第99話 レンジャー試験開始!
「……3000メートル、9分55秒。基準、クリアだ」(豆小玉)
豆小玉三曹がストップウォッチを止めた瞬間、僕は地面に顔面から突っ込むように倒れ込んだ。肺が焼ける。口の中に鉄の味が広がり、視界がチカチカと明滅する。
4月29日。入校直前の最後、本当に最後の体力測定。懸垂、腹筋、腕立て、そしてこの走力。すべてが「特級」の基準を指し示した。
「……ッ、届いた……!」(隼人)
喉の奥から絞り出したのは、叫びというよりは慟哭に近かった。4月からの1ヶ月、僕は文字通り血反吐を吐いてきた。
「……喜ぶな、段場」(豆小玉)
豆小玉三曹が、泥まみれの僕を見下ろして冷たく言い放つ。
「それは、お前が死に物狂いで出した1回限りの奇跡に過ぎない。レンジャーの地獄では、その ”奇跡の数値” を最低ラインとして毎日求められる。それ、再現できるのか?」(豆小玉)
「……分かりません。でも、門は……開いたはずです。」(隼人)
僕は震える腕で地面を押し、立ち上がった。膝が笑っている。それでも、空間連隊長との約束、そして自分自身に課した「執念」が、僕の背中を強引に支えていた。
――2021年5月1日 4:30 ――
朝日が昇る前の冷たい空気が、守山駐屯地の営庭を支配していた。 そこには、僕と同じ35普連の面々だけでなく、他県の駐屯地、さらには精鋭部隊の予備軍と思われる、眼光の鋭い志願者たちが並んでいる。
「空気が違う…」
誰かが小さな声を漏らした。 前列に並ぶ教官たちの胸元には、銀色に輝く特戦群や空挺団のバッジ。彼らから放たれる殺気は、グーリエ星人のそれにも劣らない。
「第35普通科連隊、段場隼人二等陸士。参りました」(隼人)
背負った背嚢の重みが、これからの地獄を予感させる。 ゲートの向こう側は、人間としての尊厳を捨て、ただの「レンジャー学生」として生きる地獄。
僕は背嚢のベルトを強く締め直した。 杏南のような天才でもない。特戦群を目指すようなエリートでもない。 でも、僕にはこの1ヶ月で作り上げた「泥臭い1回きりの特級」がある。
「(見ていてください、連隊長、豆小玉三曹。僕は……絶対に、生きて帰る)」(隼人)
僕は迷いなく、全国から集まった猛者たちの列に混じり、地獄の門を潜り抜けた。
「今日からレンジャー試験か。」(富貴)
「ええ。」(豆小玉)
「お前が期待する段場はどうなんだ?」(富貴)
「別に期待してるわけでは…。数字も1回しか出せませんでしたしね…執念だけは特級クラスですが、まあ厳しいでしょう。」(豆小玉)
「心配か?」(富貴)
「一応同じ班なんで…。体一つでも欠けたら、任務に支障が出ますから。」(豆小玉)
そう言って、豆小玉は、目を逸らした。
「(弱い奴は淘汰される。あいつが弱いままなら、そのまま淘汰されればいい。無駄に死ぬ必要はないからな。だが、第7次首都圏奪還作戦の被害で、自衛官不足が顕著になった。第8次作戦に移行できないのは、失った隊員の数が多すぎるからだ。強い奴が1人でも多く欲しい。お前が、お前の信念を貫き、戦い続けるのなら、絶対に受かって帰ってこい、段場!)」(豆小玉)
「おい、聞いたか?」
2人の会話に割って入ったのは、彼らと同じ35普連2中隊の善最大河二等陸曹。豆小玉と同じレンジャー資格を有するベテラン隊員で、今年度から35普連2中隊に加わった。
「何をです?」(富貴)
「レンジャー試験希望者だよ。今年は36人だそうだ。」(善最)
「36人…。少ないですね。」(豆小玉)
「お前が受けた時はどうたんだ?」(富貴)
「自分は2回受けましたが、いずれも50人は超えてましたよ。」(豆小玉)
「年々、訓練基準が厳しくなっているからなぁ…。俺も去年、助教をしたけど、俺が受かった時よりも、厳しくて大変そうだったぞ…。」(善最)
