第5話 前夜の電話
すべての準備を終えたあと、苫米地杏南は隊舎の廊下の端に立っていた。携帯電話を握りしめたまま、しばらく発信ボタンを押せずにいる。
やがて、小さく息を吐いてから番号を押した。呼び出し音が2度鳴った。
「もしもし?」
父の声だった。
「お父さん? 私」
「杏南か。どうした?」
私は一度だけ目を閉じる。
「私……出動することになった」
「明日の朝、駐屯地を出る」
電話の向こうが静かになった。しばらくして、父がゆっくりと口を開く。
「……そうか」
短い言葉だった。だが、その一言の中にいろんな感情が詰まっているのが分かった。
「怖くないのか?」
「うん」
杏南は少し笑った。
「不思議と、今は落ち着いてる」
「絶対に生きて帰るから」
父はしばらく黙っていた。
「杏南」
「なに?」
「正直に言う。つらい」
「……」
「自分の娘が戦地へ行くって聞いて、平気でいられる親はいない」
父はそこで一度言葉を切った。
「誰かに代わってもらうことは……できなかったのか?」
杏南は首を振った。電話越しだから、相手には見えないと分かっていても。
「できないよ」
「誰かがやらなきゃいけないことだから」
「“私が嫌だから、他の人が行ってください”なんて言えない」
父は小さく息を吐いた。
「……そうだな」
「それはつまり、“代わりに誰か死んでくれ”って言うのと同じだ」
しばらく沈黙が続く。やがて父の声が、少しだけ強くなった。
「その代わり」
「絶対に帰ってこい」
「生きて帰ってこい」
杏南は静かに答える。
「うん、絶対に帰る」
「母さんに代わる」
電話の向こうで、がさごそと音がする。次の瞬間――
「杏南……!」
泣き声だった。
「杏南……!」
「お母さん?」
「杏南……ああ……」
母はそれ以上言葉にならなかった。ただ、泣いている。杏南は目を伏せた。胸の奥が締めつけられる。それでも声を震わせないように言った。
「大丈夫だよ」
「私、強いから」
「ちゃんと帰る」
「約束する」
電話の向こうで、母は何度も同じ言葉を繰り返した。
「死なないで……」
「杏南、死なないで……」
そのあと、妹と弟とも少しだけ話した。
妹は明るく振る舞おうとしていたが、声が少し震えていた。弟は何を言えばいいのか分からない様子で、短い返事ばかりだった。会話は長く続かなかった。
杏南は思った。この電話が最後にならないようにしよう。絶対に帰る。そう決めた。
電話を切ると、寮の廊下は静まり返っていた。遠くの部屋から、誰かの笑い声が聞こえる。テレビの音も混じっている。いつもと同じ駐屯地の夜だった。
テレビではニュースが流れていた。
「明日未明より、東部方面隊による大規模反攻作戦が開始される見込みです」
キャスターの声は落ち着いているが、画面の下には
《第7次首都圏奪還作戦》の文字が表示されていた。
窓の外では、街の灯りが静かに瞬いている。車のヘッドライトが道路を流れていく。世界は、何も変わらない顔をしていた。――明日、自分たちが戦場へ向かうことなど知らないまま。
一方、その頃、段場隼人も寮の部屋で電話をかけていた。
「もしもし、お兄ちゃん?」
妹の静流だった。
「静流」
隼人は一度だけ深呼吸する。
「驚かないで聞いてくれ」
「明日、出撃する」
「初陣だ」
電話の向こうで、静流が息をのむ。
「……え?」
少しの沈黙。
「そう」
静流は静かに言った。
「ついにその時が来たんだね」
隼人は頷く。
「父さんと母さんの仇を討つ」
「横須賀を取り戻す」
静流はすぐには答えなかった。やがて、小さな声が聞こえる。
「……頑張って」
「でも」
「死なないで」
隼人は目を閉じた。もし自分が死ねば、静流は一人になる。それだけは絶対に避けなければならない。
「大丈夫だ」
隼人は言った。
「必ず帰る」
「約束する」
――翌朝
隊員たちは黙って装備を整えていた。誰も「行ってきます」とは言わない。言葉にしてしまえば、それが本当に最後の別れになる気がしたからだ。
―2020年9月21日 8:00―
守山駐屯地のゲートが開く。車列がゆっくりと動き出した。段場隼人たちを乗せた部隊は、首都圏奪還作戦へ向かう。
オペレーション・ギデオン。
その戦いが、いま始まろうとしていた。
登場人物紹介
苫米地 杏南……2002年2月5日生まれ、愛知県出身、二等陸士で、35普連所属。3人姉弟の長女。妹と弟がいる。家族関係は良好。
杏南の家族
父:巌……1977年3月18日生まれ、愛知県出身。高校教師をしている。
母:楓……1978年6月21日生まれ、岐阜県出身。地元の企業で事務員をしている。
妹:咲……高校生
弟:佑輔……中学3年生(受験生)
段場 隼人……2001年7月13日生まれ、神奈川県横須賀市出身、二等陸士で、35普連所属。本編の主人公。
段場 静流……2004年10月4日生まれ、隼人の妹で、現在高校生。ちなみに、杏南の妹、咲と同じ高校(※学年は違う)
※要は、家族へ電話せず、同期に愚痴ってました。




