第59話 鉄塊の堕つる空
――2020年9月25日 9時50分 ゆずり葉学園高校体育館――
わずかな仮眠ではあったが、身体の疲労は幾分か和らいでいた。……もっとも、頭の中だけは別だった。
昨夜の出来事を忘れようと眠ったはずなのに、目を覚ました瞬間から、益子一士が下品な笑みを浮かべながら近寄ってくる。
「段場ぁ、聞いてくれよ。昨日の続きなんだけどな――」
内容は、ここで口にするのもためらわれるものばかりだった。静まり返った体育館に、益子の妙に弾んだ声だけが響く。誰も注意しない。
疲れ切った隊員たちは床や壁にもたれ掛かり、ぼんやりと天井を見つめている。聞こえていないふりをする者もいれば、耳に入っていても反応する気力すら残っていない者もいた。
亜久二曹も、瑛松二曹も同じだった。互いに視線を交わすことなく、それぞれの装具を黙々と点検している。誰も話題にしない。それが、この場で生き残るための暗黙の了解だった。
―10:00―
35普通科連隊は、新たな兵站候補地である「星山さつき公園」へ向けて移動を開始した。
山道へ入るにつれ、車両の速度は自然と落ちていく。道幅は狭く、所々で舗装が崩れ、倒木や落石も目立つ。
普通科部隊が歩くだけなら問題ない。しかし、補給車両や迫撃砲を継続的に運び込むには、施設科による大規模な道路改修が不可欠だった。
だが、その施設科も駅裏兵站拠点壊滅の際、多くの隊員を失っている。残された人員だけでは、復旧作業に相応の時間を要することは明らかだった。それでも、この高台には、その苦労に見合うだけの価値がある。
標高は約400メートル。眼下には東海道本線が蛇行し、その向こうには相模湾が青く広がっている。
ここなら、駅裏拠点を焼き払った帝国軍装甲列車の砲撃も届かない。少なくとも、自衛隊が保有する火砲の射程計算では、そのはずだった。
「標高400メートル。列車砲の射程外……。兵站拠点としては申し分ないな」
片桐一佐は双眼鏡を下ろし、小さく頷いた。理論上、安全――その判断に異論を唱える者はいなかった。
「……あれ?」
木山が空を見つめたまま声を漏らす。
「どうした?」
地頭曹長が尋ねると、木山は東海道本線の方角を指差した。
「あそこ……。」
全員の視線が同じ方向へ向く。線路の彼方。陽炎の向こうから、黒い鉄塊が姿を現した。
敵の装甲列車。見間違えるはずもない。だが、その動きが妙だった。速度を落とすどころか、むしろ加速している。
「停止しない……?」
地頭が眉をひそめる。
「あの速度で撃てば、自分たちが脱線する。」
砲撃とは、本来、静止状態、あるいは低速時に行うものだ。高速走行中の発砲は、反動だけで車体姿勢を崩しかねない。そんな常識を嘲笑うように、装甲列車はなおも速度を上げていく。
嫌な予感が胸をよぎった。その瞬間だった。先頭車両の周囲に青白い火花が走る。
「伏せろッ!」
和戸一尉の怒号が響いた。ほぼ同時に、列車砲が閃光を放つ。砲口から撃ち出された黒い砲弾は、通常なら放物線を描いて失速するはずだった。しかし、それは違った。
砲弾は空気を裂きながら一直線に突き進み、落下する気配すら見せない。まるで空間そのものを滑走しているかのようだった。
次の瞬間、公園入口付近で巨大な爆発が起こった。轟音が山全体を揺らし、爆風が土砂と木片を巻き上げる。木々がなぎ倒され、岩肌が砕け散る。
「うわぁっ!」
木山が思わず身を伏せる。
「届くだと……!」
山下陸士長も信じられないという表情で爆心地を見つめた。標高400メートルという安全神話は、たった一発で崩れ去った。
あの砲弾には、通常の弾道計算が通用しない。電磁加速なのか、重力制御なのか。原理は分からない。だが一つだけ確かなことがあった。
「ああ……もう駄目だ……。」
木山が呆然と呟く。
「安全な場所なんて、どこにもない……。」
誰も反論できなかった。
しかし、その絶望を断ち切るように、片桐一佐だけは静かに口を開く。
「保険を掛けておいて正解だったな。」
その声には、一切の動揺がなかった。片桐一佐は、爆風で乱れた前髪を払うこともせず――いや、前髪はなかった。一佐は無線機を手に取り、短く命じる。
「坂本、始めろ。」
『了解。重迫中隊、射撃準備完了。』
山の斜面に巧妙に偽装されていた陣地が、一斉に姿を現す。
120ミリRT迫撃砲。
35普通科連隊重迫撃砲中隊である。砲身が一斉に仰角を取り、空へ向かってゆっくりと持ち上がる。
「敵は直射で射程を延ばしている。ならば、こちらは高低差を利用した曲射で叩く。」
片桐一佐は双眼鏡越しに敵列車を見据えた。
「科学がどう変わろうと、山越しの砲撃という原理までは変えられん。」
右手を高く掲げる。
「撃て。」
重々しい発射音が山中へ響いた。
