第46話 幕間
― 自衛隊富士病院 ―
鼻をつく消毒液の匂いで、万代 佑大はゆっくりと目を覚ました。
重たい瞼を開けると、白い天井が視界いっぱいに広がる。頭の奥では鈍い痛みが脈打ち、身体を少し動かしただけで、ずきりと響いた。
「……ここは?」
病院――
それだけは、すぐに分かった。
最後の記憶は、大月市郊外での戦闘だった。敵の銃火を浴び、視界が揺れ、その先は思い出せない。
(……自分、生きてる…)
胸に手を当てると、規則正しい鼓動が掌へ伝わってくる。どうやら天国ではないらしい。だが、自分がどうしてここにいるのか、その経緯だけはまったく分からなかった。
病室の扉が開き、看護官が顔をのぞかせる。
「先生、万代二士が目を覚ましました。」
ほどなくして、1人の女性医官が病室へ入ってきた。
「気分はどう?」
※来佐原 樹里江二等陸佐/医師
白衣姿の女性は穏やかな口調で問い掛けた。
「少し頭が痛みます。」
「吐き気は?」
「ありません。」
「手足の痺れは?」
「大丈夫です。」
医官は静かに頷いた。
「私は木佐原 樹理恵。担当医よ。一応、詳しく検査をするから、立てる?」
「はい。」
万代はゆっくりと起き上がる。身体は重かったが、動けないほどではない。診察室へ向かう途中、万代は思い切って尋ねた。
「あの……自分は、どうやってここへ?」
木佐原は少し考えるように歩みを止めた。
「あなたを運んできたのは、美村三曹と徳島二士だと聞いているわ。」
「2人が……。」
「ただ、私は搬送後しか知らないの。戦場の詳しい状況は分からないわ。」
その先の言葉を、木佐原は飲み込んだ。
本当なら「本人たちに聞きなさい」と続けるところだった。しかし、それが叶う保証など、この戦争にはない。
「……そうですか。」
万代も、それ以上は聞かなかった。
病院内は慌ただしかった。
担架が何度も行き交い、ストレッチャーには血に染まった迷彩服の隊員が次々と運び込まれてくる。
医師や看護官たちは休む間もなく処置を続け、廊下には消毒液と血の匂いが入り混じっていた。戦場は、この病院まで続いているのだ。
検査が終わり、木佐原はカルテを閉じた。
「異常は見当たらないわ。」
万代はほっと息をついた。
「それなら、自分は前線へ戻れますか?」
その言葉に、木佐原は静かに首を横へ振る。
「駄目。」
短く、それだけだった。
「頭痛を訴えている。今は大丈夫でも、後から悪化することもある。」
「ですが……。」
「焦る気持ちは分かる。」
木佐原は万代の目を真っ直ぐ見据えた。
「でも、あなたがもう一度戦うためにも、今は休みなさい。倒れてしまえば、それで終わりよ。」
その言葉には命令だけではない、数え切れない負傷兵を見送ってきた軍医としての重みがあった。
「……はい。」
万代は小さく頷くしかなかった。
(この人は、本気で自分たちを生きて帰そうとしている。)
だからこそ、反論はできなかった。
病室へ戻る途中、万代は廊下の一角で足を止めた。
ベッドに横たわっていたのは、江田 翠仙一等陸士だった。全身に包帯が巻かれ、人工呼吸器の規則正しい音だけが病室に響いている。
「江田一士……。」
思わず声が漏れる。そばにいた看護官が小さく息をついた。
「生きているのが不思議なくらいの重傷です。」
万代は言葉を失った。看護官は江田の顔を見つめたまま、静かに呟く。
「……そんな人ばかりですよ。」
その一言には、この病院へ運び込まれてきた無数の負傷兵への思いが滲んでいた。
自室へ戻った万代は、窓際の時計へ目を向けた。
9月23日、21時35分。
あれから、かなりの時間が経っていた。外はすっかり夜になっている。
戦闘は終わったのだろうか?
廊下を通りかかった隊員へ声を掛ける。
「大月の戦いは……。」
隊員は首を横に振った。
「まだ続いている。」
万代はゆっくりと窓へ近づいた。病院の窓から見える夜空の彼方では、山並みの向こうが赤く明滅している。砲撃の閃光だった。
仲間たちは、今もなお戦い続けている。万代は窓ガラスへ拳をそっと押し当て、小さく目を閉じた。
(……頼む。みんな、生きて帰ってくれ。)
登場人物紹介
万代 佑大……第31普通科連隊1中隊所属の新人
来佐原 樹里江……富士病院勤務の医官
江田 翠仙……第31普通科連隊第1中隊所属の一等陸士




