第169話 代償
夜が明けきる頃、戦線は崩壊した。
立川駐屯地外縁部では、各隊が後退しながらなお火線を維持していたものの、統制はすでに限界に近づいていた。敵は再編を終え、数の優位を生かして防御線を押し潰そうとしている。奪還したはずの駐屯地は、わずかな時間のうちに再び戦場へ戻っていた。
無線から、有朋陸将の声が響く。
『各隊、後退を継続。防御線は放棄する』
簡潔な命令だった。そこには判断の余地がなかった。
「……了解」
長岡一佐の応答を皮切りに、各所から短い応答が続く。誰も異を唱えない。もはや、その必要すらなかった。
「前出すな! 線を維持しろ!」
輪床三曹の声が飛ぶ。
「了解!」
僕は応じながら、敵へ向けて応射を続けた。
その途中、ほんの一瞬だけ視線を横へ流す。少し離れた場所に、白布がかけられていた。形を見れば分かる。確認する必要はなかった。
僕はすぐに視線を戻し、再び引き金を引いた。今は、それ以上のことを考えている余裕がない。
負傷者が次々と後方へ運ばれていく。その合間には、回収された遺体も並べられていた。瓦礫の陰では、青山奈都陸士長が膝をついている。
「……嘘だ」
掠れた声だった。
「こんなの……嘘だって言ってよ……」
白布へ伸ばしかけた手が止まる。それをめくれば、もう後戻りできない。そんなことを分かっているような動きだった。
「奈都……」
隣に立った神梨陸士長の、その声もまた、押し殺されている。
「……分かってる」
神梨陸士長は小さく呟いた。
「分かってるけど……こんなの……」
その先は続かなかった。青山陸士長は首を振る。
「違う……まだ……」
否定の言葉だけが、何度も繰り返される。
僕は、その光景を見ていた。何か言うべきなのかもしれない。そう思うのに、言葉が出てこない。その時、別の声が割り込んだ。
「……和田三佐が、戦死した」
誰が言ったのかは分からなかった。無線から聞こえたのか、それともすぐ近くで誰かが口にしたのか。一瞬、その言葉の意味そのものを理解できなかった。
和田三佐が死ぬ。その前提が、僕の中にはどこにもなかった。
「……は?」
ようやく漏れた声は、それだけだった。
和田三佐は、素晴らしい中隊長だった。普段は別の連隊に所属していたが、共に戦ったからこそ、その凄さをは知った。そのような人物であっても死ぬ。頭では理解できるはずなのに、感覚が追いついてこない。現実だけが、そこに置き去りにされていた。
「負傷者の搬送、急げ!」
怒号が飛ぶ。思考はそこで断ち切られた。
僕は再び動き出す。担架を持ち、負傷者を運ぶ。ただ、それを繰り返した。
その途中で要を見た。声をかけようとして、やめる。何を言えばいいのか分からなかった。それ以上に、今ここで言葉にしてしまえば、何かが決定的なものになってしまうような気がした。
その時だった。青山陸士長の視線が、要へ向いた。空気が一瞬だけ張り詰める。しかし次の瞬間、要が目を逸らした。逃げるように。
青山陸士長は何も言わなかった。ただ、その視線だけが要の背中へ残った。
別の場所から、西泉一佐の指示が飛ぶ。
「回収はここまでだ。これ以上は持たない」
「ですが、まだ――」
「命令だ」
それで終わった。担架へ乗せられる遺体と、その場に残される遺体が分かれていく。誰も声を上げない。戦場では、生きている者が優先される。それが現実だった。
「撤収急げ! 次の線に下がる!」
再び怒号が飛ぶ。
「奈都!」
神梨陸士長が青山陸士長の腕を掴んだ。
「行くよ……ここにいたら、私たちも――」
そこまで言って、言葉を飲み込む。
青山陸士長は立ち上がった。それでも最後まで、視線を外さなかった。やがて部隊は後退を開始する。僕もそれに続いた。
一度だけ振り返りかける。だが、やめた。そのまま前を向いて歩き続ける。
立川駐屯地及び広域防災基地。
奪還したはずの場所は、再びグーリエ星人の占領下に戻っていた。
建物は崩れ、車両は焼け、そこかしこに装備が転がっている。そして、回収されなかった遺体も残されていた。
風が吹く。白布の端が僅かに揺れた。遠くから足音が聞こえてくる。
規則的で、それでいて迷いのない足音だった。グーリエ星人だ。ゆっくりと、この場所を取り戻すために戻ってくる。誰もいない駐屯地に、再び戦争が戻ってきた。
立川は、再び奪われた。それを取り返す者は、もうそこにはいない。ただ、そこで生まれた戦いの代償だけが残され、戦争そのものは次の場所へと移っていった。
登場人物紹介
段場 隼人……本編の主人公
有朋 繁……オペレーション・ミネルヴァの最高司令
長岡 徳人……34普連の連隊長
輪床 圭慎……35普連3中隊所属の三等陸曹
青山 奈都……35普連3中隊の陸士長
神梨 アンジェリカ……奈都の幼馴染
運天 要……隼人の同期
西泉 一平……48普連の連隊長




