第102話 地獄への切符を買った者
――2021年5月2日 午前――
苫米地杏南です、守山駐屯地の訓練等前。見上げるような高さの台座の上に、私たちは立たされています。
「今日はまず、背面降下だ。やり方は教えた通り、直立不動で後ろに倒れろ。下にいる仲間が受け止める……もっとも、貴様らに “仲間” と呼べるほどの絆があればの話だがな。」(五十鈴)
五十鈴教官の冷徹な声が響きます。この訓練は、単なる度胸試しではありません。背後が見えない恐怖を克服し、仲間を絶対的に信頼できなければ、体は強張り、受け止める側も怪我をしてしまいます。
「おい、輪床! 貴様、中隊で喧嘩ばかりしているそうだな。そんな奴を誰が受け止める?」(大綱)
大綱助教が、輪床三曹を指差してせせら笑います。輪床三曹は顔を強張らせながらも、台座の端に立ちました。
「……レンジャー!」(輪床)
意を決して倒れ込む輪床三曹。ずしりと重い衝撃。間一髪で受け止めた彼らの顔には、余裕など微塵もありません。次は私の番です。台座に立つと、足がすくむような高さに胃が浮く感覚がしました。下で見上げるのは、諏訪士長や赤松一士たち。
「(信じるしかない……。私が疑えば、それが仲間に伝わる)」(杏南)
目を閉じ、意識を真っ直ぐに保つ。後ろには、私の命を預かる「仲間」がいる。
「……レンジャー!」(杏南)
重力に身を任せ、虚空へ倒れ込む。風を切り、視界が反転する刹那、十数人の腕が私の背中をしっかりと、しかし無骨に受け止めました
「よし、次! 苫米地、さっさと降りろ。浸っている暇はない!」(原崎)
原崎助教が怒声を飛ばします。助教は、道志山塊や大月での地獄を見てきた歴戦の勇士です。その眼差しには、甘えを許さない鋭い光が宿っていました。
「うう…。(怖ぇよ…。)」(榎本宥吾陸士長)
「おいこら!さっさとしろ! 何をもたもたしてやがる!」(大綱)
榎本陸士長は、台座の上で、小刻みに震えていました。彼は足元を何度も確認しては、恐怖で腰が引けています。無理もありません。高さ数メートルの台座から、後ろ向きに、何も見えない空間へ身を投じる。それは本能が拒絶する行為です。
「……す、すみません! できませんっ!」(榎本)
「何だと? できないだと?」(五十鈴)
五十鈴教官がゆっくりと歩み寄ります。その一歩一歩が、地響きのように重く感じられました。
「貴様のバディは誰だ?」(五十鈴)
「……段団三曹です!」(榎本)
「段団、前に出ろ!」(五十鈴)
呼び出された段団三曹が、不安げな表情で教官の前に立ちました。
「榎本、貴様が"できない"と甘えている間、バディの段団は腕立て伏せだ。貴様が飛ぶまで、段団は止めることは許さん。……小原、腕立て用意! 始め!」(五十鈴)
「レ、レンジャー!」(段団)
段団三曹は即座に腕立てを開始しました。まだ午前中。午後も厳しい訓練が残る中、非情な負荷が追い打ちをかけます。
「1! 2! 3!……」(段団)
「見ろ。貴様の臆病のせいで、バディが削られていくぞ。バディが潰れたら、それは貴様が殺したも同然だ!」(原崎)
原崎助教の怒号が飛びます。
「段団三曹、すみません……。うっ、うう……」(榎本)
「謝る暇があったら飛べ! 小原、速度を上げろ!」(大綱)
段団三曹の腕が震え、滴る汗がアスファルトを濡らしていきます。その様子を台座の上から見下ろす榎本陸士長の顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃでした。
「……レンジャー……!」(榎本)
一度目は小さく、逃げ場を探すような声。
「レンジャーッ!!」(榎本)
2度目は悲鳴でした。
半狂乱のような叫びとともに、榎本陸士長が虚空へと倒れ込みました。直立不動とは程遠い、不格好な落下。それでも、下にいた私たちは、全力で彼を受け止めました。
「……よし、次だ。段団、起きろ。次は貴様の番だ。榎本に受け止めさせてやれ」(五十鈴)
地べたに這いつくばっていた段団三曹が、荒い息をつきながら立ち上がります。その目には、恐怖よりも、バディを飛ばせたという妙な安堵感が浮かんでいました。
