第102話 レンジャーの壁
「次! 始め!」
塗 渉二曹(助教)の号令と同時に、次の班が一斉に動き出した。
「1! 2! 3!…」
掛け声が、早朝の営庭に響き渡る。
僕ら一班目の志願者たちは、たった今まで自分たちが立っていた場所から動くこともできず、膝に手をつき、あるいはその場に座り込んで、荒い呼吸を繰り返していた。太腿は焼けるように熱く、ふくらはぎは痙攣しかけている。腕を下ろしているだけなのに、肩から先が自分の身体ではないように重かった。
それでも、休むことは許されない。
公平を期すため、次の班がかがみ跳躍を始めている間、僕らは後ろを向いて待機することになっている。だが、それは僕たちが休息を与えられているという意味ではなかった。自分たちの身体が限界に近づいていることを認めながら、次の班が同じ地獄へ落ちていく音を聞かされ続けるだけだ。
「声が小さくなってるぞ! 死にたいのか!」
原崎 魁一曹(助教)の怒声が飛ぶ。
「貴様ら、ふざけてるのか!」
大綱 収二曹(助教)の怒鳴り声が、それに重なった。
2人の助教が交互に声を張り上げるたび、志願者たちの掛け声が再び大きくなる。だが、それも長くは続かない。疲労は確実に身体を蝕み、最初は揃っていた声が一人、また一人と小さくなっていく。
やがて2班目のかがみ跳躍が終わった。
そのときだった。何気なく隣へ視線を向けた僕は、そこで見覚えのある姿を見つけた。諏訪一士――いや、今は諏訪陸士長だ。
「!?」
思わず目を見開いた。諏訪陸士長は汗こそ流しているものの、呼吸を乱していなかった。まるで、今のかがみ跳躍など大した運動ではなかったとでも言うように、平然と立っている。
そのさらに奥には、角南三曹の姿もあった。彼女も同じだった。息が上がっていない。
僕は自分の胸に手を当てた。心臓が壊れそうなほど激しく脈打っている。肺は空気を求めているのに、吸い込んだ空気が少しも足りない。たった数分前まで、僕は「特級」を取った。豆小玉三曹に認められるために、死ぬ気で鍛えた。それでも、目の前にいる2人との差はあまりにも大きかった。
僕が1ヶ月かけて、ようやく1度だけ届かせた数字。その数字を、この2人は何度でも出せるのではないか。そんな考えが頭をよぎった。
「1班目、前に出ろ! 次は腕立てだ! 始め!」
考える時間すら与えられなかった。
僕らは前へ出る。呼吸が整っていない、脚もまだ震えている。それでも、腕立て伏せの姿勢を取らされた。
「1! 2! 3! 4!…」
号令が始まる。僕も腕を曲げた。だが、身体が沈まない。
肩、胸、腕、全身の筋肉が、もう限界を訴えている。さっきまで下半身を使い続けた直後だというのに、今度は上半身まで酷使される。腕を曲げようとしても、筋肉が命令を拒絶する。
一回一回が、異様に重い。周囲の志願者たちは、僕より速い。僕だけが遅れていく。
「おい、腕立てなんてのはこなすだけ出来るようになる。お前、何でその程度しか出来ない?」
大綱二曹の声が飛んできた。
「……っ!」
返事をする余裕すらない。
「貴様! 腕立ての回数が遅れている! 屈曲不十分だ! そのまま続けやがれ!」
塗二曹の怒声が、すぐ横から突き刺さった。
僕は腕を曲げる、下げる、上げる、それだけの動作が、今は途方もなく遠い。
一回終えるたびに、もう次は無理だと思う。それでも、身体を動かす。動かさなければならない。止まれば、また怒鳴られる。
「おいてめぇ! 女だからって気を抜いてるのか!」
別の場所から、塗二曹の怒声が響いた。女性にも容赦がない。この場では、性別も階級も関係ない。ただ、動けるか、動けないか。それだけだった。
そのとき、聞き覚えのある声がした。
「隼人、頑張れ…。」
杏南だった。僕は顔を上げることすらできなかったが、声だけは分かった。だが、助教がそれを聞き逃すはずもない。
「おいテメェ、人の心配とはいい度胸だ。貴様は3班目だが、腕立て始めろ!」
「レ、レンジャー!」
杏南は即座に返事をした。
僕が腕立てを続けている横で、杏南も腕立てを始める。その動きを見て、僕は一瞬だけ呆然とした。
速い。しかも、正確だった。僕が一回の腕立てに全身の力を絞り出している横で、杏南はまるで一定の機械のように、同じ速度で何度も身体を上下させている。細い腕のどこに、そんな力があるのか。僕には理解できなかった。
「よし、次! 始め!」
次の班へ号令が飛ぶ。諏訪陸士長が動き始めた。角南三曹も続く。2人とも、やはり軽々と腕立てをこなしていく。
杏南は僕ら一班より早く始めている。それなのに、まだ疲労した様子がない。僕だけが、明らかに遅れていた。
「次3班、始めろ!」
