第60話 ― 最終話
陽菜の描いた漫画をみんなで読み終えたあと、一行はそのままカラオケへ向かった。
色とりどりのライトが壁を照らし、音程の外れた歌声が部屋いっぱいに響いている。
海斗はまるでライブ会場にいるかのように昔の曲を熱唱し、美緒は笑いすぎて飲み物をこぼしそうになっていた。
普段は比較的静かな武雄でさえ、篠原が歌詞を盛大に間違えた瞬間には思わず吹き出してしまう。
陽菜は、そんな光景を静かに見つめていた。
みんな、ここにいる。
笑って。
一緒にいて。
そして――
久しぶりに、本気で思った。
この日々は、ずっと終わらないんじゃないかって。
葵は部屋の隅に座り、小さな声で歌っていた。
胸元にマイクを抱えるように持ちながら。
そんな彼女を見て、雪菜がからかう。
「葵ってさ、“悲しい系アニメの主人公”みたいな歌い方するよね~。」
葵は小さく笑っただけだった。
けれど心の奥では、ちゃんと分かっていた。
三年生たちは、もうすぐ卒業する。
その事実は――
想像していたより、ずっと胸を痛めた。
その夜。
葵が家へ帰ると、玄関でゆっくり靴を脱いでいる彼女のもとへ、由紀子がキッチンから顔を出した。
由紀子は数秒間、娘を見つめる。
そして優しく微笑んだ。
「今日は、なんだかいい顔してるわね、葵。」
葵はすぐには答えなかった。
視線を落とす。
まるで、自分の中から勇気を探しているように。
そして小さな声で言った。
「お母さん……来週、お父さんに会いに行く?」
時間が止まったようだった。
由紀子はその瞬間、口元を押さえる。
返事をするより先に、瞳が滲み始めていた。
それくらい――
久しぶりだったのだ。
葵が、その話題を壊れずに口にできたのは。
葵はそれに気づく。
そして笑った。
小さくて。
儚くて。
でも、本物の笑顔を。
「大丈夫だよ、お母さん……私、ちゃんと大丈夫だから。」
彼女はゆっくり由紀子へ歩み寄る。
そして、そっと抱きしめた。
由紀子はすぐに目を閉じ、強く娘を抱き返す。
まるで抱きしめているのが葵だけではなく――
二人で乗り越えてきた、あの苦しかった日々そのものみたいに。
そして、その抱擁にはもう悲しみはなかった。
ただ――
会いたいという気持ちだけが、そこにあった。
同じ夜。
美緒もまた、家へ帰ってきていた。
テレビの青白い光が、静かなリビングを照らしている。
母はソファでテレビを見ていて、正人はその隣で静かに座っていた。
美緒は靴を脱ぎながら言う。
「ただいま。」
二人はほとんど同時に彼女を見る。
「おかえり、美緒。」
美緒は数秒間、両親を見つめた。
昔、この家の沈黙は重かった。
けれど今は――
ただ穏やかだった。
美緒は小さく微笑む。
「二人とも、今日はどうだった?」
正人は少し姿勢を正してから答えた。
「俺は……仕事だな。」
母はくすっと笑う。
「私はいつも通りよ。」
美緒はゆっくりソファに腰を下ろし、一瞬だけ膝を抱えた。
やがて、ぼんやりと前を見つめながら呟く。
「来年で、私たちも最後なんだよね……」
深く息を吐く。
「三年生たちが卒業していくの見てると……もう寂しくて。来年のこと、考えちゃう。」
再び沈黙が落ちる。
でも今度は、誰もそれを怖がらなかった。
正人は前を見つめたまま、静かに言った。
「人生っていうのは、巡っていくものなんだ。」
その声は低く。
不器用なくらい、正直だった。
「俺も……降格を受け入れた。でもその代わり、お前たちのそばにいられる。」
美緒は父を見る。
長い間、正人は遠い存在だった。
プライドに縛られた、大人。
でも今は違う。
ただの人だった。
疲れていて。
迷っていて。
それでも頑張ろうとしている。
その姿の方が、どんな完璧な言葉よりも、美緒の胸を打った。
彼女は静かに笑う。
「そっか……」
