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第56話 ― 消えかけた笑顔

武雄は、バス停に一人で立っている青井を見つけた瞬間、足を止めた。


「……青井?」


青井はゆっくりと顔を上げる。


数秒間――


ただ黙って武雄を見つめていた。


武雄の後ろには、少し背の低い少女が立っていた。


長いコートにマフラーを巻いた少女は、驚いたように目を瞬かせると、小さく前に出た。


「私のこと……覚えてるよね? もう何年も会ってないけど……」


青井は彼女をじっと見つめた。


そして少しだけ目を見開く。


「えっと……春香?」


武雄はコートのポケットに手を入れながら、小さく笑った。


「ほら、ちゃんと覚えてた。」


「……あ、うん。久しぶり。二人とも、どうしたの?」


「それ、こっちの台詞だろ。」


武雄は少し眉をひそめた。


「昨日の発表会のあと、急にいなくなったし。みんなでカラオケ行ったのに、メッセージも既読つかなかった。」


青井は視線を逸らす。


「昨日は……ちょっと疲れてて。スマホもあんまり見てなかった。」


「……まあ、そんな感じはしたけど。」


春香は心配そうに首を傾げた。


「青井、大丈夫? しばらく会ってなかったよね。ここ数年、私ずっと寮の学校だったから。」


「うん、春香。大丈夫だよ。ただ昨日の疲れが残ってるだけ。」


武雄はしばらく青井の顔を見つめていた。


その瞳は、どこか遠くを見ているようだった。


まるで――


ここにいないみたいに。


そして彼は少しだけ声を落とした。


「……もし話したくなったらさ。」


すると春香が、空気を変えようとするように笑顔を浮かべた。


「そうだ、私しばらく星見にいるんだ! 青井って最近何が好きなの? お兄ちゃんが、一緒にゲームしてるって言ってたけど。」


「ああ……『Eternal Aegis Online』。」


武雄が答える。


「でもメインストーリーはほとんど終わっちゃった。残ってるのオンラインくらい。」


春香はすぐに頬を膨らませた。


「えぇ!? ずるい! 私も誘ってよ――!」


「……ごめん、みんな。」


春香が言い終わる前に、青井が静かに遮った。


そして目を伏せる。


「今は……そういう気分になれなくて。嫌な感じに聞こえたなら、ごめん。」


そう言うと、青井はゆっくり歩き出した。


「青井……」


武雄が呼ぶ。


けれど彼女は振り返らなかった。


春香は遠ざかっていく青井を見つめ、それから兄を見る。


「……どうしたの? 青井。」


武雄は小さく息を吐いた。


「わからない。でも……話したくないんだと思う。」


彼は目を伏せる。


「それにさ。」


「この何年かで、無理やり青井を動かそうとしても意味ないって、わかったから。」


その瞬間――


武雄の脳裏に、ある記憶が蘇った。


七歳の頃。


武雄はリビングの床で、お気に入りのミニカーを走らせていた。


春香は家の中を走り回って笑っている。


母親はベランダにいた。


その時――


玄関の扉が静かに開いた。


父親が、俯いたまま家に入ってくる。


空気が変わった。


母親はすぐに立ち上がった。


「どうしたの?」


父親はしばらく黙っていた。


そして、重い声で言った。


「……宏志さんが見つかった。」


武雄は動きを止めた。


「……え?」


父親は弱く拳を握る。


「亡くなった。車ごと崖から落ちたらしい。」


ミニカーが、武雄の手から落ちた。


目が大きく見開かれる。


「う……そ……」


父親は、武雄が聞いていたことに気づいて驚いた。


「た、武雄!? いたのか……」


けれど武雄は、もう走り出していた。


「そんな……」


「青井……!」


何本もの道を、息を切らしながら走る。


そしてようやく青井の家に辿り着いた。


何度もインターホンを押す。


玄関を開けた雪子に、武雄はすぐ言った。


「ごめん、雪子おばさん! 青井と話したい!」


「待って武雄くん、青井は今――」


けれど武雄は、そのまま家に駆け込んでいた。


階段を一気に駆け上がる。


そして部屋の扉を開けた。


青井はベッドの上に座っていた。


まったく動かず。


自分で描いた絵を、ただ静かに見つめている。


武雄は息を切らしながら、無理やり笑顔を作った。


何を言えばいいのかなんて、わからなかった。


それでも――


「青井、見て! 一緒に遊ぼうと思って、ミニカー持ってきた!」


玩具を彼女に差し出す。


でも青井は反応しなかった。


ずっと絵を見つめたまま。


武雄はゆっくり腕を下ろした。


「……青井?」


そして絵を見る。


そこには、笑っている青井と雪子、そして宏志が描かれていた。


武雄は数秒黙った。


そのあと近くにあった人形を手に取り、一人で遊び始める。


「こっち手伝ってよ。人形かミニカー持って。」


返事はない。


