エクストラチャプター4 ― 一つのサイクルの終わり
※本話が本編最後のエピソードとなります。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございます。
また、読了後に作者からのメッセージ(あとがき)を掲載しておりますので、よろしければそちらもご覧ください。
それでは、どうぞお楽しみください。
蒼依が目を覚ましたのは、春先のまだ冷たい朝だった。
少しだけ開いた窓から、やわらかな風が部屋へと流れ込み、カーテンを静かに揺らしている。
空はまだどこか灰色がかっていて、まるで冬が名残惜しそうに居座っているかのようだった。
蒼依はしばらくの間、ただ天井を見つめていた。
静寂の中で。
胸の奥に残る不思議な重みを感じながら。
やがて視線は、ベッドの横に丁寧に掛けられた制服へと向けられる。
最後の制服。
蒼依はゆっくりと身体を起こし、厚手の靴下を履いて洗面所へ向かった。
冷たい水が頬に触れる。
鏡に映る自分の顔を見つめる。
ほんの一瞬――
まるで、いつもと変わらない朝のように感じられた。
けれど。
今日は違う。
髪を整えながら、ふとそんな考えが頭をよぎった。
「もう、学年も終わるんだな……」
蒼依はその場でしばらく立ち尽くした。
そして小さく微笑む。
まだ終わってもいないのに、どこか懐かしさを感じさせるような笑顔だった。
◇◇◇
3年A組。
教室はいつもより静かだった。
普段なら響いているはずの賑やかな話し声も、今日はどこか遠く感じる。
卒業アルバムにメッセージを書き合う生徒。
写真を撮る生徒。
ただ静かに席に座り、この教室の景色を目に焼き付けようとしている生徒。
ページをめくる音だけが、静かに響いていた。
陽菜は蒼依の机にもたれかかり、腕の上に顎を乗せる。
陽菜
「まだ卒業する実感がないんだけど……」
美緒はペンを指で回しながら、わざとらしく大きなため息をついた。
美緒
「私はまだ誰かが入ってきて、『全部ドッキリでした』って言うのを待ってるわ。」
蒼依は窓の外へ視線を向けた。
中庭の桜が咲き始めている。
小さな花びらが風に乗って舞っていた。
しばらくそれを眺めたあと。
蒼依は微笑む。
蒼依
「たぶん……そういうものなんだよ。」
頬杖をつく。
蒼依
「気づいたら、終わってる。」
三人は静かになった。
気まずい沈黙ではない。
長い時間を共に過ごした人たちだけが共有できる沈黙。
もう無理に言葉で埋める必要のない時間だった。
放課後。
蒼依は部室へ足を運んだ。
本の匂い。
紙の匂い。
インスタントコーヒーの香り。
そのどれもが、いつもと変わらない。
後輩たちはすでに集まっていた。
九条春人。
橘結衣。
水瀬里奈。
蒼依の姿を見るなり、三人は慌てて立ち上がる。
春人
「蒼依先輩!」
蒼依は鞄を机の上に置いた。
そして何も言わず、部屋を見回す。
見慣れた机。
黒板。
少し傷んだ椅子。
窓際のあの場所。
部活動の話をしているふりをしながら、ゲームの攻略談義ばかりしていた場所。
たくさんの放課後。
たくさんの会話。
たくさんの思い出。
蒼依は静かに息を吸った。
そして部活ノートを手に取る。
春人の前まで歩き。
立ち止まった。
蒼依
「九条。」
春人の表情が一気に緊張する。
蒼依はノートを差し出した。
蒼依
「部長、引き継ぐね。」
春人の目が大きく見開かれる。
春人
「で、でも……まだ二年生の先輩もいますよ?」
蒼依は穏やかに微笑んだ。
蒼依
「いるね。」
そう言いながらノートを軽く叩く。
蒼依
「でも、リーダーって年齢で決まるものじゃないから。」
春人は言葉を失った。
蒼依
「ずっと一番頑張ってたのは、春人だったよ。」
震える手で。
春人は両手を使ってノートを受け取る。
春人
「……頑張ります。」
結衣はすぐに腕を組んだ。
結衣
「じゃあ私は副部長ね。」
里奈は真面目な顔で手を挙げる。
里奈
「私は二人が全部壊さないよう監視します。」
その瞬間。
部室に笑い声が広がった。
蒼依はそんな三人を静かに見つめる。
そしてその時――
気づいた。
もう大丈夫だと。
この部活は続いていく。
自分が心配する必要なんてない。
◇◇◇
その後。
校舎の廊下はほとんど人がいなくなっていた。
蒼依はゆっくり歩く。
急がず。
まるで今日という日を少しでも長く引き延ばしたいかのように。
中庭を通り過ぎる。
図書室。
体育館。
どこも見えない残響で満ちていた。
笑い声。
会話。
何気ない日常。
今になって、それらがとても大切なものに思える。
やがて蒼依は3年A組の前で足を止めた。
ゆっくりと手を伸ばす。
指先で扉に触れ。
そして小さく呟いた。
蒼依
「ありがとう。」
そして――
ついに卒業式当日の朝がやってきた。
講堂は満席だった。
整然と並べられた椅子。
壇上を彩る花々。
そして、その上には大きな横断幕が掲げられている。
『第○○回 卒業証書授与式』
保護者たちは静かに言葉を交わし、生徒たちはそれぞれの席で緊張した様子を見せていた。
平静を装う者もいる。
今にも涙をこぼしそうな者もいる。
舞台裏で。
蒼依は卒業証書を握りしめていた。
強く握りすぎて、指先が少し痛くなるほどに。
その肩を、陽菜が軽くつつく。
陽菜
「蒼依……本当にみんなの前で話すの?」
蒼依は苦笑した。
蒼依
「私だって、代表に選ばれるなんて思ってなかったよ……」
武雄が肩をすくめる。
武雄
「たぶん《エターナル・イージス》でレイド指揮しながら成績も維持できる人間が他にいなかったんだろ。」
美緒が蒼依の肩に手を置いた。
美緒
「頑張って、キャプテン。」
蒼依は深く息を吸った。
それでも心臓の鼓動は速いままだった。
やがて校長がマイクの前へ立つ。
校長
「それでは最後に、卒業生代表による挨拶をお願いいたします。」
手元の紙に目を落とし。
校長
「坂本蒼依さん。」
会場から拍手が起こる。
