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番外編1 — バレンタインデー

三年生たちの卒業前――

そして、葵が三年生になる前のこと。


二年B組の隣の廊下は、その二月の朝、いつもよりずっと騒がしかった。


小さく飾られた袋を持ちながら、ひそひそ話している女子たち。

背中に箱を隠しながら、緊張したように笑っている子たちもいた。


空気がいつもと違った。


もっと軽くて。


どこか落ち着かなくて。


騒がしい周囲を眺めながら、蒼真は葵の隣を歩いていた。


「今日はみんな、なんか浮かれてるな」


葵は教科書を胸に抱えながら、落ち着いた足取りで歩いていた。


そして、小さく笑う。


「まあね……明日はちょっと特別な日だし」


蒼真は大げさに目を見開いた。


「ああっ……明日ってバレンタインデーか!」


葵は吹き出しそうになるのを堪えた。


「チョコ欲しいって顔してる」


蒼真は傷ついたふりをして胸に手を当てる。


「葵……俺はお前のしか受け取らないから」


葵はため息をつきながら視線を逸らした。

浮かびかけた小さな笑みを隠すように。


「義理チョコもらうくらいなら別にいいけど……」


横目で彼を見る。


「その代わり、ホワイトデーでちゃんと返してね」


蒼真はすぐに喉を鳴らした。


顔がほんの少し熱くなる。


「じゃ、義理チョコは……一緒に食べようか」


葵は頬を膨らませた。


「それは蒼真だけのだから。ふん……」


そこでふと動きを止める。


目がゆっくり細くなった。


「待って……もう義理チョコもらってるの?」


蒼真は一瞬で冷や汗をかき始めた。


「ろ、ロッカーに入ってたんだよ!」


「誰からか分かってるの?」


「いや……直接渡されたわけじゃないし……」


「今週の葵、ずーっと蒼真にべったりだったもんねぇ。直接渡せる子なんていないでしょ、へへ」


二人は飛び上がるほど驚いた。


「MISAKI!!」


美咲はお腹を抱えて笑っていた。


「ははっ、安心して。幽霊じゃないから」


その時、肩にバッグを掛けた松田が横を通り過ぎる。


「おはよう」


全員が一緒に返した。


「おはよう」


松田は怪しい笑みを浮かべながら美咲を見る。


「義理チョコの寄付、いつでも受け付けてるからな、アライちゃん?」


美咲は即座に腕を組んだ。


「勝手に私があげる前提で話さないでくれる? あと、その呼び方やめろって前にも言ったでしょ!」


松田は芝居がかったように胸に手を当てる。


「誰にも言わないから。ありがとな」


「そのニヤけ顔やめろ!!」


葵と蒼真は思わず一緒に笑ってしまった。


そして数秒間――


その朝は、驚くほど普通だった。


教室へ入ると、陽菜はすでに後ろの席で山田陸の隣に座っていた。


けれど、どこか様子がおかしい。


静かすぎるほど静かにスマホを触っていた。


葵はすぐに気づく。


そのまま近づいて、彼女の前の席に座った。


蒼真は山田の前に座る。


陸は少し首を傾げた。


「今日の陽菜、なんか変じゃない……?」


陽菜は数秒間スマホを見つめたまま、ようやく顔を上げる。


「葵、おはよう」


葵は困惑したように瞬きをした。


「えっと……おはよう、陽菜?」


蒼真は二人をさりげなく見ていた。


山田がもう一度呼ぶ。


「ひなぁ……」


「なに、陸?」


「えっと……俺、なんかした?」


陽菜はようやくスマホをしまった。


そして数秒、彼を見つめる。


「自分で考えてみれば?」


そう言って立ち上がり、教室の窓を開けた。


二月の冷たい風が室内へ流れ込む。


蒼真は目を丸くした。


「何があったんだ?」


陸はため息をつく。


「俺も分かんない……」


すると葵が何気なく聞いた。


「昨日、“先輩”って呼んでた女の子たち、誰だったの? 陸くん」


陸は何度か瞬きをする。


「女の子? ああ……一年の子たち?」


蒼真が少し身を乗り出す。


「一年?」


「一年も二年もいたけど……文芸部の子たちだよ」


葵は頬杖をついた。


「なんか、やけに距離近かったけど……」


山田陸は一瞬黙る。


そして目を見開いた。


「あ……」


陽菜の方を見る。


「もしかして、それ?」


蒼真は腕を組む。


「かもな。違うかもしれないけど。ちゃんと聞いてみれば?」


後ろの席から、松田が口元を歪めた。


「女の子って、何が嫌か絶対ストレートに言わないよな? なぁ、葵ちゃん」


葵はすぐ後ろを振り返る。


「はぁ?」


美咲は深いため息をついた。


「松田って、ほんと女の子の何知ってんの? 三次元の女子は違うんだからね?」


松田は大げさに胸へ手を当てた。


「お? ケンカ売ってる?」


彼は美咲を指差す。


「言っとくけど、二次元の女の子の方がお前より可愛いからな!」


美咲は即座に立ち上がり、松田の制服の襟を掴んだ。


「今なんつったァ!?」


松田の顔が一瞬で真っ赤になる。


「ち、近い近い……!」


美咲はすぐに手を離した。


「くっそ! 覚えてろよ松田!」


みんな思わず小さく笑う。


