第74話 川を越えろ
――2020年9月30日 5時00分 利根川防衛線――
夜明けを迎えた利根川には、なお硝煙が立ち込めていた。
対岸から飛来する砲弾が水面を叩き、爆発によって巻き上げられた泥水が朝焼けを濁らせる。その轟音は昨夜から絶えることなく続いており、土嚢を積み上げた塹壕の中では、隊員たちの疲労もすでに限界へ達していた。
「くそったれ! 朝っぱらからドンパチしやがって!」
砲撃の振動でヘルメットを押さえながら、有働 嵯音丸三等陸曹は吐き捨てる。
隣で双眼鏡を覗いていた寄充 颯斗三等陸曹は苦笑を浮かべた。
「こう24時間攻めてこられたら、俺たち寝る時間もないね……。少しは休ませてほしいよ。」
「戦い始めて今日で何日だ? 21日からだから9日か!」
「21からだから……10日目じゃない?」
「おめぇはいちいち冷静なんだよ!」
こんなやり取りを交わせるだけ、まだ余裕は残っているのかもしれない。しかし、その表情には隠しきれない疲労が滲んでいた。利根川を挟んだ攻防は膠着状態のまま10日目へ突入している。
敵は昼夜を問わず砲撃と浸透攻撃を繰り返し、第32普通科連隊と第1普通科連隊は、それを必死に押し返し続けていた。
「つーかよ! このまま川から来る敵を迎え撃つだけじゃジリ貧だろ! この利根川の防衛線自体が、いつまでもつか……。空挺団は何やってるんだ!」
苛立ちを隠そうともせず叫ぶ有働に、寄充は双眼鏡を下ろして静かに答えた。
「仕方ないよ。敵の対空砲は殺傷力も連射性能も規格外なんだ。迂闊に空は飛べないって。ただ、この防衛線さえ突破できれば、敵拠点まで一直線なんだけどね。」
「お前、頭回ってるな! 寝てるのか?」
「俺だって寝てないよ。ずっと一緒にいたでしょ?」
有働は一瞬だけ笑うと、再び小銃を構え直した。敵影はまだ見えない。だが、この静けさが長く続かないことだけは誰もが知っていた。
利根川防衛線を維持したいと考えているのは、現場だけではない。作戦司令部でも、この膠着状態を打開するための策が急ピッチで練られていた。作戦指揮所では、大型地図の前に立つ森間が腕を組み、利根川一帯へ視線を落としていた。
「第1普連と第32普連が踏ん張ってくれている間に、空挺降下できる場所を見つけねばならん……。しかし、あの対空ミサイルをどうにかせねば。」
※森間 護平陸将補、第1空挺団長
地図には敵対空陣地が赤い印でびっしりと書き込まれている。どこへ降下しても迎撃される。それが、この数日間変わらない結論だった。その時だった。通信員が足早に駆け寄る。
「第1偵察大隊から入電です。」
森間が視線を向けると、通信回線の向こうでは第1偵察大隊長・紅場 駿二等陸佐が報告を受けていた。
「何! 本当か?」
「はい。銚子大橋跡周辺ですが、敵警戒部隊は極めて少数です。水中にもグーリエ星人はほとんど確認できません。」
続いて別回線が開く。
『こちら第1偵察小隊。現在、銚子大橋跡付近を監視中。敵兵はほぼいません。』
「敵の対空砲は? 連射型対空ミサイルの状況は?」
わずかな沈黙の後、別の声が割り込んできた。
『こちら"S"。対空ミサイルは昨日から沈黙している。我々が確認した限り、すべて破壊済みだ。問題ない。』
その通信を聞いた瞬間、司令部の空気が止まった。特戦群――その存在を知る者は少なくない。しかし、ここまで敵中深く入り込み、対空陣地まで無力化していたとは。
(いくら特戦群でも、あの包囲網へ潜入できるというのか……。)
紅場は通信機を握ったまま考え込んだ。情報はあまりにも正確だった。正確すぎる。だからこそ、逆に違和感を覚える。
罠ではないのか、敵が意図的に作った隙ではないのか。そんな疑念が頭を離れない。しかし、このまま利根川で消耗戦を続ければ、前線は必ず崩れる。
「……特戦群、情報感謝する。」
短く礼を述べると、紅場は森間へ向き直った。
「対空防御が手薄になったとの情報に加え、銚子大橋跡周辺の守備も薄いことを確認しました。空挺降下の好機と思われます。」
森間は地図へ目を落とした。
(あそこには主力部隊を置いていなかった。奴らも油断して手薄にしたのか……。)