蒼依はゆっくりと壇上へ向かった。
照明が眩しい。
講堂がいつも以上に広く感じる。
ふと友人たちの座る方向を見る。
陽菜はすぐに親指を立てた。
その姿に思わず笑みがこぼれる。
蒼依はマイクを握った。
数秒間。
何も言わなかった。
講堂全体が静まり返る。
全員が彼女の言葉を待っていた。
やがて蒼依は優しく微笑む。
蒼依
「私がこの学校に入学した時――」
一度息を吸う。
蒼依
「高校生活は、勉強して、試験を受けて、受験を乗り切るための三年間だと思っていました。」
会場から小さな笑い声が漏れる。
少しだけ空気が和らいだ。
蒼依は続ける。
蒼依
「でも、その途中で……たくさんの素晴らしい人たちと出会いました。」
友人たちの方を見る。
蒼依
「陽菜、美緒、武雄、篠原、蒼真、美咲……」
何人かが客席から手を振った。
武雄
「俺たち有名人じゃん。」
再び笑いが広がる。
蒼依も笑った。
けれど、その瞳は少しずつ潤み始めていた。
蒼依
「喧嘩したこともありました。」
小さく笑う。
蒼依
「一緒に遊んだこともありました。夜遅くまで起きて作戦会議をしたこともありました。」
武雄が小声で呟く。
武雄
「ゲームの話だな。」
陽菜が吹き出しそうになる。
蒼依は続けた。
蒼依
「そして時々――」
卒業証書を胸に抱く。
蒼依
「ゲームは、ただのゲームじゃなくなることがあります。」
講堂が静かになる。
蒼依
「人生を変えてくれる人と出会える場所になることもあります。」
客席にいる雪子へ一瞬だけ視線を向ける。
そして再び前を見る。
蒼依
「《エターナル・イージス・オンライン》が、私たちを出会わせてくれました。」
そのタイトルを知っている生徒たちが小さくざわめく。
だが蒼依は止まらない。
その声は先ほどよりも柔らかく。
より素直で。
より本心に近かった。
蒼依
「未来がどんな形になるのか、私には分かりません。」
もう一度深呼吸する。
蒼依
「でも、一つだけ分かっていることがあります。」
短い沈黙。
蒼依は微笑んだ。
蒼依
「どんな冒険でも――」
友人たちを見る。
蒼依
「次のステージへ進むなら……」
そして。
蒼依
「良い仲間と一緒の方が、ずっと楽しい。」
会場は静まり返っていた。
先ほどまでとは違う沈黙。
重くて。
温かくて。
胸の奥に響くような静けさだった。
そこにいる誰もが、彼女の言葉の意味を理解していた。
蒼依は最後に大きく息を吸う。
蒼依
「三年間、本当にありがとうございました。」
卒業証書を掲げる。
蒼依
「これからも遊び続けましょう。」
笑顔が少し震える。
蒼依
「そして、生き続けましょう。」
そして。
最後の言葉を口にした。
蒼依
「また、次の章で会いましょう。」
その瞬間――
講堂は大きな拍手に包まれた。
まるで終わることを惜しむかのように。
拍手はいつまでも鳴り続けていた。
壇上を降りた途端。
友人たちが一斉に蒼依を取り囲む。
武雄
「キャプテン……完全にRPGのエンディングだったぞ。」
陽菜は目元をこっそり拭いていた。
陽菜
「もう少しで泣くところだったんだから!」
すぐに自分を指差す。
陽菜
「でも私はこのグループのキャプテンだから泣いてません!」
美緒が苦笑する。
美咲は首を傾げた。
美咲
「そういえば、またみんなでゲームするの?」
少し考える。
美咲
「最後に一緒に遊んだの、いつだったっけ。」
蒼依
「正直覚えてない。」
スマホを取り出しながら笑う。
蒼依
「新しいオンラインゲームでも探そうかな。」
その瞬間。
篠原が勢いよく手を挙げた。
篠原
「探すのなら任せてください、へへ。」
みんなが笑う。
そしてほんの少しだけ――
何も変わらないような気がした。
まるで明日もまた同じ教室で会えるような。
そんな錯覚を覚えるほどに。
体育館の外。
式が終わった後。
春人は部活ノートを胸に抱えながら校舎を見上げていた。
静かな表情で。
春人
「これからは……」
小さく笑う。
春人
「僕たちの番ですね。」
結衣がニヤリと笑った。
結衣
「部長が卒業したら責任は全部春人だからね。」
里奈は腕を組みながら笑う。
里奈
「この部活は絶対に終わらせないから。」
春人は深く息を吸った。
そしてノートを握り直す。
春人
「もちろんです。」
校門の前。
蒼依と美緒、そして陽菜は並んで立っていた。
三人とも卒業証書を抱えている。
それなのに――
なぜか誰も帰ろうとはしなかった。
最初に沈黙を破ったのは美緒だった。
美緒
「……本当に終わっちゃったね。」
蒼依は彼女を見る。
蒼依
「本当に遠くの大学へ行くんだよね?」
美緒は頷いた。
美緒
「文学部。」
そして微笑む。
美緒
「覚えてるでしょ?」
少し照れくさそうに笑う。
美緒
「作家になってみたいんだ。」
その瞬間。
陽菜が勢いよく手を挙げた。
陽菜
「私は芸術大学!」
胸を張る。
陽菜
「絵を描き続けるんだから!」
そう言って笑ったあと。
陽菜は指を二人へ向ける。
陽菜
「でも、私から逃げられると思わないでね。」
蒼依は首を傾げる。
蒼依
「どういう意味?」
陽菜はスマホを取り出した。
陽菜
「だって私たち、またオンラインゲームやるんだから。」
二人を順番に指差す。
陽菜
「全員強制参加。」
美緒が大げさなため息をついた。
美緒
「私も?」
陽菜
「特に美緒。」
蒼依は思わず吹き出した。
笑い声が春の風に溶けていく。
蒼依は東邦学園大学への進学が決まった。
美緒は文学を専門とする大学へ。
陽菜は芸術大学へ。
三人。
それぞれ違う道。
それぞれ違う夢。
けれど――
別れる前に。
三人は最後に一枚の写真を撮った。
校門の前で。
制服姿のまま。
肩を並べて。
笑顔で。
その時はまだ誰も知らなかった。
その写真が。
人生の中でも特別な一枚になることを。
夕方。
蒼依は学校近くの道をゆっくり歩いていた。
背後には、静かになった校舎。
閉ざされた校門。
