に来る。
(上官たちみたいに狙って当てたわけじゃない……。ただ運が良かっただけだ。僕はまだ、全然駄目だ……。)
隼人は改めて、自分の未熟さを痛感していた。その時だった。
「吉良! 上!」
久里浜の叫びに全員が空を見上げる。
鳥人族部隊が木々の上空へ姿を現し、援護射撃の体勢に入っていた。
「一橋、久木田! 対空射撃! 逃がすな!」
吉良の指示で2人は即座に軽MATを肩へ担ぐ。轟音とともに発射されたミサイルは、旋回しながら鳥人族へ一直線に飛翔した。回避する間もなく翼を撃ち抜かれた鳥人族は悲鳴を上げ、そのまま山肌へ墜落していく。
空からの支援を失った帝国軍は完全に動揺した。先頭部隊は壊滅し、残った兵も統制を失って後退を始める。何体かは斜面を転げ落ちながら逃げ去り、ほどなく銃声は止んだ。
森に静寂が戻る。理央は小さく息を吐いた。
(久里浜三佐……流石だわ。私は撤退しか思い浮かばなかった。私もまだまだね。)
自分の判断の甘さを素直に認めながら、周囲を見回す。
「進みましょう。」
その一言で部隊は再び動き始めた。しかし理央は歩き出した瞬間、背筋に冷たいものが走るのを感じた。誰かに見られている。敵意に満ちた、明確な視線だった。
「待っ――」
警告を発するより早く、一発の銃声が森を裂いた。
「がはっ……。」
北嶺が腹部を撃ち抜かれ、その場へ崩れ落ちる。
「北嶺!」
久里浜が駆け寄ろうとした瞬間、理央は歯を食いしばった。
「一体仕留め損ねた!?」
その直後、奥戸がさらに叫ぶ。
「敵、伏兵だ! 今度は中隊規模!」
木々の間から、次々と帝国兵が姿を現す。前方だけではない。左右の斜面、背後の林道まで、完全に包囲網が形成されていた。
杏南が低く呟く。
「……包囲されてる。」
「次から次へと……。」
一橋の声にも焦りが滲む。ようやく撃退したと思った敵は、ほんの前座に過ぎなかった。四方から迫る無数の敵影を前に、一行は初めて、逃げ道そのものを失ったことを悟るのだった。
登場人物紹介
段場 隼人……本編の主人公。35普連2中隊所属の二等陸士
苫米地 杏南……隼人の同期で恋人
木山 拓哉……隼人、杏南の同期。味方を誤射し、急性ストレス障害を発症
瑛松 理央……35普連2中隊の二等陸曹。
北嶺 百合果……生き残りの敵兵に撃たれ重傷
久里浜 良仁……35普連3中隊の中隊長
浅井 社……理央がリードする事に納得していない




