第61話 新しい中隊長
――2020年9月29日 8時00分 真鶴町兵站拠点・星山さつき公園
星山さつき公園の陣地には、朝から慌ただしい空気が漂っていた。今日の任務は石橋地区への進出である。
駅裏兵站拠点を失った影響で予定は数日遅れたものの、兵站線は着実に西から東へ延び続けていた。石橋に新たな補給拠点を築き、その安全を確保したうえで、小田原攻略への足掛かりとする。それが今回の目的だった。
夜明け前から車列は整えられ、資材を積んだ車両の横では、普通科隊員たちが装備を確認している。そこへ、新たな部隊が到着した。
「第402施設中隊、到着しました。」
施設科隊員たちが次々と車両から降り立つ。3日間ほぼ休みなく陣地を築き続けた栄摩三尉たちにとって、この増援はまさに待ち望んだ援軍だった。だが、この日の話題はそれだけでは終わらなかった。
片桐一佐が2中隊を前へ集める。
「紹介する。今日から第2中隊長を務める天津種二等陸佐だ。」
1人の女性幹部が静かに前へ歩み出た。
「天津種 麗です。よろしくお願いします。」
よく通る声だった。年齢は、亡くなった園山三佐と同じくらいだろうか。
姿勢は一分の隙もなく、制服の着こなしも教範どおり。防大出身らしい端正な立ち居振る舞いだった。しかし、その表情はどこか硬い。
隊員一人ひとりを見渡してはいるものの、その視線は人ではなく隊列そのものを確認しているようにも見えた。
片桐一佐は続けた。
「天津種二佐は今回が前線勤務となる。和戸、しばらく補佐を頼む。」
「了解しました。」
和戸一尉は即答した。その直後だった。
「前線……初めて?」
木山が思わず小さく漏らした声は、思いのほか周囲にも届いてしまった。誰も口にはしない。だが、同じ疑問は皆が抱いていた。
園山三佐を失い、和戸一尉が実質的に中隊を率いてきた。
ゆずり葉学園に星山さつき公園。幾度もの死線を越えてきた部隊に、実戦経験のない中隊長が着任する。
その事実だけで、若い隊員たちの胸には小さな不安が芽生えていた。僕自身も例外ではない。前線で判断を誤れば、犠牲は1人では済まない。それを嫌というほど見てきたからだ。
――8時40分 星山さつき公園出発
車列は石橋方面へ向けて動き始めた。
舗装道路を離れ、山道へ入る頃になると、僕はどうしても気になっていたことを和戸一尉へ尋ねた。
「あの……和戸一尉。」
「ん?」
「気のせいかもしれませんけど、新しい中隊長を紹介された時、少し困ったような顔をされていませんでしたか。」
和戸一尉は苦笑した。
「ああ、見られていたか。」
少しだけ考えるように前を見つめ、それから静かに話し始めた。
「天津種二佐とは、防衛大学校の同期なんだ。同じ中隊で4年間過ごした。」
「そうだったんですか。」
同期なら心強い存在なのではないか。そう思った僕の表情を読んだのか、和戸一尉は肩をすくめた。
「隠しても仕方ないな。」
少し声を落とす。
「学業成績は優秀だった。戦術理論も地図判読もトップクラスだったよ。」
そこまで聞けば、優秀な幹部にしか思えない。だが、和戸一尉の言葉はそこで止まらなかった。
「ただ……現場が苦手なんだ。」
「現場?」
「教範どおりなら完璧にこなす。でも、予定外のことが起きると判断が追いつかなくなる。」
僕は思わず黙り込んだ。戦場とは、予定外の連続だ。木山がぼそりと呟く。
「それって……。」
「おい。」
僕は肘で木山を小突いた。不用意な言葉を飲み込ませる。和戸一尉も苦笑するしかなかった。
「俺も、そうならないことを願ってる。」
その言葉には、同期だからこその複雑な感情が滲んでいた。
石橋地区へ到着すると、2中隊はすぐに警戒配置へ移る。
