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特別編2 ―― ホワイトデー

三月の冷たい風が、学校の中庭をやさしく吹き抜けていた。


まだ本当の春ではない。


けれど冬も、もうここに居座ることに疲れてしまったようだった。


空気が変わっていた。


朝の澄んだ光の下で木々がゆっくり揺れ、空には冬の終わり特有の穏やかな青が広がっている。


そしてその日――


学校全体が、どこかいつもと違って見えた。


男子たちが持っている小さな袋のせいかもしれない。


女子たちのさりげない視線のせいかもしれない。


廊下のあちこちで隠しきれない緊張した笑顔が見えるからかもしれない。


あるいはただ――


バレンタインから、もう一か月も経ったからかもしれなかった。


二年B組。


アオイは窓際で頬杖をつきながら、カーテンを揺らす風をぼんやり見つめていた。


そよ風に合わせて髪がわずかに揺れる。


そして小さく呟く。


「……今日はなんか変。」


美緒はスマホから目も上げず、すぐに答えた。


「変じゃないよ。今日はあいつらの復讐の日。」


陽菜は眼鏡をそっと直した。


「復讐じゃないよ……」


小さく笑う。


「お返し。」


美咲は椅子にもたれながら、指の間でペンをくるくる回していた。


「ていうか未だに信じられないんだけど。松田、私たちのチョコ奪ってったんだよ? 美緒!」


美緒は疲れたように小さくため息をつく。


「別に気にしてない。」


頬杖をつきながら続けた。


「義理チョコですらなかったし。あれ、松田が勝手に奪っただけだから。」


花江が大げさにため息をついた。


「ほんと、みんな松田の話しすぎ……」


アオイは思わずくすっと笑った。


美緒は即座に美咲を指差す。


「私はしてない。話してるのはこの人。」


美咲がすぐ振り向く。


「はぁ!? 美緒だって――あーもう、いい!」


そして花江が、少し静かに尋ねた。


「……男子たちも、私たちみたいに緊張したのかな?」


一瞬、誰も答えなかった。


みんな覚えていたから。


震える手でチョコを渡したこと。


拒絶されるかもしれない怖さ。


期待。


小さな箱の中に隠した想い。


美緒はゆっくり腕を組んだ。


「もし緊張してなかったなら……」


窓の外へ視線を向ける。


「するべき。」


なぜか――


全員が静かに同意していた。


昼休み。


颯真は制服の袖を整えながら、静かな足取りで廊下を歩いていた。


遠くから生徒たちの声が学校中に響いている。


男子トイレへ入ると、角の小便器の前で山田陸が立っていた。


いつもよりずっと落ち着かない様子だ。


颯真は真ん中の小便器へ立ち、軽く笑う。


「よ、山田。」


陸は彼を見て、少し安心したような顔になった。


「あ……颯真くん。ちょうどよかった。」


少し迷ってから続ける。


「聞きたいことがあって。」


「何?」


陸は数秒視線を逸らした。


本気で緊張しているのが分かる。


「アオイに何か持ってきたんだろ? 今日ホワイトデーだし……」


颯真は少し照れたように笑った。


「うん……持ってきた。」


一瞬目を伏せる。


「でも、気に入ってくれるか分からなくて。」


陸は小さく息を吐いた。


「……バレンタインの方が簡単なんだよな。」


静かなトイレに水音がやわらかく響く。


「チョコなら大体喜ばれるし。」


苦笑する。


「でも今回は……別のものを渡すから、本当に気に入ってくれるのか考えちゃって。」


颯真は少し黙ったあと、穏やかに答えた。


「一番大事なのは、その人に何を伝えたいかだと思う。」


小さく笑う。


「少なくとも、俺はそう聞いた。」


その瞬間――


二人の間に、ぬっと人影が現れた。


松田が、当然みたいな顔で二人の間の小便器に入り込んでくる。


「安心しろって。」


自信満々の笑みを浮かべた。


「お前らのプレゼント、絶対喜ばれるから!」


陸は即座に嫌そうな顔をする。


「どけよ。端空いてるだろ。」


颯真は笑いを堪えながら言った。


「なんか距離近くない? 松田くん……」


松田は大げさに胸へ手を当てる。


「何言ってんだよ。俺たち友達だろ?」


水音だけがやたら響く、妙に気まずい沈黙。


そして颯真はさっさと終わらせた。


「じゃ、また。」


陸が振り向く。


「あ、でもプレゼントは?」


颯真は洗面台で手を洗いながら、鏡越しに笑った。


