第101話 レンジャー試験開始!
「……3000メートル、9分55秒。基準、クリアだ」
豆小玉三曹がストップウォッチを止めた。その声を聞いた瞬間、僕の脚から力が抜けた。
地面に顔面から突っ込むように倒れ込み、舗装された地面に両手をつく。肺が焼けるように痛い。喉はひりつき、口の中には血とも鉄ともつかない味が広がっていた。視界がチカチカと明滅し、耳の奥では自分の心臓が叩きつけるような鼓動を響かせている。
それでも、僕は笑っていた。
4月29日、レンジャー課程への入校を目前に控えた、最後の体力測定だった。
懸垂、腹筋、腕立て伏せ。そして最後の3000メートル走。すべての項目で、僕は「特級」の基準を叩き出した。
完璧だったわけじゃない。余裕など、どこにもなかった。限界まで身体を追い込み、何度も吐いた。それでも立ち上がり、また走った。
4月に入ってからの一か月間、僕は文字通り血反吐を吐きながら訓練を続けてきた。その結果が、今、数字として目の前にある。
「……ッ、届いた……!」
喉の奥から絞り出した声は、歓喜というよりも慟哭に近かった。ようやく届いた。
空間一佐から突きつけられた条件に、豆小玉三曹から課された基準に、そして何より、自分自身に課した約束に、僕は、ようやく最初の関門を突破した。
しかし、そんな僕を見下ろしていた豆小玉三曹の表情は、少しも緩んでいなかった。
「……喜ぶな、段場」
その声に、僕は顔を上げた。豆小玉三曹は、泥と汗にまみれた僕を冷たい目で見下ろしている。
「それは、お前が死に物狂いで出した1回限りの奇跡に過ぎない。レンジャーの地獄では、その ”奇跡の数値” を最低ラインとして毎日求められる。それ、再現できるのか?」
返す言葉がなかった。僕自身、その答えを持っていない。今日の数字が、明日も出せる保証などない。ましてや、これから始まるレンジャー課程では、この数値を出せたことそのものが評価されるわけではない。それが最低限の入口になる。
「……分かりません。でも、門は……開いたはずです。」
震える腕に力を込め、僕は地面を押した。身体中が悲鳴を上げている。脚は自分のものとは思えないほど重く、膝は笑っていた。それでも、僕は立ち上がった。
空間一佐との約束がある。豆小玉三曹に叩き込まれた執念がある。そして、もう逃げないと決めた。だから、ここで倒れるわけにはいかなかった。僕は、まだ入口に立っただけなのだから。
――2021年5月1日 午前4時30分。
朝日が昇る前の冷たい空気が、守山駐屯地の営庭を包んでいた。まだ空は薄暗い。吐く息が白くなるほどではないものの、早朝特有の冷気が迷彩服の隙間から入り込み、身体を冷やしていく。
その営庭には、全国各地から集められたレンジャー課程の志願者たちが並んでいた。僕と同じ第35普通科連隊の隊員だけではない。他の駐屯地から来た者もいる。
さらに、その中には、明らかに普通の普通科隊員とは違う雰囲気を纏った者たちもいた。誰も余計なことを喋らない。互いに顔を見合わせることも少ない。ただ黙って立ち、これから始まる課程を待っている。
「空気が違う……」
どこかから、小さな声が聞こえた。僕も同じことを考えていた。前方に並ぶ助教たちの胸元には、特戦群や空挺団を示す徽章が見える。それだけで、彼らがどういう人間なのかを想像するには十分だった。
訓練場に立っているだけなのに、こちらを射抜くような視線を感じる。その眼光は、僕がこれまで戦場で見てきたグーリエ星人の兵士たちにも劣らないほど鋭かった。
「第35普通科連隊、段場隼人二等陸士。参りました」
自分の名前を告げた。背負った背嚢が重い。これから先の訓練を思えば、まだ何も始まっていない。それなのに、その重さが妙に現実的だった。このゲートの向こう側に待っているのは、これまでの普通科隊員としての訓練とは違う。自分自身の限界を削り、身体も精神も極限まで追い込まれる世界だ。