原崎一曹の号令が響く。その瞬間、杏南が動きを止めた。
「おい、苫米地! 誰が止めていいと言った? テメェは3班目だろ! そのまま続けやがれ!」
「!?」
杏南の顔に、一瞬だけ戸惑いが浮かんだ。
「レ、レンジャー…。」
「始め!」
「1! 2! 3!…」
杏南は再び腕立てを始めた。僕は、息を切らしながら、その光景を見ていた。
杏南は3班目だ。それなのに、彼女は一班目が腕立てを始めた途中から、すでに運動を開始させられている。休むことも許されない。最初から、休ませるつもりなどない。そういうことなのだ。
(平等も何もない……。これが、レンジャーの、地獄の門……)
僕の身体は、すでに限界を超えていた。それでも、次の号令が響く。
「次は腹筋だ! もたもたするな! 」
「始め!」
「1!2!3!…」
僕たちは仰向けになる。休憩ではない。ただ、次の苦痛を受けるために姿勢を変えただけだ。脳が疲労を認識するより早く、次の動作を命じられる。
これがレンジャー要請資格検査なのだ。一つの種目が終わるたびに休めるのではない。疲労した状態から、次の種目へ移される。そして、その疲労そのものが、次の種目の難易度を引き上げる。
「1! 2! 3!……」
僕も腹筋を始める。腕立て伏せよりは、まだ動けた。腹筋は、これまでの体力検定でも比較的得意な種目だった。陸自の基準を大きく上回る回数をこなしたこともある。だから、ここなら食らいつける。そう思った。
だが、現実は甘くなかった。杏南は、まだ余裕を残している。さっきまで休憩なしで腕立てを続けていたにもかかわらず、その動きは滑らかで、速い。他の志願者たちと比べても明らかに違う。呼吸が乱れていない。いや、違う。
(そういえば、杏南の隣にいた志願者は、杏南の異次元の体力に完全に引いていたなぁ……)
僕自身、腹筋なら負けないと思っていた。だが、それはあくまで普段の訓練での話だった。今は違う。
かがみ跳躍をやった。腕立て伏せをやった。その疲労を抱えたまま、腹筋を続けている。それでも、僕は止まらなかった。最後まで身体を動かし続けた。だが、回数は届かない。周囲との差は埋まらない。
「貴様! ここに遊びに来たのか!」
塗二曹の怒声が飛んできた。顔のすぐ横に、助教の姿がある。疲労しきった僕を見下ろす視線には、一切の同情がなかった。
「腕立ても腹筋も、訓練でこなせば馬鹿でも出来るようになる。貴様は馬鹿以下のウジ虫だな! もう止めて家に帰ったらどうだ?」
何も言い返せなかった。言い返すだけの体力がない。それ以上に、反論する材料がなかった。僕の得意なはずの種目ですら、ここでは何の意味も持たない。普段なら自信を持っていた数字が、疲労という条件を加えられただけで、簡単に崩れ落ちていく。
(得意も、不得意もない。あるのは、今、動けるかどうか。ただそれだけだ……それすら、僕には足りない。)
その後も検査は続いた。腹筋が終われば、土嚢運搬。
土嚢を抱え、運ぶ。身体が重い。脚が動かない。それでも、止まれば怒声が飛ぶ。
続いて300メートル走。
投擲
そして最後に、2000メートルハイポート。
どの種目でも、僕は周囲についていけなかった。
走れば離される。運べば遅れる。投げれば届かない。そしてハイポートでは、完全に限界を超えた。足が止まりそうになる。視界が暗くなる。一瞬、意識が飛びかける。そのたびに助教の怒声が飛んできた。
「走れ!」
「止まるな!」
「貴様、何しに来た!」
その声に引きずられるようにして、僕は足を動かした。
前へ。ただ前へ。そうしなければならない。そう思っているのに、身体がついてこない。ようやく検査が終わった頃には、僕は地面を這うようにしていた。
――レンジャー要請資格検査、1日目終了。
「やっと……終わった……」
その言葉を口にした瞬間、全身から力が抜けそうになった。だが、これで終わりではなかった。僕は、この一日だけで思い知らされた。レンジャーという壁は、僕が想像していたよりもはるかに高い。
いや、壁という言葉では足りない。僕は今、その壁の前に立ったばかりで、登るどころか、手を掛けることすらできていない。脱衣所のベンチに座り込むと、身体中の筋肉が痙攣しているのが分かった。
「うう…身体中が痛い……。もう、何も考えられない…。」
全身が熱を持っている。皮膚が脈打っているように感じる。そこへ、同じ参加者の声がかかった。
「お前、大丈夫かよ…。顔色が悪すぎるぞ。」
「助教にとことん罵られてたもんなぁ…。特に、塗助教は目を付けてたみたいだ。」
2人とも限界まで疲れているはずなのに、僕のことを気遣ってくれている。その言葉が、妙に胸に染みた。だが、その横を諏訪陸士長が通り過ぎる。
