第175話 次の戦場
富士病院の廊下は、妙に静かだった。
消毒液の匂いと、規則的な足音だけが残る。ここには、戦場の音がない。銃声も、爆音も、怒号もない。ただ、止まった時間のようなものがあった。受付で名前を告げると、短く案内される。
「この先、右です」
それだけだった。
扉の前で一度だけ足が止まる。ノックはしなかった。そのまま開ける。
「……よ」(隼人)
ベッドの上で、杏南がこちらを見る。上半身は起こしていた。包帯は残っているが、顔色は悪くない。
「無事でよかった」(杏南)
「お互いにね」(隼人)
「私は無事ではないよ。」(杏南)
「そのジョークは笑えない。」(隼人)
椅子を引いて座る。距離は近い。だが、何を話せばいいのかは分からない。
「動けるのか?」(隼人)
「一応。走るのはまだ無理だけど」(杏南)
軽く肩をすくめる。言い方はいつも通りだった。
「戦車に突っ込んだやつの台詞じゃないな」(隼人)
「止めるつもりだったんだけどね」(杏南)
冗談のように言う。実際には、冗談では済まない。少しだけ、沈黙が落ちる。
「そっちは?」(杏南)
「再編だ。35は3中隊まで縮小」(隼人)
「……そっか」(杏南)
短く返す。それ以上は聞かない。知っている範囲で十分だという顔だった。
「有朋陸将が退官、天津種中隊長も……辞めた」(隼人)
「……そっか」(杏南)
今度は、少し間があった。
「要は?」(杏南)
「駐屯地にいるよ。処分待ちだと思う」(隼人)
事実だけを言う。それ以上は足さない。杏南は少しだけ視線を落とし、それから戻す。
「そっか」(杏南)
それだけだった。
「はいはい、辛気臭い! ひとまず、今だけでも明るく行こう!」
そう言って病室に入ってきたのは、坂下ジュリア一等陸士。こいつは、オペレーション・ギデオン(第7次首都圏奪還作戦)以降、杏南を心酔している。
「ノックくらいしろよ。」(隼人)
「隼人もしてなかったじゃん。」(杏南)
杏南の笑顔を久しぶりに見た気がする。
「で、ちゃんと見舞いの品とか持ってきてるの?」(ジュリア)
いきなり現実的な話を振る。
「……忘れた」(隼人)
「最低かよ」(ジュリア)
「来ただけマシだと思ってよ」(隼人)
「いや、普通は果物とかあるでしょ。リンゴとか」(ジュリア)
「それ、誰が剥くんだよ」(隼人)
「そこは彼氏の仕事でしょ?」(ジュリア)
「やったことない。」(隼人)
「不器用すぎでしょ」(ジュリア)
軽口が続く。さっきまでの空気が、少しだけ軽くなる。杏南はそれを見て、小さく笑っていた。
「でもさ、実際どうなの?」(ジュリア)
「復帰できそうなの?」(ジュリア)
視線が杏南に向く。
「大丈夫だって。むしろ、回復が早いって驚いてた。」(杏南)
「それ、どのくらいだよ」(隼人)
「本来なら、まだ寝たきりでもおかしくないって」(杏南)
「……は?」(ジュリア)
「骨も筋肉も、もうほぼ繋がってるって。医者が何回も検査し直してた。数値が合わないって」(杏南)
軽く言うが、内容は軽くない。
「いや、それおかしいだろ」(隼人)
「私もそう思う」(杏南)
あっさり肯定する。
「でも、動くからね」(杏南)
そう言って、ベッドの端に足を下ろす。
「おい、やめろって」(隼人)
「平気平気」(杏南)
そのまま立ち上がる。わずかに揺れるが、すぐに踏み直す。体を庇う動きはない。数歩、歩く。無理をしている動きではなかった。
「……マジかよ」(ジュリア)
「リハビリっていうより、もう戻ってる感じだね」(杏南)
少しだけ笑う。僕は言葉が出なかった。あの戦車の前に立っていた人間と、今ここにいる人間が、同じものだとは思えない。
「……無理はするなよ」(隼人)
「するよ」(杏南)
即答だった。
「間に合わないから」(杏南)
「何にだよ」(隼人)
「次の戦場に」(杏南)
軽く言う。だが、そこに迷いはない。空気が少しだけ変わる。その時――ノックの音がした。今度は、はっきりとした、規則的な音だった。
「失礼する」
入ってきた男の一歩で、空気が切り替わる。病室の静けさとは、別の種類の圧力。制服は見慣れない。だが、ただの部外者ではないと分かる。
視線が揃う。
「苫米地杏南一等陸士。話がある」
「……はい」(杏南)
「他の者は席を外せ」
命令だった。僕は立ち上がる。ジュリアも黙って従う。扉を出る直前、もう一度だけ振り返る。
杏南は、まっすぐ前を見ていた。迷いはなかった。
「(ああ、そうか)」(隼人)
理解する。あいつはもう、次の戦場にいる。
「(……僕は、まだここだ)」(隼人)
扉が閉まる。廊下の静けさが戻る。だが、さっきまでとは違って聞こえた。
登場人物紹介
段場 隼人……本編の主人公
苫米地 杏南……隼人の同期で恋人
坂下 ジュリア……杏南に憧れ、杏南の隣で戦いたいと思っている。