その時、美桜が教室へ入ってきた。


「おはよう!」


全員が返す。


「おはよう!」


その直後、美桜の背中にもたれかかるように花恵が現れた。


「おっはよぉ〜」


美桜は疲れたようにため息をつく。


「あんたが昔みたいに静かだった頃が懐かしいわ」


花恵は元気いっぱいに笑った。


「美桜ちゃんにやる気なくされても無駄だよ! 明日は特別な日なんだから!」


美桜は首を傾げる。


「明日……? 明日がどうしたの?」


葵が即答した。


「バレンタインデー」


蒼真は葵を見て、そっと笑う。


美桜はそのまま机に突っ伏した。


「あーあ……チョコかぁ。気分乗らない」


松田はすぐに手を挙げる。


「渡す相手いないなら俺にくれよ」


美桜は考える間もなく彼を指差した。


「自分で買えば?」


蒼真と葵と陽菜は一緒に笑ってしまう。


「ふふっ……」


松田は大げさな自信たっぷりの顔で腕を組んだ。


「去年は一個ももらえなかったけど……今年は絶対いっぱいもらえる気がするんだよな、へへ」


その時、匠が教室の入り口に現れた。


「その通りだ」


全員が彼を見る。


匠は眼鏡を直した。


「君たちは今年が最後の年だからな。後輩たちも自然と意識するだろう」


沈黙。


花恵がゆっくり笑う。


「匠くん、それ結構考えてたでしょ?」


匠は固まった。


「べ、別に違う! 俺はただ、明日を気にしてる松田に状況を説明していただけだ!」


松田は自分を指差す。


「俺、別に不安じゃないけど?」


そう言って笑う。


「むしろ楽しみ」


その直後、先生が教室に入ってきた。


全員が席へ戻る。


でも。


軽くて、どこか落ち着かない空気は、ずっと教室に残ったままだった。


ただのバレンタインデー。


だけどみんな、心のどこかで分かっていた。


これが――


この学校で過ごす、最後のバレンタインになることを。


休み時間はあっという間にやってきた。


ほとんど人のいない教室で、葵と蒼真は一緒に弁当を食べていた。


午後の日差しが窓から柔らかく差し込む。


陽菜は急いで筆箱を閉じて立ち上がった。


「ちょっと行ってくるね……へへ」


美桜が眉を上げる。


「またお弁当忘れたの?」


陽菜は気まずそうに笑った。


「うん……」


美咲も立ち上がる。


「陽菜、私も行く」


花恵もすぐ後ろに続いた。


「私も〜!」


陽菜は諦めたようにため息をつく。


「はぁ……分かった」


三人は一緒に階段を降りていく。


歩きながら、花恵が言った。


「誰かチョコ作れる? 明日までに覚えないとなんだけど」


陽菜は口元を少し緩める。


「ほんと? あんなに自信満々だったのに、ふふ。匠くんにあげたいんでしょ?」


花恵はまったく恥ずかしがる様子もなく笑った。


「付き合ってるんだもん。普通でしょ?」


陽菜は小さく笑う。


「いいよ……手伝ってあげる」


美咲がほとんど聞こえない声で呟いた。


「私も……あげたいかも……」


二人はぴたりと止まった。


信じられないものを見るように美咲を見る。


陽菜は口元を押さえた。


「えっ……まさか松田にチョコ渡したいの!?」


美咲は即座にムッとした顔になる。


「なわけないでしょ!!」



彼女は勢いよく腕を組んだ。


「義理ですらあげないわよ、あんなやつに!」


そこでぴたりと止まる。


ぱちりと瞬きをした。


「あ……間違えた。」


花江が大げさに目を見開く。


「ええええっ!? 美咲って好きな人いるの!?」


美咲は即座に花江の口を塞いだ。


「ば、バカなこと言わないで!」


彼女は慌てて周囲を見回す。


「そんなこと言ったら、本当に私が――」


ちょうどその時、廊下を歩いていた女子たちが彼女たちの方を見る。


美咲はすぐにそれに気づいた。


「なによ!?」


女子たちはびくっとして、そのまま足早に去っていく。


そのうちの一人が小声で囁いた。


「……あの子たち、付き合ってるのかな。」


美咲は爆発しそうになる。


「ちょっと待ちなさい!!」


彼女はドラマみたいに女子たちを指差した。


「私は女の子好きじゃないからね!? 聞こえた!?」


女子たちはそのまま廊下の向こうへ消えていった。


沈黙。


美咲はゆっくりと陽菜と花江の方を振り向く。


二人とも口元を押さえていた。


好奇心で目を輝かせながら。


しかも、完全に面白がっている笑顔で。


「ちゃんと聞こえたよ、美咲……」


美咲は二人を丸三秒じっと見つめた。


それから観念したようにため息をつく。


肩が落ちた。


そして小さな声で呟く。


「……わかったわよ。」


彼女は視線を逸らした。


少しだけ頬を赤くしながら。


「チョコ作るの、手伝って……男の子に渡したいの。」


二人は勢いよく飛び跳ねた。


「やったあああ!!」


美咲は思わず小さく笑う。


「ほんと、二人ともバカなんだから……へへ。」


そして初めて――


彼女はそれを嫌がっているようには見えなかった。


2-Bの教室では、蒼井が弁当を食べ終え、美緒の方を見る。


