第100話 新年度
春。自衛隊員にとって、この季節は一年の中でも特別な意味を持っている。異動、昇任、新たな配置、そして新年度から始まる新しい任務。駐屯地のそこかしこで辞令が交わされ、隊員たちの顔ぶれが変わっていく。
誰かが新しい部隊へ去り、誰かが新しい部隊からやって来る。その一方で、同じ場所に残った者たちにも、それぞれ新しい階級と、新しい責任が与えられる。
第35普通科連隊も例外ではなかった。
オペレーション・ギデオン――第7次首都圏奪還作戦によって大きな損害を受けた連隊は、春を迎えたことで、名実ともに再編の段階へ入っていた。
新たに配属される隊員。他部隊から異動してきた経験豊富な隊員。そして、戦場から生還した者たち。
それぞれが異なる傷と経験を抱えながら、同じ隊旗の下に集められていく。
その中には、昇任を迎えた者たちもいた。
土井 近太郎、そして、角南 朱杏。2人は三等陸曹へ昇任した。土井は、そのままGASTへ入隊することになる。朱杏も、レンジャー試験に合格した後、GASTへ異動する予定となっていた。
ただし、その事実を知っている者は限られている。
GASTは、表向きには第10師団の一般的な部隊編成とは異なる、特戦群の第5中隊という位置づけにある。
その存在そのものが秘匿されているわけではない。だが、誰が所属しているのか、誰が選抜されたのかを、部隊全体に公表する必要もない。だからこそ、土井と朱杏の異動を知っているのは、関係者の一部だけだった。
新年度になりました。段場 隼人です。
自分でそう名乗ってみたところで、何かが変わるわけではない。僕は相変わらず、二等陸士だった。
自衛官候補生として入隊し、そこから自衛官になった僕たちは、一般曹候補生として入隊した同期たちとは昇任の進み方が違う。
一般曹候補生として入隊した者たちが、それぞれ一つ上の階級へ進む中、僕はまだ二等陸士のままだ。僕が一等陸士になるのは、七月になってから。
入隊した時には、そんなことを深く考えたことなどなかった。学生時代の僕は、自衛官になることしか考えていなかった。
自衛官になった後、どのように昇任していくのか。どのような教育を受け、どのような部隊を経験し、どのようなキャリアを歩むのか。そんな先のことまで、考えていなかった。
だが、自衛隊という組織に入り、戦場まで経験した今となっては、それがどれほど大きな差になるのかを嫌というほど思い知らされる。
階級、経験、教育、そして、これから先に与えられる責任。春という季節は、僕たち自候生上がりと一般曹候補生との間に生まれた差を、容赦なく突きつけてきた。
それでも、グーリエ星人は待ってくれない。第35普通科連隊には、新たな隊員たちが加わった。
希望に満ちた新人――
……というより、彼らの表情を見ていると、希望よりも悲壮感の方が強い気もする。それでも彼らは、これから自衛官としての人生を歩み始める。
そして、異動によって加わった経験豊富な隊員たち。人が入れ替わり、部隊の編成が変わる。失われた戦力を補い、再び戦える組織を作る。
オペレーション・ギデオンで崩壊寸前まで追い込まれた第35普通科連隊は、こうして再編の道を歩み始めていた。そして今日も、訓練は続いている。
厳しい訓練、実戦を想定した訓練、次の戦場で生き残るための訓練。戦争が終わっていない以上、僕たちに立ち止まっている時間などなかった。
そんな訓練の合間、僕は豆小玉三曹に伴われ、連隊長室の前に立っていた。手の中には、一枚の志願票がある。そして、直近の体力検定結果。
何度も訓練を繰り返し、嘔吐して、倒れて、それでも立ち上がってきた。少しずつ数字は伸びている。だが、まだ足りない。
豆小玉三曹から提示された、レンジャー訓練の入校基準。その数字に、僕はまだ届いていなかった。ギリギリどころか、項目によっては明確に足りていない。それでも、ここまで来た。
僕は汗で湿った志願票を握り締める。
扉の向こうには、連隊長の空間 瑠衣一等陸佐がいる。一度、深く息を吸った。そして、扉を叩いた。
「失礼します! 第35普通科連隊第2中隊、段場 隼人二等陸士。レンジャー訓練の入校請願に参りました!」
「入りなさい」
返事を聞き、僕は扉を開けた。室内に入る。空間一佐は、机の向こうに座っていた。僕は敬礼をする。その視線が、僕へ向けられた。
空間連隊長は、僕が差し出した書類には目を向けなかった。ただ、僕を見ている。その涼やかな眼差しは、僕の心臓の鼓動まで見透かしているように感じられた。
「段場二士。豆小玉三曹から話は聞いているけれど。……その検定結果で、本気なの?」
「……はい」
僕は答えた。声が震えそうになる。だが、目は逸らさなかった。
「今の貴官の数値では、入校初日の選抜試験で脱落するのが目に見えている。それは、貴官の時間を無駄にするだけでなく、貴重な訓練枠を一つ潰すということ。組織としては、より合格の可能性が高い者を送り出すのが筋だと思わない?」