人間としての尊厳すら捨て、ただ一人のレンジャー学生として生き残ることを求められる。僕は背嚢のベルトを強く締め直した。
杏南のような天才ではない。特戦群を目指すようなエリートでもない。僕には、特別な才能があるわけじゃない。ただ、4月の一か月間、泥臭く訓練を繰り返してきた。その結果、ようやく一度だけ出すことができた特級の数字がある。
それだけだ。けれど、それでもいい。今の僕には、それしかない。
(見ていてください、空間一佐、豆小玉三曹。僕は……絶対に、生きて帰る)
僕は、各地から集まった志願者たちの列に加わった。そして、地獄の門を潜った。
「今日からレンジャー試験か」
「ええ」
第35普通科連隊の隊舎。その一角で、富貴と豆小玉が言葉を交わしていた。2人の視線の先に、ここにはいない1人の隊員がいる。
「お前が期待する段場はどうなんだ?」
「別に期待してるわけでは……。数字も1回しか出せませんでしたしね……執念だけは特級クラスですが、まあ厳しいでしょう」
「心配か?」
豆小玉は、わずかに黙った。
「一応同じ班なんで……。体一つでも欠けたら、任務に支障が出ますから」
そう答えると、豆小玉はふいに視線を逸らした。その表情からは、いつもの仏頂面以外の感情を読み取ることができない。しかし、胸の内には別の思いがあった。
(弱い奴は淘汰される。あいつが弱いままなら、そのまま淘汰されればいい。無駄に死ぬ必要はないからな。だが、第7次首都圏奪還作戦の被害で、自衛官不足が顕著になった。第8次作戦に移行できないのは、失った隊員の数が多すぎるからだ。強い奴が1人でも多く欲しい。お前が、お前の信念を貫き、戦い続けるのなら、絶対に受かって帰ってこい、段場!)
そのときだった。
「おい、聞いたか?」
2人の会話に割って入ったのは、善最 大河二等陸曹だった。今年度から第35普通科連隊第2中隊に加わった隊員であり、豆小玉と同じくレンジャー資格を持つベテランだ。
「何をです?」
富貴が尋ねる。
「レンジャー試験希望者だよ。今年は36人だそうだ」
「36人……。少ないですね」
豆小玉の声に、善最は苦笑した。
「お前が受けた時はどうだったんだ?」
「自分は2回受けましたが、いずれも50人は超えてましたよ」
「年々、訓練基準が厳しくなっているからなぁ……。俺も去年、助教をしたけど、俺が受かった時よりも、厳しくて大変そうだったぞ……」
善最は腕を組み、遠くを見るような目をした。
「それに、今回は空挺団や13普連の山岳レンジャーだけでなく、特戦群からも教官を出すって話だ」
「マジっすか、それ……」
富貴が目を見開く。善最は頷いた。
「朝見かけたんだよ。空挺団や13普連がここに来ることなんて滅多にないだろ?」
「教官が精鋭部隊から選ばれていると……」
「去年より、明らかに“削りに来てる”よ」
その言葉に、富貴が黙り込んだ。善最は苦笑を浮かべる。
「早くレンジャーになれて良かったよ……」
その言葉を聞いた豆小玉は、何も言わなかった。ただ、脳裏に一人の男の姿が浮かぶ。
段場 隼人。体力検定の特級基準を、一度しか達成できなかった男。それでも、諦めなかった。何度倒れても立ち上がり、何度吐いても訓練場に戻ってきた。その執念だけは、確かに並外れていた。
(……あいつ、駄目かもしれんな……)
豆小玉は、そう思った。しかし同時に、別の考えも浮かんでいた。もし、あいつが本当に最後まで立ち続けることができたなら。もし、あの執念が、あの地獄の中でも消えなかったなら。――あるいは。
だが、豆小玉はその考えをすぐに打ち消した。レンジャー課程は、そんな甘い期待で生き残れる場所ではない。結局のところ、本人が自分の力で証明するしかないのだ。
段場 隼人です。ついに、レンジャー試験の日が来た。集合場所から連れてこられたのは、駐屯地の一角にある、だだっ広い舗装された広場だった。目の前には、迷彩服姿の助教たちがずらりと並んでいる。いつもの部隊訓練とは、明らかに空気が違った。