「美緒……あとでちょっと手伝ってくれる?」


美緒はすぐに察した。


「手伝う?」


彼女は口元に笑みを浮かべる。


「もし私の考えてることなら……陽菜も必要になりそうね。」


蒼井は小さく首を傾げた。


「うーん……でも、陽菜ってそういうの作れるのかな?」


美緒は笑いをこらえる。


「陽菜、付き合い始めてからちょっと変わったのよ。」


楽しそうに笑いながら続ける。


「プリンス・ジョンのこと覚えてる? あはは。」


蒼井は目を見開いた。


「ああっ、ほんとだ!」


彼女は小さく笑う。


「最近もう全然その話しなくなったね。」


美緒はさりげなく窓の外を見る。


「料理もかなり上手くなったし。」


蒼井は驚いた顔をした。


「陽菜がねぇ……」


彼女はふっと微笑む。


「私が気づいてなかったこと、結構見てたんだね。」


美緒はしばらく黙って蒼井を見る。


それから優しく答えた。


「蒼井も、ちゃんと気づいてると思うけど。」


蒼井は頬杖をつく。


窓から入った風が、彼女の髪をやさしく揺らした。


彼女は小さく笑う。


「そこまで自信ないかも……へへ。」


溶けたチョコレートの甘い香りが、すでに家庭科室いっぱいに広がっていた。


空気は暖かい。


居心地がいい。


小さな鍋が並び、卓上コンロには火がつき、金属ボウルが作業台に散らばっている。


その光景は、普通の教室というより、即席の洋菓子店みたいだった。


外では、二月の空がまだ明るい。


でも、この部屋の中は――


バレンタインデー特有の、柔らかくて落ち着かない空気に包まれていた。


先生はグループの間をゆっくり歩きながら、みんなの作業を見ていた。


「今日はバレンタイン用の簡単なレシピを練習します。もっと凝ったものを作りたい人は型を使ってもいいですよ。」


何人かの女子は嬉しそうに声を上げる。


一方で、それを聞いただけで明らかに緊張した子たちもいた。


窓際では、蒼井、美緒、陽菜、花江、美咲がすでに材料を全部並べ終えていた。


陽菜は髪を耳にかけながら、真剣にレシピを読んでいる。


驚くほど集中した表情だった。


「まずは湯せんでチョコを溶かさないと。」


美咲はすぐに手を挙げた。


「待って……ゆせん……何それ?」


蒼井はその瞬間、疲れたようにため息をつく。


「もう始まった……」


花江は鍋を、複雑すぎる機械でも見るみたいに眺めていた。


「え、普通に火にかけて溶かすだけじゃないの?」


美緒は大げさに目を見開く。


「ダメ!!」


彼女は半ば必死になりながら鍋を指差した。


「直接火にかけたら焦げるから!」


花江はゆっくり瞬きをした。


「……あ。」


陽菜は笑いをこらえる。


それから落ち着いた様子で大きな鍋を持ち上げた。


「ほら、見てて。」


鍋に水を入れ、その上に金属ボウルを乗せる。


湯気がゆっくり立ち上った。


「蒸気の熱でチョコを溶かすの。そうすると滑らかになるんだよ。」


美咲はほとんど催眠にかかったみたいに見つめていた。


「なんか科学みたい……」


蒼井は腕を組む。


「それを基本的な料理って言うの。」


美咲はゆっくり蒼井の方を向いた。


「じゃあなんで蒼井は作ってないの?」


蒼井はすぐに目を逸らした。


「わ、私は……監督してるの。」


美緒が小さく笑い始める。


「監督ってことは、蒼井もちゃんと分かってないんでしょ?」


蒼井は一瞬で赤くなった。


「す、少しくらいは分かるもん……」


その間にも、陽菜は丁寧に板チョコを割っていく。


パキッという乾いた音が、教室中の女子たちの話し声に混ざった。


花江は純粋な興味でボウルに顔を近づける。


チョコが少しずつ柔らかくなっていく様子を、じっと目で追っていた。


「もう溶けてきてる……」


「まだ混ぜちゃだめだよ。」と陽菜は落ち着いて言った。


でも、もう遅かった。


美咲はすでにスプーンを持っていた。


彼女は混ぜる。


そして次の瞬間、チョコが全部スプーンにベッタリくっついた。


「あ。」


沈黙が流れる。


蒼井はゆっくり頬杖をついた。


「すごいね。」


美緒は小さく笑い始める。


「始まる前から失敗するなんて。」


美咲はチョコまみれのスプーンを掲げ、自分の尊厳を守ろうとしているみたいだった。


「でもこれ、まだチョコだよね……?」


花江は真面目な顔でそれを見つめながら首を傾げる。


「たぶん。」


陽菜はもう笑いをこらえきれなかった。


それでも深呼吸して、別のスプーンを手に取る。


「はい……ちゃんとやろう。」


彼女はゆっくり混ぜ始めた。


柔らかく。


丁寧に。


少しずつ、チョコは滑らかで艶のある状態になっていく。


窓から差し込む光が、溶けた表面に反射していた。


美咲はすぐに顔を近づける。


「わぁ……」


花江でさえ、本気で感動しているようだった。


「お店のチョコみたい……」


美緒はハート型の型を作業台に置いた。


「じゃあ次は二人とも練習。」


美咲は自分を指差す。


「私!?」


「そう。あなた。」


花江にもチョコをすくうお玉が渡される。


二人は型を見る。


