第106話 降りかかる理不尽
「午後は、ロープ橋をする。モンキーとセーラーをやって今日は終わりだ。分かれ。」(五十鈴)
苫米地杏南です。午前の訓練が終わり、束の間の休息に入ります。休息と言っても、のんびり休めるわけではなく、昼食も、味わう余裕などありません。ただ、素早くエネルギー補給をするだけの行為で、そこに面白味などありません。期間中は、バディと共に行動せねばならず、トイレにもついていくため、本当に暇がありません。
――午後の訓練――
「おらぁ、腹から声出せ!」(原崎)
「おい、さっさと進め! いつまでぶら下がってるんだ!」(大綱)
「モンキーってそういう意味じゃないよ!」(宇留浦)
助教の罵声が飛び交う中、私の番になりました。
モンキーロープは、地表から5mの高さに張られた一本のロープを、両腕と脚の力だけで掴み、ぶら下がりながら横に進んでいく障害で、高度な筋持久力と握力を要求されます。
「レンジャー! レンジャー!」(杏南)
私は迷いなく、ロープを渡り切ります。
「流石は苫米地だ。」(諏訪)
「天才と言われるだけあるわ……。」(美村)
卒なくこなす杏南に感嘆の声をあげる諏訪。普段は顔を合わすことのない美村も、杏南の能力の高さに舌を巻く。しかし、助教達の反応は違った。
「あ~あ、苫米地は、何でもそつなくできて、つまらねぇ」(塗)
「その優等生面が気にいらないなぁ!」(塗)
「(……ただの難癖……。)」(万代)
万代が内心で毒づく横で、塗助教は杏南を真っ直ぐに指差した。
「苫米地! テメェはバディがモンキーを終えるまで、この場で腕立てしておけ!」(秋口)
「!?」(杏南)
「レンジャー!」(杏南)
理不尽とも言える命令でしたが、逆らう事は出来ません。私のバディである伝川士長がモンキーを始める中、私は地面に伏せて腕立てを繰り返します。
「1、2、3、4……」(杏南)
モンキーロープの中盤に差し掛かった伝川に向け、助教達の罵声が集中する。
「おいおい、チビ、もたもた進んでんじゃねぇ!」(秋口)
「さっさと進め! 夜通しやるつもりか!」(原崎)
伝川陸士長のスピードは、確かに私の半分以下のペースです。体格の差に加え、度重なる長距離行軍で、特に腕の筋力が悲鳴を上げているのでしょう。ですが、彼女の動きには諦めがない。一瞬たりとも手がロープを離れることはありません。
「苫米地が優秀でも、バディが足引っ張っちゃ世話ねぇな! さっさと終われ、チビ!」(大綱)
伝川陸士長にこれでもかと、罵声を浴びせます。それでも、伝川陸士長なら、そんな罵声に惑わされず、この苦行をクリアできると信じ、私は腕立てを続けます。その時、不意に視界の端で影が差しました。
「塗助教、あれを。」(五十鈴)
「了解。」(塗)
次の瞬間、塗助教は私の背中の上、肩甲骨の間に、重く冷たいものを乗せてきました。35kgの土嚢です。
「え……?」(杏南)
一瞬、背中から腰にかけての筋肉が悲鳴を上げ、膝が地面に触れそうになります。
「続けろ。」(塗)
「レ、レンジャー!」(杏南)
35kgの重さが加わり、腕たてのペースは一気に落ちてしまいました。肺から空気が絞り出されるような苦痛が襲います。その姿を見た助教からの罵声は、さらに激しさを増す。
「誰がペースを落とせって言った! それともテメェは、バディより先に脱落する優等生様か?」(塗)
「ち、違う!私は……!」(杏南)
「言い訳は聞かん! 腕を伸ばせ! 貴様はたかが35kgで、大切なバディを見捨てるのか!」(秋口)
杏南の脳裏に、ロープにしがみつく伝川の、疲労困憊しながらも決して諦めない瞳が焼き付いた。彼女の苦痛が、今、杏南の背中の重みとして圧し掛かっている。
「(……こんなものに…私は屈したりなんかしない!)」(杏南)
息が詰まる。筋肉が震える。目の前が真っ白になる中、杏南は最後の力を振り絞り、再び腕を伸ばし始めた。
「……レンジャー、レンジャー!」(杏南、伝川)
教官達の理不尽な罵声に耐え、私は腕立てを、伝川陸士長は、モンキーを渡り切りました。続く、セーラーも何とかこなし、今日の訓練は終わった。そう思ったその時でした。五十鈴教官が冷徹な声で、5人の名を呼びます。
「世田、船山、斎垣、灰川、徳島。お前らは懸垂10回してから上がれ。」(五十鈴)
呼ばれた五人の顔に、安堵の色が浮かぶ。彼らは今日の訓練で、他の訓練生よりも明らかに遅れをとっていた。特に徳島は、長距離行軍で膝を痛め、ロープ橋では何度も助教に怒鳴られていた。懸垂をこなすことで、この選別に生き残れる――そう思ったのだ。
