第53話 時が止まったまま
――2020年9月24日 8時40分 真鶴第一中学校(旧兵站拠点)
焼け落ちた校舎からは、まだ白い煙が細く立ち上っていた。
前日の夕刻に始まった消火活動は夜を徹して続けられたが、神奈川県は依然としてグーリエ星人の占領地域である。消防隊の応援など望めるはずもなく、自衛隊員自らが消火器材を運び、給水車を走らせ、瓦礫を崩しながら火勢を抑えるしかなかった。
ようやく最後の火種が消えた頃には、時計の針は朝を迎えていた。
――12時間
それだけの時間を費やして守れたものは、焼け跡だけだった。
かつて真鶴方面部隊の兵站拠点として機能していた真鶴第一中学校は、もはや拠点として再利用できる状態ではない。弾薬庫として使用していた体育館は屋根を失い、燃料を保管していた施設も焼け落ち、校庭には焼損した車両や物資が黒い影となって転がっていた。
兵站を失った部隊は戦えない。それは歩兵であろうと戦車部隊であろうと変わらない軍事の原則だった。もっとも、完全に補給線が断たれたわけではない。
湯河原町は静岡県境に近く、西側には依然として味方の支配地域が広がっている。新たな補給拠点さえ確保できれば、物資の流入は再開できるはずだった。
問題は、その場所である。
今回の襲撃によって、海岸線に近い地域はもちろん、鉄道路線沿いも安全ではないことが証明されてしまった。敵は鹵獲した車両を利用し、鉄路を高速で移動しながら兵站拠点を精密に攻撃してきたのである。
同じ失敗を繰り返すわけにはいかなかった。
その頃、別方面からも報告が届いていた。
山梨方面では、大月市を巡る戦闘が前日中に終結し、市街地の防衛には成功したという。しかし、その代償は決して小さくなく、各部隊の消耗は深刻だった。方面隊司令部は態勢を立て直すため、久居駐屯地から第33普通科連隊を増援として派遣することを決定している。
援軍が到着するまで、大規模な前進作戦は実施できない。
神奈川方面部隊もまた、新たな兵站拠点を完成させるまで次の段階へ進むことはできなかった。
作戦は確実に遅れていた。
しかし、有朋繁陸将の表情に焦りは見られない。予定が崩れたなら、新しい予定を組み直す。それが指揮官の仕事だった。
臨時司令所となった施設では、各部隊の指揮官が地図を囲み、新たな兵站拠点の候補地を検討していた。
「さて。」
有朋が机上の地図へ視線を落としたまま口を開く。
「新たな兵站拠点について、諸君らの意見を聞きたい。」
司令官として最終判断を下すのは自分である。
だが、現場を歩き、地形を知り、部隊を率いているのはここに集まった各指揮官たちだった。だからこそ、有朋は最初から結論を押し付けようとはしなかった。
「私から条件を付けるつもりはない。自由に意見を出してほしい。」
その言葉を受け、最初に口を開いたのは第35普通科連隊長の片桐 初一等陸佐だった。
「海岸線、河川沿い、そして鉄道路線付近は除外すべきでしょう。敵は我々の兵站を正確に把握していました。同じ条件の場所を選べば、再び狙われます。」
誰も異論はなかった。敵が偶然見つけたのではない。意図的に兵站を狙撃してきたのである。ならば敵が利用できる侵攻経路を避けるのが当然だった。
すると、第1高射特科大隊長の貝塚 猛二等陸佐が地図の一角を指差した。
「候補地としては、ゆずり葉学園高校が考えられます。」
大型モニターへ航空写真が映し出される。
「私立高校だけあって敷地は広く、高台に位置しています。校庭は大型ヘリの離着陸にも十分対応できますし、体育館や校舎も物資集積所として利用できるでしょう。」