120ミリ迫撃砲弾が次々と空高く舞い上がり、大きな放物線を描いて東海道本線へ向かう。超科学の直射砲撃に対し、自衛隊は何十年も積み重ねてきた曲射砲撃の理論で応じる。
その光景を見つめながら、僕は思わず息を呑んだ。
山腹のあちこちから撃ち上げられた120ミリ迫撃砲弾は、高い放物線を描きながら東海道本線へ降り注いだ。着弾のたびに線路脇の土砂が高々と舞い上がり、装甲列車の周囲を黒煙が覆う。
「効いているぞ!」
木山が思わず拳を握る。しかし、列車はなおも前進を続けていた。
車体側面から青白い光が脈打つように走り、直撃したはずの砲弾が爆炎とともに弾き飛ばされる。衝撃を完全に防いでいるわけではない。それでも致命傷には至らない。
「やはり防御機構を持っているか。」
片桐一佐は冷静に双眼鏡を下ろした。
「だが、止められない装甲など存在しない。」
その一言と同時に、別の無線が開く。
『こちら"サンダー01"。攻撃位置についた。』
上空からローター音が近付いてくる。
尾根をかすめるように飛来したのは、第1ヘリコプター団第102飛行隊のUH-60JAだった。
敵の対空火器を避けるように山陰を縫って接近し、装甲列車の側面へ回り込む。
『目標、先頭車両連結部。ロックオン。』
ヘルファイア対戦車ミサイルが白煙を引いて飛び出した。装甲列車が次弾装填のため砲身を旋回させた、そのわずかな隙を突く。轟音とともにミサイルが連結部へ命中した。
爆炎が車体を包み込み、青白い火花が激しく噴き上がる。重力制御装置が過負荷を起こしたのか、列車全体が大きく揺れた。先頭車両がレールを噛み損ね、鋼鉄の車輪が火花を散らしながら線路上を滑る。
「今だ!」
片桐一佐の号令が飛ぶ。
「重迫中隊、連続射!」
次々と迫撃砲弾が降り注ぎ、停止した列車の周囲を爆炎が埋め尽くす。土煙と黒煙が立ちこめ、列車の姿が見えなくなるほどだった。それでも、煙が晴れると、黒い巨体はなおもそこにあった。側面装甲は大きく歪み、連結部からは炎が噴き出している。しかし完全には破壊されていない。
「……しぶとい。」
誰かが思わず漏らした。そのときだった。車両後部のハッチが開き、グーリエ兵たちが一斉に飛び出してくる。
「狙撃班!」
「撃て!」
尾根に展開していた狙撃手たちが、一斉に引き金を引いた。乾いた銃声が連続し、逃走を図った敵兵が次々と倒れていく。
統制を失った敵兵は散開しながら山林へ逃げ込むが、その多くは狙撃手の照準から逃れられなかった。
「右翼、2名排除。」
「中央、命中。」
「左翼、逃走一。」
淡々とした報告が無線を流れる。その中で、一人だけ素早く森へ姿を消した影があった。
「……指揮官だ!」
小城が叫ぶ。狙撃手が照準を合わせるより早く、その姿は樹木の陰へ溶け込んでいく。
「逃したか……。」
「構わん。」
片桐一佐は静かに首を振った。
「目的は敵の殲滅ではない。この高地を兵站拠点として使用可能であることを確認することだ。」
片桐一佐は燃え続ける装甲列車を見据えながら続ける。
「列車は機動力を失った。今日の戦果としては十分だ。」
その言葉を聞き、隊員たちの表情にようやく安堵の色が戻る。東海道本線の上では、黒煙を噴き上げる装甲列車が動きを止めたまま横たわっていた。帝国の超科学も万能ではない。
重迫撃砲による継続的な面制圧と、第102飛行隊による精密攻撃。それぞれの兵科が本来の役割を果たし、互いを補完した結果が、今の戦果だった。
「……すごい。」
隼人は思わず呟く。
「あれが、連隊規模の戦いなんだ……。」
自分たちがこれまで経験してきた白兵戦とはまったく異なる戦場が、目の前には広がっていた。
一方で木山は、その場に座り込んだまま荒い呼吸を繰り返していた。先ほど頭上を通過した黒い砲弾の軌跡が、まだ脳裏から離れない。
「……敵の指揮官、本当にあの列車に乗っていたのか?」
「乗っていたらしい。」
小城がバイクのエンジンを切りながら答える。
「ああいう奴ほど簡単には死なん。」
その言葉には苦笑とも諦めともつかない響きがあった。和戸一尉は周囲を見渡し、大きく息を吸う。
「各員、警戒を継続。敵残党が潜伏している可能性がある。施設科は予定どおり拠点整備を開始しろ。」
「了解!」
隊員たちは再び持ち場へ散っていく。
任務を終えた第102飛行隊のUH-60JAは、ゆっくりと機首を北へ向け、守山駐屯地の方角へ帰投していった。その姿を見送りながら、隼人は89式小銃を握り直す。
兵站拠点は、一歩ずつ築かれつつある。だが、その先にはなお帝国の支配する戦場が広がっている。
登場人物紹介
登場人物紹介
段場 隼人……本編の主人公
木山 拓哉……隼人や杏南の同期
片桐 初……35普連の連隊長
坂本 崇……35普連 重迫撃砲中隊長




