第100話 レンジャーの壁
「次! 始め!」(塗)
「1! 2! 3!…」
僕ら1班目が地獄のかがみ跳躍を終え、その場に崩れ落ちる寸前で耐えている間、次の班が跳躍を始めた。体力を消耗した僕らには、その光景が酷薄なコントラストとなって目に焼き付く。この間、公平を期すため、他の班は後ろを向いて待機している。
「声が小さくなってるぞ! 死にたいのか!」(原崎)
「貴様ら、ふざけてるのか!」(大綱収二等陸曹)
助教の激が飛ぶかう中、2班目のかがみ跳躍が終わった。ふと、隣の志願者に視線が行く。諏訪一士改め、諏訪陸士長だった。
「!?」(隼人)
僕は、つい目を見開く。諏訪陸士長は、汗こそかいているものの、息を切らさずに平然としている。その奥にいる角南三曹も同様に、息が上がっていない。既に身体が悲鳴をあげそうな僕とは対照的だ。
「1班目、前に出ろ! 次は腕立てだ! 始め!」(塗)
休む間など、当然与えられない。僕らは息が整わないまま、腕立て伏せの姿勢を取らされる。
「1! 2! 3! 4!…」
助教の号令のもと、腕立てを開始した僕だったが、肩、胸、腕、全身の筋肉がすでに悲鳴を上げている。体は沈まず、腕は曲がらない。明らかに他の隊員より遅く、回数も少ない。
「おい、腕立てなんてのはこなすだけ出来るようになる。お前、何でその程度しか出来ない?」(大綱)
「……っ!」(隼人)
「貴様! 腕立ての回数が遅れている! 屈曲不十分だ! そのまま続けやがれ!」(塗)
厳しい言葉は、疲労で何も答えられない僕の心をさらにすり減らしていく。
「おいてめぇ! 女だからって気を抜いてるのか!」(塗)
女性自衛官へも容赦がない。
「隼人、頑張れ…。」(杏南)
杏南は思わず声を出すが、当然、助教がそれを許すわけもなく。
「おいテメェ、人の心配とはいい度胸だ。貴様は3班目だが、腕立て始めろ!」(原崎)
「レ、レンジャー!」(杏南)
杏南は即座に返事をし、1班目の僕らと同じく腕立てを開始した。そのスピードは、女性とは思えないものだった。僕が息も絶え絶えに回数をこなしている横で、彼女はまるでポンプのように正確かつ高速に腕立てを繰り返していく。その細腕に秘められたパワーに、僕はただ驚くことしかできなかった。
「よし、次! 始め!」(原崎)
諏訪陸士長も、角南三曹も軽々と腕立てをこなしていく。他より早く始めている杏南も、まだまだ疲れる様子もなくこなしていく。
「次3班、始めろ!」(原崎)
「おい、苫米地! 誰が止めていいと言った? テメェは3班目だろ! そのまま続けやがれ!」(原崎)
「!?」(杏南)
「レ、レンジャー…。」(杏南)
「始め!」(塗)
「1! 2! 3!…」
杏南は一瞬、戸惑いの表情を見せる。杏南は3班目だが、1班が腕立てをしている途中から始めている。それを休憩なしで続けろ、ということは、最初から休憩する機会を与えないという、助教の非情な意思表示だった。
「(平等も何もない……。これが、レンジャーの、地獄の門……)」(隼人)
僕の体は、既に限界を超えていた。
「次は腹筋だ! もたもたするな! 」(原崎)
「始め!」(大綱)
「1!2!3!…」
休憩は1秒たりともない。脳が疲労を訴える前に、次なる動作を強制される。これが、地獄を継続させる助教たちの冷酷な戦術である。僕らは仰向けに倒れ込む。もはやこれは休息ではなく、次の苦痛を受け入れる体勢だ。
「1! 2! 3!……」
号令とともに腹筋を開始する。杏南はあの地獄のような腕立てを難なくこなした後も、まだ余裕が残っているようだった。他の志願者と比べると、その動きは滑らかで速い。それはまるで、呼吸が乱れていないのではない。“乱れるという概念が存在していない”ような動きだった。
「(そういえば、杏南の隣にいた志願者は、彼女の異次元の体力に完全に引いていたなぁ……)」(隼人)
腕立てと比べれば、僕は腹筋に自信がある方だった。以前の体力検定では、いつも陸自の基準を大きく上回る回数をこなしてきた。これまでと違い、何とか食らいついていた。最後まで止まらなかった。それでも、回数は届かない。皆と比べれば劣っている。
「貴様! ここに遊びに来たのか!」(塗)
当然、助教からの激が飛ぶ。塗二曹は僕の顔の横に立ち、威圧的な視線を突き刺してくる。
「腕立ても腹筋も、訓練でこなせば馬鹿でも出来るようになる。貴様は馬鹿以下のウジ虫だな! もう止めて家に帰ったらどうだ?」(塗)
僕の得意なはずの種目ですら、レンジャーの疲労下では何の役にも立たない。その事実が、肉体の痛みとは別に、精神をえぐっていく。
「(得意も、不得意もない。あるのは、今、動けるかどうか。ただそれだけだ……それすら、僕には足りない。)」(隼人)
次の班では、諏訪陸士長や角南三曹が軽々と正確な腹筋を続けている。2人は、僕が過去に積み上げた自信を、一瞬で踏みにじって見せつけている。
