第58話 ― 期末試験
雪の降る中、蒼真は青井の手を強く握ったまま走り続けていた。
振り返る余裕なんてなかった。
背後から、女子たちの声が聞こえる。
「どこ行ったの!?」
「たぶんこっち!」
青井は息を切らしながらも、蒼真に引っ張られるまま走っていた。
心臓が苦しいほど速く鳴っている。
走っているせいだけじゃない。
やがて蒼真は細い路地へ飛び込み、壁に背中を預けながら大きく息を吐いた。
「はぁ……なんとか、撒けたか……」
二人の間に静寂が落ちる。
すると、通りの向こうを女子たちが走り抜けていった。
「いない!」
「反対側行ったんじゃない!?」
足音が少しずつ遠ざかっていく。
蒼真はそっと角から外を覗いた。
「向こう行ったな……」
「助かった……」
そう言って振り返った瞬間――
彼は固まった。
青井が、目の前にいた。
近すぎる距離。
お互いの身体が触れそうなくらい。
乱れた呼吸。
まだ繋がれたままの手。
青井の顔は真っ赤だった。
そして蒼真は気づく。
自分がまだ彼女の手を握ったままだということに。
「ご、ごめん!」
「ごめん、青井!」
慌てて手を離し、少し距離を取る。
けれど青井は動かなかった。
口元を片手で隠したまま、視線を逸らしている。
顔は赤いまま。
肩もわずかに震えていた。
そして小さな声で呟く。
「……ずるいよ。」
蒼真は瞬きをした。
「え……?」
青井はマフラーをぎゅっと握る。
静かな雪が、二人の間に降り続いていた。
「もう……」
「こんな気持ちにならないって思ってたのに……」
蒼真の鼓動が一瞬止まりそうになる。
「こ、こんな気持ちって……?」
青井はゆっくり息を吐いた。
自分の感情を整理するように。
「蒼真くん……」
「あなたが全部話してくれてから……ずっと何を考えればいいかわからなかった。」
冷たい風が路地を通り抜ける。
彼女の髪が静かに揺れた。
「今でも……正直よくわからない。」
「あなたのことも……」
「自分のことも……」
蒼真は寒さの中でも手に汗を感じていた。
けれどその時、青井はゆっくり彼を見上げた。
その瞳には悲しみがあった。
でも同時に、優しさも。
「でも……」
「きっと、お父さんは……誰かを一生許さないままでいてほしいなんて思わない。」
蒼真は動けなかった。
父のこと。
演劇。
母との会話。
後悔。
罪悪感。
いろんなものが胸を締め付ける。
重たい沈黙が二人を包む。
やがて蒼真は視線を落とし、静かに言った。
「それでも……」
「俺はちゃんと償わないといけない。」
青井はゆっくり瞬きをした。
「償う……?」
蒼真は頷く。
「青井の家に行きたい。」
「家族に……俺がしたことを話したい。」
青井の目が大きく揺れた。
「蒼真……」
彼女は一歩、彼に近づく。
「本気なの……?」
蒼真は力なく笑った。
痛々しい笑みだった。
「最近……もう何が正しいのか全然わからない。」
目を閉じる。
ずっと一人で抱え込んできた人間みたいに。
そして再び彼女を見る。
その目は、今までにないくらい弱くて、真っ直ぐだった。
「でも……」
「青井といると、安心するんだ。」
青井の胸が強く締め付けられる。
顔がまた熱くなる。
彼女はマフラーで口元を隠した。
「蒼真……」
「私、どうしたらいいのかな……」
蒼真はしばらく黙った後、少し寂しそうに笑った。
「俺もずっと考えてる。」
「どうすればいいんだろうって。」
雪が静かに降り続く。
気づけば二人はまた近づいていた。
視線が絡む。
どちらも逸らせない。
青井は制服の袖をぎゅっと掴む。
「こういう気持ちって……」
「間違ってるのかな……」
蒼真は深く息を吸った。
声が震える。
「青井も……」
「俺と同じ気持ちなのか?」
彼は一歩近づく。
青井は逃げなかった。
ただ、ゆっくり目を閉じる。