何度も通った帰り道。
蒼依は立ち止まる。
深く息を吸う。
そして微笑んだ。
その時。
スマホが震える。
画面を見る。
陽菜からのメッセージだった。
『ゲームサーバー開いたよ!』
すぐに次のメッセージが届く。
『全員今すぐログイン!!』
蒼依は思わず笑ってしまった。
本当に陽菜らしい。
指を動かし、返信を送る。
『了解。』
送信。
そして空を見上げる。
夕焼けは少しずつ夜へと変わり始めていた。
蒼依は静かに思う。
「みんな、それぞれ違う場所へ進んでいく。」
短い沈黙。
そして。
「それでも――」
優しい風が吹く。
桜の花びらが舞い上がる。
「私たちは繋がっている。」
陽菜
「さよならって、終わりじゃないんだよ。」
美緒
「うん。」
彼女の声が重なる。
美緒
「新しい物語の始まりだよ。」
そして――
時間は流れる。
季節は巡る。
出会いと別れを繰り返しながら。
また新しい日々が積み重なっていく。
――十年後。
キッチンには水の流れる音が響いていた。
二十八歳になった蒼依は、大きなエプロンを身につけながら食器を洗っていた。
無意識のうちに、すでに大きく膨らんだお腹を優しく撫でる。
しばらく手を止める。
その視線は、自分の左手の薬指へと落ちた。
指輪。
結婚指輪だった。
キッチンの照明がその表面に反射する。
小さな輝き。
けれど、それは特別な意味を持つ輝きだった。
蒼依は優しく微笑んだ。
そしてダイニングへ向かう。
大きなテーブルはすでに綺麗に整えられていた。
十一枚の皿。
十一膳の箸。
すべて丁寧に並べられている。
蒼依
「そろそろみんな来る頃かな……」
ほっとしたように息を吐く。
蒼依
「夕食の準備、間に合ってよかった。」
ゆっくりとソファへ腰を下ろした。
足を休めた瞬間、小さくうめき声が漏れる。
蒼依はお腹を撫でながら笑った。
蒼依
「あぁ……足がむくんじゃった……」
柔らかく微笑む。
蒼依
「まだ生まれてもいないのに……もうこんなに大好きだよ。」
その時だった。
玄関の扉が開く音が聞こえた。
「ただいま。」
蒼依はすぐに顔を上げる。
蒼依
「おかえり。」
蒼真が姿を現した。
まだネクタイを締めたまま。
少し疲れた表情。
それでも蒼依を見た瞬間に笑顔になる。
蒼真
「ただいま、蒼依。」
彼はテーブルを見る。
そして再び蒼依を見る。
蒼真
「これ……全部一人で準備したの?」
蒼依はお腹を撫でる。
蒼依
「一人じゃないよ。」
くすりと笑う。
蒼依
「この子も手伝ってくれたから。」
蒼真は目を細めた。
それだけで幸せそうな笑顔だった。
そして彼は蒼依の前にしゃがみ込む。
お腹にそっと手を当てた。
蒼真
「名前……やっぱりそれでいいのか?」
蒼依はゆっくり頷く。
蒼依
「うん。」
少し目を閉じる。
蒼依
「最初から気に入ってたし。」
蒼真は小さく笑った。
蒼真
「夢の中で名前を見たっていう話は今でも不思議だけどな。」
彼は優しく微笑む。
蒼真
「でも、すごく綺麗な名前だ。」
蒼依
「うん……私も最初は変だと思ったけど――」
その時。
コンコンコン。
玄関からノックの音が響いた。
二人は同時に顔を上げる。
蒼真
「出てくるよ。」
蒼依も立ち上がろうとする。
蒼依
「きっとみんなだね。」
蒼真は玄関へ向かった。
扉を開ける。
そこには陽菜と美緒、そして山田陸が立っていた。
全員笑顔だった。
陽菜
「こんにちはーっ!」
蒼真は少し驚く。
蒼真
「おお、早かったな。」
陽菜
「全然!ぴったりの時間だよ!」
山田陸は穏やかに会釈する。
陸
「こんにちは、蒼真。」
蒼真
「よう、陸。」
美緒は笑いながら彼の横を通り過ぎた。
美緒
「とりあえず入らせてよ、蒼真。」
蒼真
「もちろんもちろん。」
三人がリビングへ入った瞬間。
陽菜と美緒は一直線に蒼依の元へ向かった。
そして同時にお腹へ手を伸ばす。
陽菜
「わぁぁぁ!もうこんなに大きい!」
美緒は興味津々だった。
美緒
「もう名前は決まってるんでしょ?」
蒼依は微笑む。
蒼依
「うん。でもみんなが揃ってからね。」
その時。
陽菜は蒼依の足元を見る。
少し表情が変わった。
ゆっくり立ち上がる。
陽菜
「蒼依……」
蒼依
「ん?」
陽菜
「足、結構痛い?」
蒼依は穏やかに笑った。
蒼依
「少しだけ。」
お腹を見つめる。
蒼依
「でも普通みたい。お母さんたちもそう言ってたし。」
陽菜はしばらく黙っていた。
蒼依を見つめる。
まるで自分を重ねるように。
その様子に気付いた美緒がニヤリとする。
美緒
「陽菜も考えてるの?」
陽菜
「う、うぅ……」
視線を逸らす。
陽菜
「そのうち……たぶん。」
陸は軽く咳払いした。
陸
「こんにちは、蒼依。」
蒼依
「久しぶり、陸。」
蒼真
「みんな座ってくれ。」
全員が席に着く。
すると次々に鞄からプレゼントが取り出された。
蒼依と蒼真は目を丸くする。
陽菜は手作りのベビー服セットを持ってきていた。
一着一着に小さな星の刺繍が丁寧に施されている。
美緒はたくさんの絵本と、娘の成長記録を書き残せる上品な日記帳をプレゼントした。
陸は職人が作ったような木製のキッチン用品セットを差し出す。
蒼依はしばらく何も言えなかった。
胸がいっぱいになる。
蒼依
「みんな……本当にここまでしなくても……」
陽菜は即座に腕を組む。
陽菜
「するに決まってるでしょ!」
その瞬間。
コンコン。
再び玄関からノックの音が響いた。
蒼真が立ち上がる。
そして玄関へ向かった。
扉を開ける。
そこには武雄と舞が立っていた。
そして武雄の足の後ろには三歳になった藤本悠斗が隠れている。
舞の腕の中には、生後六か月の藤本ほのか。
武雄
「おーっす!」
その瞬間。
部屋中が明るくなったようだった。
全員が立ち上がる。
「武雄!」
「舞!」
悠斗は父親の足の後ろへさらに隠れた。
武雄は少ししゃがみ込む。
武雄
「大丈夫だぞ、悠斗。」
