第60話 再編の足音
――2020年9月25日 16時00分 星山さつき公園――
「まなつるサボテンパークは高台に位置し、周囲を原生林に囲まれています。上空からの偵察についても、十分な偽装を施せば発見される可能性は低いでしょう」
地図の一点を指し示しながら、34普通科連隊長・賀井 双一郎一等陸佐が説明を続ける。
「ただし海が近すぎます。崖が天然の障壁となるため、水棲種の上陸には一定の時間を稼げますが、艦艇からの砲撃には耐えられません」
管理事務所の中は土埃と汗の臭いが入り混じり、窓の外では円匙が土を掘る音が絶え間なく響いていた。
有朋 繁陸将は腕を組み、しばらく地図を見つめたあと、小さく頷いた。
「海から狙われるということは、裏を返せば、こちらも海上を射界に収められるということだ。真鶴方面の主兵站拠点は星山さつき公園とする。ただし、将来的な海上自衛隊との共同運用を考え、対艦火力の展開を前提とした陣地も同時に構築しておけ」
「しかし……」
片桐一佐が慎重に口を開く。
「施設科の人員が圧倒的に不足しています」
その言葉に誰も反論しなかった。
駅裏兵站拠点壊滅の際、第10施設大隊は壊滅的な損害を受けた。生き残った隊員は分隊規模にまで減少し、大隊長も戦死している。現在、現場を指揮しているのは栄摩 来仁三等陸尉だった。
「まずは星山さつき公園を優先する。少人数で苦労を掛けるが頼むぞ、栄摩三尉」
「了解しました」
返答こそ力強かったが、その声には隠し切れない疲労が滲んでいた。
会議が終わると同時に、各部隊は一斉に持ち場へ散っていく。僕たち35普通科連隊も例外ではない。
「作業開始!」
賀井一佐の号令が響き、兵士たちは円匙を手に斜面へ散っていった。
本来なら施設科が重機を駆使して進める工事である。しかし重機を扱える隊員の多くは既に失われていた。
残された数台の小型ショベルカーだけでは到底追いつかない。
結局、最後に頼れるのは人の腕だった。土を掘り、土嚢へ詰め、それを積み上げる。掘って、運び、積み、また掘る。それを何時間も繰り返す。やがて手袋は泥で黒く染まり、掌には新しい豆が潰れて血が滲んだ。
「……終わりが見えないな」
思わず漏れた独り言は、風にさらわれて消えていく。気が付けば作業開始から2日が過ぎていた。
標高400メートル近い山頂は昼夜の寒暖差が激しく、夜になると吐く息が白くなる。その厳しい環境の中でも、栄摩三尉だけは休まなかった。測量器を担ぎ、地形を確認し、図面を引き、施設科隊員へ指示を飛ばす。
「その法面は角度を変えろ。そこは雨で崩れる」
「迫撃砲座はあと2メートル東だ。射界が狭くなる」
土埃で顔は黒く汚れ、制服も泥にまみれている。目は充血し、鉛筆を握る指先は疲労で震えていた。
それでも線を引く手だけは止まらない。この陣地が完成しなければ、この先の進軍そのものが止まる。その責任を、栄摩三尉は誰より理解していた。
「隼人」
声を掛けられて振り向くと、木山が水筒を差し出していた。
「少し休め。倒れたら元も子もない」
「……ありがとう」
泥で汚れた水筒を受け取り、一口飲む。ぬるくなった水だったが、乾いた喉には何よりのご馳走だった。
木山もまた、額に泥を付けたまま黙々と円匙を振るっている。数日前まで彼を支配していた恐怖は、今は極度の疲労へと姿を変えていた。考える余裕すらないほど体を動かし続けることが、結果として彼を救っているのかもしれない。
それでも誰一人、不満を口にする者はいなかった。この土嚢の一つひとつが、次の戦いで誰かの命を守る。それを全員が理解していたからである。
――2020年9月28日 10時00分 星山さつき公園――
突貫工事が始まって3日、星山さつき公園では、掘り返された赤土の上に土嚢が幾重にも積み上げられ、迷路のように塹壕が張り巡らされていた。迫撃砲陣地には砲床が完成し、尾根沿いには対空・対艦火力を展開するための偽装陣地も、ようやく輪郭を見せ始めている。
完璧には程遠い。それでも、数日前までただの公園だった場所は、着実に軍事拠点へと姿を変えつつあった。
その頃、辛うじて倒壊を免れた管理事務所では、次の作戦に向けた会議が始まっていた。
机いっぱいに広げられた地図を囲むのは、有朋陸将をはじめ、34普通科連隊長・賀井一等陸佐、35普通科連隊長・片桐一等陸佐ほか、航空自衛隊と海上自衛隊の連絡幹部たちである。
張り詰めた空気の中、有朋陸将がゆっくりと口を開いた。
「陣地構築の第一段階は予定どおり完了した。ここから先は次の段階へ移る。」
