第103話 地獄への入口
「これで……終わり……なんだ……」
「原隊復帰を命じる」
その言葉を聞いた瞬間から、頭の中が真っ白になっていた。これまで費やしてきた努力も、レンジャーを目指すことを認めてくれた人たちへの恩も、たった一日――いや、わずか半日の試験で、すべて終わってしまった。
体力の基準を満たしていないことは、自分でも痛いほど分かっている。だからこそ、明日は今日よりも食らいつこうと思っていた。今日できなかったことを一つでも多くできるようにして、少しでも他の志願者たちとの距離を縮めようと考えていた。
それなのに、そんな機会すら与えられなかった。結果を出せなかった者は、そこで終わり。どれだけ努力したかなど関係ない。どれだけ強くなりたいと願ったかも関係ない。
ただ一つ、結果だけが人間を残す。
(……誰も、止めなかった)
教官も、助教も、誰一人として僕を引き留めなかった。それが、何よりも苦しかった。
「う、うう……っ……」
教官室を出た廊下で、とうとう堪えきれなくなった。人目も憚らず、その場に突っ伏して泣いた。顔を覆った手のひらに、熱い涙が次々と流れ落ちていく。
この涙だけは、もう2度と流さないと誓ったはずだった。強くなる。誰にも何も言わせないほどの力を手に入れる。そう決めて、ここまで来た。なのに僕は、たった1日で叩き出された。その現実が、胸の奥に重い鉄塊となって沈んでいく。
「段場と言ったな。泣いてる場合はない。速やかに荷物をまとめて戻らなければならない」
背後から、冷静な声が飛んできた。振り返ると、塩川三曹が立っていた。
彼もまた、今日の訓練で負傷し、レンジャー課程から離脱することになった1人だった。足を痛めたにもかかわらず、その表情には悔しさを滲ませながらも、僕のように取り乱す様子はない。塩川三曹は、ただ淡々と現実を受け入れていた。
レンジャー試験では、脱落者が出ても、その事実を残った志願者たちに大々的に伝えることはないらしい。
課程から外された者は、その日のうちに荷物をまとめ、夜のうちに原隊へ戻る。
翌朝、残った志願者たちが集合した時、昨日まで隣にいたはずの仲間がいなくなっていることで、初めてその事実を知ることになる。
それは、脱落者を隠すためというより、訓練を継続する者と、そこから外れた者を速やかに切り離すための措置なのだろう。
誰が脱落したのかを必要以上に話題にさせず、残った者たちには目の前の訓練だけに集中させる。そして、去る者にも、これ以上その場に留まって屈辱を味わわせない。
一人、また一人と仲間が消えていく。
その事実を、残された者たちは翌朝になって初めて思い知らされる。昨日まで確かにそこにいた人間が、朝にはもういない。
レンジャー課程では、それが特別な出来事ではない。残った者は、ただ訓練を続ける。去った者は、二度と振り返らずに原隊へ戻る。それが、この場所の冷酷な現実だった。
僕は涙を拭い、塩川三曹、軸屋陸士長とともに、周囲の様子を窺いながら居室へ戻った。荷物をまとめる手が震えていた。迷彩服を畳み、私物を鞄に詰め込む。その一つ一つの動作が、やけに遅く感じられた。
ほんの僅かな時間なのに、人生で最も長い時間を過ごしているような気がする。そして、これほど恥ずかしい時間もなかった。身体中が痛い。筋肉は悲鳴を上げ、腕も脚もまともに動かない。
それでも、明日になれば原隊へ戻らなければならない。空間一佐に、どんな顔をして会えばいい? 豆小玉三曹には、何と言えばいい?