それから互いを見る。


まるで今から犯罪を犯そうとしている人みたいに。


そして同時にチョコを流し込んだ。


結果――


チョコが溢れる。


作業台に流れる。


机に落ちる。


型以外の場所にほぼ全部落ちる。


蒼井は数秒間、無言でその光景を見つめた。


それから長いため息をつく。


「二人とも、明日までに絶対練習したほうがいいよ。」


美咲はチョコまみれの手を挙げた。


「でもこれって、手作りってことでいいのよね?」


陽菜が笑い出す。


美緒は真面目な顔を保とうとした。


でも口元が震えていた。


そして――


ついに蒼井まで吹き出した。


心からの笑い声。


軽くて。


自然にこぼれてしまうような笑いだった。


四人は驚いたように彼女を見る。


美緒はじっと蒼井を見ながら言った。


「蒼井がそんなふうに笑うの、初めて聞いたかも……」


普段の蒼井は静かに笑うだけだった。


でも、その時だけは――


本当に幸せそうに見えた。


「明日は――」


まだ笑いながら、蒼井は言う。


「ちゃんと作れるようになるよ。」


美咲は即座に返した。


「じゃあ今日は失敗作を食べよう。」


花江も手を挙げて賛成する。


「賛成ー。」


チョコレートの香りは、まだ教室いっぱいに広がっていた。


いくつかの鍋はすでに洗われている。


別のクラスの生徒たちは、明日のバレンタインの話をしながら楽しそうに廊下へ出ていく。


笑い声が外から響く。


忙しない足音。


飾り袋の中に隠されていく小さな秘密。


美咲は自分の作ったチョコを黙って見つめていた。


それはまるで――


隕石みたいだった。


彼女はゆっくり顔をしかめる。


「これ……ハートのつもりだったんだけど。」


花江も自分のを持ち上げた。


そっちはもっと酷い。


「私の、化学兵器になってる。」


陽菜は笑いをこらえながら口元を押さえた。


「二人ともチョコ焦がしたんだ……」


彼女は二つの料理惨事を見つめる。


「それ、ほぼ不可能だよ。」


美緒は腕を組んだ。


「不可能じゃないわ。」


彼女は花江と美咲を見る。


「ドジな二人が協力すればできるの。」


「ちょっと!」と美咲はすぐに抗議した。


蒼井はボウルを片付けながら、机の上の歪なチョコを見つめていた。


それから小さく微笑みながらため息をつく。


「それ明日渡したら……誰か死ぬかも。」


花江は大げさに胸に手を当てた。


「じゃあ私のバレンタイン、毒殺されちゃう……」


「毒じゃなくてチョコでしょ!」と美咲がムッとして返す。


陽菜は少し首を傾げた。


「でも、本当にもう一回練習したほうがいいよ。」


美緒もすぐに頷く。



「ちゃんとしたチョコを作るには、温度管理が大事なの。」


美咲は壁の時計を見上げた。


針はもう授業の終わりへ近づいている。


「でも、もう時間終わりじゃん……」


花江も少し考え込む。


「しかも明日、もうバレンタインだし……」


数秒間、グループは静まり返った。


居心地の悪くない沈黙。


どこか「最後の一年」らしい空気が混ざった沈黙だった。


だって、こんなくだらない時間ですら――


みんな心のどこかで分かっていたから。


もしかしたら、これがこの学校で過ごす最後のバレンタインになるかもしれないって。


すると蒼井がそっと手を挙げた。


少しだけ遠慮がちに。


「……うち、来る?」


全員が同時に蒼井を見る。


「へ?」と美咲が瞬きをした。


蒼井は少し照れたように視線を逸らす。


制服の袖を指先でいじりながら、小さく呟いた。


「先週、お母さんがお菓子用のチョコ買ってきてて……」


少し間を置く。


「まだ誰も使ってないの。」


美緒はすぐに笑った。


全部理解したような笑顔だった。


「つまり、最初から何かするつもりだったんだ。」


蒼井は一瞬で真っ赤になる。


「ち、違う!」


彼女は顔を背けた。


「た、ただ……使うかもしれないって思っただけで……」


陽菜がくすっと笑い始める。


「蒼井……」


優しい笑みを浮かべながら続けた。


「最近ほんと分かりやすすぎるよ。」


花江は嬉しそうに両手を合わせる。


目がきらきら輝いていた。


「待って! じゃあ成功するまで練習できるってこと!?」


蒼井もつられて笑ってしまう。


小さな笑顔。


でも、ちゃんと本物の笑顔だった。


「うん。」


美咲は勢いよく両腕を天井へ突き上げた。


「救済きたあああ!!」


その叫び声に、廊下にいた何人かの生徒が驚いて振り向く。


美咲はすぐそれに気づいた。


そしてゆっくり腕を下ろす。


完全に恥ずかしそうに。


「……だって、明日ひどいもの渡したくないし……」


今度の声は少し小さかった。


少しだけ、本音っぽかった。


その瞬間だけ、誰もからかわなかった。


みんな分かっていたから。


「ただのチョコ」なんかじゃない。


最初からずっと。


それは緊張で。


期待で。


誰かに気持ちを渡す怖さだった。


美緒は箱の中に道具をゆっくり片付け始める。


「じゃあ、さっさと行きましょう。」