そしてソファに頭を預けた。
その瞬間。
その家は、久しぶりに“家族”になった気がした。
陽菜が帰宅したのは、その少し後だった。
扉を開けると、春がソファに寝転びながらスマホを触っている。
両親は穏やかに会話していた。
陽菜は玄関で立ち止まる。
そして、ただ眺めた。
三人を。
暖かなリビングの光を。
小さな会話を。
ありふれた、この時間を。
胸が少しだけ締めつけられる。
だって、気づいてしまったから。
こういう何気ない瞬間だって、いつか終わるのだと。
陽菜は微笑む。
「ただいま。」
三人が一斉に彼女を見る。
母が目を丸くした。
「陽菜!? 入ってきたの全然気づかなかった!」
父も笑う。
「テスト週間どうだった?」
陽菜は鞄を床に置いた。
「まあまあ……かな。」
春はスマホから目も離さず言う。
「こいつが失敗するわけないだろ。ガリ勉だし。」
陽菜は小さく笑う。
そして、何気なく口にした。
「そういえば……葵、彼氏できたっぽい。」
春が固まった。
次の瞬間、勢いよくソファから飛び起きる。
「はぁ!? 誰だよ!?」
陽菜は笑いを堪える。
「秘密~。」
「ああもう、俺の葵が……絶対突き止めてやる!」
両親は春の大げさな反応に笑い出す。
春は一人で騒ぎ続けていた。
陽菜はソファに腰を下ろす。
その小さくて心地いい騒がしさの中で――
彼女はそっと目を閉じた。
「みんな、私の漫画を好きって言ってくれた……」
胸の奥が、じんわり温かくなる。
初めてだった。
自分が作ったものが、誰かの心に届いたと感じられたのは。
もしかしたら。
自分の夢にも、ちゃんと届いていけるのかもしれない。
翌週――
武雄、篠原、海斗の三人は、東邦学園の合否を確認するため、一緒に駅へ向かっていた。
電車が金属音を響かせながらホームへ入ってくる。
扉が開く。
武雄はコートのポケットに手を入れたまま立っていた。
篠原は鞄の持ち手を強く握りすぎている。
海斗は平静を装っていた。
でも、ずっと喋り続けていた。
「もし落ちてたらさ、俺、路上役者になるわ。」
誰も返事をしない。
沈黙が、そのまま車内へ流れ込んだ。
電車が走り出す。
窓の外で、街がゆっくり後ろへ流れていく。
見慣れた通り。
店。
信号。
育ってきた場所。
すべてが少しずつ遠ざかっていく。
東邦学園演劇音楽大学は――
遠かった。
まるで別世界みたいに。
東邦学園の前には、すでに大勢の人が集まっていた。
親たち。
教師たち。
張り詰めた顔。
結果が出る前から泣いている人もいる。
大きな掲示板には白紙が貼られていた。
職員たちが、ゆっくり紙を貼っていく。
そのテープの音が、静寂の中では異様なほど大きく聞こえた。
三人は掲示板の前で立ち止まる。
誰も喋らない。
喋れない。
やがて白紙が外された。
静寂。
その直後――
一斉に駆け出す足音。
武雄は走らなかった。
篠原も。
海斗だけが、平静を装いながらも最初に動く。
三人は受験番号を探し始めた。
武雄の指が、ゆっくり一覧をなぞる。
下へ。
さらに下へ。
止まる。
彼は一度だけ瞬きをした。
もう一度確認する。
番号が、あった。
武雄は笑わなかった。
ただ、一瞬だけ目を閉じる。
胸の奥に溜まっていた息を、ようやく吐き出すように。
何ヶ月も気づかないまま抱えていた緊張が、静かに解けていく。
隣では、篠原がすぐ口元を押さえた。
彼女の番号も、そこにあった。
瞳が揺れる。
涙が零れる前に止めようとするみたいに、目を閉じる。
けれど――
海斗は、まだ探していた。
一度。
二度。
三度。
二枚目の紙を見る。
また最初へ戻る。
何度も。
何度も。
彼の番号は、なかった。
世界が静まり返る。
周囲の音が遠くなる。
まるで、空気そのものが抜け落ちたみたいに。
最初に気づいたのは篠原だった。
そのあと武雄も。