僕の体力不足を知りながら、それでも一ヶ月間、必死になって訓練をつけてくれた。空間一佐も、僕の志願を認めてくれた。それなのに、僕は一日で帰る。
「レンジャー試験に行ってきます」
そう言って出てきたのに、たった一日で戻ってくるのだ。
「……ああ、明日が怖い……。でも、この屈辱は一生忘れない……」
荷物をまとめ終えた僕は、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。この敗北を忘れたら、また同じことになる。
僕は弱い。だから負けた。ならば、次に同じ場所へ挑む時は、今日とは違う自分でなければならない。今はそんなことを考える余裕すらないほど、心が折れていた。それでも、この屈辱だけは、絶対に忘れない。そう心に刻み込んだ。
――教官室
深夜の教官室には、張り詰めた空気が漂っていた。レンジャー課程の初日を終えた助教たちが集まり、それぞれが手元の資料に目を通している。
その時、扉が開いた。
「遅れて済まない」
入室してきた男を見て、原崎が立ち上がる。
「教官! お疲れ様です!」
五十鈴 寛治三等陸尉。コードネーム、BJ。
GASTピットブル班の班長を務める男であり、今回のレンジャー課程では統括教官として選ばれていた。その男が、ようやくここへ到着した。
「戦線はどうですか?」
大綱が尋ねる。五十鈴は答える前に、テーブルの上に置かれた資料へ目を落とした。
「攻めてくるということはないが、奴等、県境の緩衝地帯に、わざと演習場を造りやがった。完全に挑発のつもりだ」
「演習場なら、拠点としても使えますね。近々攻めてくるのでしょうか……」
塗が尋ねると、五十鈴は資料をめくりながら答えた。
「それは分からんが、緩衝地帯の緊張状態は最高潮だ」
第7次首都圏奪還作戦――オペレーション・ギデオン。
その戦いで失われた自衛官の数はあまりにも多かった。戦力の回復は遅れ、各部隊は慢性的な人員不足に陥っている。県境の哨戒任務、通常の部隊訓練、レンジャー課程、新隊員の教育、北海道の復興作業と警備。さらには、災害救助。
本来ならば別々の部隊、別々の人員が担当すべき任務を、限られた人間で回さなければならない。
九州では、いまだに戦闘が続いている。下関市、伊方町、宇和島市。戦線と呼ばれる地域は、決して一つではない。任務によっては、一人の自衛官が複数の役割を兼任することすら珍しくなくなっていた。
五十鈴も例外ではない。今日まで静岡県と神奈川県の県境における哨戒任務に就き、その任務を終えてから、深夜になってようやくレンジャー課程の統括教官として合流した。
他にも、まだ合流していない助教がいる。彼らもまた、緩衝地帯での哨戒任務を終えた後、こちらへ向かうことになっていた。
それほどまでに、自衛隊は人手を失っている。
それでも戦争は待ってくれない。訓練も待ってくれない。そして、レンジャーを必要とする戦場も、待ってくれない。
「ところで、今年のレンジャー志願者はどうだ? 我々は、即戦力を求めている」
五十鈴が尋ねると、塗が資料を確認しながら答えた。
「角南 朱杏三等陸曹、諏訪 明登陸士長、万代 佑大一等陸士、苫米地 杏南二等陸士の4人は抜けています。特に苫米地は別格ですね。彼女なら、すぐにでも実戦に投入できる」
「他は?」
「そうですね、たいていの志願者は基準に達していますが、先程挙げた4人程ではないですね」
五十鈴は、手元の資料へ視線を落とした。そこには、今回参加した志願者全員の記録が並んでいる。初日の結果だけを見れば、すでに評価は明確に分かれていた。しかし、五十鈴が本当に見たいのは、その数字だけではない。
(この4人が別格なのは知っている。俺が見たいのは、その他の奴らが、極限状態でどう力を発揮するかだ。それは、初日の数字だけで測れるものではない)
レンジャー課程は、体力測定会ではない。極限状態に追い込まれた人間が、どこまで任務を遂行できるのか。肉体が限界を迎えた時、精神はどうなるのか。仲間が倒れた時、任務を継続できるのか。
そして、自分自身が死ぬかもしれない状況で、それでも前へ進めるのか。そこまで見なければ、本当の意味での即戦力とは呼べない。
五十鈴は資料の中から、一人の名前を見つけた。