陽菜も丁寧にエプロンをバッグへしまった。


「賛成。練習は多いほうがいいし。」


すると花江が純粋な興味で蒼井を見る。


「お母さん、許してくれるの?」


蒼井は少しだけ考え込んだ。


それから静かに答える。


「……お母さん、人が来るの好きだから。」


美咲はすぐに笑顔になった。


「じゃあ決定!」


彼女は大げさに全員を指差す。


「完璧なチョコ作戦、本日スタート!」


美緒は疲れたようにため息をついた。


「まず最初の目標は、あなたたち二人がチョコ焦がさないようにすることね。」


花江は腕を組む。


「えー!」


蒼井はバッグを持ちながら、教室の窓の外を見る。


空はもうゆっくり暗くなり始めていた。


夕方のオレンジ色の光が、校舎の廊下を染めている。


「暗くなる前に行こ。」


五人は一緒に教室を出た。


そして廊下を歩いているうちに――


会話はどんどん軽くなっていった。


もっと自然に。


バレンタインデーはもうすぐだった。


誰も失敗したくなかった。


チョコも。


そこに込める気持ちも。


坂本家――


坂本家は、彼女たちが到着した時とても静かだった。


玄関へ入る靴音が、廊下にやさしく響く。


最初にドアを開けたのは蒼井だった。


「荷物、ここ置いていいよ。」


真っ先にほぼ突撃するようにキッチンへ向かったのは美咲だった。


彼女の目はすぐに輝く。


「うわぁ……広いキッチン!」


両腕を大げさに広げる。


「これで大惨事を起こさない確率が上がった!」


「期待しないほうがいいわね。」と、美緒は椅子にバッグを置きながら答えた。


陽菜はすでに自然に材料を整理し始めている。


顔にかかった髪を払いつつ、チョコを分けていた。


「早く終わらせよ。明日も朝早いし。」


花江は即座に手を挙げる。


「はい、陽菜ちゃん!」


陽菜は驚いたように彼女を見る。


それから笑い始めた。


「陽菜ちゃんって、花江? あはは。」


「冗談だよ、へへ。」


花江はチョコの箱を一つ開ける。


「それにしても、あの大惨事のあとでまだ続けようってなったの信じられない。」


美咲はハート型を持ち上げた。


「ねえ、これ言い出したの蒼井だからね!」


蒼井は一瞬で固まった。


「わ、私は今日やったほうが楽かなって言っただけで……」


美緒は横目で彼女を見る。


ゆっくり笑みを浮かべながら。


「へぇ。」


頬杖をつきながら続けた。


「蒼真、絶対喜ぶだろうね。そのチョコ。二人にとって初めてのバレンタインでしょ?」


沈黙。


そして――


「うわぁぁ~♪」


全員が同時にからかい始めた。


蒼井は真っ赤になりながら、観念したようにため息をつく。


「みんなうるさい……」


すると彼女は話題を逸らそうとするように、すぐ花江と陽菜を指差した。


「そっちだって初めてでしょ!」


花江は一瞬で赤くなる。


陽菜は視線を逸らした。


そのあと三人は同時に笑い出す。


そして、その瞬間だけ――


キッチンは信じられないくらい賑やかだった。


陽菜は溶けたチョコを丁寧に混ぜ始める。


甘い香りがすぐにキッチンいっぱいへ広がった。


天井の暖かい光が、艶のあるチョコの表面に反射している。


美咲はテーブルに身を乗り出しながら眺めた。


「これ、授業の時よりずっとマシじゃん。」


「今は誰も叫びながら指示してないからね。」と花江が返す。


美緒はヘラを持ち上げた。


「今度は全部こぼさないでよ。」


「あれは事故だったの!」と美咲が即座に抗議する。


蒼井が集中して型へチョコを流し込んでいた、その時――


家のドアが開いた。


そして聞き慣れた声が廊下に響く。


「ただいま~」


柔らかな足音が玄関を通ってくる。


そして――


「蒼井? 何を――」


声が止まった。


仕事着姿の由紀子がキッチンの入り口に現れる。


彼女はテーブルを見る。


散らばったチョコ。


ハート型。


キッチンの真ん中で固まっている五人の少女たち。


それから、ゆっくり笑みが浮かんだ。


どこか懐かしそうな笑顔だった。


「ああ……」


蒼井はすぐにため息をつく。


「お母さん……」


由紀子はゆっくり中へ入ってくる。


その目は、その光景の一つ一つを見つめていた。


そしてさらに微笑む。


「バレンタイン……そういうことね?」


彼女はやわらかく笑った。


「ああ、懐かしいなぁ。」


美咲はすぐに手を挙げる。


「今、練習中です!」


由紀子はテーブルの惨状を見る。


「ええ……確かに練習って感じね。」


全員が笑ってしまった。


彼女はバッグを椅子に置き、溶けたチョコを見る。


それから数秒間、黙り込んだ。


少し違う沈黙。


もっと遠い記憶を見るような沈黙だった。


最初に気づいたのは陽菜だった。


「どうしたんですか?」


由紀子はゆっくり腕を組む。


その視線は、どこか昔の記憶に向いているようだった。


「……そっか。」


彼女は一人で微笑む。


「母さん、こんな気持ちだったんだ。」


蒼井は驚いて瞬きをした。


「おばあちゃん、見てたの?」