正論だった。僕自身、それは理解している。レンジャー訓練は、ただ本人が受けたいと言えば受けられるものではない。訓練期間も、教官も、施設も、装備も必要になる。限られた資源を使って教育する以上、合格する可能性の高い人間を送り出す。それは当然のことだ。
僕は、志願票を握り締めた。
「……おっしゃる通りです。ですが、僕には時間がないんです」
空間連隊長の目が、僅かに細くなる。
「今のままでは、僕は誰の盾にもなれません。死んでいった仲間たちの背中を追いかけることすらできない。凡庸な僕が、この戦場で力を得るには、地獄を潜り抜けるしかないんです!」
言葉にした瞬間、自分でも分かった。これは、ただの志願理由ではない。僕自身の焦りだった。
オペレーション・ギデオンで、僕は何もできなかった。諏訪一士は、戦場で力を得た。杏南も、僕の知らない場所で前へ進もうとしている。僕だけが、取り残されている。その焦りが、僕をここまで動かしていた。
空間一佐は無表情のまま、椅子に深く背を預けた。
「……個人的な復讐や焦りは、真っ先に命を落とす原因になるわよ。教官たちは貴官のようなタイプを一番に、精神から叩き潰しにかかる。それでも行くというの?」
僕は、一瞬だけ言葉に詰まった。だが、すぐに顔を上げた。
「……はい! 叩き潰されても、それでも戦う覚悟です!」
室内が静まり返った。横に立つ豆小玉三曹が、こちらを見たような気がした。僕は視線を逸らさない。
空間一佐も、何も言わなかった。やがて彼女は、ゆっくりと立ち上がった。そして、窓の外を見る。
そこには、訓練を続ける隊員たちの姿があった。
走っている者、装備を担いでいる者、互いに声を掛け合いながら、訓練を続けている者。その中には、僕と同じように、これから戦場へ向かうことになる者もいる。空間一佐は、その光景をしばらく見つめていた。
「……現在、わが連隊の戦力回復は急務。けれど、必要なのは ”ただの兵隊” じゃない。理不尽な絶望を前にしても、決して折れない “芯” を持つ者よ」
空間一佐は机へ戻った。そして、僕の志願票を手に取る。万年筆が紙の上を走った。その音が、妙に大きく聞こえた。僕は息を呑んだ。
「承認するわ。ただし、条件が2つ」
「はい!」
「1つ。入校日までに全ての検定項目を特級まで引き上げること。1つでも欠ければ、その場で承認は取り消す。特級よ。 “届かせる”んじゃない“叩き込む”の。……そして2つ目」
空間一佐は、そこで一度だけ言葉を止めた。そして、僕を見る。その表情に、初めて僅かな変化が浮かんだ。
悲しげで、それでいて、どこか慈愛を感じさせる笑みだった。
「……絶対に、生きて帰ってきなさい。それが、指揮官としての私の命令よ」
僕は、黙って聞いていた。
「無駄死にだけは、許さないわよ」
その言葉が、胸に突き刺さった。僕は敬礼した。
「……了解!!」
部屋を出る。扉が閉まった。そこでようやく、膝の力が抜けそうになった。承認された。僕は、レンジャー訓練に挑む資格を得た。
けれど…それは、地獄の門を開く鍵を手に入れただけだった。
「……聞いたか? 特級だぞ、段場」
隣を歩いていた豆小玉三曹が、呆れたように言った。
「明日からは寝る暇もないと思え。……いいな?」
「了解です!!」
声だけは、しっかり出た。だが、内心では分かっている。今の僕では、まだ足りない。豆小玉三曹が示した基準には、まだ届いていない。
入校日までに、全ての項目を特級へ引き上げる。簡単なことではない。むしろ、現実的に考えれば不可能に近い。
それでも、僕は決めた。僕の、本当の意味での戦いは、ここから始まる。
同期たちが次々と高みへ昇っていく中で、僕は僕の泥臭いやり方で、運命を切り拓く。
レンジャー試験は、5月に行われる。それまでに、僕は自分自身を変えなければならない。
第8次首都圏奪還作戦が、いつ始まるのかは分からない。その前に、九州奪還作戦が始まる可能性だってある。けれど、その先にあるものは変わらない。
首都圏の奪還、九州の奪還、そして、グーリエ星人から日本を取り戻すこと。僕がレンジャーになることが、戦争を終わらせるわけではない。僕一人が強くなったところで、戦局が変わるわけでもない。
それでも――今の僕には、これしかない。
(今の僕がレンジャーになるのは、現実的に不可能かもしれない)
その考えは、消えなかった。だが――
(だから、起こす)
奇跡を待つつもりはない。誰かが僕を救ってくれるのを待つつもりもない。
(奇跡じゃなく、結果で)
僕は、拳を握り締めた。もう、逃げる理由は一つも残っていなかった。
登場人物紹介
段場 隼人……本編の主人公。
空間 瑠衣……35普連の新しい連隊長
豆小玉 芙琉……隼人直属の上官




