第104話 地獄への切符を買った者
――2021年5月2日 午前――
苫米地 杏南です。
守山駐屯地の訓練棟前には、朝から異様な緊張感が漂っていました。私たちは訓練棟の前に設置された、見上げるような高さの台座へ一人ずつ上がり、その上で直立不動の姿勢を取らされています。
台座の上から見下ろす地面は、普段よりも遥かに遠く感じました。もちろん、下には仲間たちがいます。私たちが倒れ込んだ瞬間、その身体を受け止めるために腕を組んで待機している。理屈では、それだけのことです。
それでも、背中側に広がる何も見えない空間を意識した瞬間、人間の本能が「倒れるな」と警告してきます。この訓練は、単なる度胸試しではありません。
背後が見えない恐怖を克服し、自分の命を預ける仲間を信頼できるか。受け止める側もまた、飛び込んでくる人間の身体を確実に支えられるか。ほんの僅かな躊躇や恐怖が身体を強張らせれば、倒れる側だけでなく、受け止める側にも怪我を負わせることになります。
その意味では、これは「信頼」を身体で確認する訓練なのだと思います。もっとも、私たちの前に立つ五十鈴教官は、そんな綺麗な言葉で説明するつもりなどないようでした。
「今日はまず、背面降下だ。やり方は教えた通り、直立不動で後ろに倒れろ。下にいる仲間が受け止める……もっとも、貴様らに “仲間” と呼べるほどの絆があればの話だがな。」
五十鈴教官の冷徹な声が、訓練棟前に響き渡ります。その言葉に、志願者たちの間から僅かな緊張が伝わってきました。
五十鈴教官は、私たちが「仲間」という言葉を簡単に口にすることを許さない。ここでは、仲間とは単に同じ場所で訓練を受けている人間のことではないのです。
自分の命を預けられる者。そして、自分の腕だけでその命を支えられる者。そのどちらか一方でも欠ければ、背面降下は成立しません。
「おい、輪床! 貴様、中隊で喧嘩ばかりしているそうだな。そんな奴を誰が受け止める?」
大綱助教が、輪床三曹を指差してせせら笑いました。輪床三曹は一瞬だけ表情を強張らせましたが、すぐに台座の端へ向かいます。
高い。台座の上に立った輪床三曹の身体が、ほんの僅かに揺れました。下では、何人もの志願者が腕を組んで待ち構えています。
輪床三曹は一度だけ息を吸い込むと、覚悟を決めます。
「……レンジャー!」
次の瞬間、身体が後ろへ倒れ込みます。ずしり、と重い衝撃が響きました。
下にいた志願者たちが一斉に身体を支えます。受け止めた側の足が僅かに沈み、何人かが顔を歪めました。それでも、輪床三曹の身体が地面に落ちることはありませんでした。
訓練は続きます。次は私の番です。
台座の上へ上がった瞬間、足元から胃の奥が浮き上がるような感覚がありました。
下から私を見上げているのは、諏訪士長や赤松 つらら一士たちです。ここから先、私には彼らの姿が見えなくなります。
背中を向けて倒れれば、私の視界から彼らは消える。それでも、彼らは私を受け止めてくれる。私は、台座の上で姿勢を正しました。
(信じるしかない……。私が疑えば、それが仲間に伝わる)
疑えば、身体が強張ります。身体が強張れば、受け止める側も予想外の衝撃を受けます。だから、余計なことは考えない。目を閉じ、意識を真っ直ぐに保ちました。背後には、私の命を預かる「仲間」がいる。
「……レンジャー!」
私は重力に身を任せました。身体が虚空へ倒れ込み、風を切ります。視界が反転する刹那、背中に何本もの腕が触れました。
十数人の腕が、私の身体をしっかりと、しかし無骨に受け止めます。衝撃が身体を駆け抜けました。
それでも、私は落ちませんでした。私は仲間に受け止められた。その事実を理解した瞬間、胸の奥に僅かな安堵が生まれます。しかし、そんな余韻に浸っている時間はありませんでした。
「よし、次! 苫米地、さっさと降りろ。浸っている暇はない!」