友人たちを指差した。
武雄
「みんなお父さんたちの友達だからな。」
その瞬間。
陽菜の視線がほのかへ向く。
目が一気に輝いた。
陽菜
「きゃああああっ!ほのかちゃん初めて見た!」
美緒も身を乗り出す。
美緒
「私も!」
蒼依は優しく微笑んだ。
蒼依
「すごく小さい……」
それから数分後。
リビングにいた全員の意識は完全に赤ちゃんへ奪われていた。
蒼依も。
美緒も。
陽菜も。
ほのかが少し動くだけで表情が緩む。
「かわいい……」
「見て、この手……」
「小さすぎる……」
そんな声が次々と飛び交う。
一方で。
別のソファでは蒼真、陸、武雄が話していた。
蒼真は後頭部を掻く。
蒼真
「やっぱり大変か?」
少し言葉を探す。
蒼真
「仕事しながら家のことも手伝うのって。」
武雄は長いため息をついた。
武雄
「あー……最初はな。」
ほのかを見る。
その表情はすぐに柔らかくなった。
武雄
「でもほのかはまだ楽だった。」
小さく笑う。
武雄
「悠斗で一回経験してたからな。」
そして悠斗へ目を向ける。
武雄
「問題はこいつの時だった。」
苦笑する。
武雄
「本当に戦場だったぞ。」
陸
「一番大変だったのは?」
武雄は指を折りながら数え始める。
武雄
「生活リズム。」
一本目。
武雄
「授乳。」
二本目。
武雄
「数時間ごとのおむつ交換。」
三本目。
そしてもう一度深いため息。
武雄
「あと睡眠。」
首を横に振る。
武雄
「睡眠なんて存在しない。」
蒼真と陸が思わず息を飲む。
武雄
「目の下のクマだけで生きてる日がある。」
陸
「で、でも舞さんも手伝ってくれたんだろ?」
武雄の表情が少し真面目になる。
武雄
「よく聞け。」
二人を指差した。
武雄
「最初の数か月は女性の方がもっと大変なんだ。」
その声には以前よりもずっと重みがあった。
父親としての実感。
経験から来る言葉。
武雄
「ホルモンの変化もある。」
腕を組む。
武雄
「急に笑ったり、泣いたり、イライラしたり。」
首を振る。
武雄
「ジェットコースターみたいなもんだ。」
さりげなく舞を見る。
武雄
「精神的にも本当に疲れてる。」
蒼真は部屋の向こうを見る。
ほのかを抱きながら微笑んでいる蒼依。
その姿を見て目元が柔らかくなった。
蒼真
「分かる気がする。」
小さく笑う。
蒼真
「妊娠してから蒼依、本当に優しくなったし。」
武雄は大笑いした。
武雄
「それは今だけかもしれないぞ、蒼真。」
そして彼を指差す。
武雄
「次はお前の番だからな。」
陸も思わず笑う。
その時。
武雄の視線が陽菜へ向いた。
陽菜はほのかを抱いている。
頬がほとんどくっつきそうなほど近い。
完全に夢中になっていた。
武雄
「陸もな。」
蒼真は笑う。
蒼真
「もう母親みたいだ。」
陸の目が大きく開かれる。
陸
「じ、実は……」
武雄
「ん?」
陸は深呼吸した。
そしてゆっくり立ち上がる。
陸
「みんなに話したいことがあるんだ。」
その瞬間。
全員の視線が彼へ集まる。
陽菜は目に見えて慌てた。
陽菜
「り、陸くんっ!」
顔が赤くなる。
陽菜
「みんな揃ってからにして!」
陸
「あ……」
その時だった。
コンコンコン。
再び玄関のノックが響く。
蒼真は立ち上がった。
蒼真
「今開ける。」
扉を開く。
そこに立っていたのは花恵と拓海だった。
二人とも笑顔だ。
全員
「いらっしゃい!」
花恵は家へ入るなり大きな声を上げた。
花恵
「きゃー!みんなに会いたかったー!」
蒼依が笑う。
蒼依
「半年前に会ったばかりでしょ。」
花恵は瞬きを繰り返した。
花恵
「あれ?」
少し考える。
花恵
「本当だ。でももっと前に感じる!」
そのまま悠斗に気付く。
花恵
「わあっ!悠斗くん大きくなった!」
そして次の瞬間。
ほのかを発見した。
花恵
「きゃあああああっ!!」
両手を上げる。
花恵
「この天使みたいな子がほのかちゃん!?」
勢いよく身を乗り出した。
花恵
「抱っこしていい!?」
周囲から笑い声が漏れる。
拓海は額を押さえた。
拓海
「落ち着いてくれ、花恵……」
篠原は微笑む。
篠原
「大丈夫ですよ。」
花恵は慎重にほのかを抱き上げた。
その瞬間。
瞳が輝く。
花恵
「あぁ……可愛すぎる……」
そして。
なぜか全員の視線が拓海へ向いた。
拓海はしばらく黙り込む。
数秒後。
観念したようにため息をついた。
拓海
「あー……分かったよ。」
頭を掻く。
拓海
「俺たちも考えてる。」
花恵は笑いながら頷いた。
花恵
「うんうん、ちゃんと話し合ってるんだよ~♪」
美緒はにやりと笑う。
美緒
「相変わらず遠慮がないわね。」
花恵
「言いたいことは言う主義だから~♪」
陸
「昔から変わらないな。」
花恵は蒼依のお腹を見る。
花恵
「ところで今何か月?」
蒼依
「七か月目に入ったところ。」
全員が一斉に反応した。
「おおー!」
「もうそんなに!」
「蒼真、本当にお父さんになるんだな!」
蒼依は照れたように笑う。
蒼依
「ありがとう。」
その時。
拓海が口を開いた。
拓海
「あと来てないのは海斗と松田蓮、それから新井美咲だけだな。」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ変わった。
拓海
「美咲からは連絡があった。」
周囲を見回す。
拓海
「まだイタリアにいるらしい。」
静かな頷きが返る。
拓海は続けた。
拓海
「蓮は日本中を回る長距離トラックの仕事。」
そして肩をすくめる。
拓海
「海斗は……正直よく分からないな。」
武雄が頷く。
武雄
「北の方でスーパーの店長になったって聞いた。」
ため息をつく。
武雄
「もう一年近く会ってない。」
美緒は少し寂しそうに微笑んだ。
美緒
「美咲、本当にモデルになったんだね……」
目を細める。
美緒
「昔は集まりに必ず来てたのに。」
陸は少し視線を落とした。
陸
「松田蓮も……」
