夏休み・番外編3
天井の扇風機がゆっくりと回っていた。
七月の暑さは、もう完全に3年A組を支配していた。
何枚か窓は開いているのに、入ってきた風は教室の途中で力尽きてしまうようだった。
外からは蝉の鳴き声が聞こえる。
絶え間なく。
眠気を誘うように。
アオイは机にぐったりと突っ伏しながら、黒板をぼんやり見つめていた。
目を閉じないように必死に耐えている。
「……あと一週間……」
力の抜けた声だった。
ヒナがゆっくりノートから視線を上げる。
眼鏡には夕方の光が反射していた。
「夏休みまでね」
ミサキは顔も上げず、すぐに返した。
「自由まで、だよ」
ミオが吹き出す。
「刑務所から出るみたいな言い方じゃん」
「違うの?」
ハナエは教師用の机でプリントを整理しながら、小さくため息をついた。
「明日テストあるんだからね、みんな」
ミサキは大げさに机へ突っ伏した。
「完全に忘れてた……」
教室の後ろから声が飛んでくる。
「それで色々納得した」
松田は椅子にもたれながら、指の間でペンをくるくる回していた。
口元にはいつものニヤッとした笑み。
ミサキは即座に指を差す。
「うるさい」
ソウマがアオイを見る。
「勉強終わった?」
アオイはゆっくりノートを持ち上げた。
「……まぁ、一応……」
リクはノートの端に落書きしながら呟く。
「テスト前に“まぁ一応”って言うやつ、大体パニックになるよな」
アオイは小さく笑った。
「励ましありがとう」
暑さのせいか、みんな少し動きが遅かった。
気が抜けていて。
でも、その分だけ素直でもあった。
卒業前、最後の夏。
その気配が少しずつ近づいている。
誰も口にはしない。
でも、みんな何となく感じていた。
翌日。
テストが終わったあと、クラス全員で教室の掃除をしていた。
机を動かす音。
濡れた雑巾で窓を拭く音。
洗剤の匂いと、午後の熱気が混ざっている。
ミオはバケツを持ちながら周囲を見回した。
「これ考えた人、絶対性格悪いよね」
ハナエは振り返りもせず答える。
「生徒会」
「じゃあ生徒会って残酷なんだ」
ミサキは床をかなり強めに磨いていた。
まるでテストのストレスを全部ぶつけているみたいに。
「もし松田がここ踏んだら本気で――」
ガラッ。
教室のドアが開いた。
松田が冷えた炭酸飲料を持ちながら入ってくる。
彼は濡れた床を見た。
それからミサキを見る。
「あ」
沈黙。
ミサキはゆっくり指を向けた。
「入るな」
松田は片足をそっと上げる。
「いや、通るだけ――」
「入るなって言った」
ミオは笑いすぎてバケツを落としかけた。
リクは笑いを隠すために下を向く。
ソウマですら肩を震わせていた。
テストが終わっただけで、教室の空気はずいぶん軽くなっていた。
みんな、やっと息ができるようになったみたいだった。
夏休み前、最後の日。
小さな終業式を終えたあと、クラスは教室へ戻ってきた。
教師は黒板の前で腕を組んで立っている。
「夏休み、しっかり楽しめよ」
数人の生徒が気の抜けた返事をする。
「はーい……」
先生は続けた。
「でも忘れるな。お前らにとって、高校最後の夏だからな」
その瞬間。
教室が少し静かになった。
完全な沈黙ではない。
でも、十分静かだった。
アオイは友達を見る。
ヒナは静かに眼鏡を直していた。
ミオは頬杖をついている。
ミサキはペンをゆっくり回していた。
ハナエはノートに何かを書いている。
ソウマは窓の外を見ていた。
真っ青な空。
どこまでも広くて。
まるで夏そのものが、すぐ外で待っているみたいだった。
『夏休み』
赤い提灯が祭りの通りを照らしていた。
両側には屋台が並び、
食べ物の匂い。
笑い声。
遠くから聞こえる祭囃子。
空はまだ暗い。
けれど誰もが、花火が始まる瞬間を待っていた。
人混みの中を、アオイはゆっくり歩いていた。
淡い水色の浴衣が、歩くたびに優しく揺れる。
灯りが彼女の瞳に映っていた。
「……人多いね」
ソウマはポケットに手を入れたまま隣を歩く。
「祭りってこんなもんだろ」
アオイは小さく笑った。
「来てくれてよかった」