「返事をせんか!」(大綱)
「レンジャー!」(世田、船山、斎垣、灰川、徳島)
「他の奴は上がりだ、分かれ。」(五十鈴)
「(とにかく早く懸垂しなきゃ…。)」(徳島)
五人は鉄棒の下へ急ぐ。誰もが、これが生き残るための夜間教育だと信じて疑わなかった。
「ああ、気が変わった。」(五十鈴)
五十鈴教官の言葉に、周囲の空気が凍り付く。
「角南、諏訪、苫米地、万代。お前らは懸垂30回に腹筋50回してから上がれ。」(五十鈴)
予想外の重労働の追加に、4人の顔が引きつった。
「レンジャー!」(角南、諏訪、苫米地、万代)
4人が鉄棒に向かうのを見届け、五十鈴は最初の5人、世田たちに向き直った。
「世田、船山、斎垣、灰川、徳島。お前らの懸垂は、10回も20回も関係ない。」(五十鈴)
その言葉の意味を理解する前に、五十鈴教官はさらに残酷な宣告を下す。
「お前らは、今日の訓練を持って脱落だ。回数をこなそうが、こなすまいが、もうレンジャーの資格はない。これが最後の懸垂だ。分かれ。」(五十鈴)
まるで心臓を鷲掴みにされたような衝撃が、5人の間に走った。
「そ、そんな…。」(世田)
「理不尽だ!」(船山)
しかし、抵抗は許されない。助教たちの鋭い視線に晒されながら、彼らは涙をこらえて最後の力を振り絞り、鉄棒を握った。徳島は、痛む膝と限界を超えた腕に力を入れ、懸垂に挑んだ。彼の背中を、懸垂を始めるために隣の鉄棒に来た万代が茫然と見つめる。
「徳島……。」(万代)
オペレーション・ギデオン(第7次首都圏奪還作戦)でも、共に励まし合い、辛い長距離行軍を乗り越えてきた盟友が、この理不尽な「選別」によって、目の前で夢を奪われる。万代の胸に怒りと、どうしようもない無力感が渦巻いた。しかし、万代には今、目の前の試練をこなす義務がある。
「レンジャー!」(万代)
彼は、徳島の魂を乗せるように、規定の回数を上回る勢いで、懸垂を始めた。
脱落を言い渡された5人は、教官から言い渡された懸垂10回の意味を理解できずにいた。激しい訓練での疲労は全身を蝕み、鉄棒にぶら下がるのが精いっぱいのようだった。
「(それに、教官達は、俺達に見向きもしない。)」(斎垣)
教官達の視線の先には、角南朱杏、諏訪明登、万代佑大、苫米地杏南の4人に向けられている。彼らが課された課題は、懸垂30回、腹筋50回。脱落を言い渡された者以上の重労働だが、彼らは既に限界を超えた動きを見せ始めていた。
「あ…。」(世田)
世田が力なく鉄棒から落ちる。教官達は依然として見向きもしない。
「(この懸垂に意味はあるのか? 鉄棒から手を離せば、終わるんじゃないのか?)」(灰川)
灰川の脳裏に、開始前に教官が放った言葉が反響する。10回も20回も関係ない――彼らは、これを「回数はどうでもいい」と都合よく解釈してしまった。
世田が落ちた後、灰川、船山、彼らは意図的に鉄棒から手を離した。それを見た斎垣も続く。
「もう評価は終わってる。だったら、やる意味も終わりだ。上がりだ上がり。居室に戻って荷物まとめようぜ。」(船山)
彼らは懸垂をやり直すことなく、諦めの表情と共に居室へ戻っていく。
「(脱落を言い渡された時、それでも何を掴み取ろうとするか、その最後の瞬間の姿勢は、今後の人生にも左右される。)」(秋口)
船山の投げやりな態度を見た秋口は、内心で冷徹に判断を下す。
「(あんな男でも三曹になれるのか…人員だけでなく、人材も育たない、これは由々しき問題だな。自衛官としての魂の重さが違う。)」(秋口)
一方、万代は隣の鉄棒で懸垂を続けていた。視界の端には、一人だけ必死で鉄棒にしがみつく男がいる――徳島陽平一等陸士
「(……クソッ。なんで彼らは、こんな理不尽な目に遭わなきゃならないんだ…!)」(万代)
万代の胸には、脱落者へ対する理不尽への怒りと、盟友が懸命にもがいている姿を傍観することしかできない無力感が渦巻いていた。彼の体は30回というノルマを順調にこなしているが、心は完全に徳島に囚われていた。
徳島は、オペレーション・ギデオン(第7次首都圏奪還作戦)で見せた小松の超人的な動きに刺激を受け、自らも強くなると決意してレンジャー訓練に挑んだ。しかし、周囲のレベルに圧され、さらに足の怪我もあって満足に動けず、ついに脱落を言い渡された。だが、彼の意志は折れていなかった。
「(何の意味もなく、命令するとは思えない。いや、意味なんてどうでもいい。ここでやめたら、 “俺が終わる”)」(徳島)
