第101話 地獄への入口
「これで…終わり…なんだ…。」(隼人)
原崎助教から「原隊復帰を命じる」と告げられた瞬間、頭の中が真っ白になった。これまで費やしてきた努力と、レンジャーを認めてくれた人たちへの恩が、たった一日いや、わずか半日で終わってしまったという事実が、重い鉄塊のように胸にのし掛かる。体力の基準が満たないのは、痛いほど分かった。それでも、明日はもっと喰らいつけるよう心に決めていたのに、こんなにも簡単に、問答無用で切り捨てられるとは。
「(……誰も、止めなかった。)」(隼人)
「う、うう……っ…」(隼人)
あまりにも悔しくて、僕は教官室を出た廊下で、人目も憚らず突っ伏して泣いてしまった。顔を覆う手のひらに、熱い涙が伝う。この屈辱的な涙は、もう二度と流さないと誓ったはずなのに。
「段場と言ったな。泣いてる場合はない。速やかに荷物をまとめて戻らなければならない。」(塩川)
怪我で離脱となった塩川三曹は、僕の涙を見ても表情一つ変えず、冷静に指示を出す。
レンジャー試験では、脱落者を知るのは翌朝らしい。つまり、夜のうちに気づかれず居室を去るのが暗黙のルールだ。その方が、脱落者が出たという事実が残りの志願者に与える精神的影響を最小限に抑えられる。僕は、涙を拭い、塩川三曹と軸屋陸士長とタイミングを見計らって居室へ戻った。荷物をまとめる手が震える。この僅かな時間が、人生で最も長く、最も恥ずかしい瞬間に感じられた。
身体中が痛い。それでも、明日は原隊で訓練をする。空間連隊長や、豆小玉三曹に合わす顔がない。レンジャー試験を認めてくれた空間連隊長に申し訳がたたない。特に、僕の体力不足を知りながら、熱心に指導してくれた上官達の顔が脳裏に焼き付いて離れない。
「ああ、明日が怖い…。でも、この屈辱は一生忘れない…。」(隼人)
――教官室では――
緊張感が張り詰める教官室へ、一人の男が入室した。
「遅れて済まない。」(五十鈴)
「教官! お疲れ様です!」(原崎)
入室したのは、五十鈴寛治三等陸尉。コードネーム、「BJ」と呼ばれる、GASTピットブル班の班長だ。彼がレンジャー試験の統括教官を務めることになった。
「戦線はどうですか?」(大綱)
五十鈴は、テーブルに置かれた資料に目を落としながら答える。
「攻めてくるということはないが、奴等、県境の緩衝地帯に、わざと演習場を造りやがった。完全に挑発のつもりだ。」(五十鈴)
「演習場なら、拠点としても使えますね。近々攻めてくるのでしょうか…。」(塗)
「それは分からんが、緩衝地帯の緊張状態は最高潮だ。」(五十鈴)
オペレーション・ギデオン(第7次首都圏奪還作戦)の犠牲で、自衛官の人手不足は極めて深刻だ。県境の哨戒任務、普段の訓練、レンジャー試験、新人の教育、北海道の復興作業と警備、時折起きる災害救助etc…。
特に九州では争いが絶えず、今も下関市や伊方町、宇和島市などは戦場となり続けている 。
任務によっては、複数を兼ねる者も出始めた。BJこと五十鈴寛治も、本日まで静岡県と神奈川県の県境の哨戒任務を兼任し、この深夜にようやく着任したのだ。まだ合流していない助教も、同様に緩衝地帯の哨戒任務後に合流することになっている。
「ところで、今年のレンジャー志願者はどうだ? 我々は、即戦力を求めている。」(五十鈴)
「角南朱杏三等陸曹、諏訪明登陸士長、万代佑大一等陸士、苫米地杏南二等陸士の4人は抜けています。特に苫米地は別格ですね。彼女なら、すぐにでも実戦に投入できる。」(塗)
「他は?」(五十鈴)
「そうですね、たいていの志願者は基準に達していますが、先程挙げた4人程ではないですね。」(塗)
五十鈴は、脱落者を含む全員の記録を凝視し、考えを巡らす。
「(この4人が別格なのは知っている。俺が見たいのは、その他の奴らが、極限状態でどう力を発揮するかだ。それは、初日の数字だけで測れるものではない。)」(五十鈴)
「この段場って奴は問題外だな。35普連か。空間連隊長に苦情を入れておこう。塩川と軸屋は怪我する前の数字は基準を満たしてるんだな。クソが、基準を満たせるなら怪我なんかするんじゃねぇよ…。」(五十鈴)
「数字が出せない奴は論外だがな。だが、数字だけで生き残れるとも限らん。」(五十鈴)
戦場で命を懸ける即戦力が喉から手が出るほど欲しい。力はあるのに怪我で離脱する有様に、五十鈴はその苛立ちを隠しきれない。彼は、負傷離脱は戦闘放棄に等しいと考えている。
「ああ、そうだ。残りの助教は明日の朝合流する。これで全員揃う。お前たち、明日からは私情を挟まず、より一層厳しく行くぞ。」(五十鈴)
「了解!」
――翌朝――
おはようございます。苫米地杏南です。今日は、レンジャー養成資格検査の2日目。新しい教官も合流し、一段とピリピリした空気に変わったのを感じます。多少の疲れはありますが、訓練の厳しさに比例して、自分の成長を感じる喜びも大きいです。