ソウマは彼女を見ないまま答える。
「そりゃ来るよ」
アオイは思わず視線を逸らした。
自然と浮かんでしまった笑みを隠すみたいに。
少し後ろでは、ヒナが小さなうちわを持って歩いていた。
「夜なのに暑いね……」
リクはかき氷を食べながら振り返る。
「いる?」
ヒナは数回まばたきした。
「え?」
リクはカップを差し出した。
「一口」
ヒナは受け取る。
「ありがとう」
二人は少し無言で歩く。
それからヒナが聞いた。
「このお祭り、前にも来たことある?」
「何回か」
リクは夜空を指差した。
「でも、ここの花火は結構すごい」
ヒナは静かに笑う。
小さく。
穏やかに。
「じゃあ、楽しみにしてる」
屋台の焼きそばの前では、ハナエが腕を組んでタクミを見ていた。
「遅かったね」
タクミは焼きそばを二つ持っている。
「行列が長かったんだ」
ハナエは片方を受け取る。
「学級委員なら、もっといい屋台選ぶ能力も必要じゃない?」
タクミは落ち着いた声で返した。
「じゃあ次はハナエが選んで」
ハナエは小さく吹き出す。
「それもありかも」
ミオは串焼きに完全に集中していた。
「これめっちゃ美味しい」
隣のミサキは、明らかに食べ物に集中していなかった。
ちらちら前を見ている。
「んー……」
ミオはすぐ気づく。
「誰見てるの?」
ミサキはさりげなく前を指差した。
「あのバカ、さっきからこっち見すぎ」
数メートル先では、松田がソウマやリクと話していた。
完全にリラックスしている。
いつも通り。
ミオはわざとらしくため息をつく。
「“こっち”見てるのかなぁ~? “ミサキ”見てるんじゃなくて?」
ミサキは反応が早すぎた。
「はぁ!? な、なんで私!?」
ミオはミサキの首元を見る。
「だって、そのネックレスまだ付けてるし」
ミサキは反射的にネックレスを握った。
「家に置いとくのももったいないだけ」
ミオはまた串をかじる。
「ミサキってさ……松田のこと好き?」
ミサキは勢いよく振り返った。
顔は真っ赤。
「う、うるさいミオ!!」
ミオは満足そうに笑う。
「“違う”って言えないんだ~」
「ミオ!!」
しばらくして、みんなは川辺の近くで立ち止まっていた。
周囲の人たちが次々と空を見上げ始める。
最初に気づいたのは葵だった。
「……始まる」
蒼真が彼女の隣に立つ。
少し後ろには陽菜と陸。
花恵と拓海は小声で話していた。
美緒は新しいお菓子を手に持っていて、
美咲は腕を組んでいる。
松田は少し離れた場所で空を見上げていた。
そして――
ドォン。
最初の花火が夜空で弾けた。
赤い光が空いっぱいに広がる。
周囲から歓声と拍手が上がった。
川の水面には色とりどりの光が揺れている。
葵はゆっくりと目を上げた。
花火の色が彼女の瞳に映り込む。
「……綺麗」
蒼真は小さく答えた。
「うん」
でも、
彼は花火を見ていなかった。
見ていたのは――葵だった。
葵はその視線に気づく。
「……どうしたの?」
気づかないうちに、他のみんなは少し前へ歩いていた。
二人だけが少し後ろに残される。
蒼真は静かに息を吸った。
そして口を開く。
「綺麗だって言ったけど……」
一瞬だけ視線を逸らす。
「……花火だけじゃない」
葵の顔が一気に真っ赤になる。
心臓の音が自分でも分かるくらい速かった。
彼女は視線を落として、
それから少し照れながら笑う。
「蒼真……これ、チャンスかなって思ってた」
蒼真は目を瞬かせた。
「チャンス?」
葵は小さく一歩前へ出る。
そしてもう一歩。
ゆっくり目を閉じながら、
少しだけ顔を上げた。
唇を小さく尖らせる。
蒼真は一瞬黙った。
頭上では次々と花火が咲き続けている。
夜空いっぱいに色を広げながら。
そして蒼真も静かに目を閉じた。
二人の唇がそっと重なる。
柔らかくて、
少しぎこちなくて、
でも長い間しまい込んでいた気持ちが全部詰まったキスだった。
花火は夜空で咲き続け、
川面には光が揺れ続ける。
その瞬間だけは――
まるで夏そのものが二人のために止まったみたいだった。
少し後ろでは、
陽菜が静かに花火を見上げていた。
陸がぽつりと言う。