――レンジャー要請資格検査 1日目終了――
「やっと……終わった……」(隼人)
僕は、早速レンジャー試験の分厚い壁に、全身を打ち付けてしまった。
腹筋後に行われた土嚢運搬、300m走、投擲、そして最後に課された2000mハイポートと、どの項目も僕は周りについていけず、地べたを這うような惨状だった。全ての助教から「辞めろ」「馬鹿以下のウジ虫」と罵倒され続けた。特にハイポートは、体力の限界を超え、意識が飛びかけるたびに足が止まり、その度に激しい叱責を受けていた。
「うう…身体中が痛い……。もう、何も考えられない…。」(隼人)
僕は、脱衣所のベンチに座り込み、うめき声を上げる。全身の筋肉が痙攣し、熱を持った皮膚が脈打っている。
「お前、大丈夫かよ…。顔色が悪すぎるぞ。」
「助教にとことん罵られてたもんなぁ…。特に、塗助教は目を付けてたみたいだ。」
同じ参加者が、限界まで疲労の色を濃く浮かべながらも声をかけてくれる。彼らも満身創痍なのに、その気遣いが胸に染みる。
「身の程知らずめ。哀れだな。」(諏訪)
諏訪陸士長は相変わらず、僕への当たりはきついが、今はその言葉すら、遠くで鳴る蝉の羽音のようにしか聞こえない。確かに、僕の現状は「身の程知らず」。それに尽きる。今は反論する力も、それを気にする余裕もない。
「いやぁ、お恥ずかしい…。何とか、ついていくだけで精一杯でした。」(隼人)
僕は、そう言ってすぐに洗体・洗髪を終わらせ、湯船に浸かる。
「ああ、染みるわぁ…。これがあるから、なんとか生きてる。」
「風呂が数少ない癒しだわ…。今日のハイポートは死んだ…。」
入浴、そして食事は、この訓練での数少ない癒しだ。もっとも、この2つも、飢えた肉体に燃料を詰め込むための迅速な作業であり、ゆっくりと浸かって疲れを癒す時間など、1秒たりとも許されない。
――教官室――
教官室には、原崎魁一等陸曹、塗渉二等陸曹、大綱収二等陸曹が集まっていた。
「まだ初日ですが、どうでしょう? 見所のある奴はいましたか?」(塗)
原崎は手に持ったクリップボードを一瞥し、冷めた口調で評価を読み上げる。
「万代佑大一等陸士、角南朱杏三曹、諏訪明登陸士長、そして、苫米地杏南二等陸士。特にこの苫米地は別格だ。体力、精神力ともに、現段階で教官級のレベルに達している。」(原崎)
「苫米地は、空挺団でも即戦力になれるでしょう。間違いなく逸材ですよ。」(塗)
その評価を聞いた大綱二曹は、鼻で笑う。
「逆に、この段場はダメだな。どの項目も最下位。レンジャー要員になる以前の問題だ。まさか、ハイポートで怪我をして片足を引きずっていた塩川三曹よりも遅いとは驚いたぜ。」(大綱)
「怪我で脱落した塩川三曹と軸屋陸士長は仕方ないとして、この段場は、レンジャーに求める体力基準を全く満たしていない。失格だ。この後、原隊復帰を告げよう。」(原崎)
わずか初日で、訓練から脱落する者が決定した。
――夕食後――
夕食を終え、ようやく身体を横にできると思った矢先、僕と塩川三曹、軸屋陸士長の3人が教官室へ呼び出しを受けた。
「(何か嫌な予感がする…。このタイミングで呼び出しなんて、絶対…)」(隼人)
全身の疲労が一気に冷たい予感に変わり、心臓が重く脈打つ。
その嫌な予感が的中した。教官室へ入るなり、原崎助教から発せられた言葉は、あまりにも簡潔で冷酷だった。
「塩川三曹、軸屋士長、段場二士、貴様らはレンジャー要請資格検査の体力基準を満たしていない。」(大綱)
「よって、本日から原隊復帰を命じる。」(大綱)
「努力は評価しない。大事なのは結果だけだ。」(原崎)
「……了解しました。」(隼人)
そう答えた瞬間、胸の奥で何かが“折れた音”がした。たった初日で、僕の挑戦は終わりを告げた。
登場人物紹介
大綱 収
生年月日:1990年7月30日 / 出身:栃木県
階級:二等陸曹 / 所属:特殊作戦群1中隊
備考:助教の1人
塩川 裕太
生年月日:1998年1月7日 / 出身:長野県
階級:三等陸曹 / 所属:第306基地通信中隊 春日井派遣隊
軸屋 昴
生年月日:2000年11月2日 / 出身:愛知県
階級:陸士長 / 所属:35普連1中隊
段場 隼人……本編の主人公。レンジャーの壁に弾き返された
苫米地 杏南……隼人の同期で恋人
諏訪 明登……隼人への当たりがきつい
角南 朱杏……35普連4中隊所属のエース級
塗 渉……第1空挺団所属の助教
原崎 魁……13普連の山岳レンジャー。助教の1人
※当物語では、レンジャー試験の教官・助教は、最精鋭の育成を目的とすべく、陸自内の精鋭部隊から教官・助教を選抜しているという設定です。また、各地域防衛のため、レンジャー試験を行える駐屯地にも限りがあるという設定でもあります。