由紀子はゆっくり頷く。


「うん。」


彼女は蒼井を見る。


その目は優しかった。


少し泣きそうなくらいに。


「私がチョコ作ってるの、同じ顔で見てた。」


少し間が空く。


「やっと分かった気がする。」


数秒間――


キッチンは静まり返った。


それはただの思い出話じゃなかった。


時間が流れていく感覚だった。


何年経っても、同じ形で気持ちが受け継がれていく感覚だった。


花江は首を傾げる。


「ほんとに?」


「うん。」


由紀子は小さく笑い始めた。


「私も完璧なチョコ作ろうとして、夜遅くまで頑張ってたから。」


そして彼女は真っ直ぐ蒼井を見る。


いたずらっぽい笑みが浮かんだ。


「誰に渡すのか聞かれるたびに、真っ赤になってたしね。」


蒼井は即座にボウルへ顔を向ける。


「お母さん。」


美咲は大げさに目を見開いた。


「蒼井のチョコ、蒼真くんに渡すんですよ、坂本さん!」


由紀子はすぐ両手を頬に当てた。


目が本当に輝いていた。


「きゃああっ!」


彼女は感極まったように蒼井を見る。


「初めての彼氏に、初めての手作りチョコ……」


胸に手を当てる。


「私もそれでお父さん落としたのよ、蒼井。」


絶対的な沈黙。


全員が固まって由紀子を見る。


陽菜は目を見開いた。


「えぇっ、本当に!?」


蒼井は顔を真っ赤にしていた。


「お、お母さぁん……!」


由紀子は笑い始める。


「あはは、ごめんごめん。」


蒼井は顔を両手で覆った。


「なんで言うの、美咲……?」


美咲は即答した。


「必要だったから。」


由紀子は椅子を引いて彼女たちの近くへ座る。


「続けて、続けて。」


陽菜は興味津々で尋ねた。


「チョコ、成功したんですか?」


由紀子は数秒考える。


それから一人で笑い始めた。


「そこまでじゃなかったかな。」


「それでも渡したんですか?」と花江が驚いて聞く。


由紀子はゆっくり頷く。


頬杖をついた。


その目は懐かしさで輝いていた。


「渡したわ。」


彼女はやさしく微笑む。


「全部食べてくれた。」


沈黙。


暖かくて。


居心地のいい沈黙だった。


美咲はヘラを大げさに突きつける。


「ほら見た!」


彼女はみんなを見る。


「だから変な形でも――」


「大事なのは、受け取る人よ。」


由紀子が優しく言葉を続けた。


蒼井は最後のチョコを型へ流し込みながら、静かにしていた。


でも陽菜は気づいていた。


彼女が隠そうとしている小さな笑顔に。


美緒は軽く机を叩く。


「よし。最後の一回ね。」


美咲は両手を上げた。


「これが成功したら……明日は歴史的になる!」


花江は腕を組む。


「それとも大惨事かも。」


由紀子は、五人の少女たちが一緒に作業する様子を眺めていた。


笑いながら。


机のチョコを拭きながら。


どの型が一番かわいいか言い合いながら。


そして、懐かしそうに小さくため息をつく。


「こんなに賑やかなキッチン、久しぶりね……」


誰も答えなかった。


でも蒼井には聞こえていた。


そして彼女の小さな笑顔が、それを物語っていた。


それから蒼井は美緒と美咲を見る。


「二人は、誰にチョコ渡すの?」


二人は同時に固まった。


ゆっくりヘラを置く。


美咲は目を細めた。


「それについては……」


彼女は顔を逸らす。


「蒼井には関係ないでしょ。」


それから素早く腕を組む。


「誤解しないでよね。」


美緒は落ち着いた声で答えた。


「私は前にも言ったでしょ。最後の年だから義理チョコ渡したいだけ。」


花江は大げさに口元を押さえた。


それから美咲を指差す。


「美咲……」


危険そうな笑みを浮かべる。


「まさか松田に渡すんじゃないよね?」


美咲は顔を真っ赤にした。


「は、花江ぇぇぇっ!!」


彼女は勢いよく花江を指差す。


「自分のチョコ作りに集中しなさいよ!」


花江は完成した箱を丁寧に持ち上げた。


「もう終わったもん。」


沈黙。


そして――


「うわぁ……」


「かわいい……」


「拓海、また惚れ直すよ。」


花江は誇らしげに腕を組んだ。


決意に満ちた笑みを浮かべる。


「ホワイトデー、ちゃんと頑張ってもらう予定だから。」


沈黙。


全員が花江を見る。


同じことを考えていた。


“この子、結局お返し目当て?”


沈黙が長すぎて、花江が困ったように瞬きをする。


「……なに?」


そして全員同時に笑い出した。


「あはははっ!」



「花江、お前……」


「あははははっ!」


花江はきょとんとしたまま周りを見た。


「えっ!? 私なんか変なこと言った?!」


雪子まで一緒になって笑い始める。


でも――


そんな五人の少女たちを見つめながら、


雪子の笑顔は少しずつ変わっていった。


もっと優しく。


もっと感情がこもったものへ。


そして心の中で、静かに思う。


(ようやくだね、葵……)


彼女の視線は、友達と一緒に笑っている娘へ向けられていた。


(本当に、全部乗り越えられたんだね)