「そうだ、気が変わった。降下する間、バディは腕立てをしろ。今日の訓練は楽なものばかりだ。少しは負荷をかけないとな。」(五十鈴)
「なっ!?」
「(今日の訓練が楽!?)」
「(楽な訓練なんてねぇよ…!)」
「次は鈴木だな。バディは白川か。腕立てを開始しろ。」(五十鈴)
「レ、レンジャー!!」(鈴木)
「おい鈴木! 白川の腕が震えてるぞ。バディを殺す気か!」(塗)
塗助教が、台座の端で足を震わせる鈴木一士に追い打ちをかけます。鈴木一士はオペレーション・ギデオンでの負傷から復帰したばかり。再起をかけたこの場所で、鈴木一士は腹を括ります。
「……レンジャーッ!」(鈴木)
絞り出すような叫びと共に鈴木一士が宙を舞い、下で待機していた私たちが彼を抱きとめます。しかし、休む暇などありません。バディが交代し、今度は降下を終えたばかりの鈴木一士が泥まみれで腕立てを開始します。
「(全員が、極限まで削られていく……。これがレンジャーの連帯責任)」(杏南)
結局、午前中の背面降下が終わる頃には、全員の腕は棒のようになり、握力さえ残っていませんでした。
――2021年5月2日 午後――
午後の強い日差しが照りつける中、私たちは駐屯地内の水泳訓練所へと移動しました。しかし、そこにあるのは爽やかなプールではありません。迷彩服に半長靴、さらに鉄帽を被り、模造銃を保持したまま入水する「水中訓練」という名の拷問でした。
「自衛官が死ぬのは戦場だけじゃない。水の中、山の中、至る所に死神はいる。水機団の戦場では、泳げない奴から死んでいく。」(秋口)
「(水機団に言われると、説得力が増すな…。)」(万代)
では、最初は100m水泳だ。これはただ100m泳ぎきればいい。ただし、タイムは3分以内。泳法は問わないが、水面に顔を上げたら即刻失格だ。」(五十鈴)
「では、始めろ!」(大綱)
志願者一同は、号令と同時に一斉に水に飛び込み、水面下で懸命に手足を動かし始めました。水面に波紋しか立たない異様な光景です。水の底から見上げる太陽の光が、遠い別世界のように感じられます。
水泳は決して得意ではありませんが、何とか息を保つことができました。しかし、全員が上がりきった直後、五十鈴教官の冷たい声が響きました。
「貴様は失格だ。」(五十鈴)
「え!?」
失格を告げられた隊員はゴール直前、あまりの苦しさに一瞬、水面から鼻先だけを出して、浅く息を吸ってしまったのです。ほんの一瞬の、誰も気づかないようなミスでした。
「あ!」
「貴様は失格だ。タイムは問題ない。大方うっかりミスってとこだろう。だが、そんな“うっかり”が戦場では致命的なミスとなる。訓練の中断と、命令違反。荷物をまとめてさっさと帰れ、クソ野郎。」(五十鈴)
「う……ッ(そこまで言わなくても…。)」
彼の顔は悔しさで歪んでいました。脱落したのは、体力の問題ではなく、限界状況での一瞬の気の緩み。
「全員済んだようだな。失格は1人だけか。こんなので失格になる奴は、戦場では役には立たん。」(大綱)
「(たった100mで、また一人減った……。)」(杏南)
「次は、10m潜水だ。たった10m潜るだけだ。100m水泳でも失格が出たんだ。お前らなら、潜水が出来なくても驚くことはないが。誰か、また水面に顔を出して帰るか?」(五十鈴)
「帰りません!」(段団)
「(教官は、あえて挑発している……。)」(杏南)
「帰りません! 誰も帰りません!」(段団)
志願者の1人、段団圭河三曹が、教官に向かって声を荒げました。彼の瞳には強い反骨心が宿っていました。
「貴様、返事はレンジャーだけだ! 教官に口答えするな!」(原崎)
「即戦力を求めているのなら、俺は帰らない! 合格して、必ず結果で即戦力になってみせます!」(段団)
原崎助教が段団に詰め寄ろうとするのを、五十鈴教官はピシャリと片手で制しました。五十鈴教官の顔には、感情が見えません。
「口ではなく、結果で示せ。時間はお前たちの命よりも貴重だ。始めるぞ。」(五十鈴)
「レンジャー!」(段団、そして志願者一同)
「(負けてなるか! 絶対、レンジャーになるんだ!)」(段団)
