第66話 退路の構築
洞窟の入口に現れた2人の姿を確認した瞬間、私は胸につかえていたものが少しだけ軽くなるのを感じました。
「渚さん、山下さん!」
「苫米地さん……無事だったんですね。」
渚士長は安堵したように笑みを浮かべ、その後ろにいた山下士長も大きく息を吐きました。敵の包囲網を突破してここまでたどり着いた疲労は隠しきれませんでしたが、それでも2人とも自分の足で立っています。
「お2人とも、ご無事でよかったです。」
私がそう声を掛けると、渚士長は小さくうなずき、天津種二佐にも敬礼を送りました。
「中隊長もご無事で何よりです。」
「ええ、お互いによく生き延びたわね。」
天津種中隊長は淡々と応じましたが、その口調には安堵よりも状況確認を優先する冷静さが感じられました。
生存者が増えた以上、今やるべきことは現状の把握です。私たちは入口付近に集まり、それぞれが見聞きした情報を持ち寄りました。最初に口を開いたのは渚士長でした。
「……江鹿一曹は、僕をかばって亡くなりました。」
その一言だけで十分でした。私たちは誰も口を挟めません。渚士長は視線を落としたまま、震える声で当時の状況を語り始めます。
「地下から敵が飛び出してきた時、モグラ型の獣人が真っ先に僕へ向かってきたんです。江鹿一曹は僕を突き飛ばして、そのまま……。」
言葉が続きません。唇を強く噛み締めた渚士長の目から、大粒の涙が地面へ落ちました。
「その敵は僕が撃ちました。でも、江鹿一曹は……。」
江鹿一曹は、最後まで部下を守ることを選んだのです。
その隣では、山下士長も表情を曇らせています。
「魚見も、亡くなったんですね……。」
魚見 まひる士長とは同期でした。同期という存在は、配属されてから苦楽を共にしてきた戦友でもあります。その死が胸に残す傷は、私たちには計り知れません。洞窟の中には、しばらく誰も言葉を発しない時間が流れました。
外では散発的な銃声が聞こえていましたが、この場所だけは、まるで時間が止まったような静けさに包まれていました。私は渚士長が落ち着くまで何も言わずに待ちます。
無理に励ます言葉など、今の彼には届かないと思ったからです。その沈黙を破ったのは、小さなうめき声でした。
「……ん。」
全員が一斉に振り返ります。
「……ここは?」
横になっていた瑛松二曹が、ゆっくりと目を開けました。
「理央先輩!」
私は思わず駆け寄ります。山下士長も安堵したように膝をつきました。
「瑛松二曹、大丈夫ですか?」
理央先輩は額に手を当て、小さく首を振ります。
「頭は少し痛いけど……動けそう。」
視線を周囲へ巡らせると、不思議そうな表情で私を見ました。
「ここ、どこ?」
私は地図を広げ、現在地を指で示しました。
「国道から退避したあと、この洞窟を見つけて身を隠しています。ここへ来るまでの経緯と、皆さんから聞いた情報を整理すると――。」
私は敵の奇襲、兵站拠点の壊滅、生存者の状況、通信途絶、そして渚士長たちから得た情報を順番に説明しました。
理央先輩は途中で一度も口を挟まず、地図と私の説明を交互に見ながら静かに考え込んでいます。やがて説明が終わると、先輩は腕を組んだまましばらく黙り込みました。
長い沈黙のあと、理央先輩はゆっくりと顔を上げました。その視線は地図ではなく、洞窟の奥へ向けられています。
「……ここを出ましょう。」
その一言に、私は頷きました。
「私も同じ考えです。」
理央先輩は地図の上へ指を置きながら続けます。
「今、一番違和感があるのは、この洞窟の周囲だけ異様に静かなことなの。」
全員の視線が地図へ集まりました。
「ここが戦闘地域の中心なら、敵はもっといても不思議じゃない。それなのに、私たちがここへ逃げ込んでから一度も索敵にも来ない。」
一橋一士も腕を組み、小さく頷きます。
「確かに妙ですね。」
「敵が私たちを見失ったとは考えにくいです。」
私はそう付け加えました。あれほど巧妙な奇襲を仕掛けてきた相手です。地下坑道まで構築していた敵が、この洞窟だけ見逃すとは思えません。理央先輩は静かに言葉を続けます。
「この洞窟は、安全だから放置されているんじゃない。」
そう言って地図から顔を上げました。
「私たちを集めるために残された"安全地帯"である可能性が高い。」