言葉を選ぶ。
陸
「今じゃまるで別人みたいだ。」
部屋が静かになる。
陸
「みんな覚えてる?」
周囲を見る。
陸
「蓮と美咲が付き合い始めた頃。」
蒼依は小さく微笑んだ。
蒼依
「もちろん。」
美緒も頷く。
美緒
「卒業してからだったよね。」
陸
「ああ。」
少し間を置く。
陸
「変わり始めたのは、美咲が地方モデルになってからだった。」
沈黙。
陸
「それから蓮は……」
表情が曇る。
陸
「両親を亡くして、大学も辞めて……」
美緒の顔が悲しげになる。
美緒
「想像もできない。」
ゆっくり首を振る。
美緒
「それでも冬香ちゃんの学費を支えてたんだよね?」
陸は静かに頷いた。
陸
「ああ……」
視線が下がる。
陸
「でも、それだけじゃなかった気がする。」
本当に悲しそうな顔だった。
陸
「二人は三年間付き合ってた。」
短い沈黙。
陸
「そして美咲はイタリアへ行くことを選んだ。」
武雄が息を吐く。
武雄
「せめて綺麗に別れられてたらいいんだけどな。」
スマホを取り出す。
武雄
「俺が電話しても全然出ない。」
首を振る。
武雄
「もう一年半近くだ。」
陸
「俺もだ。」
窓の外を見る。
陸
「今どこにいるんだろうな……」
その頃。
夜はすでに高速道路を包み込んでいた。
濡れたアスファルト。
等間隔に並ぶ街灯だけが、黄色い光を落としている。
一台の大型トラックが静かに走っていた。
運転席。
松田蓮は黙ったまま前を見つめていた。
視線の先には、どこまでも続く夜の道。
片手には一枚の写真が握られている。
何度も見返したせいで少し端が傷んでいた。
写真の中には。
制服姿の蓮と美咲。
肩を並べて笑っている。
幸せそうだった。
本当に。
永遠が続くと信じていた頃の笑顔だった。
蓮は親指で写真をなぞる。
美咲の笑顔の上を。
ゆっくりと。
蓮
「俺たち……愛し合ってたと思ってたんだけどな。」
声は小さい。
独り言のようだった。
蓮
「お前……あの事務所に入ってから変わったよな。」
目を伏せる。
蓮
「知らない人間ばかりになった。」
苦笑する。
蓮
「俺の知らない世界。」
再び車内に沈黙が広がる。
雨音だけが聞こえる。
蓮は写真の中の美咲の頬へ指を伸ばした。
紙越しに触れる。
まるで彼女に届くとでも思うように。
蓮
「俺じゃ……駄目だったのか?」
返事はない。
あるのは。
遠くを走る別のトラックの走行音だけだった。
蓮は疲れたように息を吐く。
そしてスマホを手に取った。
長い夜の運転。
考え事から逃げたかったのかもしれない。
だが。
運命はそれを許さなかった。
何気なく開いた画面。
気づけば芸能事務所の公式チャンネルを開いていた。
そして――
彼は彼女を見つけた。
美咲。
そこにいた。
カメラの前で笑っている。
隣には外国人の男性。
背が高い。
整った顔立ち。
上品なスーツ。
まるで映画の主人公のような男だった。
そして。
二人の左手には。
はっきりと結婚指輪が光っていた。
幸せそうだった。
あまりにも。
幸せそうだった。
美咲はイタリア語で何かを話している。
楽しそうに笑いながら。
蓮には一言も理解できなかった。
だが。
理解する必要などなかった。
その笑顔だけで十分だった。
全てが伝わってしまった。
蓮の手が震え始める。
そして、蓮はゆっくりとスマートフォンの画面を消した。
運転席は再び暗闇に包まれる。
蓮
「こんな状態で……どうやってみんなに会えばいいんだよ……」
言葉の最後はかすかに震えていた。
返事はない。
慰めもない。
あるのは深夜の静寂だけだった。
秒針だけがゆっくりと進んでいく。
そして――
ぽたっ。
一滴。
大型トラックの床へ涙が落ちた。
また一滴。
さらにもう一滴。
蓮はしばらく動かなかった。
やがて片手を顔へ当てる。
肩が小さく震え始めた。
強く目を閉じる。
まるで溢れ出そうとする痛みを押し留めようとするかのように。
だが――
もう遅かった。
蓮
「俺……どこで間違えたんだ……?」
声が途切れる。
蓮
「教えてくれよ……」
唇が震える。
蓮
「俺は……どこで間違えたんだ……?」
そして。
蓮
「親を亡くした悲しみを……ずっと引きずり続けたのが悪かったのか……?」
夜は何も答えない。
ただ静かに。
無関心なまま。
月明かりだけが差し込む運転席の中で。
蓮は一人だった。
もう存在しない恋の写真を握り締めながら。
その時――
遠くに二つの光が現れた。
ヘッドライト。
急速に近付いてくる。
強烈な光。
眩しいほどの光。
真っ直ぐこちらへ向かってくる。
光が顔を照らした。
蓮の目が見開かれる。
蓮
「くそっ!」
心臓が激しく跳ね上がる。
その瞬間。
彼は気付いた。
大型トラックが反対車線へはみ出していたことに。
震える手でハンドルを握る。
咄嗟に切り返す。
タイヤが激しく悲鳴を上げた。
キィィィィィィィッ!!
車体が大きく揺れる。
一瞬。
横転しかけるほどに。
しかし何とか元の車線へ戻った。
蓮は荒い息を吐く。
胸が苦しい。
頭の中はまだ美咲でいっぱいだった。
思い出。
後悔。
痛み。
その全てが離れない。
その時。
背後から大きなクラクションが鳴り響いた。
ビー――――――ッ!!
後ろの車だった。
何度も。
何度も鳴らしている。
蓮は反射的にアクセルを踏んだ。
片手で涙を拭う。
蓮
「こんなことで……」
声は掠れていた。
今にも壊れてしまいそうなほど弱々しい。
蓮
「俺は……立ち止まってる場合じゃ――」
そこで言葉が止まった。
視線が前方へ向く。
そして。
全身の血が凍り付いた。
急カーブ。
目の前。
あまりにも近い。
近すぎる。
蓮の瞳が大きく見開かれる。
蓮
「……は?」
視界の端を警告標識が横切る。
遅い。
あまりにも遅い。
蓮
「なんで気付かなかった……?」
恐怖が全身を支配する。
蓮
「目を閉じてた時か……!?」
全力でブレーキを踏み込む。
ドンッ!!