真っ赤になったまま。
無防備に。
蒼真の心臓が激しく暴れた。
「青井……」
「俺にそんな資格があるのかわからない――」
「じゃあ、ちゃんと言って。」
蒼真は止まった。
青井は再び目を開く。
恥ずかしそうなのに、それでも彼を見つめ返していた。
「後悔したくないって言ってたでしょ?」
蒼真は緊張したように髪をかき上げる。
呼吸が震えていた。
「青井……」
「俺、ずっとお前と付き合いたかった。」
指先を強く握る。
「でも俺にはその資格なんてない。」
「一度、お前の気持ちを拒絶したし……」
「それに、あんなことまで――」
「私は、いいよ。」
静寂。
蒼真は理解できず瞬きをした。
「……え?」
青井はすぐ視線を逸らした。
顔は真っ赤だった。
「私……」
「蒼真くんと付き合いたい。」
数秒間、蒼真は何も言えなかった。
「で、でも……」
「なんで……?」
声が掠れる。
「あんなことしたのに……?」
青井は静かに息を吸った。
そして母の言葉を思い出す。
後悔。
罪悪感。
長い時間抱え続ける痛み。
ゆっくり彼を見上げた。
「ある人が言ってたの。」
「時間が経つと……」
「傷つけた側のほうが、もっと苦しくなることもあるって。」
蒼真は黙ったままだった。
でも瞳が揺れている。
今にも壊れそうに。
「それでも……」
青井は優しく遮った。
「もし相手が蒼真くんじゃなかったら……」
「私はこんな風に思えなかったかもしれない。」
蒼真の目が大きく開く。
「じゃあ……」
「本当にいいのか?」
青井はすぐ眉を寄せた。
「よくない。」
蒼真が固まる。
けれど彼女は少し拗ねたように顔を逸らした。
「まだまだ償ってもらうから。」
マフラーをぎゅっと引き上げる。
隠しきれない笑みが漏れていた。
「一緒に行きたい場所……」
「いっぱいあるんだから。」
蒼真の胸が痛いほど熱くなる。
「……青井。」
そしてゆっくり――
蒼真は再び彼女の手を握った。
今度は勢いじゃない。
逃げるためでもない。
まるで「触れてもいいか」と確かめるように。
青井はその手を優しく握り返した。
二人は雪の中に立っていた。
赤くなったまま。
静かなまま。
でも今度の沈黙は――
どこか優しかった。
それから数週間が過ぎた。
二月。
期末試験の季節。
冬の風が教室の窓を鳴らす。
白い空は重たく、冷たい。
教室の空気もどこか違っていた。
誰も大声で笑わない。
こそこそ話もしない。
スマホを触る者もいない。
山田ですら真面目な顔をしている。
教卓では花江が試験用紙を丁寧に揃えていた。
「はい……名前を呼ばれた人から取りに来て。」
「私語は禁止。」
紙の擦れる音が、妙に大きく響く。
青井は静かに机を見つめていた。
緊張しているわけじゃない。
でも落ち着いているわけでもない。
ゆっくり横を見る。
蒼真は左に二列離れた席。
俯いたまま。
真剣な表情。
どこか遠い。
彼は青井を見なかった。
それでも――
そこにいるだけで胸が少し苦しくなる。
前の席では陽菜がコンサート前みたいに指を動かしていた。
美緒は寒そうに手を擦っている。
やがて佐々木先生が教室へ入ってきた。
「始め。」
一斉に紙をめくる音。
そして――
静寂。
重たい静寂だった。
青井は最初の問題を見る。
答えはわかる。
でも心は別の場所にあった。
彼女は一度目を閉じる。
深呼吸。
そして書き始めた。
ペンの音。
紙をめくる音。
静かな呼吸。
数分後――
誰かが早すぎるタイミングで答案を提出した。
全員が反射的に顔を上げる。
拓海だった。
汗だく。
必死に余裕ある顔を作っている。
花江は今にも彼を絞め殺しそうな目で見ていた。
青井は吹き出しそうになる。
でも堪えた。
そっと横を見る。
陽菜はまだ静かに書き続けていた。
真剣に。
迷いなく。
そしてその瞬間――