「この段場って奴は問題外だな。35普連か。空間一佐に苦情を入れておこう。塩川と軸屋は怪我する前の数字は基準を満たしてるんだな。クソが、基準を満たせるなら怪我なんかするんじゃねぇよ……」
その言葉には、明確な苛立ちが滲んでいた。五十鈴にとって、負傷離脱は単なる事故ではない。戦場で負傷することと、訓練で負傷することを同列に考えているわけではない。
しかし、戦場で一人でも多くの隊員を生き残らせるためには、まず自分自身が戦える身体を維持しなければならない。負傷によって戦線から離脱すれば、その瞬間、残された仲間の負担が増える。
五十鈴にとって、それは戦闘放棄に等しい行為だった。
「数字が出せない奴は論外だがな。だが、数字だけで生き残れるとも限らん」
その言葉には、矛盾する2つの感情が込められていた。
一人でも多く、強い人間が欲しい。だが、強い人間であれば誰でもいいわけではない。戦場で最後まで立っていられる人間。仲間を見捨てず、任務を投げ出さず、それでいて自分自身も生き残ることのできる人間。
それこそが、五十鈴の求める「即戦力」だった。だからこそ、数字だけでは判断できない。
そして同時に、数字すら出せない人間に時間を割く余裕もない。人員不足に喘ぐ今の自衛隊に、そんな余裕は残されていなかった。五十鈴は資料から顔を上げる。
「残りの助教は明日の朝合流する。これで全員揃う。お前たち、明日からは私情を挟まず、より一層厳しく行くぞ」
「了解!」
教官室に、助教たちの声が響いた。
その声を聞きながら、五十鈴はもう一度、手元の資料へ視線を落とした。
段場 隼人、初日の記録は、惨憺たるものだった。レンジャー課程に残る資格はない。少なくとも、数字だけを見ればそうなる。
五十鈴は資料を閉じた。
その時点で、彼の頭の中から段場 隼人という名前は消えた。彼にとっては、それだけのことだった。
レンジャー課程とは、そういう場所だ。必要な基準を満たせなければ、消える。怪我をすれば、消える。力がなければ、消える。
五十鈴寛治は、これから始まる2日目の訓練を思い浮かべながら、静かに椅子へ腰を下ろした。
おはようございます。
苫米地杏南です。
今日は、レンジャー養成資格検査の2日目。昨日とは違う空気が、宿舎を包んでいました。
疲労は確実に残っています。身体も重いし、筋肉痛もします。それでも、私は不思議と気持ちが前向きでした。
厳しい訓練を受ければ受けるほど、自分が成長していることを実感できる。だから、今日も気合を入れて頑張ろう。そう思っていました。ですが、朝の集合で、私にとってあまりにもショッキングなニュースが飛び込んできました。
助教が人数を確認する。その人数が、昨日よりも少ない。原崎助教が淡々と名前を読み上げました。その中に、聞き慣れた名前がありました。
(隼人が、脱落……)
一瞬、頭の中が真っ白になります。
3人分の寝具は綺麗に片付けられ、荷物もすべて消えていました。
(隼人……昨日まで、そこにいたのに……)
胸の奥が、締め付けられます。隼人は、ずっと言っていました。
強くなりたい。
誰かを守れるようになりたい。
自分も戦える人間になりたい。
そのために、歯を食いしばって訓練に喰らいついていた。そんな彼が、たった一日で……しかも、夜の間に姿を消してしまった。
このレンジャー課程の壁は、私が想像していた以上に分厚く、非情です。
私は、自分のことのように悲しくなりました。
同時に、背筋が凍るような恐怖も感じました。次に消えるのは、自分かもしれない。
けれど、ここで立ち止まるわけにはいきません。私には、やらなければならないことがある。
まず、このレンジャー課程を通過する。そして、その先にある特戦群の試験を受けるための資格を手に入れる。悲しんでいる時間はありません。私は、顔を上げました。
「総員、傾注!」
大綱助教の張り裂けんばかりの声が響き、全員の視線が前方へ向けられます。そこへ、一人の男がゆっくりと現れました。
「教官の五十鈴寛治三尉だ。昨日まで任務に就いていたため、合流が遅れて申し訳なかった」
私は、その顔を知っていました。
オペレーション・ギデオン――第7次首都圏奪還作戦。
あの戦場で、私たちを助けてくれた男。GASTピットブル班の班長。コードネーム、BJ。
その人物が、今回のレンジャー課程の統括教官を務めます。それだけで、この課程がどれほど過酷なものになるのか、想像がつきました。