全員の視線が自然と有朋陸将へ集まる。
「目標は小田原だ。」
その一言だけで、部屋の空気がわずかに引き締まった。
湯河原を押さえ、真鶴に橋頭堡を築いた自衛隊は、いよいよ相模湾西岸最大の都市へと歩みを進めようとしている。
賀井一佐は地図の一点を指で示した。
「明日は石橋地区に新たな兵站拠点を構築する。位置は座標35.222728、東経139.128677。山間部ではあるが、箱根方面への展開も容易で、防御にも適している。」
指先は尾根沿いをなぞりながら北へ移る。
「民家が数軒確認されている。住民が残っていた場合は速やかに避難勧告を実施しろ。小田原市街地への進出は、兵站拠点完成後とする。」
誰も異論は唱えない。駅裏兵站拠点を失った経験があるからこそ、補給線を整えずに前進する危険性は、全員が骨身に染みて理解していた。
賀井一佐は続ける。
「34普通科連隊は海岸線の警戒を担当する。35普通科連隊は石橋周辺の哨戒および住民避難を担当。なお、35普通科連隊第4中隊は湯河原拠点に残留し、34普通科連隊第5中隊は星山さつき公園の防衛任務を継続する。」
作戦内容が次々と決まっていく中、賀井一佐はもう一つの報告を加えた。
「石橋兵站拠点の構築には、第402施設中隊が合流する。」
その言葉を聞いた瞬間、部屋の隅で資料を抱えていた栄摩三尉の表情がわずかに緩んだ。
「……助かります。」
掠れた声だった。無理もない。
駅裏兵站拠点壊滅以降、生き残った施設科隊員だけで2つの兵站拠点を築き続けてきたのである。不眠不休に近い状態で測量を行い、設計図を書き直し、重機の誘導から普通科隊員への指示まで一手に引き受けてきた疲労は、限界をとうに超えていた。
その負担を分かち合える仲間が来る。それだけでも、彼にとっては十分すぎる朗報だった。しばらくして、片桐一佐が静かに口を開いた。
「あわせて人事について伝える。」
室内が再び静まり返る。
「第2中隊には、新しい中隊長が着任する。明朝合流予定だ。」
その言葉に、思わず顔を見合わせる隊員もいた。
「和戸。」
「はい。」
「代行ご苦労だった。明日から引き継ぎを頼む。」
「了解しました。」
和戸一尉はいつもどおり簡潔に敬礼した。その表情から感情を読み取ることは難しい。
園山中隊長を失って以来、実質的に中隊を率いてきたのは和戸一尉だった。その責任は計り知れない。
新たな指揮官を迎えることは負担が軽くなる反面、自ら築き上げてきた部隊を託すことでもある。その胸中は、本人にしか分からなかった。
さらに片桐一佐は続ける。
「第5中隊は第4中隊へ編入する。損耗した戦力を再編し、当面は混成運用とする。」
駅裏兵站拠点で受けた損害は、それほどまでに深刻だった。中隊という単位を維持できないほど、多くの仲間が帰らぬ人となったのである。
会議が終わり、隊員たちは静かに管理事務所を後にした。外へ出ると、西日に照らされた土嚢陣地が長い影を落としている。
泥に汚れた制服のまま作業を続ける隊員たちの姿は、戦勝軍というより、荒野に町を築く開拓者のようにも見えた。
僕は、その光景をしばらく黙って眺めていた。施設科の援軍が来る。新しい中隊長も着任する。
兵站拠点はさらに前線へ延び、小田原奪還作戦も本格的に動き始める。確かに前へ進んでいる。
それでも、その一歩一歩は、園山三佐をはじめ、下葛三曹、廣嶋一曹や足尾二曹、そして数え切れない戦友たちの犠牲の上に積み重ねられていることを忘れることはできなかった。
「隼人。」
柔らかな声が背中から聞こえた。振り返ると、杏南が湯気の立つレーションを2つ抱え、こちらへ歩いてくる。
泥で汚れた頬は相変わらずだったが、その笑顔だけは出会った頃と何も変わっていなかった。
「ご飯、食べに行こう。」
「うん。」
自然と笑みがこぼれる。ほんの束の間ではあっても、その笑顔は戦場の重苦しい空気を少しだけ和らげてくれた。
僕は杏南と並んで歩き出す。明日の目的地は石橋。その先には小田原がある。
さらに北へ進めば、グーリエ星人の支配地域はなお果てしなく続いている。
新たな指揮官を迎え、再編を終えた僕たちは、再びその戦場へ足を踏み入れることになる。
相模湾から吹き上げる夕風は、夏の名残を消し去るように冷たく、頬を撫でながら静かに北へ流れていった。
登場人物紹介
栄摩 来仁……三等陸尉。第10施設大隊の生き残り
段場 隼人……本編の主人公
苫米地 杏南……隼人の同期で恋人
有朋 繁……オペレーション・ギデオンの最高司令
賀井 双一郎……34普連の連隊長
片桐 初……35普連の連隊長




