第202話 同期が守った子ども
―陸上自衛隊 山口駐屯地―
臨時避難所として開放された駐屯地には、九州各地から逃れてきた避難民が集められていた。毛布、簡易ベッド、配給列、泣き声……体育館だった場所は、もう避難民収容所になっている。その片隅で、寛治少年は壁にもたれたまま座っていた。
何も喋らない。配給された食事にも手を付けない。ただ、ぼんやりと床を見ている。
寛治少年を保護した、迷彩服姿の女性が問いかける。彼女は寛治の前へしゃがみ込む。
「食べなさい。」
返事はない。視線すら動かない。周囲の隊員達は、既に諦め始めていた。家族を失った子どもは珍しくない。
泣き叫ぶ者もいれば、取り乱す者もいた。逆に、現実を受け止め切れず、黙り込んだまま動かない避難民もいる。
何も分からないまま侵攻され、大切な者を失った。泣き叫ぶのも無理はない、取り乱すのも無理はない。だが、この少年だけは違った。壊れる寸前なのに泣きもしない。
駐屯地は、既に収容限界へ近付いていた。その片隅で寛治少年は、一言も喋らなかった。
毛布を掛けられても反応しない、ただ、虚空を見続けている。
「……あの子、昨日からずっとああです」(山村 凛子:三等陸曹)
若い女性隊員が、小声で言った。視線の先には、壁際へ座り込む寛治少年。服には、まだ乾き切っていない血が残っていた。
迷彩服姿の女性隊員――小松原 璃子三等陸尉は、小さく息を吐いた。
視線の先には、壁際へ座り込んだまま動かない寛治少年。保護した時の姿と、ほとんど変わっていない。
服には乾き切っていない血がこびり付き、煤で汚れた頬には表情がなかった。年齢に似合わないほど虚ろな目だけが、床の一点を見続けている。
璃子は、その血が誰のものか知っていた。
「……まだ食べないのか」(璃子)
近くにいた隊員が困ったように頷く。
「水は少し飲みました。でも、それだけです」(山村)
「医官は?」(璃子)
「外傷は軽微。ただ、精神的ショックが大き過ぎると……」(山村)
璃子は返事をしなかった。脳裏へ、あの夜の光景が焼き付いている。
燃える住宅街。
崩れた道路。
逃げ惑う避難民。
そして――血塗れの摩千佳。瓦礫の陰で、子どもを庇うように倒れていた同期。あの時、摩千佳は既に事切れていた。
璃子三尉は静かに隣へ腰を下ろした。
「摩千佳の事、好きだったんだな」(璃子)
返事はない。
体育館のざわめきが遠く聞こえる。
泣き声。
怒鳴り声。
救護班の呼び出し。
だが、この場所だけ時間が止まっているようだった。
「……あいつ、昔から無茶する奴だったよ」(璃子)
璃子は、小さく笑おうとして失敗する。
「訓練でも、怪我しても止まらなくてな。教官に何度怒鳴られても聞かなかった」(璃子)
寛治少年は黙ったままだ。それでも璃子は続けた。
「でも、子どもが好きだった」(璃子)
そこで初めて、寛治少年の指先が動く。璃子は、それを見逃さなかった。
「……最後まで、お前を守った」
その瞬間だった。
寛治少年の喉が小さく震える。声にならない呼吸音。璃子は、ゆっくり目を閉じた。
璃子の脳裏へ、あの現場が浮かぶ。
瓦礫の陰、血塗れで倒れていた摩千佳。そのすぐ傍で、震えていた少年。あの位置関係だけで、十分だった。
「……最後まで、お前を逃がそうとしたんだろうな」(璃子)
寛治少年の喉が、小さく震える。声にならない呼吸音。璃子は、ゆっくり息を吐いた。
「……」(璃子)
そして、静かに問いかける。
「お前、私の子どもになるか?」(璃子)
「……は?」(山村)
最初に反応したのは、隣にいた山村だった。
「こ、小松原三尉、何を……」(山村)
