第166話 誤差の中の決断
夜明け前の空気は冷えていた。
立川駐屯地を奪還してから、まだ数時間しか経っていない。基地内では、戦闘によって生じた損害の確認と応急的な再編、そして不足した弾薬や物資の補給が進められていた。表面上は少しずつ落ち着きを取り戻しているように見えるものの、それは戦場が静かになったというだけで、状況そのものが安定したわけではなかった。
やがて、東の空がわずかに明るみ始める。その直前だった。
『各隊、警戒を上げろ! 外周に動きあり!』
GASTタイガー班のチェールから、監視報告が飛び込んできた。基地外縁部。瓦礫帯の向こう側で、複数の熱源が確認されている。
「早いな……立て直してきたか」
長岡が呟く。
「いや、おそらく新手……」
空間が答えた。
『熱源、分散しつつ前進。突撃ではありません。線を作っています』
高見から続けて報告が入る。
その動きは、崩壊した部隊が無秩序に押し寄せているものではなかった。複数の熱源が一定の間隔を保ちながら前進し、基地の外周に対して新たな戦線を形成しようとしている。
『48普連、戦闘用意!』
西泉の命令が響いた。
敵は崩れていない。指揮中枢を失ったにもかかわらず、現場単位での戦闘能力は維持されている。組織全体としての統制を失っていても、個々の部隊が戦えるのであれば、立川駐屯地の奪還がそのまま戦闘の終了を意味するわけではなかった。
『前進は抑制。防御線を維持しろ』
有朋から命令が入る。明確な指示だった。だからこそ、誰もがその場に留まった。ただ1人を除いて。
「……行ける」
要は、小さく呟いた。誰に向けた言葉でもない。報告でもなければ、命令を求めるための発言でもない。ただ、自分の中で出した結論を口にしただけだった。
「今叩けば、完全に潰せる」
敵は整っているように見える。だが、それは外見だけだ。
指揮中枢を失った部隊が、これほど短い時間で完全に再編できるはずがない。補給も十分ではないだろう。こちらも弾薬に余裕があるわけではないが、それは敵も同じはずだった。
ならば、今が限界なのではないか。要は通信を無視した。命令は出ていない。だから、周囲の隊員も動かない。ならば、自分が動くしかない。
「4中隊の一部、前に出るぞ!」
正式な命令ではない。要自身の独断だった。その声に、新人隊員の数名が反応する。
「え?」
前島 泉琉二等陸士が戸惑いの声を漏らした。
「命令は……」
その先を言い切れない。命令が出ていないことは、前島にも分かっていた。それでも要は止まらなかった。
その背中に引きずられるように、数名の隊員が続いていく。防御線から、わずかに外れる。それだけならば小さな誤差に見えたかもしれない。だが、戦場において、そのわずかな誤差が部隊全体の配置を変える。
敵側でも、その動きは見逃されていなかった。
「大尉殿! 一部突出している部隊があります!」
ジョロー・キャタロック伍長が報告する。その視線は、突出した一隊を捉えていた。
「ならば、そこから消そう。」
上官である敵軍大尉は、突出した一点を見ながら答えた。
その視線が見ているのは、要たちだけではない。突出した部隊を狙えば、その周囲から援護に動く部隊が出てくる。そこまで含めて敵は見ていた。戦場の形が、わずかに変わった。
同時刻、別方向では、東野 千花二曹の班が防御線の一角を担当していた。
敵との接触が始まっている。状況は不安定だったが、班としての統制は維持されていた。
「接触。敵小隊規模」
千花が報告する。視界の先で敵の動きを確認しながら、落ち着いた声で指示を出した。
「射線、確保。無理に押さない」
班員はその指示に従う。前へ出る必要はない。ここで防御線を維持することが、自分たちの役割だった。だが、その直後だった。
「……あれ、味方か?」
奈都が視界の端を捉えた。想定していた進路とは異なる方向から、味方部隊が前進している。
「あれは――」
アンジェリカが言いかけた瞬間、銃声が重なった。敵の射撃が、突出した部隊へ集中する。遮蔽は十分ではない。前に出た隊員たちは、次々に足を止めていった。
「まずい……孤立してる!」
奈都が叫ぶ。その中に、要がいた。
「止まるな! 押し切れる!」
要は叫びながら前進を続ける。
状況が見えていないわけではない。自分たちが突出していることも、敵の射撃が集中していることも理解している。それでも、退くという選択肢はすでに消えていた。
前に出た以上、ここで引けば崩れる。ならば、押し切るしかない。その動きを見ていた敵側から、短い声が飛んだ。
「突出確認。順に処理。奴は良い撒き餌になる。」
キャタロックの声だった。低く、感情のない声だった。
千花は状況を見ていた。このまま放置すれば、あの一隊は全滅する。そして、それだけでは済まない。