有朋は腕を組み、しばらく写真を見つめた。確かに立地条件だけを見れば申し分ない。しかし、そのまま頷くことはできなかった。
「……学校か。」
その一言に、会議室の空気が少しだけ重くなる。片桐が静かに尋ねた。
「何か懸念がおありですか。」
有朋はゆっくり頷いた。
「真鶴第一中学校が焼き払われたばかりだ。同じことが再び起きる可能性を考えると、学校を軍事施設へ転用することには抵抗がある。」
それは軍事的合理性ではなく、1人の人間としての感情だった。未来を担う子どもたちの学び舎を、再び戦場へ変えてしまう。その判断だけは、どうしても躊躇いが残る。
すると、第34普通科連隊長の賀井 双一郎一等陸佐が別の候補地を提示した。
「ならば、湯河原駅北西に位置する的山公園はどうでしょう?」
画面が切り替わる。山腹に整備された公園で、広い駐車場と展望スペースを備えていた。
「線路から十分距離があり、周囲は岩壁に囲まれています。大型車両の展開も可能ですし、必要ならば背後を整地してヘリポートも設営できます。」
貝塚が地図を見比べながら口を挟む。
「近くには新崎川があります。水棲種の接近経路になりませんか?」
「水棲種が脅威となるのは、水辺へ引き込まれる状況です。」
賀井は即座に答えた。
「源流部であれば敵の行動は大きく制限されます。それよりも重要なのは、鉄道路線から完全に射線を切れる点です。今回と同じ手口は通用しません。」
有朋は何枚もの航空写真を見比べながら、小さく息を吐いた。
「敵艦隊の動向も監視しやすいな。」
「はい。近隣団地へ観測班と対空部隊を配置すれば、警戒態勢も維持できます。」
合理性だけを比較するなら、的山公園に軍配が上がる。しかし、有朋はすぐに結論を出そうとはしなかった。
「他に候補地はあるか。」
室内を見回す。誰も口を開かなかった。それだけ今回の条件は厳しいのである。
有朋は静かに頷いた。
「ならば、この2か所を中心に現地偵察を行う。地図だけでは分からないこともある。」
そして全員を見渡し、力強く告げた。
「兵站は軍の生命線だ。一日でも早く再建しなければ、この作戦そのものが止まる。各部隊は直ちに偵察へ移れ。結論は現場を見てから下す。」
「了解!」
会議室に響いた返答は揃っていた。失われた兵站は戻らない。だからこそ、自分たちの手で新たな生命線を築くしかなかった。
――2020年9月24日 10時00分 湯河原町
会議終了後、各部隊はそれぞれ割り当てられた候補地へ向けて出発した。
第35普通科連隊では、1中隊と2中隊が「ゆずり葉学園高校」の調査を担当し、3中隊から5中隊は周辺地域の警戒と地形確認に当たる。
僕たち2中隊は和戸一尉の指揮の下、偵察車両で湯河原町の山側へ向かった。海岸沿いとは違い、山間部は静まり返っている。
車窓から流れていく街並みには人影がなく、道路脇には放置された乗用車や自転車が点在していた。住宅の多くは窓ガラスが割れ、庭木は伸び放題になっている。8年前に住民が姿を消したまま、街だけが時間を忘れてしまったようだった。
それでも、焦げた臭いだけは新しかった。前日の兵站拠点襲撃で立ち上った煙が、まだ風に乗って町全体へ漂っているのである。
「兵站が焼かれたのは昨日なのに、この町全体が昔から廃墟だったように見えるな。」
運転席から江鹿一曹が呟く。誰も返事をしなかった。
8年間という歳月が残した傷跡に、昨日の戦闘がさらに新しい傷を重ねてしまった。その現実を前にすると、軽々しく言葉は出てこない。
やがて車両は坂道を登り、高台へと到着した。
校門には、「私立 ゆずり葉学園高等学校」
と書かれた看板が、色褪せながらも残っている。
「到着した。警戒しながら降車。」