大型トラック全体が激しく震えた。
タイヤが悲鳴を上げる。
焼けたゴムの臭いが車内へ広がる。
だが。
足りない。
車体が重すぎる。
速度が出すぎている。
カーブはすでに目前だった。
蓮
「やめろ……!」
トラックが車線を飛び出す。
その先に見えるガードレール。
そして。
その瞬間。
蓮は理解した。
もう間に合わない。
修正できない。
逃げ場もない。
瞳が震える。
そして人生を彩ってきた全ての声が一気に蘇った。
冬香。
友人たち。
クラスメイト。
笑顔。
思い出。
自分を大切にしてくれた人たち。
蓮
「冬香……」
かすかな声。
蓮
「みんな……」
ドォォォォォォンッ!!
ガードレールが砕け散る。
大型トラックが斜面へと転落した。
世界が反転する。
ねじ曲がる鉄骨。
砕け散るガラス。
激しい衝撃。
一回。
二回。
三回。
何度も何度も回転する。
現実そのものが引き裂かれていくようだった。
そして――
全てが静かになった。
高速道路の上では。
後続車が急ブレーキを踏んで停止していた。
運転席のドアが勢いよく開く。
運転手は顔を青ざめさせながら飛び出した。
心臓が激しく鼓動している。
男
「カーブを知らせようとしてたんだ……!」
息を切らしながら叫ぶ。
男
「クラクション鳴らしてたのに……!」
彼は必死に斜面へ駆け寄った。
ガードレールの破壊された場所。
その向こうを見下ろす。
男
「まさか……」
次の瞬間。
背筋に冷たいものが走った。
大型トラックは完全に大破していた。
原形を留めていない。
車体はねじ曲がり。
潰れ。
鉄くずの塊のようになっている。
白い煙がゆっくりと立ち上っていた。
そして。
男はそれを見つけた。
窓ガラスの砕けた運転席。
そこから一本の手が外へ伸びていた。
微動だにしない。
血に染まった手。
だが。
その手は何かを握っていた。
写真だった。
ぐしゃぐしゃになり。
血と泥で汚れている。
それでも。
指だけは離そうとしていない。
まるで。
この世界に残された最後の宝物であるかのように。
男は口元を押さえた。
男
「神様……」
足から力が抜けそうになる。
震える手でスマートフォンを取り出す。
男
「救急車を……そ、それに消防も……」
喉が震える。
目は壊れたトラックから離せない。
男
「頼む……」
かすれた声。
男
「生きていてくれ……」
男
「お願いだから……」
蒼依と蒼真の家へ場面は戻る。
食卓は大勢の人で賑わっていた。
料理の香りが部屋中に広がる中、久しぶりにこうして集まった皆が楽しそうに会話を交わしていた。
蒼依はそんな友人たちを見つめながら微笑む。
不思議だった。
何年経っても。
まるで何も変わっていないように感じる。
そして同時に。
全てが変わってしまったようにも感じた。
その時。
陸が軽く咳払いをした。
陸
「みんなに話したいことがあるんだ。」
全員の視線が彼へ向く。
陸
「実は俺たち……子供を作ろうと思ってる。」
陽菜の顔が一瞬で真っ赤になった。
陽菜
「り、陸くん……!」
陸は照れくさそうに後頭部を掻く。
陸
「まあ、まだ少し先の話だけどな。最近は会社のことで本当に忙しくてさ。」
美緒が楽しそうに笑った。
美緒
「あら、いいじゃない。じゃあ今のうちに蒼依から色々教わらないとね、陽菜。」
陽菜
「み、美緒!」
その場に笑い声が広がる。
その時だった。
武雄のスマートフォンが震えた。
武雄
「ん?」
画面を確認すると笑みを浮かべる。
武雄
「海斗からだ。」
花恵
「海斗?」
武雄はスマホを掲げた。
武雄
「聞いてくれ。」
わざと咳払いをしてから読み上げる。
武雄
「『スーパーの商品発注で忙しいけど、蒼依とみんなによろしく伝えてくれ』だってさ。」
「あーっ!」
何人もの声が重なる。
「いいな!」
「全然変わってないな!」
武雄は笑った。
武雄
「海斗は期待を裏切らないよな。」
舞は頬杖をついた。
舞
「そういえば仕事といえばさ。」
蒼依を見る。
舞
「最近はどうなの?」
蒼依はお腹を撫でながら微笑んだ。
蒼依
「うーん……少しお休みをもらってるかな。」
「まあそうだよね。」
蒼依
「このお腹じゃなかなか演技も難しくて。」
小さく笑う。
隣で蒼真も微笑んだ。
蒼真
「俺が公務員で本当に良かったよ。」
肩をすくめる。
蒼真
「今は俺が家を支える番だからな。」
美緒がすぐに反応した。
美緒
「模範的な旦那さんね。」
蒼真
「必死に生き残ろうとしてるだけだよ。」
再び笑い声が上がる。
武雄が蒼依を指差した。
武雄
「そういえば最近どんな作品に出たんだ?」
蒼依
「え?」
武雄
「次の映画の参考になるかもしれないし。」
蒼依は何度か瞬きをした。
蒼依
「次の映画?」
武雄は誇らしげに腕を組む。
武雄
「今の俺、映画監督だからな。」
一瞬の沈黙。
そして――
全員
「えええええっ!?」
食卓が揺れるほどの驚きだった。
「おめでとう、武雄!」
「すごい!」
「本当に夢を叶えたんだな!」
武雄は照れくさそうに笑った。
すると舞が勢いよく手を挙げる。
舞
「そして私は主演女優として彼の秘密兵器よ。」
花恵
「自分で秘密兵器って言うの?」
舞
「もちろん。」
花恵
「相変わらず自信満々だね。」
食卓は再び笑いに包まれた。
陽菜は美緒を見る。
陽菜
「そういえば美緒。」
美緒
「ん?」
陽菜
「サロンはどう?」
美緒
「前よりずっと順調よ。」
陽菜
「本当に?」
美緒
「もっと大きな街へ引っ越してから、お客さんがかなり増えたの。」
陽菜
「よかったじゃない!」
美緒
「その代わり、本を書く時間はかなり減ったけどね。」
蒼真が首を傾げた。
蒼真
「サロン?」
美緒
「うん。」
蒼真
「美容室?」
美緒
「違うわ。」
美緒はごく自然に答える。
美緒
「耳かきサロン。」
食卓が静まり返った。
全員が数秒間固まる。
「……」