海斗は数秒間、掲示板の前で立ち尽くす。
そして無理やり笑った。
小さくて。
痛々しい笑顔を。
「……ほんとに路上役者になるしかないかもな。」
誰も笑わなかった。
武雄は静かに近づき、海斗の肩に手を置く。
それは同情ではない。
最初からずっと違う。
敬意だった。
武雄は知っている。
海斗がどれだけ努力してきたか。
どれだけ本気だったか。
どれだけ大切だったか。
武雄は低い声で言った。
「お前には……まだ日本がある。」
海斗は肩をすくめ、軽く見せようとする。
でも、その目は濡れていた。
その瞬間、三人は言葉にしなくても理解した。
夢は、思い描いた形で叶うとは限らない。
でも――
だからといって、終わるわけじゃない。
帰りの電車。
空気はどこかぎこちなかった。
線路の音だけが、車内に響いている。
窓の外では、灰色の景色がぼやけて流れていく。
篠原は合格通知を膝の上で握りしめていた。
この瞬間が壊れてしまわないように。
武雄は黙って窓の外を見ている。
海斗はスマホを触っていた。
……いや、正確には。
何も見ていなかった。
画面は何分も変わっていない。
まだ確認したくない。
怖かった。
でも同時に――
どこかで、まだ諦めていなかった。
家に着くと、それぞれ別々の道へ帰っていく。
海斗はゆっくり階段を上がった。
暗い部屋。
鞄を雑に床へ落とす。
コートすら脱がないまま、ベッドへ倒れ込んだ。
天井を見つめる。
静かすぎる部屋が、胸に重い。
スマホが震えた。
篠原からのメッセージ。
『日本の結果、出たよ。』
心臓が強く締めつけられる。
海斗はベッドに座ったまま、数秒動けなかった。
開く勇気が出ない。
それでも、深く息を吸う。
そしてスマホを手に取った。
日本芸術大学のサイトを開く。
読み込みが遅い。
遅すぎる。
一秒ごとに苦しくなる。
彼はページを更新した。
PDFの一覧。
指が下へ滑っていく。
下へ。
さらに下へ。
鼓動がうるさいほど胸を叩く。
そして――
そこに、彼の番号があった。
海斗は固まる。
瞬きをする。
もう一度確認。
さらにもう一度。
間違いなく、そこにある。
彼はすぐ手で顔を覆った。
そして――
笑った。
でも同時に、涙が指の隙間から零れていく。
今まで押し殺してきたものが、一気に崩れたから。
不安。
恐怖。
自分は足りないんじゃないかという気持ち。
全部が、一度に溢れ出す。
震える手でスマホを持ち、画面を撮影して送る。
『受かった。』
最初に返ってきたのは篠原だった。
『分かってた。』
そのあとすぐ、武雄から。
『演劇が、お前を手放すわけない。』
海斗はしばらく画面を見つめる。
そして、本当に笑った。
不安を隠すための大げさな笑顔じゃない。
静かで。
穏やかで。
少し泣きそうな、本物の笑顔。
彼はベッドの後ろの壁に頭を預け、そっと思う。
「同じ場所じゃなくても……また一緒に演じられる。」
その日初めて。
彼は心から安心できた。
合格発表から一週間後――
その話は学校中へ広がっていた。
「三年生たち、進路決まったらしいよ。」
廊下の空気は、もうどこか違う。
後輩たちは、三年生たちを見る目が少し変わっていた。
尊敬。
憧れ。
そして、少しの寂しさ。
まるで彼らが、まだ卒業していないのに、すでに思い出になり始めているみたいだった。
校内の掲示板にはこう書かれている。
『卒業式 総合練習 ― 三年生 ― 金曜日』
武雄はその文字を静かに見つめていた。
数秒、動けない。
隣には篠原がいる。
彼女も掲示板を見つめ、小さく呟いた。
「……本当に終わるんだね。」
武雄はすぐには返事をしなかった。
ただ、静かに息を吐く。
初めて――
それが現実なんだと感じたから。
三年生たちは卒業式の練習へ向かう。
体育館には椅子が綺麗に並べられていた。