しばらくして――


少女たちは一人ずつ帰っていった。


玄関での別れの挨拶。


小さな笑い声。


そして翌日の約束。


◆ 学校 ― 翌日


廊下はいつも以上に騒がしかった。


ひそひそ話。


緊張した笑い声。


背中に隠された小さなラッピング袋。


美咲はゆっくり周囲を見回した。


「これ、軍事作戦みたいなんだけど。」


美緒はため息をつく。


「しかも武器はチョコ。」


美咲は大げさに周りの生徒を指差した。


「チョコだけ!?」


彼女は目を見開く。


「戦場行くみたいな顔してる人いるんだけど!」


陽菜は小さな箱を両手で大事そうに持ちながら、不安げに見つめた。


「……陸くん、喜んでくれるかな?」


花江は安心させるように笑った。


「きっと大丈夫だよ、陽菜。陽菜のが一番上手だったし。」


そして今度は自分のチョコを見る。


「私は味のほうが心配かも……拓海くん、気に入ってくれるかな。」


葵は学校に来てからずっと静かだった。


ただ、小さな白い箱を胸に抱えているだけ。


美咲はすぐに気づく。


「落ち着きすぎじゃない?」


「普通だけど。」


美緒は葵を見もせずに答えた。


「普通じゃない。」


葵は完全に無視した。


その時――


廊下の向こうに誰かが現れる。


蒼真だった。


いつも通り、周囲の騒ぎなんて存在しないみたいに落ち着いて歩いてくる。


美咲がニヤッと笑った。


「あー……」


そして葵を前に押す。


「行って。」


「美咲――」


「ほら、早く!」


葵は深呼吸した。


心臓が一気に速くなる。


そして蒼真の元へ歩いていった。


彼は葵に気づくと立ち止まり、優しく笑う。


「おはよう。」


「お、おはよう……」


小さな沈黙。


葵はゆっくり箱を差し出した。


「これ……あなたに。」


蒼真は箱を見る。


それから葵を見た。


そして大事そうにチョコを受け取った。


まるで、それがとても大切なものみたいに。


「ありがとう。」


彼の笑顔がさらに優しくなる。


「本当に。」


葵は少し眉をひそめた。


それから少し近づく。


「……チョコの匂いする。」


蒼真は固まった。


「あー……学校来た時、ロッカーに入ってて。」


彼は視線を逸らす。


「食べた。」


葵はすぐに目を細めた。


「……誰から? ふーん。」


蒼真は困ったように頭をかく。


「分からない……」


気まずそうに笑う。


「でも、捨てるのも悪いと思って。」


葵は腕を組んだ。


「じゃあ、これは後で食べて。」


彼女はそっぽを向く。


「それと、もう他のは食べないで。いい?」


蒼真は冷や汗を流した。


「わ、分かった……」


彼は箱を持ったまま、愛おしそうに葵を見つめる。


葵は慌てて目を逸らした。


「昨日作ったの。」


蒼真は笑う。


「そんな気がした。」


彼は丁寧に箱を鞄へ入れた。


「あとで食べる。」


その後ろから、美咲が大声で囁く。


「早すぎなんだけどー!!」


葵は即座に振り返った。


「美咲!!」


蒼真はもう慣れているのか、ただため息をつくだけだった。



数分後――


陽菜は教室の入口に立っていた。


陸はクラスメイトたちと話している。


陽菜は深呼吸した。


そして小さな声で呼ぶ。


「陸。」


彼はすぐ振り向いた。


「陽菜?」


彼女はゆっくり歩み寄り、


青いリボンのついた小さな包みを差し出した。


「ハッピーバレンタイン。」


陸は一瞬驚いた。


それから笑う。


心からの笑顔だった。


「ありがとう。」


彼はとても大切そうに箱を持つ。


「待ってた。」


陽菜は驚いて瞬きをした。


「待ってた?」


陸は少し箱を持ち上げる。


「うん。」


そして隠すことなく笑った。


「一生大事にする、陽菜。」


陽菜は目を見開いた。


それから慌てたように笑う。


「ま、待って、食べないとだめだよ! 腐っちゃう、へへ……」


陸は赤くなる。


「あ、ああ! 食べる……」


彼は慌てて目を逸らした。


「ただ……なんて言えばいいか分からなくて。」