原崎助教の怒声が飛びます。
私はすぐにその場を離れました。原崎助教は、道志山塊や大月での地獄を見てきた歴戦の勇士です。その眼差しには、訓練生の甘えを一切許さない鋭い光が宿っていました。
次の志願者が台座へ上がります。その人物を見た瞬間、私は思わず息を呑みました。
榎本 宥吾陸士長。彼は台座の上で、小刻みに震えていました。何度も足元を確認し、後ろを振り返ろうとする。しかし、背中側にいる仲間の姿を見ることはできません。
無理もありません。高さ数メートルの台座から、後ろ向きに、何も見えない空間へ身を投じる。それは、人間の本能が拒絶する行為です。
「うう…。(怖ぇよ…。)」
榎本士長の呟きが聞こえました。大綱助教がすぐに怒鳴ります。
「おいこら!さっさとしろ! 何をもたもたしてやがる!」
しかし、榎本士長は動けません。台座の端に立ったまま、身体を硬直させています。
「……す、すみません! できませんっ!」
その言葉を聞いた瞬間、五十鈴教官の表情が変わりました。ゆっくりと、榎本陸士長の前へ歩み寄ります。
「何だと? できないだと?」
その声は大きくありませんでした。だからこそ、余計に怖い。五十鈴教官は、台座の上に立つ榎本陸士長を見上げます。
「貴様のバディは誰だ?」
「……段団三曹です!」
「段団、前に出ろ!」
呼び出された段団三曹が、不安げな表情で教官の前に立ちました。次の瞬間、五十鈴教官は淡々と命じます。
「榎本、貴様が"できない"と甘えている間、バディの段団は腕立て伏せだ。貴様が飛ぶまで、段団は止めることは許さん。……段団、腕立て用意! 始め!」
「レ、レンジャー!」
段団三曹は即座に腕立て伏せの姿勢を取りました。まだ午前中です。午後には、さらに厳しい訓練が待っています。それを承知の上で、段団三曹は腕立て伏せを始めました。
「1! 2! 3!……」
段団三曹の腕が上下します。そのたびに、彼の身体から体力が削り取られていきます。台座の上から、その様子を榎本士長が見下ろしていました。原崎助教が怒鳴ります。
「見ろ。貴様の臆病のせいで、バディが削られていくぞ。バディが潰れたら、それは貴様が殺したも同然だ!」
「段団三曹、すみません……。うっ、うう……」
榎本士長の顔が歪みます。目には涙が浮かび、鼻水まで流れていました。
「謝る暇があったら飛べ! 段団、速度を上げろ!」
「1! 2! 3!……」
段団三曹の腕が震え始めます。滴り落ちた汗が、アスファルトを濡らしていきました。
その光景を見下ろしていた榎本士長の表情から、恐怖が少しずつ変わっていきます。
自分が怖い、自分は飛べない。だが、そのために、自分のバディが削られている。自分がここで飛ばなければ、段団三曹はさらに苦しむことになる。その事実が、榎本陸士長を追い詰めていきました。
「……レンジャー……!」
一度目の声は小さかった。逃げ場を探すような、震えた声です。しかし、次の瞬間。
「レンジャーッ!!」
それは、悲鳴でした。半狂乱のような叫びとともに、榎本士長が虚空へ倒れ込みます。直立不動とは程遠い、不格好な落下でした。それでも、下にいた私たちは全力で彼を受け止めました。
重い、身体が強張っている。それでも、私たちは榎本士長を落としませんでした。
「……よし、次だ。段団、起きろ。次は貴様の番だ。榎本に受け止めさせてやれ」
地面に這いつくばっていた段団三曹が、荒い息をつきながら立ち上がります。その目には、疲労が色濃く浮かんでいました。しかし、恐怖よりも、バディを飛ばせたことへの妙な安堵感が勝っているように見えました。
「そうだ、気が変わった。降下する間、バディは腕立てをしろ。今日の訓練は楽なものばかりだ。少しは負荷をかけないとな。」
「なっ!?」
誰かの声が漏れました。
(今日の訓練が楽!?)