「来てよかったな」
陽菜は小さく頷いた。
「……うん」
花恵は夜空の色を見上げていた。
拓海が静かに言う。
「卒業前、最後の夏だな」
花恵は少し黙る。
それからゆっくりと彼の手を握り、
肩に頭を預けた。
拓海の体が固まる。
「は、花恵……」
彼女はそのまま答えた。
「なに?」
拓海は空いている手で眼鏡を直す。
冷静を装おうとして、
完全に失敗していた。
「……俺、お前のこと好きだ」
花恵は固まった。
ぽかんとしたまま笑っている。
頭が追いついていない。
数秒後、
彼女は真っ赤になって後ろへ飛び退いた。
「えぇぇっ!? ど、どこからその流れ!?」
拓海は即答する。
「正直に言っただけだ」
花恵は数秒彼を見つめたあと、
また笑った。
今度はもっと優しく、
もっと嬉しそうに。
「……そっか。ふふっ」
美緒はお菓子を食べながらその様子を見ていた。
「こういう時間、好きだなぁ」
美咲が横から言う。
「本当に?」
「うん」
美咲は松田を見る。
彼は花火を見ながら笑っていた。
いつもみたいに、
気楽そうに。
楽しそうに。
美咲はすぐ顔を逸らす。
「……バカ」
美緒が小さく笑った。
また一つ花火が夜空で弾ける。
川には色が揺れていた。
数分間――
誰も何も言わなかった。
聞こえるのは花火の音。
人々の声。
夏の空気。
そしてその瞬間、
誰も口にはしなかったけれど、
みんな同じことを考えていた。
この夏は――
きっと、一生忘れない夏になる。
星見の夜は少しずつ更けていった。
提灯はまだ通りを照らしていたけれど、
屋台は少しずつ片付け始めている。
食べ物の匂いはまだ空気に残っていた。
みんなは川沿いをゆっくり歩いていた。
葵は浴衣の帯を押さえながら歩く。
「……食べすぎた」
蒼真が笑う。
「二つしか食べてないだろ」
「四つだよ」
「……あぁ」
葵はじとっとした目で彼を見る。
「裏切り者」
少し後ろでは、美咲が腕を組んでいた。
「人多すぎ、この祭り」
美緒はまだかき氷を持っている。
「松田がいなくなったから機嫌悪いんでしょ?」
美咲は即答した。
「別に気にしてないし」
美緒は前を指差す。
「ほら、いるよ」
松田は屋台の近くで陸と話していた。
美咲はすぐ視線を逸らす。
「……バカ」
花恵は拓海の隣を歩いていた。
「もう終わっちゃうね……」
拓海は提灯を見上げる。
「祭りって、いつも終わるの早い」
陽菜は静かに頷いた。
花火はもう終わっていた。
それでもまだ何人かの人たちが通りを歩いている。
今の空気は穏やかだった。
少しだけ寂しくて、
まるで祭りそのものが別れを告げているみたいだった。
その時――
通りの向こうから声が聞こえる。
「……あれ? 葵じゃない?」
葵は足を止めた。
振り返る。
そして目を見開く。
「……武雄?」
彼は笑いながらこちらへ歩いてくる。
後ろには篠原、海斗……そして真夜。
葵は何度か瞬きをした。
「えっ、なんでここに!?」
海斗が手を上げる。
「大学の夏休み」
篠原が落ち着いた声で言った。
「街に戻ってきたんだ」
武雄が笑う。
「Eternal Aegis Onlineのグループにメッセージ送ったのに、誰も見てなかっただろ」
陽菜が目を丸くした。
「うわぁ……そのグループ名、そろそろ変えない? 誰ももうやってないよ」
篠原がため息をつく。
「三つくらい一緒にできるゲームあるのに、毎回誰かが忙しいんだよ」
海斗が指を差した。
「だって俺の大学、お前らと違うし!」
武雄が笑う。
「東邦は課題多いからな~」
真夜は葵を見る。
「演劇部、ちゃんと見てる?」
葵は笑顔になった。
「先輩たちのおかげで、今はすごくいい後輩がいます」
みんなが笑う。
その直後――
後ろから三人の声が響いた。
「えぇぇ!? 先輩たち!?」
峰岸里奈、橘優衣、九条晴人が走ってくる。
晴人がすぐ頭を下げた。
「こんばんは!」
優衣は真夜を見て目を見開く。
「えっ……この人、真夜先輩!?」
里奈と晴人も固まる。
「演劇モンスター!?」
里奈が顔を近づける。
「写真と同じ顔だ……本物だ……」
真夜は黙ったまま、