懸命にこなそうとする徳島だったが、疲労と怪我の痛みでやっと1回こなすのが実情だった。
「よし、お前等上がっていいぞ!」(五十鈴)
「!?」(徳島)
自身よりも遥かに多い課題を言い渡された同期の万代を含む4人が、信じられないほどの猛スピードで終わらせ、既に鉄棒から離れていた。
「(レベルが違いすぎる……。それでも…!)」(徳島)
徳島は震える腕で最後の力を振り絞ろうとするが、激痛が走り、鉄棒から手が離れる。立ち上がろうとするも、足の怪我がそれを許さない。五十鈴教官が冷徹な目で、地面に膝をつく徳島を見下ろす。
「お前はこれまでのようだな。」(五十鈴)
「(ちょくしょう、ちょくしょう……。なんでだよ、俺は…まだやれるのに…!)」(徳島)
徳島が悔しさで地面を握りしめる。
「(脱落と分かっていても、あいつは懸垂10回をこなそうとした。すぐに諦めた他の4人と違い、あいつは這い上がってくるかもな。我々に必要なのは、あの諦めない魂だ。)」(五十鈴)
五十鈴は徳島に背を向け、去っていく。――この時点で、もう差はついていた。
「徳島……。」(万代)
その頃、上がるよう命じられていた隊員達は、「本当にこのまま上がっていいのか?」という疑問が頭の中をぐるぐると回っていた。
「(あの教官がこのまま上がらせてくれるとは思えない…。)」(西)
「なあ、高村二曹、俺達は本当にこのまま上がっていいのかな?」(美村)
「俺もそう思う。仲間が残って夜間教育を受けているのに、俺達だけ上がっていいというのもおかしい。」(高村)
「まさか俺達が脱落とか?」(津丸好久一等陸士)
ギリギリの基準で何とか喰らいついていた津丸は気が気ではなかった。
「俺達もやれる事はやりませんか?」(西)
「そうだな……。よし、アイツらが戻って来るまで、俺達もここで腕立てをしようぜ!」(高村)
「そうですね、やりましょう!」(立新聡馬三等陸曹)
「よし、俺達は仲間が戻って来るまで、腕立てだ! いくぞ!」(高村)
「レンジャー! レンジャー!」
高村の号令で、腕立てを開始する。「レンジャー! レンジャー!」と威勢のいい掛け声が駐屯地内にこだました。
「(不思議だ。もう身体はボロボロなのに、腕がスムーズに動く。)」(飯田)
「(仲間のための腕立てが、こんなにも苦にならないとは!)」(西)
「(あいつらが戻るまで、絶対に止めない!)」(美村)
仲間への想いが、きついはずの腕を一押しする。彼らはハイになっていた。そんな彼らを止めたのは五十鈴教官だった。
「おい、何をやっている?」(五十鈴)
「上がれと言ったはずだが?」(五十鈴)
「そんなに訓練がしたいなら、夜通しやるか?」(五十鈴)
「え、いや、あの……」(高村)
「見ろ」(五十鈴)
教官は、高村の後ろを指さす。高村が振り返ると、顔が青ざめている赤松と伝川の姿があった。
「赤松と伝川はもう限界だ。乙女心が分かっちゃいねぇ。そんなんじゃモテねぇぞ。休むのも訓練のうちだ。分かれ。」(五十鈴)
そう言い残し、五十鈴は去った。
「(も、モテ…!?)」(立新)
「レ、レンジャー…。」(高村)
「(WACとて乙女…勉強になります…。)」(家村)
「(意識の高い奴が生き残っているのは、不幸中の幸いだ。だが、まだ足りない。)」(五十鈴)
登場人物紹介
立新 聡馬
生年月日:1999年8月2日 / 出身:岡山県
階級:三等陸曹 / 所属:49普連4中隊
備考:バディは飯田源紀
津丸 好久
生年月日:2001年9月3日 / 出身:神奈川
階級:一等陸士 / 所属:33普連1中隊
備考:バディは輪床圭慎
苫米地 杏南……本編の主人公
角南 朱杏……GASTからスカウトされる
諏訪 明登……GASTからスカウトされる
万代 佑大……盟友・徳島の脱落に落胆する
世田 直也……脱落が決まる
灰川 眞霜……脱落が決まる
斎垣 悠満……脱落が決まる
徳島 陽平……万代と同期。怪我で脱落するも、最後まで足掻く
段団 圭河……徳島のバディ
高村 伸作……学生長
美村 丹……万代や徳島の良き兄貴分
赤松 つらら(あかまつ)……万代の先輩
西 友貴……12偵所属
飯田 源紀……35普連2中隊所属
家村 大樹……49普連の重迫撃砲中隊所属
五十鈴 寛治……教官(GAST所属)
秋口 将光……助教(水機団所属)
大綱 収……助教(特戦群所属)
原崎 魁……助教(13普連所属、山岳レンジャー)
塗 渉……助教(第1空挺団所属)
宇留浦 誉……助教(中即連所属)