全員が整列して座っている。
教師が前で大きな声を出す。
「名前を呼ばれたら、“はい!”とはっきり返事すること!」
「三歩前へ。礼。受け取る。もう一度礼!」
「俺たちは、本当に卒業するんだな――」
何度も。
何度も。
何度も。
繰り返される。
体育館いっぱいに響く返事。
「はい!」
「はい!」
「はい!」
その中でも、カイトの声は少しだけ大きかった。
まるで自分自身に証明するみたいに。
ここまで来たんだって。
ちゃんと、この場所に立てているんだって。
置いていかれなかったんだって。
3-Aの教室。
担任教師がプリントを整えながら口を開く。
「卒業生代表挨拶は――篠原舞にお願いします」
一瞬、静寂。
それから、ぽつぽつと拍手が広がった。
武雄は静かに篠原を見る。
篠原は小さく頭を下げた。
けれど机の下では――
彼女の手がわずかに震えていた。
放課後。
篠原は自分の腕を抱きながら、不安そうに呟く。
「……私、ちゃんとできるかな」
声は、ほとんど囁きだった。
武雄は迷わず答える。
「お前は、いつもできてる」
カイトも口元を緩める。
「たださ、みんな泣かせすぎんなよ?」
篠原は二人を見て、困ったように笑った。
「簡単に言わないでよ……!」
冗談っぽく返してはいる。
でも、その瞳にはまだ緊張が残っていた。
ただの挨拶じゃない。
クラスの代表として話すということは――
“別れ”を言葉にするということだから。
生徒たちは教室の片付けを始める。
黒板を消し、
古い教材をまとめ、
本を積み上げる。
誰かが黒板の隅に、小さく書いた。
『ありがとう、3-A』
武雄はその文字を数秒見つめたあと、静かに窓の外を見る。
この時間の校庭は、人が少ない。
風が木々を揺らしていた。
彼はそっと窓ガラスに指先を触れる。
そして、心の中で呟いた。
(……この景色さえ、もう懐かしい)
――卒業式当日。
朝の空気は静かだった。
整えられた制服。
校門へ向かう保護者たち。
花束。
記念写真。
笑顔。
隠しきれない涙。
その光景を、葵は少し離れた場所から見つめていた。
まだ自分は二年生。
それなのに――
まるで自分も別れを迎えるみたいだった。
だって。
あの先輩たちは、確かに自分の人生を変えてくれたから。
そして今――
その人たちが、卒業していく。
体育館。
ピアノの音が静かに流れ始める。
卒業生たちが順番に入場する。
揃った足音が床に響いた。
武雄は真っ直ぐ前を見て歩く。
カイトは何度も深呼吸を繰り返している。
篠原は完璧な姿勢を保っていた。
胸の鼓動が速くても。
歩きながら、篠原は小さな声で呟く。
「東邦学園……日本大学……」
カイトは横目で笑う。
「これからも会えるよな?」
彼は武雄と舞を見て続ける。
「お前ら、最高だからさ」
武雄は静かに頷いた。
その小さな仕草だけで、十分だった。
卒業証書授与。
名前が、一人ずつ呼ばれていく。
「藤本武雄」
「はい!」
武雄が壇上へ上がる。
礼。
証書を受け取る。
その瞬間、彼は少しだけ強く紙を握った。
まるで、その重さを確かめるように。
それはただの卒業証書じゃない。
三年間そのものだった。
「橘 舞」
「はい」
篠原が壇上へ上がる。
凛とした姿勢。
美しい所作。
けれど証書を持つ指先は、かすかに震えていた。
壇上を降りたあと――
彼女は武雄と目を合わせる。
言葉はない。
それでも。
二人には、全部伝わっていた。
――篠原の答辞。
彼女が壇上へ上がる。
体育館が静まり返る。
篠原は紙を持ったまま――
最初は、それを見なかった。
真っ直ぐに、観客を見る。
その手はわずかに震えている。
そして彼女は、ゆっくり話し始めた。
「私たちがこの学校に入学した時……三年間なんて、すごく長いものだと思っていました」
小さな間。