山間部とはいえ道路はよく整備され、人の生活の痕跡も色濃く残っていた。占領地域とは思えないほど静かで、荒廃した様子もない。住民への避難勧告を進める中で、地下シェルターへ案内される。想像していた以上に頑丈な造りだった。補強材もしっかり入り、換気設備まで備えられている。
「これを住民だけで……?」
思わず呟く。違和感は残る。しかし、住民が無事なら今はそれでいい。そう自分に言い聞かせた、その時だった。木山が山林の奥を指差した。
「あれ……人影。」
双眼鏡を覗いた須田二曹が低く告げる。
「グーリエ兵だ。10体。」
工兵らしい装備を身に着けた敵兵が、何かの設置作業を行っている。和戸一尉は即座に状況を見極めた。
「放置はできない。静かに包囲して掃討する。」
だが、その瞬間。
「待て!」
天津種二佐の声が山中に響いた。
「ここは撤退する! 敵の目的が不明な以上、交戦は避けるべきだ!」
静まり返った山中に、その声だけが大きく反響する。和戸一尉も、地頭曹長も、江鹿一曹も、一瞬だけ動きを止めた。誰もが同じことを考えていた。──敵に聞こえた。
案の定、林の奥で数人の敵兵がこちらを振り向く。天津種二佐も、その瞬間に自らの失策へ気付いたのだろう。
「……戦闘準備!」
今度は真逆の命令が飛ぶ。撤退と交戦。矛盾した2つの命令に、隊員たちは一瞬だけ判断を迷った。しかし、その迷いは和戸一尉の指示が断ち切った。
「各班、そのまま予定どおり包囲! 地頭、江鹿、左翼を回れ!」
命令は一つ。その声を聞いた瞬間、2中隊はいつもの動きを取り戻していた。
和戸一尉の指示が飛ぶと同時に、2中隊はこれまで何度も繰り返してきた動きで左右へ展開した。
地頭曹長の班が左翼へ回り込み、江鹿一曹たちは正面から敵の退路を断つ。須田二曹は木立を利用しながら狙撃位置を確保し、瑛松二曹は後方から射界を管理する。誰一人として無駄な動きはなく、天津種二佐の混乱とは対照的に、部隊全体は一つの生き物のように連動していた。
「撃て!」
和戸一尉の号令とともに、89式小銃の乾いた発射音が山間に響き渡る。
敵も応戦したものの、不意を突かれた工兵部隊に白兵戦を支えるだけの戦力はなかった。数分も経たないうちに10体のグーリエ兵は次々と倒れ、最後の一体が銃弾を受けて地面へ崩れ落ちる頃には、辺りには硝煙だけが漂っていた。
「制圧確認!」
江鹿一曹の声に、張り詰めていた空気がわずかに緩む。しかし、その安堵は長く続かなかった。乾いた銃声が林の奥から響き、一発の弾丸が隊員たちの間を切り裂く。
「うあっ!」
鈴木 太陽一等陸士が右腕を押さえながら倒れ込む。迷彩服は瞬く間に赤く染まり、苦痛に顔を歪めた。
「伏兵だ!」
江鹿一曹が叫ぶ。次の瞬間、廃屋の陰や雑木林の奥から新たに10数名のグーリエ兵が姿を現し、一斉射撃を開始した。
それとほぼ同時に、さらに遠方から重い発射音が響く。低く腹へ響くその音は、小銃ではない。
「砲撃!」
地頭曹長が叫ぶより早く、砲弾が尾根の斜面へ着弾した。爆風が土砂と木片を巻き上げ、視界が茶色い煙で覆われる。
「伏兵に砲兵まで……。」
和戸一尉は周囲を見渡しながら舌打ちした。
敵は最初の10体を囮として配置し、その救援に飛び出した部隊を伏兵と迫撃砲で叩く算段だったのである。
天津種二佐は、その光景を前に完全に立ち尽くしていた。手にした地図は震え、先ほどまで隊員へ向けていた強い口調は跡形もなく消えている。
「わ……和戸。」
震える声がようやく漏れた。
「状況判断を……。」
その一言だけだった。和戸一尉は余計な言葉を返さない。今、この場で必要なのは慰めでも叱責でもなく、部隊を生かす指揮だった。
「全班散開!」
即座に無線へ怒鳴る。
「地頭、亜久は西側の伏兵を潰せ! 江鹿、瑛松、中西は中隊長を護衛! 須田は狙撃支援!」