(楽な訓練なんてねぇよ…!)
私も心の中で叫びました。背面降下だけでも、十分に精神を削られています。そこへ腕立て伏せを加える。
一人が恐怖に負ければ、その負荷はバディへ移る。そして、バディが飛べば、今度は立場が逆になる。誰か一人だけが楽をすることはできない。誰か一人だけが苦しむこともできない。全員が互いの負荷を背負わされる。それが、五十鈴教官の考える「連帯」なのだと思いました。
「次は鈴木だな。バディは白川か。腕立てを開始しろ。」
「レ、レンジャー!!」
鈴木一士が台座の上へ進みます。しかし、その足取りは僅かに重く見えました。
彼は、オペレーション・ギデオンで負傷し、ようやく復帰したばかりです。再起をかけて、この場所へ来た。だからこそ、ここで恐怖に負けるわけにはいかない。
鈴木一士が台座の端へ立ちました。下では、白川一士が腕立て伏せを開始しています。
「おい鈴木! 白川の腕が震えてるぞ。バディを殺す気か!」
塗助教の怒声が飛びます。鈴木一士の足が震えました。しかし、その震えは少しずつ止まっていきます。彼は一度だけ目を閉じました。そして、腹を括ります。
「……レンジャーッ!」
鈴木一士の身体が宙を舞いました。下で待機していた私たちが、全力でその身体を抱き止めます。受け止めた瞬間、鈴木一士の身体が私たちの腕へ沈み込みました。しかし、彼が地面に降りた瞬間、今度は立場が逆になります。
バディが交代し、鈴木一士は泥まみれの身体を起こしました。そして、そのまま腕立て伏せを開始します。
「1! 2! 3!……」
私は、その光景を見つめながら、改めてこの訓練の異常さを実感しました。
(全員が、極限まで削られていく……。これがレンジャーの連帯責任)
背面降下は、飛ぶ者だけの訓練ではありません。受け止める者も、腕立てをする者も、全員がこの訓練の当事者です。誰か一人が恐怖に負ければ、別の誰かが苦しむ。誰か一人が怪我をすれば、残った者たちの負担が増える。
自分の弱さが、自分だけの問題ではなくなる。だからこそ、誰もが仲間を飛ばさなければならない。その意味を、私たちは身体で叩き込まれていました。
結局、午前中の背面降下が終わる頃には、全員の腕が棒のようになっていました。握力さえ、ほとんど残っていません。それでも、訓練は終わりません。私たちを待っているのは、午後の水中訓練です。
そして、この時の私たちはまだ知りませんでした。この日、私たちの人数が、さらに減ることになるとは。ましてや、たった一つの「うっかり」が、戦場では致命的な失敗として扱われることになるとは。
レンジャーの地獄は、体力だけを試しているのではありません。恐怖に耐えられるか。疲労の中で命令を守れるか。そして、極限状態でも自分を制御できるか。そのすべてを、容赦なく試しているのです。私たちはまだ、その入り口に立ったばかりでした。
――2021年5月2日 午後――
午前中の背面降下を終えた私たちは、身体のあちこちに残る痛みを引きずりながら、駐屯地内の水泳訓練所へ移動しました。
しかし、そこに待っていたのは、疲れた身体を癒やしてくれる爽やかな水泳訓練などではありません。
戦闘服を着たまま、水中へ入り、泳ぎ、潜り、立ち泳ぎを続けるという、文字通りの「水中訓練」です。
午前中の背面降下で、私たちの腕はすでに限界近くまで削られていました。握力もほとんど残っていません。それでも、ここでは一切の考慮がされません。
訓練場の前に立つ秋口助教が、私たちを見回します。胸元には、水陸機動団の部隊章。その精鋭部隊から派遣された助教の言葉には、嫌でも重みがありました。
「自衛官が死ぬのは戦場だけじゃない。水の中、山の中、至る所に死神はいる。水機団の戦場では、泳げない奴から死んでいく。」
(それを水機団に言われると、説得力が増すな……。)
※万代 佑大一等陸士
水陸機動団は、その名の通り、水際から敵地へ進出する能力を持つ部隊です。水は、彼らにとって単なる訓練場所ではありません。戦場そのものです。そこで泳げないということが、どれほど致命的な意味を持つのか。私には想像することしかできませんでした。