寂しそうな笑顔。
「でも今日になると……まるで一瞬だったように感じます」
体育館に、小さな笑い声が漏れる。
「失敗もしました。喧嘩もしました。大声で笑いすぎた日もありました」
彼女の視線が、クラスメイトたちをゆっくり辿る。
そして、一瞬だけ――
葵のところで止まった。
その瞬間。
記憶がよみがえる。
舞台の上。
葵と一緒だった時間。
発表会。
五秒間の沈黙。
緊張。
葵の瞳の輝き。
全部が、一瞬で胸に戻ってきた。
篠原は紙から目を離す。
その瞳に、強い意志が宿る。
「でも私たちは……どんな教科よりも、大切なことを学びました」
校長が静かに呟く。
「篠原……」
彼女は続ける。
さっきより、ずっと強い声で。
ずっと本音に近い声で。
「成長することは……苦しいってことを学びました」
深呼吸。
「でも、それでも価値があるんだって」
武雄はその言葉に、思わず息を飲む。
篠原は続ける。
「私たちは学びました……人生は、いつだって台本通りには進まないって」
観客席の何人かが、不思議そうに眉を寄せる。
けれど。
クラスメイトたちは理解していた。
誰一人、思い描いた通りの青春なんて送っていない。
でも――
だからこそ特別だった。
篠原は後輩たちを見る。
「後輩のみなさんへ」
声が少し柔らかくなる。
「時間を怖がらないでください。後悔するには……時間はあまりにも早く過ぎてしまいます」
体育館は静まり返ったままだ。
彼女はもう一度深呼吸する。
「先生方……私たちを支えてくださって、本当にありがとうございました」
教師たちは静かに頭を下げる。
すでに涙ぐんでいる人もいた。
そして篠原は、再び仲間たちを見る。
今度は――
彼女の瞳にも涙が浮かんでいた。
「そして、クラスのみんなへ……」
彼女は笑う。
小さく。
でも、本物の笑顔で。
「同じ時代に生きてくれて……ありがとう」
静寂。
もう泣いている生徒もいる。
篠原は続ける。
「先輩たちから受け取ったものを……今度は私たちが、次へ繋いでいきます」
その言葉を――
彼女は葵を真っ直ぐ見ながら言った。
葵の目が大きく見開かれる。
すぐに震え始める。
「篠原……先輩……」
涙が頬を伝う。
それでも葵は笑っていた。
篠原は続ける。
もう感情を隠しきれない声で。
「このクラスが、大好きでした……」
声が、一瞬震える。
「この学校が……大好きでした」
葵は口元を押さえながら涙をこらえる。
そして――
篠原は最後の言葉を告げた。
「これは、誰かにとっては“さよなら”かもしれません」
彼女はもう一度、全員を見る。
「でも――“ずっと”の始まりにも、きっとなれると思います」
深い礼。
そして、震える声で締めくくる。
「3-A卒業生代表、篠原舞です……」
とうとう涙が零れ落ちた。
「本当に……ありがとうございました」
礼。
数秒間。
体育館は静寂に包まれたままだった。
篠原は壇上に立ったまま、必死に涙をこらえている。
瞳が光っていた。
手も小さく震えている。
誰も、すぐには声を出せなかった。
その時――
最初に立ち上がったのは、葵だった。
そして拍手を始める。
最初は、一人だけの音。
でも。
一人。
また一人。
さらに一人。
やがて体育館全体が、大きな拍手に包まれた。
派手じゃない。
けれど――
心の底からの拍手だった。
教師たちが微笑む。
そっと涙を拭う人もいる。
篠原は顔を伏せる。
隠しきれなくなった涙が、ぽろぽろと零れ落ちた。
その瞬間。
彼女は理解した。
自分の言葉は――ちゃんと届いたんだと。
卒業生たちが並ぶ。
ピアノの旋律が優しく流れ始める。
そして――
合唱。
声が震えている。
音を外しているわけじゃない。
ただ。
みんな、抱えきれない感情を必死に堪えているだけだった。
武雄は前を見たまま歌う。
カイトは最初こそ大きな声だった。