青井は感じた。
本当に、時間が進んでいるんだと。
同じ頃――
武雄たちもまた、自分たちの未来へ進んでいた。
「東邦学園……行くぞ。」
まだ空は暗かった。
武雄が家を出た時、風が頬を刺す。
空は深い青。
黒に近い色だった。
彼はマフラーを整えながらスマホを見る。
海斗:
『もう駅いる。遅れたら他人のフリするからな』
武雄は小さく笑った。
すぐ次の通知。
篠原舞:
『汗だくで来ないで。第一印象大事。』
武雄は深呼吸した。
今日はただの試験じゃない。
星見を離れるための第一歩だった。
電車の中——
窓の外の景色が、流れるように過ぎていく。
三人とも、ほとんど口を開かなかった。
そんな空気の中、ふいに海斗がため息をつく。
— なんかさ……みんな才能ありそうに見えてくるんだけど。
篠原は静かに答えた。
— それってつまり、私たちがちゃんと来るべき場所に来たってことでしょ。
武雄は窓の外を眺めていた。
舞台のこと。
蒼井のこと。
そして、自分は本当にこの街を離れる覚悟ができているのかを。
やがて——
大きな街並みが見えてくる。
増えていくコンクリート。
高いビル群。
少なくなっていく空。
そして初めて——
星見が、少し遠く感じられた。
『東峰学園 演劇音楽大学』
校舎は静かだった。
上品で。
伝統的で。
派手さはない。
それでも、圧倒されるような存在感があった。
すでに他の受験生たちも集まっている。
小声で台詞を確認している者。
表情の練習を繰り返している者。
まるで最初から舞台の上に立つために生まれてきたような人たちもいた。
海斗がぼそりと呟く。
— 怖がってるの、俺だけかな。
篠原は落ち着いた声で返した。
— 私だって場違いな気分よ。でも、もうここまで来たんだから。
武雄は深呼吸した。
— 行こう。
筆記試験は終わりが見えないほど長く感じた。
演劇理論。
読解。
分析。
それでも武雄は落ち着いて答えを書いていく。
これはただ暗記するためのものじゃない。
“感じる”ための試験だからだ。
その後は実技試験。
一人ずつ名前を呼ばれていく。
最初に入ったのは篠原だった。
静寂。
海斗が小声で呟く。
— あいつ、こういう場所のために生まれてるだろ。
そして——
武雄の番が来た。
小さな舞台へ上がる。
白い照明が目に刺さるように熱い。
審査員たちは無言でこちらを見ていた。
武雄は一瞬だけ目を閉じた。
誰かを笑わせたくて、初めてキャラクターの真似をした日のことを思い出す。
そして始めた。
大げさにじゃない。
無理に感情を作るわけでもない。
ただ、“本当”を演じる。
終わった瞬間——
永遠みたいな沈黙が流れた。
審査員の一人が何かを書き込む。
その意味も分からないまま、武雄は舞台を降りた。
星見へ戻る帰り道。
ようやく疲れが全身に押し寄せてきていた。
誰も話さない。
そんな中、海斗がぽつりと呟く。
— もし東峰に落ちたらさ……俺、みんなと離れるんだな。
武雄はすぐに言い返した。
— そんなこと考えるなよ。俺だって普通に怖いから。
篠原は二人を見て、小さく笑った。
— 結果がどうなっても……私たち三人でここまで来たことは変わらないよ。
電車がゆっくり減速する。
扉が開く。
そしてまた、冬の冷たい空気が流れ込んできた。
でも——
朝の寒さとは違った。
今度の寒さは、“結果を待つ寒さ”だった。
翌週——
蒼井は朝早く、駅で武雄を見かけた。
— 武雄?
武雄が振り返る。
— 蒼井? へへ、おはよう。
蒼井は首を傾げた。
— この時間にいるなんて珍しいね。いつももっと早いのに。
武雄はポケットに手を入れた。
— 最後の一か月くらい、ちゃんと味わっておきたくてさ。
その言葉に、蒼井の胸が少しだけ締めつけられる。
— 東峰の受験、もう終わったんだよね?