そう考えれば辻褄は合う。だが、それだけでは説明できないほど状況は出来過ぎていた。それでも――
(このままではジリ貧だ。ならば懸けるしかない。)
決断は一瞬だった。森間は通信機を取り上げる。
「第1施設大隊長。直ちに渡河資材を前進させろ。銚子大橋跡に渡河拠点を構築する。空挺降下と同時に陽動を開始せよ。」
『了解! 第1施設大隊、渡河作戦を開始します!』
続いて別回線を開く。
「第1普通科連隊長。渡河拠点確保のため、対岸の敵を最大限引きつけろ。」
『我が第1普連が、空挺団への血路を開きます!』
力強い返答に、森間は静かに頷いた。司令部では慌ただしく命令が伝達され、各部隊が一斉に動き始める。
一方、銚子大橋跡では、第1施設大隊の隊員たちが次々と渡河資材を展開し始めていた。
橋が失われた今、この利根川こそが首都圏奪還の成否を左右する最大の障害である。指揮に当たる大隊長・赤樹 寿一朗二等陸佐は、地図と現場を何度も見比べながら、各部隊へ矢継ぎ早に命令を飛ばしていく。
「各渡河班、作業を急げ! 空挺団が降下するまでに対岸へ橋頭堡を築く!」
『了解!』
施設科隊員たちは迷いなく動き、ゴムボートや舟艇を水面へ滑り込ませていく。重機が使えない以上、人力による作業が中心となるが、その動きには一切の無駄がなかった。
その頃、第1普通科連隊では出撃準備が整えられていた。
連隊長・大代夏 土門一等陸佐は部隊の先頭に立ち、整列した隊員たちをゆっくりと見渡す。
「各中隊、攻撃準備。」
短い命令だけで十分だった。ここに並ぶ隊員たちは、これまで10日間にわたり利根川沿いで戦い続けてきた歴戦の兵ばかりである。疲労は極限に達していたが、その眼だけは誰一人として死んでいなかった。
「渡河部隊が橋頭堡を築くまで、我々が敵の注意を引きつける。」
大代夏は一呼吸置く。
「我が第1普通科連隊が、空挺団への血路を開く。」
『了解!』
力強い返答が夜明けの河畔へ響いた。その声を通信越しに聞いた森間は、静かに頷く。
ここから先は、一歩でも噛み合わなければ作戦全体が崩壊する。施設科、普通科、空挺、偵察、そして特戦群。それぞれが歯車となり、ようやく一つの作戦が成立する。だが、その歯車の一つでも狂えば、全てが瓦解する危険も孕んでいた。
森間は静かに息を吐く。
(このまま守っていても戦線はいずれ崩れる。ならば、危険を承知で突破口を開くしかない。)
覚悟を決めると、通信機を握り締める。
「第1空挺団、出撃せよ!」
『了解。』
短い返答の直後、習志野駐屯地では待機していた空挺隊員たちが一斉に立ち上がった。先頭へ歩み出たのは、第1大隊長の小柳 傑二等陸佐だった。
「野郎共、行くぞ!」
『おお!』
格納庫いっぱいに雄叫びが響く。
「まずは俺達第1大隊が先陣を切る!」
『うおおおおおおおおおお!』
隊員たちの士気は最高潮に達していた。首都圏奪還作戦が始まって以来、第1空挺団は切り札として投入の機会を待ち続けてきた。ようやく巡ってきた出番を前に、誰一人として迷いはない。
整備員たちは最後の点検を終え、CH-47JA輸送ヘリへ次々と隊員を送り込んでいく。回転翼がゆっくりと回り始め、やがて爆音へと変わった。一機、また一機と機体が浮き上がり、編隊を組みながら東の空へ進路を取る。その轟音は、利根川沿いの塹壕にも届いていた。
土嚢の陰から空を見上げた有働が、小さく笑う。
「やっと来たぜ……。」
寄充もヘルメットのつばを押さえながら、上空を横切る輸送ヘリの列を見送った。
「頼むよ、空挺団……。」
その言葉には、自分たちでは切り開けなかった突破口への願いが込められていた。10日間守り抜いたこの防衛線を、今度は攻勢へ転じる時が来たのである。
登場人物紹介
有働 嵯音丸……32普連所属。気性が荒く、声がでかい。寄充とは同期
寄充 颯斗……32普連所属。冷静な性格で、有働のツッコミ役となっている。
森間 護平……第1空挺団長
紅場 駿……第1偵察大隊長
赤樹 寿一朗……第1施設大馳長
大代夏 土門……第1普通科連隊長
小柳 傑……第1空挺団第1普通科大隊長