でもサビの途中で、声が途切れる。
篠原は目を閉じて歌っていた。
制服の布をそっと握りしめながら。
その歌声は震えている。
でも、美しかった。
本物の気持ちが詰まっていたから。
曲が続く中――
静かに泣き始める生徒たち。
笑いながら隣を見る生徒たち。
この瞬間を、一生忘れたくないみたいに。
――式のあと、中庭。
校舎の外は人でいっぱいだった。
写真。
花束。
抱擁。
後輩たちの「先輩!」という声。
笑い声と涙が混ざり合う。
一人の後輩女子が、武雄の前で立ち止まる。
そっと、彼の制服の袖を掴む。
視線は――第二ボタンへ。
武雄はすぐに気づいた。
一瞬だけ。
優しく笑う。
でも、ただ礼を言っただけだった。
彼の視線は、もう別の人を探していたから。
中庭の向こう側。
篠原が笑っている。
まだ目は泣き腫らして赤いまま。
武雄はゆっくり彼女のもとへ歩いていく。
周囲の音が遠く感じる。
彼は彼女の前で立ち止まり、静かに言う。
「……良かった」
篠原は涙混じりに笑う。
「泣いちゃった……」
武雄も少し笑う。
「知ってる」
少しだけ視線を逸らしてから、照れくさそうに続けた。
「……俺も、ちょっと危なかった」
篠原は小さく笑った。
そのあとに訪れた沈黙は――
不思議じゃなかった。
むしろ、心地よかった。
そこへ――
カイトが走ってくる。
まだ目は赤い。
でも笑顔は、完全に感情でいっぱいだった。
「なぁ……」
彼は息を整えながら言う。
「俺たち、本当に卒業したんだな」
三人が並ぶ。
その後ろには――
何年もくぐってきた校門。
風が静かに吹き抜ける。
そして自然に。
打ち合わせなんてしてないのに。
三人は校舎へ向かって軽く礼をした。
本当に自然に。
それから校門を出て歩き始める。
だけど。
少し進んだところで――
カイトが本気で泣き始めた。
涙が止まらない。
必死に顔を拭いながら叫ぶ。
「くっそ……止まんねぇ……っ」
武雄は数歩だけ後ろ向きに歩いたあと、
そっと目元に手をやる。
「……やば」
声が少しだけ震える。
「こんなの見られたくなかった」
篠原は二人を見て笑う。
自分も泣いているのに。
「カイト……また遊びに来てね」
涙を拭きながら続ける。
「私たちも、会いに行くから」
カイトは泣き笑いしながら言った。
「もう想像できるわ。お前ら結婚して、子供とかいてさ」
沈黙。
武雄と篠原の顔が一瞬で真っ赤になる。
篠原は慌てて顔を覆う。
「カ、カイト!?」
武雄は咳き込む。
「お前、段階飛ばしすぎだろ!!」
カイトは涙を流しながら大笑いする。
「最後くらい笑って終わりたいだろ、はははっ!」
武雄と篠原は同時にため息をつく。
それから、二人でカイトを見る。
そして笑った。
「お前、絶対いなくなるなよ」
その瞬間。
誰も前へ進みたくなかった。
だって校門を越えるってことは――
本当に終わるってことだから。
それでも。
三人は歩き出す。
そして、ゆっくりと街の中へ消えていった。
体育館は、もう静かだった。
椅子は綺麗に並んでいる。
ステージも無音のまま。
だけど。
そこにはまだ、みんなの声が残っている気がした。
笑い声。
練習。
別れ。
全部。
まだそこに、生きていた。
四月。
新学期が始まる。
桜の花びらが舞う。
まるで時間そのものが、また動き始めたみたいに。
校門前にはたくさんの人。
写真を撮る親たち。
緊張した新入生。
深呼吸してから校門をくぐる子たち。
その中に――
水瀬莉奈。
彼女は学校を見上げ、目を輝かせる。
小さく笑った。
「……ここから始まるんだ」
九条晴人。
彼は静かに周囲を見ている。
校舎に差し込む光。
制服を揺らす風。
地面に落ちる影。
そして心の中で呟く。
(……綺麗な光だ)
立川結衣。
少し離れた場所。