「身の程知らずめ。哀れだな。」
相変わらず、僕への当たりはきつい。けれど、今はその言葉に腹を立てる余裕すらなかった。
「いやぁ、お恥ずかしい…。何とか、ついていくだけで精一杯でした。」
それだけ答えて、僕はすぐに洗体と洗髪を済ませた。そして、湯船へ身体を沈める。
「ああ、染みるわぁ…。これがあるから、なんとか生きてる。」
「風呂が数少ない癒しだわ…。今日のハイポートは死んだ…。」
あちこちから、疲れ切った声が聞こえてくる。
風呂と食事。この2つが、レンジャー訓練における数少ない癒しだった。もっとも、ゆっくり休めるわけではない。
風呂は傷んだ身体を最低限整えるため。食事は、飢えた肉体へ燃料を送り込むため。それだけだ。
明日もまた、地獄が待っている。僕はその現実を考えることすらできないまま、ただ湯の中で身体を休ませていた。
だが、その頃――別の場所では、僕の運命がすでに決められようとしていた。
――教官室。
原崎 魁一等陸曹、塗 渉二等陸曹、大綱 収二等陸曹。3人の助教が、今日一日の検査結果を確認していた。
「まだ初日ですが、どうでしょう? 見所のある奴はいましたか?」
塗の問いに、原崎が手元のクリップボードへ目を落とす。
「万代 佑大一等陸士、角南 朱杏三曹、諏訪 明登陸士長、そして、苫米地 杏南二等陸士。特にこの苫米地は別格だ。体力、精神力ともに、現段階で教官級のレベルに達している。」
「苫米地は、空挺団でも即戦力になれるでしょう。間違いなく逸材ですよ。」
塗も頷いた。その評価を聞いた大綱は、鼻で笑う。
「逆に、この段場はダメだな。どの項目も最下位。レンジャー要員になる以前の問題だ。まさか、ハイポートで怪我をして片足を引きずっていた塩川三曹よりも遅いとは驚いたぜ。」
大綱が指摘した塩川 裕太三曹は、ハイポート中に負傷していた。同じく軸屋 昴陸士長も、検査中に負傷している。2人については、本人の意思とは無関係に、ここで検査を続けることができない。
だが、隼人は違った。怪我をしたわけではない。ただ、遅かった。ただ、届かなかった。
「怪我で脱落した塩川と軸屋は仕方ないとして、この段場は、レンジャーに求める体力基準を全く満たしていない。失格だ。この後、原隊復帰を告げよう。」
原崎の言葉に、誰も反論しなかった。
わずか1日。たった1日で、訓練から脱落する者が決まった。
その日の夕食後。
僕は、ようやく身体を横にできると思っていた。だが、夕食を終えた直後、僕の名前が呼ばれた。
「段場二士。」
振り返る。
そこには、塩川三曹と軸屋陸士長もいた。3人とも教官室へ呼び出されたらしい。嫌な予感がした。
(何か嫌な予感がする…。このタイミングで呼び出しなんて、絶対…)
身体の疲労が、一気に冷たいものへ変わっていく。心臓が重く脈打つ。
教官室の扉を開ける。中には、3人の助教がいた。僕たち3人が並んだところで、大綱二曹が口を開いた。
「塩川三曹、軸屋士長、段場二士、貴様らはレンジャー要請資格検査の体力基準を満たしていない。」
言葉が、頭の中へ入ってくる。理解したくない。だが、意味は分かってしまった。
「よって、本日から原隊復帰を命じる。」
僕は何も言えなかった。原隊復帰。たった一日で……
ここまで来るために、一ヶ月間、死ぬ気で鍛えた。豆小玉三曹に認めてもらった。空間一佐からも、条件付きとはいえ許可をもらった。僕は、レンジャーになれると思っていた。
いや、なれると思いたかった。だが、現実は違った。僕は、最初の関門で弾き返された。
「努力は評価しない。大事なのは結果だけだ。」
原崎一曹の言葉が、胸に突き刺さる。
「……了解しました。」
ようやく、それだけを絞り出した。その瞬間、胸の奥で、何かが折れたような気がした。
たった一日、それだけで、僕の挑戦は終わった。
レンジャーの壁は、僕が想像していたよりもはるかに高かった。そして僕は、その壁を越えるどころか、触れることすらできないまま、地面へ叩き落とされたのだった。
登場人物紹介
段場 隼人……本編の主人公。レンジャーの壁に弾き返された
苫米地 杏南……隼人の同期で恋人
諏訪 明登……隼人への当たりがきつい
角南 朱杏……35普連4中隊所属のエース級
助教
原崎 魁……13普連の山岳レンジャー
大綱 収……特戦群所属
塗 渉……第1空挺団第2普通科大隊所属
※当物語では、レンジャー試験の教官・助教は、最精鋭の育成を目的とすべく、陸自内の精鋭部隊から教官・助教を選抜しているという設定です。また、各地域防衛のため、レンジャー試験を行える駐屯地にも限りがあるという設定でもあります。