「……」
「……」
陽菜が指差した。
陽菜
「私も初めて聞いた時その顔だった。」
蒼依も手を挙げる。
蒼依
「私も。」
再び笑い声が起こる。
舞が腕を組んだ。
舞
「でも美緒。」
美緒
「ん?」
舞
「その仕事ってちょっと……親密すぎない?」
美緒
「そうね。」
舞
「それ好きなの?」
美緒
「本当に好きだって気付いたの。」
微笑む。
美緒
「すごく楽しいのよ。」
舞
「楽しい?」
美緒
「うん。」
舞
「人の耳掃除が?」
美緒
「それだけじゃないわ。」
「……」
「……」
美緒
「私には向いてるし、それにお客さんとの会話から小説のアイデアもたくさんもらえるの。」
陽菜はため息をついた。
陽菜
「美緒がそう言うなら……」
皆がまた笑った。
今度は美緒が陽菜を指差した。
美緒
「陽菜は?」
陽菜
「私?」
美緒
「創作活動はどう?」
陽菜は両手で頬を支えた。
陽菜
「新しい漫画を描いてる。」
「あっ!」
陽菜
「しかもここ三日くらいまともに寝てない。」
舞が目を丸くする。
舞
「三日!?」
陽菜
「ほぼね。」
舞
「それは……かなり大変そう。」
陽菜は小さく笑う。
陽菜
「大変だよ。」
そして陸を見る。
陽菜
「でも、その分やりがいもある。」
陸は頷いた。
陸
「分かるよ。」
陽菜
「レストランはどう?」
陸
「順調。」
陽菜
「まだ働いてるの?」
陸
「もちろん。」
陽菜
「家の手伝いも?」
陸
「料理の仕事をしてるとそこは助かるな。」
陽菜
「確かに。」
花恵がため息をついた。
花恵
「私も料理上手になりたいな。」
美緒
「花恵が?」
花恵
「うん。」
美緒
「でも写真家じゃない。」
花恵
「分かってるよ。」
花恵は笑った。
花恵
「料理の写真を撮るのが大好きなの。」
美緒
「料理は?」
花恵
「壊滅的。」
巧が彼女を指差す。
巧
「だから俺が教えるって言ってるだろ。」
花恵
「だから私はキッチンを燃やすって言ってるの。」
巧
「大げさだな。」
花恵
「全然大げさじゃない。」
皆がまた笑った。
そして巧が続ける。
巧
「そういえば最近昇進したんだ。」
「本当に?」
巧
「ああ。」
「何になったの?」
巧
「モータースポーツ関係の会社のマネージャー。」
再び沈黙。
「……」
「……」
「……」
全員
「えええええっ!?」
食卓中が驚きに包まれた。
巧は両手を上げる。
巧
「分かってる。」
「全然似合わない!」
巧
「俺もそう思った。」
再び爆笑が起きた。
その時。
蒼真がメインディッシュを持ってキッチンから現れる。
蒼真
「よし!」
テーブルに料理を置く。
蒼真
「食べよう!」
武雄が言った。
武雄
「待った。」
全員が彼を見る。
武雄
「その前に。」
笑みを浮かべる。
武雄
「卒業後によく遊んでたオンラインFPS覚えてるか?」
「もちろん!」
「忘れるわけない!」
「私すごく下手だった!」
美緒
「今も下手だけどね。」
「ちょっと!」
武雄は指を立てる。
武雄
「親父が引退したんだ。」
「ああ……」
武雄
「でもその前に最後のゲームを出した。」
「本当に?」
武雄
「ああ。」
武雄は満面の笑みを浮かべた。
武雄
「タイトルは――」
武雄
「Eternal Aegis: Revenge。」
全員が目を見開く。
「嘘だろ!?」
「本当に!?」
「Eternal Aegis!?」
大悟が椅子から立ち上がりそうになる。
大悟
「お前のお父さんだったのか!?」
武雄
「そうだ。」
大悟
「それ絶対やろう!」
「決まりだな。」
蒼依は笑った。
蒼依
「今の私はあんまり長くできないけどね。」
お腹に手を添える。
蒼依
「少しなら遊べるかな。」
花恵
「じゃあ決まり。」
巧も頷く。
巧
「休みを合わせればできる。」
「決定!」
再び穏やかな空気が流れた。
そして。
蒼依が皆を見渡す。
少しだけ緊張しているようだった。
だが。
やがて微笑む。
蒼依
「あ……それと、もう一つ。」
全員が耳を傾ける。
蒼依
「娘の名前、もう決めたの。」
食卓に静寂が落ちた。
蒼依
「その子の名前は――」
蒼依は蒼真を見る。
蒼真は優しく微笑んだ。
蒼真
「愛子。」
蒼依は頷く。
蒼依
「山本愛子。」
数秒間、誰も言葉を発しなかった。
そして蒼真が続ける。
蒼真
「二人で決めた名前なんだ。」
美緒が口元を押さえた。
美緒
「素敵……」
「本当に素敵。」
「すごく似合う。」
武雄がグラスを持ち上げる。
武雄
「それじゃあ――」
武雄
「愛子に乾杯!」
全員がグラスを掲げた。
全員
「乾杯!」
グラスが触れ合う。
笑顔も重なる。
そしてその夜。
久しぶりに。
皆が本当にいるべき場所にいるような気がした。
陸は心の中で思った。
(蓮のやつ……せめてメッセージくらい送ってくればいいのに。)
六か月後。
車は蒼依のかつての家の前で止まった。
最初に蒼真が車を降り、ドアを閉める。
そして妻の腕の中にいる小さな愛子を見つめた。
蒼真
「愛子、おばあちゃんに会いに行こうか?」
愛子は嬉しそうな声を漏らしただけだった。
蒼依は微笑む。
かつての家へ向かって歩きながら、彼女は通りを見渡した。
蒼依
「昨日のことみたいに覚えてるなぁ……」
彼女は坂道を見つめた。
蒼依
「何度この坂を駆け下りて、電車に間に合うよう急いだことか……」
それから一本の木を指差した。
蒼依
「あ……」
懐かしそうな笑みが浮かぶ。
蒼依
「あの木、まだある。」
蒼真
「懐かしい?」
蒼依
「すごく。」
蒼依はインターホンを押した。
数秒後。
玄関の扉が開く。
由紀子が姿を現した。
髪には白いものが少し混じっている。
それでも、その笑顔は昔と何ひとつ変わっていなかった。
由紀子
「来たのね!」
蒼依
「お母さん!」
由紀子はすぐに両腕を広げた。
由紀子
「私の孫ちゃん!」
蒼依は笑う。
蒼依
「落ち着いて。」