「聞こえただろ?」(璃子)
璃子は、寛治少年から視線を外さない。周囲にいた隊員達も、一斉にこちらを見ていた。避難民対応で慌ただしかった空気が、一瞬だけ止まる。
「いや、待ってください。養子って……そんな簡単な話じゃ――」(山村)
「分かってる」(璃子)
即答だった。
「戸籍も手続きも、親族調査もある。こんな状況で簡単に出来る話じゃないのは理解してる」(璃子)
「なら――」(山村)
「でも、この子を放っておけない」(璃子)
山村は言葉を失った。璃子は静かに続ける。
「同期が守ろうとした子だ。あいつが命張って、生かした子だ。」(璃子)
その声に、感情が混じる。普段の璃子を知る隊員達は、黙るしかなかった。彼女は感情を表へ出すタイプではない。だが今だけは違った。
「……小松原三尉」
後方から低い声が飛ぶ。振り返ると、一等陸佐の男が立っていた。避難民対応を統括している駐屯地幹部だった。
「聞こえたぞ」(更科 透仁:第40普連隊長)
「はい」(璃子)
「正気か?」(更科)
「正気です」(璃子)
更科は数秒だけ黙る。体育館の奥では、子どもの泣き声が響いている。担架が運ばれ、医官が怒鳴り、避難民達が毛布へ包まっていた。誰も余裕などない。
「お前はまだ若い。独身だ。今後どうなるかも分からん。自分が何を背負うか、本当に分かってるのか?」(更科)
「承知しています」(璃子)
「おそらく、謎の勢力とは戦争になる。自衛官が子どもを育てる環境じゃない」(更科)
「それでもです」(璃子)
璃子の返答に迷いはなかった。
「……この子、もう“独り”じゃ駄目です」(璃子)
更科は眉を寄せる。璃子は、ゆっくり寛治少年を見る。
「このままだと、この子、自分から死ぬ目をしています」(璃子)
その言葉に、山村が小さく息を呑んだ。
寛治少年は、相変わらず俯いたままだ。だが、その目は完全に光を失っていた。
「私は……摩千佳を助けられなかった」(璃子)
璃子の拳が、僅かに握られる。
「だったら、せめてあいつが守った子だけでも、生かしたい」(璃子)
沈黙が落ちた。更科は長く息を吐く。
「……後悔するぞ」(更科)
「しません」(璃子)
「綺麗事だけじゃ育てられん」(更科)
「覚悟もなく言ってるつもりはありません」(璃子)
即答だった。その声は静かだったが、妙に重かった。更科は、しばらく璃子を見つめる。そして観念したように肩を落とした。
「……正式な手続きは後だ。今は保護扱いにしておけ」(更科)
「ありがとうございます」(璃子)
山村は、まだ困惑していた。
「本当にやるんですか……?」(山村)
「ああ」(璃子)
璃子はそう答え、寛治少年へ向き直る。
「無理に今すぐ返事しなくていい」(璃子)
少年は動かない。璃子は、そっと毛布を掛け直した。
「沢山食べて、寝て、生きろ」(璃子)
その時だった。毛布を握る寛治少年の手が、僅かに震える。そして――。
「……おかあ、さん」
掠れた、小さな声だった。だが璃子は、確かに聞いた。山村が目を見開く。璃子だけは、何も言わなかった。ただ、震える小さな手を、静かに握り返した。
登場人物紹介
小松原 璃子
生年月日:1973年4月25日 / 出身:広島県
階級:三等陸尉(当時) / 所属:第40普通科連隊(当時)
備考:寛治少年を養子縁組する
山村 凛子
生年月日:1974年12月24日 / 出身:山口県
階級:三等陸曹(当時) / 所属:第17普通科連隊(当時)
更科 透仁
生年月日:1950年7月18日 / 出身:宮崎県
階級:一等陸佐(当時) / 所属:第40普通科連隊長(当時)
春日部 寛治