「渡せばいいだけだよ、山田くん。」


少し間を置いて、


「へへ。」


そう言って、そのままトイレを出て行った。


陸はしばらく扉を見つめたまま呟く。


「“渡せばいいだけ”って……」


松田が陸の肩に腕を回した。


「お前、ほんと惚れてるな。」


「うるさい。」


二年B組の廊下。


しばらくして、颯真が教室の扉に姿を見せた。


彼の視線は自然とアオイを探す。


そして見つけた瞬間――


無意識に笑っていた。


「アオイ……ちょっと来れる?」


美緒は即座に陽菜の脇腹を肘でつつく。


「始まった。」


陽菜は笑いを堪えた。


「朝からずっと平静装ってたもんね。じゃ、私はダーリン探してくる。またあとで。」


アオイは無表情を保とうとしながら立ち上がる。


でも友達たちはもうニヤニヤしていた。


彼女はそれを完全に無視するように教室を出る。


廊下で、颯真は小さな白い箱を大事そうに持っていた。


表情はいつも通り穏やか。


けれど箱を握る指先が、緊張を隠しきれていなかった。


アオイはすぐ気づく。


それだけで心臓が速くなる。


颯真は小さく息を吸った。


そして優しく笑う。


「ハッピーホワイトデー。」


アオイは驚いたように瞬きをする。


ゆっくり視線が箱へ落ちる。


「……何か、持ってきたの?」


「もちろん。」


彼は丁寧に箱を差し出した。


「この前のチョコ、ありがとう。」


アオイはそっと受け取る。


強く握ってしまわないように。


そしてゆっくり開けた。


中には綺麗に並べられた高級チョコレート。


そして――


小さな舞台モチーフのキーホルダー。


彼女の視線は数秒そこに釘付けになった。


沈黙。


それから小さく尋ねる。


「……これ、選んだの?」


颯真は照れたように後頭部をかく。


「従姉妹にLINEで相談した。」


アオイは小さく笑った。


自然な笑み。


「裏切り者。」


颯真も笑い出す。


「でもキーホルダーは俺が選んだ。」


アオイは指先でキーホルダーをそっと持ち上げる。


窓から差し込む光の中で、彼女の瞳が静かに輝いていた。


そこには、とても温かくて真っ直ぐな感情があった。


彼女はゆっくり箱を閉じる。


「……嬉しい。」


颯真はその瞬間、肩の力を抜いた。


朝からずっと息を止めていたみたいに。


「あぁ……」


照れ笑いする。


「気に入ってもらえないかと思ってた。」


アオイは箱を胸に抱きしめたまま、


笑顔を隠すようにそっと視線を逸らした。


二階の廊下。


山田陸は窓際の壁にもたれて待っていた。


ポケットに手を入れているのに、全然落ち着いていない。


陽菜が廊下へ現れると――


彼はさらに真剣な顔になる。


心臓が一気に跳ね上がった。


「陽菜。」


彼女は立ち止まる。


「うん?」


陸は背中に隠していた小さな袋を取り出す。


そして丁寧に差し出した。


「ハッピーホワイトデー。」


陽菜は驚いて瞬きをする。


ゆっくり開ける。


中には手作りクッキー。


そして繊細なネックレス。


彼女の目が大きく開かれた。


クッキーは明らかに完璧じゃない。


少し歪なもの。


少し焦げているもの。


でもだからこそ――


驚くほど気持ちが伝わってくる。


陽菜は思わず小さく笑った。


でも瞳はきらきらしている。


「これ、陸くんが作ったの?」


ゆっくり顔を上げる。


「それに、このネックレスも……あ、ち、違う、ネックレスは作ってないけど……えっと、言いたいこと分かるよね。」


陸は即座に顔を逸らした。


耳まで真っ赤だ。


「……頑張った。」


陽菜はクッキーを一枚取る。


小さくかじった。


数秒、沈黙。


陸は返事を待ちながら死にそうな顔をしている。


そして――


彼女は笑った。


優しくて、胸が止まりそうになるほど柔らかい笑顔。


「すごく美味しい。」


陸は肺に詰まっていた空気をやっと吐き出した。


肩の力が一気に抜ける。


すると陽菜はゆっくり背中を向けた。


髪が肩を滑り落ちる。


ネックレスを手に持ちながら、


「つけてくれる?」


陸は一瞬目を見開く。


「ぁ……う、うん。」


少し震える手でネックレスをつける。


陽菜は胸元のペンダントをそっと握った。


そして照れたように笑う。


「全部台無しになんてならないよ、ダーリン……」


少し顔を向ける。


瞳が彼を見つめた。


「陸くんは違う。」


陸は真っ赤になった。


