第7話 葵の静かな夜
電車はレールの上を滑るように進みながら、街はゆっくりと夕暮れの暖かな色に沈んでいった。
車内では、窓に映る夕焼けの光が、水面のようにゆらゆらと揺れていた。
ビルがゆっくりと流れていく。
歩道を歩く人々。
信号で止まる車。
葵はドアの近くに座り、手を膝の上に置いたまま、外を眺めていた。
――けれど、その景色はほとんど目に入っていなかった。
ビルの灯り。
慌ただしい街。
家路につく人たち。
すべてが、どこか遠く感じられた。
彼女の頭の中には、ただ一つの光景だけが、何度も繰り返されていた。
あの抱きしめた瞬間。
美桜が肩に崩れ落ちたあの時。
震えながらも必死に耐えようとしていた、その体の重み。
まるで落ちてしまうのを怖がるように、シャツを掴んでいた指。
葵はゆっくりと瞬きをする。半分閉じた瞳で。
「……美桜ちゃん……」
再び窓へと視線を向ける。
ガラスを見つめる中で、ふと記憶がよみがえった。
――「あなたのお母さんと一緒に、この窓を見ながら名前を決めたのよ、葵」
葵はそのまま窓を見つめ続け、やがて手をゆっくりと握りしめた。
映り込んだ自分の瞳は、どこか遠くを見ているようだった。
涙はない。
ただ、胸の奥に深い静寂が広がっているだけだった。
やがて電車はゆっくりと減速し始める。
――目的の駅に到着した。
家
数分後、葵は自宅のドアを開けた。
室内は暗く、静まり返っている。
中へ入り、靴を脱ぎ、きちんと揃える。
「ただいま……」
その声は、誰もいない家の中に静かに響いた。
リビングの電気をつける。
「……もうすぐ7時か」
デジタル時計は18時56分を示していた。
葵は静かに浴室へ向かう。
温かいシャワーの水が、肩から体へとゆっくり流れ落ちていく。
目を閉じる。
一瞬、美桜の姿が浮かぶ。
顔。
強く閉じられた瞳。
感情を押し殺そうとする様子。
震える声。
葵は目を開けた。
水は変わらず流れ続ける。
静かに。
絶え間なく。
まるで時間が止まったかのように。
夕食
シャワーを終え、部屋着に着替えた葵はキッチンへ向かった。
冷蔵庫を開け、肉、じゃがいも、にんじん、玉ねぎを取り出す。
今日は肉じゃがを作る。母の好きな料理だ。
野菜を切る音が、静かなキッチンに響く。
トン、
トン、
トン。
生活の音。
穏やかで、どこか安心する響き。
鍋がゆっくりと煮立ち始める。
醤油と肉の優しい香りが、家の中に広がっていく。
葵は静かに鍋をかき混ぜた。
「……もうすぐ帰ってくるよね」
19時50分。料理が完成する。
丁寧に食卓を整える。
皿が二つ。
コップが二つ。
お椀が二つ。
すべて、きちんと並べられている。
その後、リビングのソファに座り、テレビをつけた。
ニュースでは交通や経済の話題が流れている。
けれど、葵はほとんど見ていなかった。
画面を見つめたまま――
(美桜……あんな姿、初めて見た……)
その時、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま、葵」
葵はすぐに立ち上がる。
「おかえり、お母さん。今日はどうだった?」
雪子は靴を脱ぎながら、鞄をテーブルに置いた。
「まあまあかな……でも今月は締め切りが多くてね。遅くなる日もあるかも」
葵はうなずく。
「お、お風呂入る?準備してあるよ」
雪子は立ち止まり、葵をじっと見つめた。
「葵……何かあった?」
「え?」
「目がね、いつもと違うの。大丈夫?」
葵は視線を逸らす。
「な、何でもないよ……ちょっと暇だったから、早めに色々やっただけ」
雪子は少し見つめた後、やさしく微笑んだ。
「そっか。じゃあ、お風呂いただくね。あとで話、聞かせて」
「うん」
風呂の後、二人は一緒に夕食をとった。
テレビの話。
コメディ番組の話。
恋愛ドラマの話。
軽い会話が続く中――
葵は少しだけ視線を落とした。
「お母さん……あのね」
「うん?」
「今日、星見病院に行ったの。美桜ちゃんにプリント届けに」
雪子は少し驚いた。
「美桜ちゃん……神崎美桜?懐かしいわね。元気だった?」
葵は箸で料理を少し動かす。
「お母さんが事故に遭って……でも、もう回復してきてる」
雪子は少し黙った。
「葵……」
葵は静かに続けた。
「お母さん、もっと休んでいいんだよ。無理してお弁当作らなくても」
顔を上げた瞬間――
雪子の頬を、涙が一筋流れていた。
すぐに拭う。
「葵……ありがとう。でも大丈夫よ」
やさしく微笑む。
「帰ってきたら全部やってくれてるんだもの。私にも何かさせて」
葵は少し赤くなる。
「む、無理しないなら……」
雪子は笑った。
「次の休み、どこか行きましょうか。海とかどう?」
「海?」
「水着、ないでしょ?」
「買うの……?」
「もちろん」
「……うん」
「美桜ちゃんは?」
「明日から学校来るって」
雪子はうなずいた。
「もっと一緒にいたいなら、そうしなさい」
「うん」
雪子は立ち上がる。
「じゃあ、先に寝るね」
「私はもう少し勉強する」
ドアの前で雪子が振り返る。
「葵。あなたのこと、誇りに思ってるわ」
「な、なんで急に!?」
雪子は笑って部屋へ入っていった。
その夜
葵は部屋で勉強をした。
ノート。
メモ。
数式。
一時間ほどで終える。
スマホが震えた。
ライン ――「エターナルズ」グループ。
ひな:
「遊ぶ?」
葵:
「少しだけ」
蒼真:
「軽め?普通?」
ひな:
「普通!グリムルート洞窟いこ!」
葵はゲームを起動した。
ログイン。
キャラ――ヒロ。
「ログインした。招待お願い」
仲間が現れる。
ソウマキー。
プリンスジョン。
「行こう!」
暗いダンジョン。巨大な根。
ゴブリン。オーク。
戦闘。
だが――ヒロのHPが激減。
「回復ポーション使え!」
――ない。
ゴブリンが武器を振り上げる。
その瞬間――
ソウマキーが割り込んだ。
攻撃を受け止める。
プリンスジョンが水魔法。
撃破。
ダンジョン後
「今日はありがとう。少し落ちるね」
ゲームを切る。
静かな部屋。
ベッドに横になる。
目を閉じる。
浮かんだのは――
美桜。
泣いている姿。
シャツを掴む手。
葵は顔を枕に埋めた。
そして――そのまま眠りに落ちていった。
翌日
朝。
いつもの通学。
ひなと合流。
電車。
駅に着く。
美桜がいない。
「……来てない」
「また休み?」
葵は息を吸う。
「学校行こう。あとで連絡する」
――通知。
「もう教室にいるよ」
安堵。
教室2-B。
美桜がいた。
髪を整えている。
「葵ちゃん!ひなちゃん!」
笑顔。
その瞬間――
少しだけ、世界が元に戻った気がした。
華恵は静かにその様子を見ていた。
嵐の後のような、穏やかな光景。
ドアが開く。
美咲。
その後ろに蓮たち。
「それ、誰にも言うなよ」
「美咲好きなんだろ?」
「黙れ!!」
いつもの空気。
先生が入る。
「おはようございます」
授業開始。
けれど――
その朝のやさしい空気は、確かに残っていた。
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