由紀子
「抱っこさせて!」
蒼依
「もちろん。」
由紀子は愛子を抱き上げた。
まるで世界で一番大切な宝物を抱きしめるかのように。
そしてきっと、それは本当にそうだった。
しばらく談笑した後。
蒼依は立ち上がった。
蒼依
「愛子に見せたいものがあるの。」
由紀子
「ん?」
蒼依
「おじいちゃんの仏壇を見せてあげたい。」
由紀子は優しく微笑んだ。
由紀子
「あの人も喜ぶわ。」
蒼依は愛子を連れて仏壇の前へ向かった。
写真を見せる。
蒼依
「この人がおじいちゃんだよ、愛子。」
愛子はただじっと写真を見つめていた。
その頃。
居間では由紀子と蒼真が話していた。
由紀子
「今度みんなで海に行きましょう。」
蒼真
「いいですね。」
由紀子
「時間ができたら。」
蒼真は微笑んだ。
蒼真
「愛子がもう少し大きくなったら。」
その時。
つけっぱなしだったテレビが速報に切り替わった。
アナウンサーが画面に映る。
アナウンサー
「科学者たちの発表によりますと、太陽の活動は約一%弱まっていることが確認されました。専門家たちは、今後の地球規模の気候への影響について調査を進めています。」
蒼真はテレビを見た。
蒼真
「なるほど。」
由紀子
「何が?」
蒼真
「ここ数週間、少し寒い気がしてたんです。」
由紀子は頷いた。
由紀子
「確かにそうね。」
階段の途中で話を聞いていた蒼依もテレビを見る。
蒼依
「でも……」
由紀子
「ん?」
蒼依
「どうしてそんなことが起きたんだろう?」
由紀子は肩をすくめた。
由紀子
「さあね。」
由紀子
「大したことじゃなければいいけど。」
蒼依は再び階段を上った。
二階へ到着する。
そして一つの扉の前で足を止めた。
自分の部屋だった場所。
彼女は静かに息を吸う。
そして扉を開けた。
部屋の中はほとんど空だった。
残されているのは数個の段ボール箱。
隅に寄せられた家具が少し。
それだけ。
何もない。
それなのに――
思い出はまだそこに残っていた。
笑顔。
涙。
喧嘩。
夢。
すべてがこの場所に響いているようだった。
蒼依はゆっくりと歩く。
蒼依
「ここで過ごしてたんだよ、愛子。」
愛子が小さくぐずり始めた。
蒼依は優しくあやす。
蒼依
「どうしたの?」
蒼依
「今日は元気いっぱいだね。」
彼女は微笑んだ。
さらに部屋の奥へ進む。
何もない空間を見つめた。
そして小さく呟く。
蒼依
「お父さん……」
声が少しだけ小さくなる。
蒼依
「来たよ。」
彼女は愛子を見つめた。
蒼依
「愛子を紹介したかったの。」
返事はなかった。
けれど。
それは悲しい沈黙ではない。
ただ時間が流れた後に残る静かな沈黙だった。
蒼依はゆっくり部屋を歩く。
蒼依
「きっとお父さんなら、真っ先に抱っこしてたんだろうな……」
彼女は小さく笑った。
蒼依
「ふふっ……」
その時。
愛子が母親の顔を見上げる。
そして小さく笑った。
蒼依も微笑む。
蒼依
「何がおかしいの?」
彼女の目が少し潤んだ。
だがそっと拭う。
蒼依
「やっぱり、何事にも巡り合わせってあるんだね……」
蒼依は最後にもう一度部屋を見渡した。
蒼依
「どんなにつらくても……」
彼女は娘の小さな手を優しく握る。
蒼依
「私たちは前へ進まなきゃいけない。」
そして部屋を後にした。
扉は開いたままだった。
誰もいない空っぽの部屋を映しながら。
遠くから家族の声が聞こえてくる。
由紀子
「もう一回抱っこさせて!」
蒼依
「はいはい、お母さん。ふふっ。」
由紀子
「晩ご飯は何を作ろうかしら?」
そんな声に包まれながら。
その家は今も生き続けていた。
終わり。
もしこの作品を楽しんでいただけたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです!
本当にありがとうございました!
あとがき
こうして『さよならと永遠のあいだで』は完結を迎えました。
この物語を書き始めた頃は、ただの一つのアイデアに過ぎませんでした。
けれど、少しずつ、そして一話ずつ積み重ねていくうちに、この作品は皆さんと共有する大切な旅になっていきました。
蒼依は笑い、泣き、立ち止まり、傷つき、それでも前を向いて歩き続けました。
そして、その道のりの中で、皆さんはずっと彼女の隣にいてくれました。
この作品を読んでくださったすべての方々に、心から感謝しています。
感想を書いてくださった方。
ブックマークしてくださった方。
評価を入れてくださった方。
そして、静かに読み続けてくださった方。
どの読者の皆さんも、この物語を完成まで導いてくれた大切な存在です。
私にとって、この作品を書く時間は本当に特別なものでした。
そして、この物語が皆さんの心にも何かを残せていたなら、これ以上嬉しいことはありません。
ですが――
これは本当の意味での別れではありません。
すでにご存じの方もいるかもしれませんが、私の次回作である
『君を想いながら死んだ俺は、非現実の世界に転生した』
そして
『君が眠っているあいだに』
の準備が進んでいます。
そして、はい――
この三つの物語は互いに繋がっています。
もしかしたら、まだ語られていない答えが別の場所で待っているかもしれません。
もしかしたら、本当の意味で終わらない旅もあるのかもしれません。
その時が来たら、蒼依を見守ってくださったように、蓮の旅路も見届けていただけたら嬉しいです。
蒼依と共に歩いてくださったこと。
そして、私と共に歩いてくださったこと。
本当にありがとうございました。
また次の物語でお会いしましょう。
―― Moshi
今後の作品や更新情報を追いかけたい方はこちらからどうぞ。
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それでは、二週間後の新たな旅でお会いしましょう