「それに、今回は空挺団や13普連の山岳レンジャーだけでなく、特戦群からも教官を出すって話だ。」(善最)
「マジっすか、それ…。」(富貴)
「朝見かけたんだよ。空挺団や13普連がここ(守山駐屯地)に来ることなんて滅多にないだろ?」(善最)
「教官が精鋭部隊から選ばれていると…。」(富貴)
「去年より、明らかに“削りに来てるよ。」(善最)
「早くレンジャーになれて良かったよ…。」(善最)
「(……あいつ、駄目かもしれんな…。)」(豆小玉)
善最が遠い目をしたのを見た豆小玉は、心の中で、そう呟くのだった。
段場隼人です。
ついに、レンジャー試験の日が来た。集合場所から連れてこられたのは、駐屯地の一角にあるだだっ広い舗装された広場だった。目の前には、迷彩服姿の助教たちがずらりと並んでいる。その顔つきは、いつもの隊の訓練とは比べ物にならないほど厳しく、有無を言わせぬ圧力を放っていた。
「静粛に!」(原崎魁二等陸曹)
助教の怒号が響き渡り、空気が凍り付く。
「本日から始まるレンジャー要請資格検査、通称“体力検定”。貴様らは、この検定でレンジャー課程を乗り越えるに足る体力、精神力、そして覚悟を持っているかを試される!」(原崎)
最初の検査はかがみ跳躍。全隊員が両手で頭の後ろを組み、屈伸運動と同時に跳躍を繰り返すという、下半身の持久力と精神力を削り取る、陸上自衛隊の過酷な伝統的訓練だ。助教の笛の音で、最初の9名の志願者が一斉に跳び始めた。
「1!2!3!…」
僕は、これまでの特級訓練で死ぬほど繰り返してきた運動だ。体は動く。屈伸し、跳び、膝を上げ、着地する。リズムに乗って、必死に数を数える。
「(――いける。まだいける。)」(隼人)
しかし、わずか5分が経過した頃、体の反応が急激に鈍り始めた。太ももが鉛のように重い。膝を深く曲げるたびに、全身の筋肉が焼けるような痛みを訴える。
「膝が浅い!深くかがめ!」(塗渉二等陸曹)
助教の怒声が、僕のすぐ横で爆発する。フォームを正そうと意識を集中するが、酸素が足りず、頭の中が警報を鳴らしている。
僕は、横目で周りを見た。隣の男は、まるで何事もないかのように、正確なフォームで跳び続けている。さらに奥の隊員たちは、僕よりもはるかに速いペースで跳躍を繰り返している者までいる。彼らの表情には、僕のような苦痛の色はまだ見えない。ただ、無機質な鉄の塊のように、動きを継続していた。
呼吸一つ乱れていない。目が死んでいるのではなく、“最初から削ぎ落とされている”ような目だった。
「(……なんだ、この差は…。)」(隼人)
僕は、自分が課されていた特級基準が1度しか達成できなかったことが、どれほど深刻な意味を持つのかを、この瞬間に思い知らされた。スタート地点が違う。
「(これじゃ……、駄目だ……)」(隼人)
開始からわずか7分。僕は、早くも目の前に立ちはだかるレンジャーの壁の、圧倒的な高さに打ちのめされていた。
「よーし!止め!」(塗)
笛の音と同時に、僕は地面に崩れ落ちそうになるのを、辛うじて踏みとどまるのが精一杯だった。
「たったこれしきで、その様か。レンジャーは、貴様のような軟弱な体力を求めていない!」(塗)
「壊れたら、捨てるだけだ!」(塗)
助教の厳しい激が飛ぶ。まだ初日、まだ序盤。それでも、これはまだ、試験ですらなかった。
登場人物紹介
善最 大河
生年月日:1989年7月13日 / 出身:宮城県
階級:二等陸曹 / 所属:35普連2中隊
備考:新年度に異動してきた。レンジャー持ち
塗 渉
生年月日:1992年12月26日 / 出身:千葉県
階級:二等陸曹 / 所属:第一空挺団第2普通科大隊
備考:助教の1人
段場 隼人……本編の主人公。彼はレンジャーになれるのか?
豆小玉 芙琉……隼人直属の上官
富貴 彪雅……35普連2中隊の三等陸曹
原崎 魁……助教の1人。13普連の精鋭。山岳レンジャー