彼女はノートに静かに書き込む。
『初日。みんな勇気があるふりをしている』
ゆっくりノートを閉じる。
三人は、一瞬だけ目を合わせた。
結衣はすぐに視線を逸らす。
また、それぞれの行動へ戻っていく。
まだ他人。
まだ遠い。
でも――
何かは、もう始まっていた。
葵もまた、同じ校門をくぐる。
だけど今の彼女は、少し違う。
背筋が伸びていた。
表情も、前よりずっと大人びている。
美緒と陽菜の隣を歩きながら、葵は笑った。
「……私たち、もう先輩なんだね」
美緒は小さく笑う。
「マジで? はは……私も先輩になっちゃったんだよね。でも今年は何をするか、ちゃんと考えないとなぁ。」
陽菜は髪を整えながら微笑む。
「私は今年から、イラストの指導も手伝う予定だよ。えへへ。」
三人は新入生たちの間を歩いていく。
見慣れた制服。
自信のある足取り。
陽菜は少し離れた場所にいる山田陸へ視線を向ける。
蒼真は遠くから手を振っていた。
拓海は周囲の騒がしさに眉をしかめている。
松田は肩にバッグをかけたまま、小さく何かを呟いていた。
美咲と花恵は楽しそうに話している。
やがて全員がクラス分けの掲示板の前で立ち止まった。
視線が並ぶ名前へ向かう。
――3-A。
また、全員一緒だった。
松田が笑う。
「ここまで生き残ったな、俺たち。」
拓海は眼鏡を押し上げる。
「あるいは、まとめて運命共同体にされたのかもしれない。」
何人かが笑った。
すると花恵が嬉しそうに言う。
「タクくん、また同じクラスだね!」
沈黙。
全員の視線が、ゆっくり拓海へ集まる。
「……タクくん?」
拓海の顔が一瞬で赤くなる。
慌てて眼鏡を直した。
「だ、だって付き合ってるんだから普通だろ!?」
美緒がゆっくり頷く。
「う、うん……まぁ……そうだね。」
空気がさらに気まずくなる。
拓海は観念したようにため息をついた。
「……はいはい、笑いたければ笑え。」
結局、みんな小さく吹き出してしまう。
美咲はどこか感動したように笑った。
「またみんな一緒なんだね。」
でも心の奥では――
全員が分かっていた。
これが最後の一年だと。
――体育館・入学式。
最初に入場してきたのは新入生たちだった。
足音が体育館に響く。
莉奈は姿勢を崩さないよう必死に歩いている。
晴人は舞台の照明を観察していた。
結衣は周囲の細かな空気を静かに記憶している。
校長が壇上へ上がる。
「皆さんは今日から、想像以上に早く過ぎ去っていく三年間を始めます。」
その言葉を、3-Aの列の中で葵が聞いていた。
そして一瞬――
数年前の自分が重なる。
震える手。
速くなる鼓動。
葵は一人、小さく笑った。
(……私も、あんな風に緊張してたな)
新入生代表が宣誓をする。
拍手が響いた。
――在校生集会。
今度は二年生と三年生へ向けて話が始まる。
教師が静かに告げた。
「三年生にとって……今年は進路を決める大切な一年になります。」
空気が少しだけ重くなる。
蒼真は腕を組む。
拓海は小さくため息をついた。
陽菜は無言で壇上を見つめている。
美緒は葵を見る。
そして葵は――
真っ直ぐ前を見ていた。
もう分かっているから。
“最後の一年”がどれほど重いものなのか。
――3-A教室・最初のホームルーム。
教師が教室へ入ってくる。
黒板へ大きく文字を書く。
『責任』『未来』『受験』
それから振り返った。
「君たちは、もう普通の生徒じゃない。」
時間割が配られていく。
美緒は大げさに机へ突っ伏した。
「もう三月に戻りたい……」
陽菜が笑う。
「もう遅いよ。」
葵は窓の外を見る。
桜は今も舞い続けている。
まるで時間なんて、一度も止まったことがないみたいに。
――1-A教室・新入生。
教師が自己紹介を促す。
最初に立ち上がったのは莉奈だった。
「水瀬莉奈です。演劇が好きです。」