和戸一尉の命令で、僕たちは周囲を警戒しながら校門をくぐった。正門から見える校舎は、思っていた以上に立派だった。
白い外壁は所々剥がれていたものの、建物そのものは健在で、広い校庭も雑草に覆われながら原形を保っている。
「なるほど……確かに拠点としては悪くない。」
江鹿一曹が校庭を見渡しながら頷く。
「大型ヘリも十分降ろせますね。」
杏南も周囲を確認しながら言った。
体育館、武道場、校舎、水道設備も比較的残っている。軍事的に評価すれば、ここは申し分ない立地だった。
しかし、校門をさらに進んだところで、その評価は止まる。校舎の玄関前には、一つの通学鞄が落ちていた。埃を被り、色は褪せている。それでも、不思議なくらい整った形で置かれていた。まるで持ち主が「少しだけ席を外す」つもりだったかのように。
「……。」
僕は思わず立ち止まった。
その先の昇降口には、片方だけ残された上履き。割れたガラスの向こうには、倒れた机。風が吹くたび、掲示物だけが静かに揺れている。ここでは確かに、生徒たちの日常が続いていた。
朝礼があり、授業があり、部活動があり、進路に悩み、友達と笑っていた。その時間が、侵攻の始まった日を最後に止まったのである。駐輪場へ回ると、その現実はさらに重かった。
自転車が何十台も倒れたまま錆び付き、中にはフレームへ黒ずんだ血痕が残るものもある。制服の切れ端が風に揺れ、瓦礫の隙間には白く風化した人骨が散見された。説明を受ける必要はなかった。逃げ遅れた生徒や教職員なのだろう。誰も口を開かなかった。
「……ここを兵站拠点にしたら、次はここが狙われる。」
静寂を破ったのは、自分でも気付かないうちに漏れた僕の声だった。和戸一尉は校舎を見つめたまま、小さく頷く。
「司令が学校を候補地にしたがらなかった理由が分かる。」
その口調は淡々としていたが、どこか寂しげだった。
「ここは本来、人を育てる場所だ。戦うための場所じゃない。」
隣で杏南も校舎を見上げる。
「ここを拠点にしたら、また壊されるかもしれない。」
「公園でも同じだ。」
そう言ったのは渚 恭平陸士長だった。
「家族と遊びに来た思い出の場所が戦場になるのも辛い。でも……。」
彼は駐輪場を見回す。
「これを見ると、公園の方がまだいいと思ってしまう。」
誰も否定できなかった。学校には、その土地で生きた人たちの時間そのものが残っている。
戦争が終われば建て直すことはできても、失われた時間だけは戻らない。
和戸一尉は黒板の残る教室へ目を向ける。
「ここだけは、8年前から時が止まったままだな。」
その一言が、誰の胸にも重く響いた。僕は瓦礫の中に転がる制服の袖を見つめながら口を開く。
「……この遺骨、回収できませんか?」
全員の視線が僕へ集まる。
「ここに置いたままじゃあまりにも……。せめて遺品だけでも、ご家族へ返せたら。」
和戸はしばらく黙っていた。やがて静かに頷く。
「そうだな。」
軍事的には優先順位の低い任務だった。それでも、人としてやるべきことがある。
「中嶋。」
「はい。」
「回収した遺骨と遺品を月白展望台へ運べ。保管班へ引き継ぐ。」
「責任を持って届けます。」
中嶋一等陸士は慎重に箱を抱え、車両へ向かって歩き始めた。校門の外へ姿が消えるまで、誰一人として言葉を発しなかった。
この学校だけではない。首都圏には、こうして誰にも弔われることなく残された場所が、まだ数え切れないほど存在しているのだから。
――2020年9月24日 11時05分 ゆずり葉学園高校
中嶋一等陸士を乗せた車両が校門を出ていくと、校内は再び静寂に包まれた。風が校舎の間を吹き抜け、割れた窓ガラスがかすかな音を立てる。