— 俺と舞と海斗で受けた。
蒼井は小さく微笑んだ。
— 受かってたらすごいよね。
前を見ながら続ける。
— 由美先輩もあそこにいるんだよね。あんまり一緒にいたことはないけど……なんだか尊敬しちゃう。
武雄は小さく笑った。
— 分かる。あの人、そういう空気あるよな。
そして蒼井の隣で電車に乗り込む。
— 由美姉って、なんか別世界の人みたいだし。
駅を降りて学校へ向かう途中——
校門の前で、陽菜が山田と手を繋いでいるのが見えた。
二人とも、少し照れたように笑っている。
武雄がふと口を開く。
— 明日、東峰の結果発表なんだ。
蒼井は目を丸くした。
— えっ、本当に?
— 第二志望は日本芸術大学。
— どっちもすごいところじゃん……!
武雄は笑う。
— 由美先輩が東峰に入れたんだ。だったら俺たちもそこを目指す。
蒼井はすぐに言った。
— 大丈夫。きっと受かるよ。
すると武雄が横目で彼女を見る。
— 蒼井は?
— ん?
— 俺がいなくなっても平気?
蒼井はすぐに視線を逸らした。
— そういうこと言わないでよ……
それから無理やり笑う。
— それに、春香ちゃんもまだ星見の近くにいるし。
武雄は苦笑した。
— 春香は工学部だよ。家族の誇りってやつ。
蒼井はその声に少し違和感を覚える。
— ……なんか、寂しそう。
武雄は少し黙ってから答えた。
— もし東峰に受かったらさ……
その目が少しだけ柔らかくなった。
— やっと親が、“俺”と……“俺の芸術”を認めてくれる気がするんだ。
蒼井はゆっくり目を見開いた。
— 知らなかった……武雄。
武雄は穏やかに笑っただけだった。
— 蒼井はもう十分いろんなもの抱えてたから。
そう言って前を指差す。
— ほら。
校門の近くで、蒼真が待っていた。
蒼井は自分でも気づかないうちに少し頬を赤くする。
そしてそのまま皆のところへ歩いていった。
— おはよう!
— おはようー。
みんなの声が重なる。
武雄も片手を上げた。
— よっ、おはよう。
— おはようございます、先輩!
少しして、篠原が海斗と話しながらやってきた。
— ……まあ、出来が悪かったとしても、結果待つしかないよね。
そしてグループに気づく。
— あ、武雄くん。みんなもおはよう。
全員が返事をした。
— おはよう!
昇降口で靴を履き替えながら、武雄が言う。
— これ全部終わったらさ……またみんなでゲームしようぜ。
軽く笑う。
— なんか、ゲームしてた頃が懐かしい。
すると篠原が呆れた顔をした。
— 超難関の受験終えたばっかりなのに、考えることそれ?
武雄は笑う。
— ちょっとくらい息抜きしたいんだよ。
それから篠原を指差した。
— 忘れたのか? 俺たち、由美先輩の大学行くかもしれないんだぞ。絶対サボらせてくれないって。
海斗が吹き出す。
— 確かにそれはそう。
蒼井も微笑んだ。
— じゃあ卒業した後に遊ぼう。
— さんせーい!
陽菜が元気よく手を上げる。
— 年明けって、なんかゲームしたくなるし!
そして急に真面目な顔をした。
— あ、それと……
全員が彼女を見る。
— 放課後、図書室に来てね。
沈黙。
— ……なんで?
全員の声が揃う。
陽菜は満面の笑みを浮かべた。
— 漫画、完成したの!
目がきらきら輝いている。
— みんなに読んでほしい!
篠原が驚いたように目を見開く。
— えっ、陽菜って漫画描いてたの?
そして素直に笑った。
— すごい。絶対読みたい。
みんなも頷く。
陽菜はさらに続けた。
— 花江と拓海と美咲も呼びたいなー。
その瞬間、後ろから声がした。
— で、私は?
陽菜がびくっと跳ねる。
— わぁっ!? び、びっくりした!
そして腕を組んだ。
— ……まあ、美緒は別に招待いらないけど。
美緒は満足そうに笑う。
蒼井が小さく繰り返した。
— 放課後、図書室……
すると海斗が自分を指差す。
— 俺も行かなきゃダメ?
— ダメ。
— ……はいはい。
海斗は小さく笑った。
— じゃあ行くしかないか、へへ。