教室が少しざわめく。
次に晴人。
「九条晴人です。映像制作が好きです。」
そして結衣。
「立川結衣です……物語を書くのが好きです。」
三人は二度目の視線を交わす。
小さな繋がり。
でも確かなもの。
――休み時間。
中庭。
莉奈はすぐ二人へ近づいた。
「ねぇ、二人とも映画とか物語好きなんだよね?」
晴人が答える。
「小学生の頃から。」
結衣はノートを胸に抱えながら言う。
「私は……小さい脚本とか書いてた。」
莉奈は目を輝かせた。
「私はいつも主役だった!」
晴人が少し笑う。
「俺はずっとカメラ側。」
結衣は視線を落とした。
「私は……ずっと書く側だった。」
少しの沈黙。
それから莉奈が明るく笑う。
「じゃあ、また続けようよ。」
二人は頷いた。
その瞬間――
本人たちも気づかないまま。
新しい物語が始まっていた。
――午後・部活動紹介。
新入生たちは再び体育館へ集められていた。
各部活が次々にステージへ上がる。
野球部。
軽音部。
美術部。
そして――
演劇部。
葵が舞台へ上がる。
蒼真は簡易照明を調整していた。
葵は一歩前へ出る。
そして静かに言う。
「舞台っていうのは……まだ“なれなかった自分”になれる場所なんです。」
照明が落ちる。
短い劇が始まった。
体育館は静まり返る。
莉奈は息を呑む。
晴人は構図を目で追う。
結衣は腕に鳥肌が立つのを感じていた。
劇が終わる。
拍手。
その中で、莉奈が小さく呟いた。
「……ここだ。」
――廊下・部員勧誘。
賑やかな混乱が始まる。
ポスター。
呼び込み。
勧誘の声。
葵はチラシを配っていた。
美緒は文学部希望の新入生と話している。
陽菜は美術部の活動内容を説明していた。
拓海は相変わらず大げさに熱弁している。
山田は苦笑しながら見守っていた。
松田は看板を持ちながら、美咲が男子たちと話しているのをじっと見ている。
蒼真は入部希望者のリストを整理していた。
その時。
莉奈が晴人と結衣の腕を掴む。
「今だよ。」
三人は演劇部の部室の前へ立つ。
静寂。
莉奈がゆっくり扉を開けた。
――部室・夕方。
夕陽の金色の光が部屋を包んでいる。
葵は椅子を並べていた。
扉の音に気づき、振り返る。
そこには三人の新入生。
莉奈は深呼吸をする。
「私、演じたいです。」
晴人は周囲を見回してから言った。
「ぼ、僕は映像をやってみたいです。」
結衣はノートを抱きしめながら呟く。
「私は……脚本を書きたいです。」
葵は数秒、三人を静かに見つめた。
そして――
微笑む。
優しくて。
安心できて。
少し大人になった笑顔。
「なら、ここはきっとぴったりだよ。」
彼女はそっと胸に手を当てる。
「3-Aの坂本葵です。」
窓の外では、桜の花びらが舞い続けている。
葵は笑ったまま続けた。
「私が先輩たちから受け取ったものを……今度は、みんなに渡していくね。」
三人は憧れるような目で葵を見る。
その後ろでは、3-Aの仲間たちが少しずつ姿を見せていく。
部室が広く見えた。
温かく見えた。
未来で満ちているように見えた。
外では――
四月が続いている。
桜は、また咲いていた。
そして。
巡る季節のように。
物語もまた、次の誰かへ繋がっていく。
――外伝・完。
物語本編はこれで完結となります――
ですが、この世界はまだ生き続けています。
ここまでこの旅を見届けてくださり、本当にありがとうございました。
想いも、舞台も、別れも、そして新しい始まりも――
これから先も、このページの向こうで生き続けていきます。
そして、まだ4つの特別編が残っています。
どうか最後の瞬間まで、見届けていただけたら嬉しいです。
そして数週間後――
新たな物語が始まります。
『君を想いながら死んだ俺は、非現実の世界に転生した。』
また、近いうちに。