そして陽菜がゆっくり振り返る。


「どう?」


その瞬間――


窓から柔らかな朝日が差し込んだ。


ネックレスが小さく光る。


陸は言葉を失った。


まるで大切すぎるものを見るように、彼女から目を離せない。


「……き、綺麗。」


陽菜の顔も一気に熱くなる。


制服の袖をぎゅっと握った。


「だ、ダーリン……」


その朝初めて――


陸は自分が何を言おうとしていたのか、全部忘れてしまった。


生徒会室。


匠は小さな箱を机の上へ丁寧に置いた。


花江は疑うように首を傾げる。


「なにこれ?」


「ホワイトデー。」


彼女はゆっくり箱を手に取る。


「高そう。」


「高くない。」


「嘘つき。」


匠は諦めたようにため息をつく。


「ただ、お返ししたかっただけ。」


花江は蓋を開ける。


中には綺麗に並んだ上品なボンボンショコラ。


彼女はしばらく黙って見つめていた。


そして表情が柔らかくなる。


「匠くん……」


小さく笑う。


でも、とても嬉しそうに。


「ありがとう。すごく嬉しい。」


匠も控えめに笑った。


「ちゃんと選んだから。」


さりげなく視線を逸らす。


「気に入ってくれてよかった。」


部屋の外では――


何人かの女子たちがドアの隙間から覗いていた。


「きゃー……」


「尊い……」


花江はくすくす笑う。


匠は即座に顔を覆った。


「俺、一生あいつらから解放されないのか……?」


二年B組。


勢いよく扉が開いた。


「MISAKI!」


美咲は顔も上げない。


「何?」


松田は大きな袋を彼女の机に置いた。


「ホワイトデー。」


美咲は怪訝そうに開ける。


そして固まった。


中にはネックレス。


「なにこれぇぇ!?!?」


「ホワイトデー。」


「いや、でも――!」


彼女は箱を持ち上げて抗議する。


「私、チョコあげてないでしょ!? あんたが勝手に奪ったんだから!」


松田は腕を組む。


でも今回は――


いつもの挑発的な笑顔じゃなかった。


少し照れくさそうな表情。


「じゃあ、謝罪だと思って。」


視線を逸らす。


「……それか、お返し。」


少し間を置く。


「好きなように受け取って。」


美咲はしばらく黙って彼を見つめていた。


それから小さく笑い出す。


自然な笑い。


「なんでこんなことしたの?」


ネックレスを大事そうに持ちながら言う。


「別に、そこまでしなくてよかったのに。松田くん。」


松田は照れたように頭をかいた。


「でも受け取っただろ。」


美咲は諦めたようにため息をつく。


「バカ。」


でも笑っていた。


今回は――


隠そうともしなかった。


放課後。


空はゆっくりオレンジ色に染まり始めていた。


夕暮れの光が、やさしく校舎の廊下を照らしている。


みんなで並んで校門へ向かう。


小さな袋が手の中で揺れていた。


三月の冷たい空気の中に、静かな笑い声が響く。


美緒は少し後ろを歩いていた。


最初に気づいたのはアオイだった。


彼女は歩く速度を落とす。


「何かもらった?」


美緒は肩をすくめた。


「別に。」


美咲が首を傾げる。


「隣のクラスの男子は?」


「私、チョコ渡してないし。」


陽菜が小さく笑った。


「じゃあ何期待してたの?」


美緒は数秒黙った。


風が彼女の髪をやさしく揺らす。


それから小さく答える。


「……別に。」


でも、三月の冷たい風がもう一度校庭を吹き抜けた時――


彼女はほとんど聞こえない声で呟いた。


「……来年かな。」


女子たちはすぐに笑い出した。


松田が周りを見渡す。


「じゃあこれでチャラってことでいい?」


美咲は即答した。


「なるわけないでしょ。」


全員が笑い出す。


アオイは少し後ろを歩きながら、


みんなを見つめていた。


笑い声。


手の中の小さな袋。


赤くなった顔。


チョコやネックレスや、うまく言えなかった言葉に隠れた想い。


何気ない瞬間。


小さな時間。


でも――


とても大切なもの。


そして彼女は、ひとり静かに微笑んだ。


心の中でそっと思う。


「きっと……」


「全部終わった時に思い出すのは、こういう時間なんだろうな。」


春の風は、少しずつ近づいていた。


そして今はまだ――


ちゃんと、時間が残っている。

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