今日も気合を入れて頑張ろうと思っていましたが…。私にとってショッキングなニュースが飛び込んできました。朝の集合時、助教が人数を確認し、原崎助教から淡々と脱落者の名前が告げられたのです。
「(隼人が、脱落……。)」(杏南)
隼人、塩川三曹、軸屋陸士長、彼ら3人の居室のベッドは、綺麗に片付けられ、荷物は全て無くなっていました。
「(隼人……)」(杏南)
「(昨日まで、そこにいたのに……)」(杏南)
隼人は、「強くなりたい」と、歯を食いしばって喰らいついていました。その必死な頑張りが、たった1日で、しかも夜の間に姿を消すという形で終わってしまうなんて…。このレンジャー試験の壁は、想像以上に分厚く、非情です。
私は、自分の事のように悲しくなりました。同時に、背筋が凍るような恐怖も感じています。しかし、ここで立ち止まるわけにはいきません。私には課せられた義務があります。まずは、このレンジャー試験を通り、その先にある特戦群の試験を受けるための要件を満たさねばなりません。私に悲しんでいる時間はない。
「総員、傾注!」(大綱)
大綱助教の張り裂けんばかりの声が響く中、一人の男がゆっくりと現れました。
「教官の五十鈴寛治三尉だ。昨日まで任務に就いていたため、合流が遅れて申し訳なかった。」(五十鈴)
教官は、オペレーション・ギデオン(第7次首都圏奪還作戦)で私達を助けてくれた、GAST「ピットブル班」の班長でした。コードネームはBJ。その彼が教官を務めるということは、このレンジャー試験で求められるハードルの高さ、そして「即戦力」として扱われるという覚悟が求められていることを示唆しています。
その挨拶は、軍人らしく簡潔で、そしてすぐに牙を剥きました。
「初日で3人の脱落者が出たと聞いた。うち1人は、間違って遊びにきたようなので、帰ってもらったが、残りの2人は体力の基準を満たしながら、怪我をしてしまう愚かな奴だ。」(五十鈴)
早速、厳しいお言葉です。特に、怪我で離脱した者への評価は冷酷そのものでした。
「銃で撃たれたわけでもねぇのに、訓練で怪我なんぞしやがって…。今は1人でも多くの即戦力が欲しい時期だ。怪我をしない身体作りも自衛官の仕事だ! レンジャー試験程度で怪我をする奴等、戦場ではただのお荷物だ! 足を引っ張る奴、訓練を中断させる奴は、俺がこの場で殺してやる。覚悟しておけ!」(五十鈴)
「……。」(杏南)
言っていることが滅茶苦茶です。人命を扱う自衛官が、公の場で「殺す」と公言するなんて。この人、やっぱり、頭のネジが何本か外れています…。しかし、その殺気立った瞳は、本当に実行しかねないと思わせる凄みがありました。
「お前等、返事をせんか!」(原崎)
「レンジャー!」
「じゃあ、今日から合流する助教にも挨拶してもらうか。」(五十鈴)
「秋口だ。お前らは、俺の名前を覚える必要はない。俺が覚える頃には、どうせお前らは原隊復帰だ。無駄なことはするな。」(秋口将光陸曹長)
秋口陸曹長は、鬼のような顔つきで、淡々と語ります。胸には水陸機動団の部隊章。西日本防衛の要となっている精鋭部隊からも、助教が派遣されています。
「宇留浦二曹です。レンジャー試験は、君たちの予想を遥かに超えて厳しい。体力的にも精神的にも。帰るなら、迷惑がかからない今の内だよ。」(宇留浦誉二等陸曹)
宇留浦助教は、一見穏やかな物腰ですが、その目は一切の感情を読み取れないほど冷たいものでした。そんな宇留浦助教は、中央即応連隊。こちらも精鋭部隊です。先のオペレーション・ギデオンでは、1個中隊が全滅してしまいました。私は、その現場に居合わせましたが、中即連の1個中隊を全滅させたあのグーリエ星人…かなりの脅威でした。
GAST、特戦群、山岳レンジャー、水機団、中即連。教官達は陸自内でも精鋭中の精鋭が携わる、これまでよりも高いハードルを課している、それは、初めて試験を受ける私でも実感する面子でした。
「(ここに残った者だけが、“人間”として扱われる。)」(杏南)
「(……行くしかない。)」(杏南)
昨日の素養試験が、楽に感じるような地獄の訓練が、これから始まります。
登場人物紹介
秋口 将光
生年月日:1989年4月12日 / 出身:鹿児島県
階級:陸曹長 / 所属:水陸機動団・水陸機動連隊
備考:助教の1人
宇留浦 誉
生年月日:1993年7月10日 / 出身:栃木県
階級:二等陸曹 / 所属:中央即応連隊・中隊本部
備考:助教の1人
段場 隼人……本編の主人公、レンジャー素養試験に初日で脱落
苫米地 杏南……隼人の同期で恋人
塩川 裕太……隼人同様、初日で脱落する
五十鈴 寛治……GAST「ピットブル班」の班長で、レンジャー試験の教官を務める
大綱 収……特戦群所属で助教の1人
原崎 魁……13普連の山岳レンジャー持ちで助教の1人
塗 渉……第1空挺団所属で助教の1人
※水機団は、2018年に創設されていますが、当物語での2018年は、九州地方は帝国軍の占領下にあるため、水機団の拠点は相浦駐屯地ではなく、出雲駐屯地としています。