小さな間。


それから彼は真っ直ぐ陽菜を見つめる。


「俺、陽菜のことすごく好きだ。」


陽菜は一瞬で真っ赤になった。


「り、陸くん……ここでは……」


彼女は廊下を指さして、小さく可愛らしく制止する。


そのせいで、陸はさらに赤くなった。



廊下の反対側――


花江はクラス委員の机の前で立ち止まった。


拓海はいつも通り書類を整理している。


彼女は小さな箱を机の上に置いた。


「これ、どうぞ。」


拓海は箱を見る。


「バレンタイン?」


「うん。」


彼は丁寧に受け取った。


「ありがとう。」


沈黙。


彼はまだ箱を見つめている。


「手作りか?」


「そう。」


拓海はゆっくり頷いた。


「なら、大切に保管する。」


花江は首を傾げた。


「保管?」


「昼休みまで。」


彼女は呆れたようにため息をつく。


「真面目すぎるよ。」


拓海は即答した。


「学級委員だからな。」


花江は腕を組み、じっと彼を見ながら足を鳴らした。


拓海はため息をつく。


「分かった。」


花江は瞬きをする。


「なにが?」


拓海は彼女の目の前まで歩み寄る。


そして静かに言った。


「その気持ち、すごく嬉しい。」


彼は箱を胸元で抱える。


「君のことを考えながら、一口ずつ味わう。」


完全な沈黙。


花江は完全に目を見開いた。


顔が一気に真っ赤になる。


胸元に手を当て、小さく息を呑んだ。


拓海は自分の発言に遅れて気づく。


「あ……」


彼は視線を逸らした。


「……言いすぎたか?」


花江はゆっくり顔を近づける。


瞳がきらきらしていた。


「……今の、好きかも。」


彼女は笑う。


「も、もう一回言って?」


クラスの女子たちが即座に騒ぎ始めた。


「うおおお〜〜!」


拓海は顔を手で覆う。


「まだ慣れない……」



その頃――


美緒は窓際で小さな箱を持って立っていた。


そこへ美咲がやってくる。


「まだ決めてないの?」


「うん。」


「はぁ!? どういう意味?」


美緒は箱を見る。


「義理として渡すだけかも。」


美咲は目を細めた。


「それ、ずるい。」


「ずるくない。」


「ずるいって。」


言い合いが続く前に――


一つの手が伸びてきた。


そして箱を奪う。


美緒はすぐに目を見開いた。


松田蓮が笑いながらチョコを持っている。


「ありがと。」


美咲は大爆笑した。


「蓮!!」


美緒は手を差し出す。


「返して。」


「やだ。」


「あなたに渡すなんて言ってない。」


蓮は挑発的に笑った。


「でも、違うとも言ってない。」


美咲は腕を組む。


「それは正論。」


すると蓮は、美咲のチョコまで奪った。


「二人とも気前いいな。」


美咲は即座にキレた。


「返せぇ!!」


美緒は小さく笑う。


「でも今のは公平だった、ふふ。」


美咲はイライラした声で囁く。


「今の、ほぼ美緒への告白みたいなもんじゃん……」


「うるさい。」


美緒はゆっくり指を鳴らした。


「蓮……そのままだと体が痛くなるかもよ。」


松田は即座に冷や汗を流す。


そしてそのまま廊下を走って逃げた。


「捕まえてみろーー!!」


美咲は笑い出す。


「先生に怒られるよ、それ〜! へへ!」


廊下の向こうで、葵と蒼真がその様子を見ていた。


蒼真が静かに呟く。


「勇気あるな。」


葵は即答した。


「ただの自殺志願者。」


遠くから美咲の叫び声が響く。


「美緒が本気で殺すーー!!」


廊下中が笑いに包まれた。


その後、葵は美咲を見る。


「でも、美咲のも取られたよね。」


蒼真は少し首を傾げた。


「気にしてないの?」


美咲は少しだけ黙った。


それから平然とした声で答える。


「別に。」


彼女は笑いながら廊下を走る松田を見つめた。


そして小さく笑った。


「どうせ誰も、あいつにチョコなんて渡さないと思ってたし……」

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