五十鈴教官が、私たちの前へ進み出ます。
「では、最初は100m水泳だ。これはただ100m泳ぎきればいい。ただし、タイムは3分以内。泳法は問わないが、水面に顔を上げたら即刻失格だ。」
その言葉を聞いた瞬間、私たちの間に緊張が走りました。
100メートル――距離だけを考えれば、決して長くはありません。しかし、迷彩服に半長靴、鉄帽を身につけ、模造銃を保持した状態で、水面に顔を出さずに泳ぐ。
しかも、制限時間は3分。普段の水泳とは、まったく別の競技です。
「では、始めろ!」
号令が響きました。私たちは一斉に水へ飛び込みました。水面が大きく揺れます。しかし、次の瞬間には奇妙な静寂が訪れました。水面には、志願者たちが泳ぐことで生じる波紋しかありません。
誰も顔を上げない。誰も声を出さない。水中から見上げた太陽の光が、水面を通して揺らめいていました。まるで、遠い別世界を見ているようです。
私は水中で必死に手足を動かしました。水泳は、決して得意ではありません。それでも、何とか息を保ちながら前へ進みます。
苦しい、身体が重い。それでも、ここで止まるわけにはいきません。何とか泳ぎ切り、私たちは次々と水から上がりました。全員がゴールしたと思った、その直後でした。五十鈴教官の冷たい声が響きます。
「貴様は失格だ。」
「え!?」
失格を告げられた隊員が、驚いた顔を上げました。彼はゴール直前、あまりの苦しさに一瞬だけ水面から鼻先を出し、浅く息を吸ってしまったのです。ほんの一瞬。誰も気づかないような、僅かなミスでした。しかし、五十鈴教官は見逃していませんでした。
「あ!」
「貴様は失格だ。タイムは問題ない。大方うっかりミスってとこだろう。だが、そんな“うっかり”が戦場では致命的なミスとなる。訓練の中断と、命令違反。荷物をまとめてさっさと帰れ、クソ野郎。」
「う……ッ(そこまで言わなくても…。)」
隊員の顔が悔しさで歪みます。体力が足りなかったわけではありません。泳げなかったわけでもない。ただ、一瞬だけ気が緩んだ。それだけでした。
しかし、レンジャーでは、その一瞬が命取りになる。私たちは、目の前でそれを思い知らされました。
「全員済んだようだな。失格は1人だけか。こんなので失格になる奴は、戦場では役には立たん。」
(たった100mで、また1人減った……。)
その言葉が、胸に重くのしかかります。昨日まで一緒にいた人間が、また一人消えていく。そして、私たちには立ち止まって悲しむ時間さえ与えられません。
「次は、10m潜水だ。たった10m潜るだけだ。100m水泳でも失格が出たんだ。お前らなら、潜水が出来なくても驚くことはないが。誰か、また水面に顔を出して帰るか?」
五十鈴教官は、明らかに私たちを挑発しています。その言葉に、段団三曹が反応しました。
「帰りません!」
(教官は、あえて挑発している……。)
五十鈴教官は、段団三曹を見ます。段団三曹は、さらに声を張り上げました。
「帰りません! 誰も帰りません!」
志願者の中でも、段団圭河三曹は特に強い反骨心を持っているようでした。しかし、ここでは気持ちだけでは通用しません。原崎助教が鋭く怒鳴ります。
「貴様、返事はレンジャーだけだ! 教官に口答えするな!」
段団三曹は、それでも引きませんでした。
「即戦力を求めているのなら、俺は帰らない! 合格して、必ず結果で即戦力になってみせます!」
原崎助教が段団三曹へ詰め寄ろうとします。しかし、その前に五十鈴教官が片手を上げました。原崎助教を制止します。五十鈴教官の顔には、感情が見えません。ただ、段団三曹を真っ直ぐに見つめています。
「口ではなく、結果で示せ。時間はお前たちの命よりも貴重だ。始めるぞ。」
「レンジャー!」
段団三曹の声に続き、私たち全員が声を張り上げました。
「レンジャー!」
(負けてなるか! 絶対、レンジャーになるんだ!)