ゆっくり笑った。
「……演劇モンスター?」
三人が凍りつく。
葵が吹き出した。
「……みんな終わったね」
みんながお互いに挨拶を交わした。
さっきまで静かになりかけていた通りが、
また少し賑やかになる。
武雄が両腕を広げた。
「よし、写真撮ろうぜ!」
その一言で、みんな自然と集まっていく。
先輩たち。
後輩たち。
昔からの友達。
新しくできた仲間。
カメラのシャッター音が、
その瞬間を切り取った。
笑顔。
灯り。
夏。
写真を撮り終えたあと、
松田がポーズを崩しながら笑う。
「だから言っただろ。お前ら、ちゃんと星見のこと覚えてるって」
美緒が首を傾げた。
「じゃあ、ほんとにお祭りのためだけに来たの?」
武雄は当然みたいに答える。
「そりゃそうだろ」
彼は周囲を見回した。
提灯。
通り。
川。
そして懐かしそうに笑う。
「ここ、全然変わってないな」
葵は少し笑った。
「変わったのは武雄のほうだよ」
真夜は静かにみんなを見ていた。
小さく微笑みながら。
美咲が彼女を見る。
「待って……真夜先輩って、あの人たちの先輩なの?」
真夜は頷いた。
「今は大学二年生」
松田が横から言う。
「大学でもあいつらを支配してるらしいぞ」
海斗が即座に反応した。
「嘘だよな、武雄!?」
真夜がゆっくり海斗を見る。
「……もう一回言う?」
沈黙。
美咲が吹き出した。
「私、この人好きかも」
そのあともしばらく、
みんなはその場で話し続けていた。
大学のこと。
学校のこと。
演劇部のこと。
祭りのこと。
提灯は一つずつ消えていき、
通りは少しずつ静かになっていく。
武雄が夜空を見上げた。
「ここの花火見るの、久しぶりだな」
葵は肩をすくめる。
「一番いいところ見逃したけどね」
武雄がため息をついた。
「俺っていつも遅いんだよなぁ」
蒼真はポケットに手を入れながら言う。
「来ただけマシだろ」
篠原は集まったみんなを静かに見渡した。
「星見って、最後にはちゃんとみんな集まるんだな」
美緒が笑って頷く。
「うん、いつもね」
美咲は松田を見る。
彼は海斗の話に大笑いしていた。
相変わらず騒がしい。
美咲は腕を組む。
「……バカ」
美緒がにやりと笑う。
「でも来てくれて嬉しいんでしょ?」
美咲は答えなかった。
でも、
否定もしなかった。
夜風が通りを吹き抜ける。
残っていた提灯が静かに揺れた。
その瞬間――
みんなそこに立っていた。
まるでこの再会が、
ただの偶然だったみたいに。
でも同時に――
最初からこうなる運命だったみたいに。
葵はみんなを見つめる。
昔からの友達。
新しい友達。
そして静かに思った。
それぞれ別の道を進んでも――
こうしてまた同じ場所に戻ってこられる夜がある。
図書館。
弱い冷房。
机の上に広がる参考書。
花恵は真剣な顔で勉強していた。
拓海はノートを見ながら何かを説明している。
美緒は窓の外をぼんやり眺めていた。
美咲は隠れてスマホをいじっている。
蒼真が小声で葵に聞いた。
「この問題、分かった?」
葵は首を傾げる。
「……なんとなく?」
松田が二人を見た。
「お前ら二人とも勉強向いてなさすぎだろ」
美咲が即答する。
「松田のほうがひどい」
夏休み最後の週。
みんなは学校の近くを歩いていた。
校門は閉まっている。
校舎は静かだった。
いつもとは違うくらいに。
葵は立ち止まって校舎を見る。
「学校が空っぽって変な感じ」
蒼真が答えた。
「まあ、もうすぐ戻るけどな」
美緒は校舎を見上げる。
「授業始まったら……」
陽菜が小さく続けた。
「もう三年生の半分過ぎてるんだよね」
美咲が腕を組む。
「そういうこと言わないで」
花恵が少し笑った。
「でも本当だよ」
八月の熱い風が中庭を通り抜ける。
蝉の声はまだ鳴き続けていた。
葵はみんなを見る。
笑っていて。
話していて。
同じ夏を一緒に過ごしている。
そしてふと思った。
たぶん――
こういう日を、
いつか未来で思い出すんだろうなって。
夕日が学校の向こうへ沈み始める。
そして彼らの最後の夏は――
まだ終わっていなかった。