その言葉を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走りました。生存者は、安全そうな場所へ集まります。敵がそれを見越しているなら、この洞窟そのものが巨大な罠になります。
「人が十分集まったところで坑道を封鎖するか、一斉攻撃を仕掛けるか……方法はいくらでもあります。」
私は自分の考えを口にしました。
「その可能性は十分あるな」
山下士長も険しい表情になります。
「ここへ留まる方が危険ということですね。」
「そういうこと。」
理央先輩は静かに頷きました。
「通信も使えない。部隊も分断されている。なら、自分たちで味方を探しに行くしかない。」
一橋一士が地図を覗き込みます。
「向かう先は?」
理央先輩は石橋の集落を指差しました。
「まず石橋へ下りる。食料でも弾薬でも医薬品でも、使えるものが残っていれば回収したい。そのあと湯本方面へ抜けて、展望台の前線拠点まで戻って援軍を要請する。無線が使えない以上、自分たちで状況を伝えるしかない」
私は頭の中で地形を整理します。敵の主攻勢は国道一帯に集中しています。山を越えることになりますが、その方が敵の包囲網を避けられる可能性は高そうでした。
「山越えになりますね。」
私が言うと、渚士長も苦笑しながら肩をすくめます。
「楽な道じゃないね」
「それでも、このままここへ留まれば助かる見込みはない」
理央先輩は迷いなく答えました。
「生き残る可能性が少しでも高い方を選ぶ。それが今できる最善の判断よ。」
山下士長はその言葉を聞くと、小さく息を吐いて頷きます。
「分かりました。私は従います。」
一橋一士も続きました。
「自分も異論ありません。」
久木田二士は緊張した表情のままでしたが、それでもしっかり頷いています。
私は理央先輩の判断に安堵しました。誰かが冷静に全体を見てくれるだけで、部隊はここまで落ち着きを取り戻せるものなのだと改めて感じます。しかし、その空気を天津種二佐の鋭い声が断ち切りました。
「待ちなさい!」
全員の動きが止まります。
「上官は私です。指揮権は私にあります。」
天津種二佐は私たちを見回し、はっきりと言いました。
「ここは敵が確認されていない。ならば、この洞窟を新たな拠点として利用するべきだ。あなたたちは私の命令に従いなさい。」
理央先輩は何も言い返しません。代わりに、一橋一士が静かに口を開きました。
「申し訳ありません。」
その声は落ち着いていましたが、決意は揺らいでいませんでした。
「自分は、その命令には従えません。」
天津種中隊長の眉が険しくなります。
「どういう意味?」
「仲間を見捨てろと命じた指揮官を、これ以上信用することはできません。」
洞窟の中が静まり返りました。天津種二佐は言葉を失い、一橋一士を見つめています。久木田二士も続けました。
「自分も同じ考えです。」
私も理央先輩の隣へ立ちます。
「申し訳ありません、二佐」
できる限り感情を抑えて言いました。
「私も瑛松二曹の判断が正しいと思います。」
天津種二佐は悔しそうに唇を噛み締めます。
「あなたたち……命令違反になるのよ。」
理央先輩はそこで初めて天津種二佐へ向き直りました。
「命令違反として処分されるなら、それでも構いません。」
その声は静かでした。ですが、不思議なほど力強く聞こえました。
「私は仲間を生きて帰すために行動します。」
そう言うと、理央先輩はそれ以上振り返ることなく洞窟の出口へ歩き始めます。私もその背中を追いました。一橋一士、久木田二士、渚士長、山下士長も迷わず続きます。背後では天津種二佐の声が何度も響いていました。
「待ちなさい!」
「命令です!」
「私を無視する気なの!」
ですが、その声に足を止める者は誰一人いませんでした。
洞窟を出ると、国道一帯には依然として黒煙が立ち上り、遠くでは断続的な銃声と砲声が響いています。私たちは互いに頷き合うと、石橋の街を目指して静かに歩き始めました。退路はまだ見えていません。それでも、自分たちの足で生き延びる道を切り開くしかないことだけは、全員が理解していました。
登場人物紹介
苫米地 杏南……本作のヒロイン
瑛松 理央……35普連2中隊所属の頼れる先輩
渚 恭平……脱サラして自衛官になった。
山下 裕介……渚と同期の陸士長。
一橋 剛……35普連1中隊の一等陸士
久木田 怜……35普連1中隊の新人
天津種 麗……35普連2中隊の新しい中隊長。