陸上自衛隊の中でも精鋭中の精鋭と呼ばれる部隊から、教官と助教が集められています。これまで受けてきた訓練とは、明らかに次元が違う。
五十鈴教官は、私たちを見渡しました。
その視線には、昨日までの助教たちとは違う種類の凄みがあった。
そして、すぐに牙を剥く。
「初日で3人の脱落者が出たと聞いた。うち1人は、間違って遊びにきたようなので、帰ってもらったが、残りの2人は体力の基準を満たしながら、怪我をしてしまう愚かな奴だ」
「……」
誰も口を開きません。五十鈴教官は、さらに続けます。
「銃で撃たれたわけでもねぇのに、訓練で怪我なんぞしやがって……。今は1人でも多くの即戦力が欲しい時期だ。怪我をしない身体作りも自衛官の仕事だ! レンジャー試験程度で怪我をする奴など、戦場ではただのお荷物だ! 足を引っ張る奴、訓練を中断させる奴は、俺がこの場で殺してやる。覚悟しておけ!」
「……」
言っていることが滅茶苦茶です。人命を扱う自衛官が、公の場で「殺す」と公言する。この人、やっぱり、頭のネジが何本か外れています……。
ですが、その殺気立った瞳を見ていると、本当に実行しかねないと思わせる凄みがありました。冗談には聞こえない。少なくとも、私はそう感じました。
「お前等、返事をせんか!」
原崎助教の怒声が飛ぶ。
「レンジャー!」
全員の声が響き渡った。五十鈴教官は周囲を見渡します。
「じゃあ、今日から合流する助教にも挨拶してもらうか」
1人目の男が前へ出ます。
「秋口だ。お前らは、俺の名前を覚える必要はない。俺が覚える頃には、どうせお前らは原隊復帰だ。無駄なことはするな」
秋口 将光陸曹長。
その顔つきは、鬼のようでした。胸元には、水陸機動団の部隊章が見えます。西日本防衛を担う精鋭部隊からも、助教が派遣されています。
次に、別の男が前へ出ました。
「宇留浦二曹です。レンジャー試験は、君たちの予想を遥かに超えて厳しい。体力的にも精神的にも。帰るなら、迷惑がかからない今の内だよ」
宇留浦 誉二等陸曹。
一見すれば、穏やかな物腰ですが、その目には感情がありません。
冷たい――まるで、すでに私たちの何人かが消えることを知っているような目です。
宇留浦助教の所属は、中央即応連隊。
先のオペレーション・ギデオンでは、その中即連の一個中隊が全滅しています。私も、その戦場にました。
中即連の一個中隊を全滅させた、あのグーリエ星人。あれは、間違いなく脅威でした。そして、その戦場を生き残った者たちが、今、私たちを鍛えようとしています。
(ここに残った者だけが、“人間”として扱われる)
そんな言葉が、頭の中に浮かびました。
昨日まで、私は自分の体力に自信がありました。自分は強いと思っていました。
けれど、隼人は消えた。昨日まで隣にいた仲間が、一晩でいなくなりました。それが、この世界の現実です。
ここでは、強い者だけが残る。
弱い者は消える。
そして、私も例外ではありません。
(……行くしかない)
私は、ゆっくりと拳を握り締めました。隼人の分まで、などとは言いません。
そんなことを言えば、隼人が望んでいないことまで背負ってしまう気がします。ただ、私は私の目的を果たす。そのために、ここへ来ました。ならば、最後まで戦うしかない。
五十鈴教官が前へ出ます。助教たちが一斉にこちらを見ました。
2日目、昨日の素養試験が、楽に感じるような地獄が始ります。
そして私は、まだ知りませんでした。ここから先に待っているのは、肉体だけではなく、精神そのものを削り取る訓練だということを。
登場人物紹介
段場 隼人……本編の主人公、レンジャー素養試験に初日で脱落
苫米地 杏南……隼人の同期で恋人
塩川 裕太……隼人同様、初日で脱落する
五十鈴 寛治……GAST「ピットブル班」の班長で、レンジャー試験の教官を務める
大綱 収……特戦群所属で助教の1人
原崎 魁……13普連の山岳レンジャー持ちで助教の1人
塗 渉……第1空挺団所属で助教の1人
秋口 将光……水機団所属の助教
宇留浦 誉……中即連所属の助教
※水機団は、2018年に創設されていますが、当物語での2018年は、九州地方は帝国軍の占領下にあるため、水機団の拠点は相浦駐屯地ではなく、出雲駐屯地としています。