人気の消えた廊下には、倒れたロッカーや散乱した教科書が残され、黒板には授業の途中で書かれた数式や日付が薄く残っていた。時間が経って文字は掠れているものの、それらは8年前、この場所に確かな日常が存在していたことを物語っている。
侵攻の日、生徒たちは翌日も同じように登校するつもりだったのだろう。教師たちは授業の続きを考え、部活動では大会や文化祭の話をしていたのかもしれない。
しかし、その「明日」は訪れなかった。
8年前に断ち切られた時間だけが、この校舎には今も取り残されていた。
「……静かすぎますね。」
杏南が周囲を警戒しながら呟く。江鹿一曹も同じ違和感を覚えていた。
「鳥の声がしない。」
確かにそうだった。風は吹いている。木々も揺れている。それなのに、鳥が1羽も飛んでいない。長年の経験が、そうした僅かな異変を見逃さない。
「全員、警戒を一段階上げろ。」
和戸一尉の命令で、小隊は自然に間隔を広げた。
校舎の出入口、窓、渡り廊下、屋上。それぞれが担当方向を定め、死角を1つずつ消していく。僕も小銃を構えながら、ゆっくりと昇降口へ視線を向けた。
その時だった。校舎の奥から、瓦礫を踏む乾いた音が響いた。
コツ――。
誰も動かない。音は一度だけでは終わらなかった。
コツ、コツ……。
一定の間隔で近づいてくる。和戸一尉が無線へ短く命じる。
「1中隊、こちら2中隊。校舎内に不審な物音を確認。警戒態勢へ移行。」
『了解。こちらも校舎西側へ展開する。』
返答とほぼ同時だった。渡り廊下の奥で影が動く。
「敵だ!」
叫び声と同時に、複数のグーリエ星人が柱の陰から飛び出した。銃口が一斉にこちらへ向く。
「散開!」
和戸の号令で隊員たちは左右へ飛び込み、廊下の柱や教室の壁を遮蔽物として利用する。次の瞬間、銃声が校舎全体へ響き渡った。
乾いた連射音が廊下へ反響し、残っていた窓ガラスが砕け散る。僕も床へ身を伏せながら照準を合わせた。
「ここを拠点にしていたのか……。」
思わず漏れた言葉へ、江鹿一曹が短く答える。
「まだ分からん。」
引き金へ指を掛けたまま、視線は敵から外さない。
「斥候かもしれんし、警戒部隊かもしれん。だが、敵がいる以上、やることは1つだ。」
隼人はゆっくりと照星を敵兵へ重ねる。目の前にいる相手も、誰かの命令でここへ送り込まれた兵士なのだろう。それでも、僕たちは撃たなければならない。
この学校を守るためではない。これ以上、戦火を広げないために、悲しむ人々を減らすために。引き金へ力を込めた、その瞬間だった。校舎のあちこちから、さらに複数の足音が響く。
敵は一組ではない。校内の各所へ潜伏していたのである。
「接触は局地戦では済まん!」
和戸一尉の声が飛ぶ。
「1中隊と連携する! 2中隊は東棟を確保しろ!」
「了解!」
静まり返っていた学び舎は、再び銃声に包まれた。
8年前、ここで途絶えた時間は戻らない。だが、その止まった時間の上で、また新たな戦いが始まろうとしていた。
登場人物紹介
渚 恭平
生年月日:1993年2月28日 / 出身:青森県
階級:陸士長 / 所属:35普連2中隊
備考:脱サラして自衛官になった。同期と比べて年齢が上なので、よく相談を受けていた。妻子持ち。時間が許す限り、家族とは連絡を取っている。
貝塚 猛……第1高射特科大隊長
有朋 繁……オペレーション・ギデオン(第7次首都圏奪還作戦)の最高司令
中嶋 旭……35普連2中隊の一等陸士
段場 隼人……主人公
苫米地 杏南……隼人の同期で恋人
和戸 一暁……35普連2中隊の中隊長代理
※的山公園の偵察は、34普連の1~5中隊が行っています。




