第108話 大自然の中で
苫米地杏南です。
今、御在所岳に来ています。今日は、ここでロープ橋訓練、河川を渡る訓練、ヘリからの降下訓練をします。ロープ橋訓練も、駐屯地で行うものとは難易度が違うでしょう。自然を相手にするので、いつも以上に油断の出来ない訓練となっています。
早朝の御在所岳は、まだ肌寒く、深い霧が立ち込めていました。私たちバディは、まず「急流渡河訓練」に挑みます。
教官が指さした河川は、雪解け水で水量を増し、激しい音を立てて流れていました。水温は氷点下に近いほど冷たいだろうと容易に想像できます。滑って落ちれば、一瞬で意識を奪われ、激流に飲み込まれることは確実です。
「レンジャー苫米地、装備チェック。特に命綱の結び方、再確認ね。」(柚梨)
バディの伝川陸士長が、静かに声をかけてきました。伝川陸士長は、常に冷静沈着で、今日も感情を表に出すことが少ないです。その表情筋の動かなさは、ある意味、バディを組む者にとっては安心感を与えます。彼女の存在そのものが、私の緊張感を削ぎ落としてくれるようでした。
「はい、レンジャー伝川、結び目、異常ありません。」(杏南)
私たちは、まず先行する隊員が設置したメインロープ一本だけを頼りに、川幅およそ20メートルを渡ります。メインロープの上に足を置き、サブロープに手をかけてバランスを取る、典型的なロープ橋渡りです。しかし、川面から吹き上げる水しぶきと、轟音のような水流の圧力は、駐屯地の人工的な訓練では決して感じられない恐怖でした。
「先に行って。滑って落ちたら、私が狙撃手として、生き残る道を“確保”する。」(柚梨)
伝川陸士長は、冗談なのか本気なのか分からないような低い声で言いました。もちろん、それは彼女なりの冗談と激励でしょうが、彼女が背後で私を見守っているという事実は、何よりも心強かったのです。
「行きます!」(杏南)
私は意を決して、冷たいメインロープに足をかけました。
一歩、また一歩。
体重をロープにかけるたびに、足の裏にロープの細さが食い込み、身体が激しく揺さぶられます。眼下には、人を飲み込もうとする濁流。寒さで手足の感覚が麻痺し始め、意識が飛びそうになります。
「くっ……!」(杏南)
あと少しというところで、一瞬、足が滑りました。
「慌てない! 体重をロープに預けろ!」(柚梨)
伝川陸士長の低い声が、激流の音を突き破って聞こえてきました。私は必死にサブロープを握りしめ、冷たさで感覚を失いかけていた足の指先に力を込めて、再びバランスを取り直しました。そして、最後の力を振り絞り、対岸の岩場に飛び移った瞬間、安堵とともに全身から力が抜けました。
「よし、成功!」(柚梨)
伝川陸士長も無表情ながら、少しだけ頷いて見せ、慣れた手つきでロープを伝って渡ってきました。彼女の動きは一切の無駄がなく、身軽で、まるで岩場を歩くかのように静かで安定していました。
渡り終えた私は、激しい寒さと恐怖で全身が小刻みに震え、呼吸が乱れるのを感じていました。しかし、伝川士長は違います。彼女は、雪解け水が飛散する環境にもかかわらず、まるで秋の涼風に当たっているかのように表情一つ変えません。
「(39普連は伊達ではない。この寒でも、パフォーマンスを最大限に引き出している。)」(杏南)
私は、彼女の持つ環境適応能力と、狙撃手としての極度の集中力に感服しました。恐怖で体が動かなくなる前に、次の訓練へと気持ちを切り替えなければなりません。
その時、五十鈴教官が声を上げました。
「次は、ロープ橋だ。先ほどの渡河とは難易度が違う。今度は谷を渡る。そして、午後から降下訓練だ。」(五十鈴)
教官が指さすのは、眼下に深い谷が広がる、さらに高い場所でした。設置されたメインロープは、風に揺られ、まるで細い糸のように見えます。
「ロープ橋は、渡河よりはるかに高さがある。強風に耐え、足場と手の感覚だけが頼りだ。この寒さと疲労の中、耐えきれる者だけがレンジャー資格に一歩近づく!」(五十鈴)
五十鈴教官の声が、山々に響き渡ります。私は深呼吸をし、震える身体を抱きしめました。
「レンジャー苫米地。顔を上げろ。あなたのバディは、あなたの背中を“確保”している。」(柚梨)
伝川陸士長は初めて、私の肩にそっと手を置き、低い声で言いました。私は、その手から伝わる確かな体温と、彼女の冷静な意志を感じました。