突出した部隊を救うために防御線の別の部隊が動けば、そこにも隙が生まれる。結果として、防御線そのものが崩れる可能性がある。
「……援護します!」
千花は即断した。
「翔夢炉さん、左展開。流さん、右で抑えて」
「了解!」
猪狩と矢作が同時に動いた。
正確な展開だった。しかし、その動きを敵は待っていた。
一瞬だった。猪狩の動きが止まる。胸部に直撃を受け、その身体が大きく揺れた。
「……っ」
そのまま崩れ落ちる。
「猪狩さん!」
奈都の声が飛ぶ。
敵側から、間を置かずに次の声が上がった。
「援護が来たぞ、次を落とせ!」
キャタロックの指示とほぼ同時に、次弾が飛んだ。
矢作の肩口を弾丸が貫通し、身体が大きく傾く。続けて胸部にも直撃を受け、その動きが止まった。
「矢作さん……!」
アンジェリカの声が震える。
射線は、すでに読まれていた。突出した味方を狙い、救援に動いた側を順に落とす。そうすることで、援護しようとする行動そのものを罠に変えている。
千花は、倒れた2人へ一瞬だけ視線を落とした。
「……」
だが、それだけだった。すぐに顔を上げる。
「前に出ます。ここで止めます。」
班長としての判断だった。
「奈都、後方で火線維持。アンジェは、私に続いて」
「了解!」
「了解!」
奈都とアンジェリカが応じる。だが、2人の胸中には別の思いがあった。
(でも、これは危険……)
奈都は前方を見ながら、そう考えていた。
(無謀だよ……千花さん……)
アンジェリカもまた、千花の背中を追う。
本来であれば、千花が取るべき選択ではない。それでも、前に出なければ崩れる。
千花は前進した。その動きを見た敵側から、別の兵士が声を上げる。
「伍長殿、獲物が釣れました。」
キャタロックが応じる。
「よし、確実に仕留めるぞ。」
「くそ……」
離れた場所から戦況を見ていた僕は、思わず歯を食いしばった。
状況は見えている。だが、距離がある。介入するには遠すぎる。それに、今の自分にも任務がある。
「段場! 俺を援護しろ!」
輪床三曹から声が飛ぶ。
「了解!」
即座に応じた。僕には僕の任務がある。
分かっている。分かっているからこそ、視線だけが何度も別方向へ向いてしまう。
さっきまで言葉を交わしていた3人の姿が、遠くの戦場にある。
(東野二曹、青山士長、神梨士長……どうか死なないで……)
そう願いながらも、隼人は輪床の援護へ銃口を戻した。
その間にも、要は前進を続けていた。
「行ける……行ける……!」
声に力が入っている。だが、その視野は少しずつ狭くなっていた。
見えているのは、自分の動きと、その先にいる敵の一部だけだった。後方で何が起きているのか。誰が援護に入り、誰が倒れたのか。そのすべてが、要の視界から外れている。
『止まれ、運天!』
和戸から通信が入った。
明確な命令だった。しかし、要は応じない。
「今、止まったら――」
その瞬間だった。乾いた1発の銃声が響いた。
千花の身体が、わずかに揺れる。
「……あ」
腹部を貫通した弾丸によって、遅れて血が滲んだ。
「千花さん!」
アンジェリカが叫ぶ。
千花は倒れなかった。ただ、足が止まる。
視線の先には、なお前進を続ける要の背中があった。自分たちを危険に晒していることにも気付かず、ただ敵へ向かって進んでいく背中。
千花は苦痛を押し殺すように息を整え、銃を構え直した。
「……まだ、終わっておりませんわ」
声は途切れていなかった。しかし、その動きには先ほどまでにはなかった僅かな鈍りが生じている。それを見逃すほど、敵は甘くなかった。
敵の射線が、千花とその周囲へ静かに集約されていく。
突出した要を中心として生まれた小さな誤差が、防御線を巻き込みながら広がっていた。
誰か1人の判断が、別の誰かの判断を必要とし、その判断がさらに別の部隊を動かしていく。
戦場は再び、一点へ集まりつつあった。その中心にいるのが誰なのかを、まだ理解していない者が1人だけいた。
登場人物紹介
段場 隼人……本編の主人公
チェール……GASTタイガー班の隊員で、周辺の監視をしていた
有朋 繁……オペレーション・ミネルヴァの最高司令
長岡 徳人……34普連の連隊長
空間 瑠衣……35普連の連隊長
西泉にしいずみ 一平いっぺい……48普連の連隊長
運天 要……隼人の同期で歪んだ英雄志向を持つ
東野 千花……元社長令嬢
青山 奈都……千花の班に所属
神梨 アンジェリカ……千花の班に所属
猪狩 翔夢炉……千花の班に所属。享年26歳
矢作 流……千花の班に所属。享年24歳
前島 泉琉……35普連4中隊の新人
輪床 圭慎……35普連3中隊の三等陸曹。急遽、隼人とバディを組む
ジョロー・キャタロック……陸軍伍長でカンガルー型の獣人族。要の動きに着目している