助教たちは、志願者を一人の隊員として見ていない。これから自分たちが鍛え、削り、選別する対象として見ている。そんな錯覚すら覚えた。
「静粛に!」
助教の怒号が響き渡った。一瞬で空気が凍りつく。
「本日から始まるレンジャー要請資格検査、通称“体力検定”。貴様らは、この検定でレンジャー課程を乗り越えるに足る体力、精神力、そして覚悟を持っているかを試される!」
僕は、唾を飲み込んだ。これが、レンジャー課程の入口。そして、最初の検査が始まった。
かがみ跳躍。両手を頭の後ろで組み、深く屈み込んだ姿勢から跳躍する。着地したら、再び屈む。そして、また跳ぶ。単純な動作の繰り返しだ。だが、単純だからこそ、身体に蓄積する負荷は逃げ場がない。
最初の9名が前に出る。僕も、その中の1人だった。助教の笛が鳴る。僕たちは一斉に跳躍を始めた。
「1! 2! 3! ……」
これまで、死ぬほど繰り返してきた運動だ。
身体は動く。屈む、跳ぶ、着地、また屈む。膝を上げ、身体を伸ばし、着地する。僕は必死に数を数えながら、一定のリズムを維持した。
(――いける。まだいける)
開始直後は、そう思っていた。しかし、5分を過ぎた頃から、身体に異変が現れ始めた。太腿が重い。膝を曲げるたび、筋肉が焼けるように痛む。呼吸が荒くなり、汗が額から流れ落ちる。それでも、動かなければならない。僕は必死に身体を動かし続けた。
「膝が浅い! 深くかがめ!」
すぐ横から怒声が飛んできた。僕は反射的に姿勢を修正する。
屈む、跳ぶ、着地、また屈む。
酸素が足りない。頭の中で警報が鳴り響いている。それでも、僕は動いた。ふと、横目で周囲を見た。隣の男は、何事もなかったかのように正確なフォームを維持している。さらに奥では、僕よりも速いペースで跳躍を続けている隊員までいた。
彼らの表情には、まだ苦痛の色がない。無機質だった。まるで鉄の塊だ。いや、鉄の塊ですらない。すでに余計なものを削ぎ落とされ、ただ動くことだけを残された人間。そんな目をしていた。
僕は、彼らの呼吸を見た。乱れていない。僕のように必死で耐えているわけでもない。ただ、淡々と動いている。
(……なんだ、この差は……)
その瞬間、僕は理解した。4月の一か月間、僕が必死に目指してきた「特級」。あれは、確かに僕にとっては大きな壁だった。何度も失敗し、何度も倒れ、それでも一度だけ乗り越えた。
けれど……ここにいる人間にとっては、その数字がスタートラインなのだ。僕はようやく、その意味を理解した。
自分が弱いことを思い知らされた。努力が足りなかったわけじゃない。サボっていたわけでもない。むしろ、今までの僕は、自分なりに必死で努力してきた。
それでも……それでも、足りない。
(これじゃ……駄目だ……)
開始から、まだ7分。
僕は早くも、レンジャーという壁の圧倒的な高さを思い知らされていた。そのとき、笛が鳴った。
「よーし! 止め!」
僕は動きを止めた。そして、地面に崩れ落ちそうになる身体を、両脚でどうにか支えた。息が苦しい。太腿が震えている。立っているだけで精一杯だった。しかし、助教はそんな僕たちを待ってはくれない。
「たったこれしきで、その様か。レンジャーは、貴様のような軟弱な体力を求めていない!」
怒声が広場に響き渡る。僕は顔を上げた。助教の視線が、志願者全員を睨みつけている。
「壊れたら、捨てるだけだ!」
その言葉が、胸に突き刺さった。
まだ初日、まだ序盤。それなのに、僕はすでに限界に近づいている。そして、ようやく理解した。これは、まだ試験ですらない。
本当のレンジャー課程は―――この先にある。
登場人物紹介
段場 隼人……本編の主人公。彼はレンジャーになれるのか?
豆小玉 芙琉……隼人直属の上官
富貴 彪雅……35普連2中隊の三等陸曹
善最 大河……35普連に新たに加わったベテラン




