第57話 非日常の隙間
――2020年9月24日 18時25分――
激戦が終わった頃には、空はすっかり夕焼けに染まっていた。
ゆずり葉学園高校の周囲では、第4中隊が第10偵察大隊と第5中隊の生存者を捜索していた。しかし、現場から次々と運び出されるのは負傷者よりも遺体の方が多く、辛うじて命を取り留めた者たちも、重傷のため前線への復帰は極めて困難と判断されていた。
組織として見れば、第10偵察大隊と第5中隊は、もはや戦力として機能しない。その現実は、誰の目にも明らかだった。
「一命を取り留めても、必ずしも部隊へ戻れるわけじゃない。」
衛生隊の1人が、担架で運ばれていく負傷者を見送りながら静かに呟いた。
「身体の傷は治っても、心はそう簡単には治らない。戦場で一度恐怖に呑まれると、もう二度と銃を持てなくなる人も少なくないの。」
以前、瑛松二曹も同じことを話していた。戦場で壊れるのは身体だけではない。極限の恐怖は人の心を蝕み、生き延びた者から戦う意思そのものを奪っていく。それもまた、戦争が残す傷だった。
橋本三佐は校舎を見回すと、部隊へ指示を飛ばした。
「校内を再度捜索したが、敵影は確認されなかった。今夜はここで野営する。手の空いた者から塹壕を構築しろ。」
「了解!」
隊員たちは一斉に散開する。
ゆずり葉学園高校は、改造されたAH-64Dの攻撃によって甚大な損害を受けていた。
校舎は至る所で崩落し、辛うじて形を保っている建物も窓ガラスは砕け散り、廊下には硝煙と焼け焦げた臭いが染み付いている。
一晩を過ごすことはできても、兵站拠点として継続利用するのは危険すぎる――上層部はそう判断した。
「湯河原側の兵站拠点は、的山公園へ変更されるそうだ。明日は真鶴側の候補地を偵察する。34普通科連隊が『まなつるサボテンパーク』周辺、我々35普通科連隊は『星山さつき公園』付近を担当する。夜間哨戒も通常どおり交代制だ。」
橋本の説明を受けると、隊員たちは黙って持ち場へ散っていった。
その中で、1人だけ足が動かなかった。木山 拓哉だった。手にした円匙が、いつもより何倍も重く感じる。皆が土を掘り始める中、彼だけは立ち尽くしたまま、目の前の地面を見つめていた。
「……塹壕、か。」
ようやく円匙を振り下ろす。乾いた土へ刃が食い込み、鈍い音が返ってきた。その瞬間、廣嶋一曹が最後に口にした言葉が脳裏によみがえる。
『塹壕を掘っておくべきだった。』
その一言が、円匙を握る手を重くした。
ザクッ、ザクッという単調な音だけが、夕暮れの校庭へ響いていく。彼らが掘り返している土には、つい数時間前まで仲間たちの血が染み込んでいた。やがて円匙が小石へ当たり、乾いた衝撃が腕へ伝わる。
その感触をきっかけに、記憶が鮮明によみがえった。至近距離から降り注いだアパッチの30ミリ機関砲、爆ぜるコンクリート。肉片となって宙へ舞った廣嶋一曹と足尾二曹。何度振り払おうとしても、その光景だけは頭から離れない。
(……あんな相手、勝てるわけない。)
喉元まで込み上げた言葉を、木山は歯を食いしばって飲み込んだ。
視線を横へ向ける。少し離れた場所では、隼人が黙々と円匙を動かしていた。
疲労の色は隠せない。それでも、その動きに迷いはない。さらにその向こうでは、苫米地杏南が小銃を肩に掛けたまま周囲を警戒している。2人とも、自分と同じ教育隊を卒業した同期だった。同じ教官に怒鳴られ、同じ訓練を受け、同じ食堂で飯を食った。
それなのに今では、まるで別の世界へ行ってしまったように見える。
「なあ、隼人。」
木山が声を掛けると、隼人は円匙を止めて振り返った。
「怖くないのか?」
しばらく沈黙が流れた。隼人は苦笑するように息を吐く。
「怖いよ。」
その答えは意外なほど率直だった。
「今だって足は震えてる。でも、止まったら終わるから。」
それだけ言うと、隼人は再び土を掘り始める。怖くても前へ進む。それが今の隼人だった。
しかし木山の胸を締め付けている感情は、それとは違う。勇気で押さえ込める恐怖ではない。身体の奥底から逃げろと叫び続ける、本能そのものだった。
その時、哨戒から戻ってきた杏南と目が合う。彼女はいつもの柔らかな笑みを浮かべていた。昼間、敵兵を次々と撃ち倒していた時の鋭さは、どこにもない。教育隊で見慣れた、穏やかな苫米地杏南だった。
だが、その落差が木山には理解できなかった。
(……化け物だ。)
胸の奥で誰かが囁く。
(どうして、あんな戦いをした直後に、そんな顔ができるんだ。)
戦場では獣のように戦い、戦闘が終われば何事もなかったように笑う。その切り替えができること自体が、木山には恐ろしく思えた。
「木山。」
亜久二曹の声が飛ぶ。
「手が止まってるぞ。今日中に掘り終えないと、夜明けまでかかる。」
「……はい。」
木山は我に返り、再び円匙を握り直した。土は掘れば掘るほど積み上がっていく。しかし、胸の中に開いた穴だけは、どれだけ土を積み重ねても埋まることはなかった。
明日になれば、また新たな兵站拠点候補の偵察が始まる。また死と隣り合わせの場所へ、自分の足で向かわなければならない。その現実を思うだけで、木山の胃はゆっくりと締め付けられていくのだった。
――2020年9月25日 3時00分――
塹壕を掘り終えた後、夕食のレーションを慌ただしく胃へ流し込むと、僕は泥のように眠っていた。敵地の真っただ中で眠れるものかと思っていたが、それ以上に疲労が限界を超えていたのだろう。
目を覚ました時には、交代時間になっていた。僕は瑛松二曹とツーマンセルを組み、学園敷地内の夜間哨戒へ向かう。
昼間には銃声と爆発音に満ちていた校舎も、今は鈴虫の鳴き声だけが静かに響いていた。
夜風が焼け焦げたコンクリートの臭いを運んでくる。
静かすぎる。だからこそ、不気味だった。隊員たちの疲労は誰の目にも明らかだった。どうか、この夜だけは何も起きないでほしい。そう願いながら歩いていた。
しかし、3:30頃だった。
ほんの数歩先を歩いていたはずの瑛松二曹の姿が、いつの間にか消えていた。
「……瑛松二曹?」
返事はない。周囲を見回しても姿は見えなかった。背筋に冷たいものが走る。
(どこへ行った……?)