段団三曹の気合が、全員に乗り移ったかのようでした。
10メートル潜水。それは、100メートル水泳とは違う苦しさがありました。水の中へ沈み、視界を奪われ、呼吸を止めたまま前へ進む。自分がどこにいるのか分からなくなる。それでも、誰一人として水面へ顔を出すことはありませんでした。
やがて、全員が水面へ浮上します。10メートル潜水は、全員が無事にクリアしました。しかし、水中から帰還した私たちの顔は、安堵と限界が入り混じっていました。まだ、午後の訓練は終わっていません。
「お前等、その程度で満足してんじゃねぇぞ!」
秋口助教の声が飛びます。その言葉に、私たちは現実へ引き戻されました。まだ終わっていない。ここで満足してはいけない。戦場なら、「できた」だけでは生き残れない。次の瞬間には、もっと厳しい状況が待っているかもしれない。だからこそ、秋口助教は私たちに満足するなと言っているのでしょう。
そして、次の課目が告げられます。
「次は立ち泳ぎだ。」
五十鈴教官の声が響きます。私は、思わず息を呑みました。
立ち泳ぎ。
水中訓練の中でも、特に脱落者が多い種目だと聞いています。水泳が得意ではない私にとって、最も警戒すべき課目でした。
「ルールは簡単だ。水中で足がつかないこと、手首より上の手の部分は水面からでていること、あごが水面につかないことだ。この条件を満たしたうえで1分間立ち泳ぎが出来れば合格だ。」
たった1分。時間だけを考えれば、短い。しかし、この訓練では、その1分が永遠のように長く感じられることになります。
「では、始めろ。」
(たった1分。だが、これが最も危険な試練だ。)
私は水へ入ります。開始の号令が響きました。
「始め!」
一斉に、水中で激しいキックが始まります。
水面には、顎を水につけまいとする志願者たちの顔が並び、その下では無数の足が激しく水を蹴っていました。
水面が絶えず揺れています。私は必死に足を動かしました。
(沈むな、沈むな……!)
腕を使い、足を動かし、身体を水面へ浮かせ続ける。それだけなのに、全身の筋肉が凄まじい勢いで消耗していきます。
開始から数十秒。早くも、キックのペースを維持できなくなる者が現れ始めました。
「うぐ…。(しまった…顎が…。)」
「ぜぇぜぇ、あぶぶぶ…。」
「しまった、足が……」
立て続けに、3名が失格になりました。
(はぁ、はぁ……あと半分だ。)
私は必死に足を動かし続けます。足は水底につけてはいけない。手首より上は水面から出しておかなければならない。そして、顎を水面につけてもいけない。その3つを同時に維持する。それだけのことが、猛烈に難しい。
少しでもキックが弱くなれば身体が沈みます。身体が沈めば、顎が水面へ近づく。顎が水面に触れそうになれば、強烈なパニックが襲ってきます。それでも、私は足を止めませんでした。
「沈むな! たった1分だ。この程度で溺れるようなら、溺死しろ!」
大綱助教の怒声が響きます。私は必死に水を蹴り続けました。全身の筋肉が痙攣寸前まで追い込まれています。腕も、脚も、もう限界でした。それでも、あと少し。あと少しだけ耐えればいい。そう思った、その時でした。
「あ…。(もう少しだったのに…。)」
隣から、鈴木一士の声が聞こえました。私は横目で彼を見ます。彼の手が、水面下へ沈んでいました。残り、あと数秒……それだけでした。しかし、その数秒を耐えられなかった。
「鈴木、失格!」
五十鈴教官の声が響きます。鈴木一士の顔が歪みました。そこに浮かんでいたのは、単なる悔しさではありません。やりきれない絶望。私は、その表情を見て背筋が凍るのを感じました。これが、レンジャーです。