「(私は、このバディを信じる。このバディとなら、この地獄を渡りきれる。)」(杏南)
五十鈴教官は、ロープ橋を前にして、隊員たちの顔を一人ひとり見渡しました。その顔には、先ほどの渡河訓練で負った泥と、拭いきれない極度の疲労が刻み込まれています。
「いいか!ここから先は、命綱一本を信じるしかない。滑落すれば、そこは深さ百メートルの谷底だ!強風が吹く。踏ん張れなければ、ただの鉄屑だ!レンジャーを志す者、自らの意志で進め!」(五十鈴)
五十鈴教官の低い声が、谷を吹き抜ける風の轟音に掻き消されそうになりながらも、私たちの鼓膜を打ちました。
私たちのバディは、その日のロープ橋訓練で三番目でした。一番手は、諏訪陸士長と美村三曹のバディ。彼らは、流石の動きで、難なく渡り終えていきました。二番手は、輪床三曹、津丸一士、家村陸士長の3人バディです。
「まずは輪床、行け!」(五十鈴)
「レンジャー!」(輪床)
輪床三曹は、疲労の色を隠しきれない顔で、ロープに手をかけました。彼らのバディは、脱落者が出た後に新たに編成され、不安定さも垣間見えますが、今は一糸乱れぬ動きで、谷の中央へと進んでいきます。
「次は津丸!」(五十鈴)
「レンジャー!」(津丸)
津丸一士は、ここ数日、ロープワークや体力面でわずかな遅れが出始めていました。周囲の仲間は、この寒さと自然を相手にする訓練で、彼の精神と肉体が限界に近いことを知っています。
「レンジャー! レンジャー!」(津丸)
これまでは、罵声を浴びせていた助教も、固唾を飲んで見守ります。
「(津丸一士の手が、わずかに震えている。)」(杏南)
ロープを握る指先が白くなり、感覚が鈍っているのが遠目にも分かります。
「(津丸一士、どうか焦らないで。この寒さは、判断力を奪う。)」(杏南)
谷を渡る津丸一士は、激しい風の影響で身体が激しく揺さぶられています。体力の消耗は想像以上でしょう。足元のロープを踏み外さないよう、必死にバランスを取っているのが見えました。
その瞬間でした。津丸一士の動きが、ほんの一拍だけ遅れたのです。
「うわぁっ!」
津丸一士の短い、恐怖に満ちた悲鳴が、風に乗って響きました。
私は反射的に目線を下げました。谷の中央付近、津丸一士が突然、メインロープからバランスを崩したのです。彼はサブロープを掴もうとします。――ですが、掴めませんでした。
「津丸!落ち着け!力を抜け!」(輪床)
「チクショウ、手を離すな!」(家村)
輪床三曹と家村陸士長が、両側から声を荒げます。2人がロープ上で津丸一士を助けようと手を伸ばしますが、ロープ橋の激しい揺れと距離がそれを許しません。
「救護の準備だ!」(五十鈴)
「了解!」
すぐに助教達に救護の準備を命じる五十鈴教官。次の瞬間、私の目に映ったのは、津丸一士の身体が、命綱のロープごと、虚空へと真っ逆さまに落ちていく光景でした。
「うわああああああああ」(津丸)
「あ、あああ……!」(杏南)
その瞬間、音が消え、風も、水も、声も、すべてが遠くへ引き剥がされました。
グシャッという鈍い衝突音が遅れて帰ってきました。何かが壊れた音でした。
「落者! 救助班、急行! 訓練停止! 全員、ロープから離れろ!」(五十鈴)
五十鈴教官の絶叫が、山にこだましました。
輪床三曹と家村陸士長は、ロープ上で動けなくなっていました。彼らの視線は、虚ろに谷底を見つめています。
私たちの顔にも、泥と冷たい水しぶきだけでなく、言いようのない恐怖と、目の前で起こった悲劇に対する絶対的な無力感が焼き付きました。
「……津丸、一士……」(杏南)
私の隣にいた伝川陸士長も、初めて、その無表情な顔に微かな動揺の色を浮かべました。彼女は何も言わず、ただ固く拳を握りしめていました。
「津丸…」(輪床)
「う、うわああああ……」(家村)
バディを組み直してから、まだ呼吸が合っていない。その僅かなズレが、今日のこの環境では致命的になったようです。
津丸一士が即死だったという事実。それは報告です。ですが――それを”現実”として受け入れられた者は、この場に一人もいませんでした。
登場人物紹介
苫米地 杏南……本編のヒロイン
伝川 柚梨……杏南のバディ
津丸 好久……訓練中の事故で死亡。享年20歳
輪床 圭慎……津丸と家村と新たにバディを組む
家村 大樹……津丸と輪床と新たにバディを組む
五十鈴 寛治……GAST所属の教官