命令は簡潔だった。しかし、それだけで十分だった。経験を積んだ隊員たちは即座に役割を理解し、それぞれの持ち場へ走る。
地頭曹長は倒木を盾にしながら敵陣へ回り込み、亜久二曹が正確な射撃で敵の頭を押さえる。
江鹿一曹たちは天津種中隊長を安全な窪地まで移動させ、中西三曹が負傷した鈴木一士へ応急処置を施した。
須田二曹の射撃が林の奥で閃くたびに、一人、また一人と敵兵が倒れていく。伏兵の火力は徐々に弱まり始めた。
だが、砲撃だけは止まらない。数10秒おきに砲弾が着弾し、周囲の木々を薙ぎ倒していく。
「砲兵を黙らせない限り終わらん。」
和戸一尉が歯噛みした、その時だった。無線機から聞き慣れた少女の声が流れる。
「こちら苫米地。砲兵陣地を確認しました。」
和戸一尉は即座に応答する。
「行けるか?」
「はい。」
返答は一言だけだった。それ以上の説明は必要なかった。杏南はすでに敵砲兵の位置を把握していたのである。和戸一尉は短く命じた。
「愛元、小城。援護に付け。」
「了解!」
2人は迷うことなく杏南の後を追った。3人は銃撃戦の外縁を縫うように移動し、尾根伝いに敵砲兵陣地へ接近していく。
敵の注意は正面の2中隊へ向いていたため、側面へ回り込んだ3人に気付く者はいない。杏南は草木の隙間から砲兵を確認すると、深く息を吸った。
「撃ちます。」
静かな声とともに、1発目の銃弾が放たれる。砲手が胸を撃ち抜かれ、そのまま迫撃砲の上へ崩れ落ちた。異変に気付いた敵兵が振り向くより早く、2発目、3発目が続く。
愛元と小城も正確な援護射撃を重ね、わずか数分で砲兵陣地は完全に沈黙した。砲撃音が途絶えた瞬間、和戸一尉は攻勢へ転じる。
「今だ! 一気に押し返せ!」
地頭曹長たちが一斉に前進し、残る伏兵を挟撃する。包囲を崩された敵兵は統制を失い、逃走を図る者から順に射撃で倒されていった。やがて銃声が完全に止む。静寂の中、無線機から杏南の声が届いた。
「こちら苫米地。砲兵陣地、制圧完了です。」
数分後、杏南が愛元、小城を伴って戻ってくる。
2人は肩で息をし、額には汗が滲んでいた。一方で杏南だけは、呼吸一つ乱していない。
杏南が凄すぎるから目立たないが、愛元も小城も優秀な奴だった。
「はぁはぁ、はえぇよ、苫米地…。」
「でも、結果は大正解だった。」
愛元も息を整えながら笑った。和戸一尉は3人を見回し、小さく頷く。
「よくやった。」
その一言だけで十分だった。僕はようやく肩の力を抜き、大きく息を吐いた。
「……勝った。」
思わず漏れた声だった。もちろん、僕自身は今回も大した戦果を挙げられていない。それでも、生き残れたという事実だけで胸がいっぱいだった。
ふと天津種二佐へ視線を向ける。
彼女は地図を握り締めたまま、その場から動けずにいた。先ほどまで整っていた制服は土埃にまみれ、震える手は隠そうともしていない。自分が何もできなかったことを、誰より本人が理解しているのだろう。
その横顔に浮かぶ表情は、悔しさとも絶望ともつかないものだった。その姿を見た僕は、ただ「無能だ」と切り捨てる気にはなれなかった。教範の上では優秀でも、初めて立つ本物の戦場は、人から当たり前の判断力さえ奪ってしまう。ここは、そういう場所なのだ。
だからこそ僕は思う。天津種二佐に必要なのは肩書きではなく、この戦場で生き延びる経験なのだと。そして、その経験を積む時間が、この人に残されていることを願わずにはいられなかった。
登場人物紹介
段場 隼人……主人公
苫米地 杏南……隼人の同期で恋人
和戸 一暁……35普連2中隊の頼れるベテラン
天津種 麗……新しい2中隊の中隊長。座学は優秀だが、現場での対応力が課題
愛元 省向……隼人や杏南の同期
小城 聖太……同じく、隼人や杏南の同期