体力があっても駄目。努力しても駄目。あと少しだったとしても、基準を満たせなければ失格。そして、一度失格になれば、そこで終わりです。
「水中の素養試験を終える。本日脱落者は計5名。 残っているのは、貴様ら全員で21名だ。解散!」
私たちは、生ける屍のようにプールから上がりました。
午前中から続いた訓練。そして、午後の水中訓練。その僅か半日だけで、5人の志願者が消えました。昨日までいた仲間が、もういない。それでも、私たちは立ち止まることができません。
レンジャー課程では、誰かが消えるたびに悲しんでいる暇など与えらません。1人がいなくなれば、その分だけ残った者の負担が増える。だから、残った者は前へ進む。そして、また誰かが消える。その繰り返しです。
――それから、2週間後、私たちは、2週間にわたる素養試験を終えました。そして今日から、本格的なレンジャー訓練が始まります。
この2週間の間にも、志願者は減っていきました。初期の志願者から、計16名が脱落。さらに、1名が辞退しました。最初は36名だった志願者は、今では20名しか残っていません。
私たちは、守山駐屯地の訓練場に整列していました。目の前に立っているのは、五十鈴教官です。その前へ、35普連1中隊の高村 伸作二等陸曹が進み出ました。
「申告します! 35普連1中隊、高村 伸作二等陸曹以下、20名は、部隊集合教育レンジャーに参加を命ぜられました!」
「敬礼!」
私たちは一斉に敬礼しました。
20名。たった20名です。最初にいた36名から、16名が消えた。その数字を見れば、私たちがどれだけ削られてきたのかが分かります。しかし、五十鈴教官は私たちを見回すと、冷たい声で言い放ちました。
「たった20人か…。ゴミのような奴らが、我々の時間を無駄にした。」
その言葉に、誰も反応しません。反論する資格など、私たちにはありませんでした。ここに残った20人は、まだ何も成し遂げていない。
素養試験を通過しただけ。本当のレンジャー訓練は、これから始まるのです。五十鈴教官の視線が、私たち一人ひとりを射抜いていきます。
「この程度で脱落する奴が、戦場で役に立つか! お前らは、そんなゴミにならんよう、気合を入れ直せ! いいか、この程度で根を上げる奴など、自衛隊には要らん! たかがレンジャー訓練だ。この約2ヶ月、生き残って国民の盾となれ!」
「レンジャー!!」
私たちは声を張り上げました。20人の声が、訓練場に響き渡ります。その声は、もはや普段の自衛官が発するものとは違っていました。疲労も、恐怖も、痛みも、すべてを抱えたまま、それでも声を出す。ここまで残った20人には、もう後戻りするという選択肢はありません。
私たちは、地獄への切符を買った。しかも、その切符は途中で捨てることが許されない。ここから先に待っているのは、これまでの2週間とは比較にならない訓練です。
身体を壊す者が出るかもしれない。精神的に追い詰められ、辞退する者も出るかもしれない。それでも、私たちは進むしかありません。
国民の盾となるために。そして、自分自身が選んだ道を最後まで歩き切るために。
「レンジャー!!」
その声は、もう人間のものではありませんでした。
登場人物紹介
苫米地 杏南……本作のヒロイン
五十鈴 寛治……GAST隊員。教官を務める
秋口 将光……水機団所属の助教
大綱 収……特戦群所属の助教
原崎 魁……山岳レンジャー持ちの助教
宇留浦 誉……中即連所属の助教
塗 渉……第一空挺団所属の助教
鈴木 太陽……立ち泳ぎで脱落
段団 圭河……49普連1中隊所属
高村 伸作……35普連1中隊所属。学生長