段団三曹の気合が、全員に乗り移ったかのように、10m潜水は全員が無事クリアしました。しかし、水の底から帰還した志願者たちの顔は紅潮し、安堵と限界の入り混じった表情でした。
「お前等、その程度で満足してんじゃねぇぞ!」(秋口)
全員がクリアした後の秋口助教の言葉は、冷や水を浴びせるようでした。実際に満足していたら戦場では命取りです。そして、次の立ち泳ぎが、この水中の課目では最も脱落者が多い種目だと聞きます。私も水泳が得意ではないので、油断せず挑まねばなりません。
「次は立ち泳ぎだ。」(五十鈴)
「ルールは簡単だ。水中で足がつかないこと、手首より上の手の部分は水面からでていること、あごが水面につかないことだ。この条件を満たしたうえで1分間立ち泳ぎが出来れば合格だ。」(五十鈴)
「では、始めろ。」(五十鈴)
「(たった1分。だが、これが最も危険な試練だ。)」(杏南)
水泳が得意ではない私にとって、1分間、水面下に沈まずに身体を支え続けるのは、想像を絶する重労働です。
「始め!」(五十鈴)
一斉に、水中で激しいキックが始まりました。水面には、顎を水につけまいとする志願者たちの顔が並び、その下の水は激しくかき回されています。
「(沈むな、沈むな……!)」(杏南)
私も必死に足を動かします。水中で泥水を掻くようなキック音が、全員の心臓の鼓動のように響きました。既に、開始から数十秒で、キックのペースを保てずに手が水面下に沈みかける者が現れ始めていました……。
「うぐ…。(しまった…顎が…。)」
「ぜぇぜぇ、あぶぶぶ…。」
「しまった、足が……」
なんと、立て続けに3名が失格になってしまいました。
「(はぁ、はぁ……あと半分だ。)」(杏南)
水中で足は着きませんが、水面に顎が当たらないように、そして手首より上を出し続けるのが、猛烈に難しい。顎が水面に近づくたびに、強烈なパニックが襲ってきます。
「沈むな! たった1分だ。この程度で溺れるようなら、溺死しろ!」(大綱)
私は必死に、水中で泥水を掻くようなキックを打ち続けました。全身の筋肉が痙攣寸前で悲鳴を上げています。
「あ…。(もう少しだったのに…。)」(鈴木)
私は何とかクリア出来ましたが、隣で挑戦していた鈴木一士が、残りわずか数秒のところで力尽き、手が完全に水面下に没してしまいました。
「鈴木、失格!」(五十鈴)
彼の顔は、単なる悔しさではなく、やりきれない絶望に歪んでいました。この非情な脱落の連鎖に、背筋が凍ります。
「水中の素養試験を終える。本日脱落者は計5名。 残っているのは、貴様ら全員で21名だ。解散!」(五十鈴)
私たちは、生ける屍のようにプールから上がりました。たった半日の水泳で、既に9人もの志願者が姿を消したのです。
――あれから2週間後――
2週間の素養試験を終え、私達は今日から本格的にレンジャー訓練が始まります。
「申告します! 35普連1中隊、高村伸作二等陸曹以下、20名は、部隊集合教育レンジャーに参加を命ぜられました!」(高村)
「敬礼!」(高村)
さらにあの後、1名が辞退し、初期の志願者から計16名が脱落。生き残った20名が、五十鈴教官の前に立ちました。
「たった20人か…。ゴミのような奴らが、我々の時間を無駄にした。」(五十鈴)
五十鈴教官は、軽蔑の眼差しで私たちを見据えました。
「この程度で脱落する奴が、戦場で役に立つか! お前らは、そんなゴミにならんよう、気合を入れ直せ! いいか、この程度で根を上げる奴など、自衛隊には要らん! たかがレンジャー訓練だ。この約2ヶ月、生き残って国民の盾となれ!」(五十鈴)
「レンジャー!!」
その声は、もう人間のものではなかった。
※登場人物紹介
高村 伸作
生年月日:1995年8月12日 / 出身:愛知県
階級:二等陸曹 / 所属:35普連1中隊
榎本 宥吾
生年月日:2000年2月9日 / 出身:岐阜県
階級:陸士長 / 所属:35普連1中隊
苫米地 杏南……本作のヒロイン
五十鈴 寛治……GAST隊員。教官を務める
秋口 将光……水機団所属の助教
大綱 収……特戦群所属の助教
原崎 魁……山岳レンジャー持ちの助教
宇留浦 誉……中即連所属の助教
塗 渉……第一空挺団所属の助教
鈴木 太陽……立ち泳ぎで脱落




