第184話 不在
―2021年9月某日―
休日、僕は杏南の見舞いに行った。既に退院し、現場に復帰していると聞いた。35普連にはいない。つまり……杏南はGASTへ異動になった。諏訪陸士長もいなかったので、彼もGASTへ移ったのだろう。
本当に遠くへ行ってしまったんだな。
病棟の廊下は、静かだった。人の気配はあるのに、どこか音が吸われているような感覚がある。目的の部屋の前まで来て、足を止めた。ドアのプレートには、既に別の名前が貼られている。
「……遅かったか」
小さく呟いて、そのまま踵を返す。用は済んだはずなのに、すぐには動き出せなかった。
見舞いに来る必要なんて、本当はなかったのかもしれない。杏南はもう回復している。前に進んでいる。それなのに、こうして来たのは――確認したかったからだ。まだ同じ場所にいるのかどうかを…。結論は、分かりきっていた。
外に出る。空気が少しだけ重く感じた。訓練場の方から、号令の声が聞こえる。反射的にそちらへ視線が向いた。
あの声の中に、もう杏南はいない。
以前、並んで走ったことがある。特別なことは何もなかった。ただ、同じペースで、同じ号令で動いていただけだ。それでも、隣に誰かがいるというだけで、妙に楽だったのを覚えている。でも、今は違う。
杏南はGASTにいる。最前線だ。選ばれた側、と言っていいのかもしれない。
「……」
胸の奥に、引っかかるものが残る。悔しい、とは少し違う。寂しさ? 分からない。だが、何も感じていないわけでもない。
歩きながら訓練場へ向かう。休日でも体は動かしておきたかった。何もしない時間の方が、余計なことを考える。グラウンドに出ると、見慣れた顔があった。
「お前、休みだろ?」(小城)
小城が話しかける。既に汗をかいているあたり、先に始めていたらしい。
「動かないと落ち着かない。」(隼人)
「見舞い、行ってたんだろ?」(小城)
どこから聞いたのかは分からないが、否定はしない。
「いなかったよ」(隼人)
「あー……もう出てるか」(小城)
あっさりと返される。その反応が、妙に現実的だった。
「GASTだろ?」(小城)
「多分な」(隼人)
「すげえよな。あそこ」(小城)
悪気はない。ただの事実だ。だからこそ、余計に引っかかる。
「……ああ」(隼人)
「もう山口に入ったのかな?」(小城)
「さあ…」(隼人)
短く返す。何日か前にGASTが出撃していた。あの中に杏南がいたのかは分からない。願わくば、杏南には行って欲しくないが、杏南の力は必要だ。そして、杏南も行く選択をする…そういう奴だ。
「走るか?」(小城)
「ああ」(隼人)
準備をして、コースに出る。スタートの合図もなく、自然と走り出した。ペースは悪くない。呼吸も安定している。脚も動く。数字は出るはずだった。だが、途中でわずかに崩れる。
「……」
一度だけリズムが乱れる。そのズレが、そのまま結果に出る。ゴールして、息を整える。小城は少し先で止まっていた。
「今の、いい感じじゃなかったか?」(小城)
「途中で落ちた」(隼人)
「そうか?」(小城)
本人には分からない程度の差だ。
「安定しない」(隼人)
「もったいねえな」(小城)
軽く言う。本気でそう思っているのだろう。
「……そうだな」(隼人)
視線を外す。同じ場所にいる。そう思っていた。だが、少しずつズレているのかもしれない。杏南は前に進んだ。小城も、次に進もうとしている。
じゃあ、自分はどうだ?
走れる。届く時もある。だが、それが続かない。
「もう一本いくか?」(小城)
「……ああ」(隼人)
答えながら、ふとさっきの廊下を思い出す。空っぽの部屋。貼り替えられた名前。あそこに、もう杏南はいない。最初から分かっていたはずなのに、こうして実感すると、少しだけ重かった。
「行くぞ」(小城)
「おう」(隼人)
スタートラインに立つ。追いつくとか、追い越すとか、そういう話じゃない。ただ――置いていかれているわけにはいかない。合図もなく、もう一度走り出した。足音と呼吸だけが、一定のリズムを刻む。さっき崩れたはずのそれを、今度は崩さないように――ただ、それだけを考えていた。
登場人物紹介
段場 隼人……本編の主人公
小城 聖太……隼人の同期