気付かないうちに敵が接近していたのか。それとも、自分がまた注意力を欠いてしまったのか。胸の鼓動が急激に速くなる。
和戸一尉へ報告しようと踵を返した、その時だった。
「待て待て。」
背後から声が掛かった。振り向くと、益子|武朗 一等陸士が苦笑しながら立っていた。
「敵じゃない。瑛松も無事だ。」
「知っているんですか?」
「ああ。」
益子一士は肩をすくめる。そういえば彼も、本来なら亜久二曹と巡回していたはずだった。だが今は一人だ。僕が事情を尋ねると、益子一士は「付いて来い」とだけ言って歩き出した。
案内されたのは保健室の前だった。
「この中にいる。」
そう言われても、扉を開けようとはしない。不思議そうな顔をしていると、益子一士は呆れたように笑った。
「お前、案外鈍いな。」
そう言って身振りで意味を示す。卑猥なハンドサインだ。そこでようやく僕は、彼が何を言いたいのか理解した。思わず言葉を失う。
「……まさか。」
「戦場じゃ珍しい話でもない。」
益子一士は小さく息を吐いた。
「明日生きてる保証なんて誰にもない。極限状態が続くと、人間はどこかで心の均衡を保とうとする。酒もない、娯楽もない。そうなると、ああいう形で気持ちを落ち着かせる奴も出てくる。俺も順番待ちだ」
淡々とした口調だった。責めるでもなく、肯定するでもない。長く戦場にいた人間だからこその、乾いた現実として語っているように聞こえた。
「……。」
僕には理解できなかった。数時間前まで仲間が命を落としていた場所で、そんな気持ちになれるものなのか。いや、それ以前に、任務中だ。どうしても受け入れられない。
「お前も、そのうち分かるさ。」
益子一士は冗談めかして笑った。
「いや、僕は……。」
言いかけて、杏南の顔が浮かぶ。僕には杏南がいる。だからという理由だけではない。この状況でそんな気持ちになれる自分が想像できなかった。
「僕は哨戒に戻ります。」
「お前、つまんねぇ奴だな。」
――つまんねぇ奴。それでいいと思った。僕は一人で巡回を再開した。
夜風は冷たく、虫の声だけが静かな校舎に響いている。何事も起こらなかった。それが幸運だった。
だが、頭の中だけは妙に落ち着かない。もし杏南も同じようなことを――。そこまで考えた瞬間、自分でその想像を打ち消した。
(何を考えてるんだ……。)
戦場であることを忘れかけているのは、自分の方ではないか。そう自分を戒めながら、巡回を続けた。
―4:40―
持ち場へ戻る途中、用務員室の扉が静かに開いた。そこから姿を現したのは瑛松二曹だった。額には汗が浮かび、呼吸はわずかに乱れている。
制服の襟元を整えながら出てきた。額にはうっすら汗が滲み、呼吸もわずかに乱れている。それでも僕と目が合うと、何事もなかったように会釈だけして持ち場へ戻っていった。
何か見てはいけないものを見た気がした。そして、妙なモヤモヤというか、切なさというか、今までに感じたことのない感情が芽生えている。これは、一体何なのだろう?
遠くで、誰かが交代の見張りを呼ぶ声がした。この場所が戦場だということを、思い出させる声だった。
登場人物紹介
登場人物紹介
段場 隼人……主人公
苫米地 杏南……隼人の同期で恋人
木山 拓哉……隼人と杏南の同期
瑛松 理央……35普連2中隊所属のWAC隊員
益子 武朗
生年月日:1996年8月26日 / 出身:鳥取県
階級:一等陸士 / 所属:35普連2中隊
備考:学生時代から女遊びが激しく、問題児でもあった。