青井はただ床へ視線を落とした。


武雄はまた笑おうとする。


「なあ青井……ちょっとくらい笑えよ。」


ようやく彼女が、小さく答えた。


「……遊びたくない。」


武雄は黙る。


そしてゆっくり扉へ向かった。


「そっか……じゃあ、また明日来る。」


扉を開けると、そこには雪子が立っていた。


両手で顔を覆い、肩を震わせている。


武雄は、自分も泣きそうになりながら笑った。


「ミニカー置いてくね。明日また遊ぼう。」


そして小さく頭を下げた。


「入れてくれてありがとう、雪子おばさん。」


そうして――


彼は帰っていった。


それが何日も続いた。


毎日、武雄は青井の家へ来た。


玩具を持って。


どうでもいい話をして。


なんとか彼女に反応してほしくて。


でも青井はずっと静かなままだった。


無表情で。


遠くへ行ってしまったみたいに。


そして、ある日――


武雄はただ彼女の隣に座った。


遊びもせず。


無理に笑おうともせず。


武雄は自分の手を見つめる。


「……もう、何して遊べばいいかわかんない。」


沈黙。


それから弱々しく笑った。


「青井も手伝ってくれたらいいのに……はは……」


返事はない。


武雄は俯く。


声が少し震えていた。


「俺も……宏志さんに会いたい。」


青井は動かない。


「父さんもさ。宏志さんと友達だったんだろ?」


それでも返事はなかった。


武雄は強く目を閉じる。


「でも……」


声が掠れる。


「そんな青井を見るほうが……ずっと辛い……っ。」


青井が、初めて少しだけ顔を上げた。


武雄を見るほどではない。


でも――


武雄にはそれで十分だった。


彼は急いで涙を拭き、また笑おうとする。


そして青井の前に立った。


指で彼女の口角をそっと持ち上げる。


「笑ってよ、青井……」


声がまた震える。


「青井が笑うとさ……なんか全部、少しだけ良くなる気がするんだ。」


涙が頬を伝う。


それでも武雄は笑おうとした。


「だから……ほら……笑って……っ。」


青井は少しだけ目を見開いた。


でも――


何も言わなかった。


そして現在――


武雄と春香は、冷たい街を静かに歩いていた。


春香が横目で兄を見る。


「昔、ほんとによく一緒にいたんだね。」


「当たり前だろ。」


武雄は再びポケットに手を入れる。


「忘れられるわけない。」


けれど彼の心には、ずっと一つの感情が残っていた。


――青井。


――なんでまた、あの頃みたいになってるんだよ。


その頃、青井は一人で歩き続けていた。


ポケットの中でスマホが何度も震える。


陽菜。


美緒。


『遊び行こう?』


『青井、返事してよ』


『何かあった?』


でも彼女はメッセージを開かなかった。


家に着いた頃には、もう夕方になっていた。


雪子はリビングでテレビを見ている。


青井は静かに椅子へ座った。


雪子はすぐ異変に気づく。


「……何かあった?」


最初、青井は黙っていた。


そして小さな声で聞く。


「ねえ、お母さん。」


「もし……自分のことを大切に思ってる人が、自分をずっと苦しめてたって言ったら……どうする?」


雪子は眉をひそめた。


「青井……? どういうこと?」


青井は視線を逸らす。


沈黙。


それから雪子は静かに息を吐いた。


「最近のことなら……簡単には許せないかもね。顔も見たくなくなると思う。」


青井は黙って聞いていた。


「でも、それがずっと昔のことなら……違うかもしれない。」


「……どう違うの?」


雪子は頬杖をつく。


「もし私が、その問題を乗り越えて前を向いて生きてたなら……もう人生は変わらないと思う。」


そして少しだけ笑った。


「たぶん……長い間苦しんでた相手の罪悪感を、少し軽くしてあげられるだけ。」


青井の目が見開かれる。


その瞬間――


颯真の言葉を思い出した。


『俺は、自分が傷つけられても仕方ないって思ってた。』


青井は突然、頭を抱えた。


雪子は静かに娘を見る。


「何でも話していいんだからね。」


「……うん。」


疲れ切った声だった。


「ただ……今、頭の中ぐちゃぐちゃで。」


雪子は少し黙ったあと、優しく言った。


「二月は、お父さんの誕生日なの。」


青井はゆっくり顔を上げる。


「今年、一緒にお墓参り行く?」


沈黙。


「……今年は来る?」


青井は答えなかった。


ただゆっくり立ち上がり、階段へ向かう。


その時――


コンコンコン。


二人は玄関を見る。


青井が扉を開ける。


「こんにちはー!」


そこには笑顔の美緒と陽菜が立っていた。


青井は驚いて目を瞬かせる。


「み、美緒? 陽菜?」


美緒は腰に手を当てた。


「とりあえず入っていい?」


「……あ、うん。」


リビングから雪子が顔を出す。


「あら、羽田瀬ちゃんと神崎ちゃん。今、お茶入れるわね。」


二人は礼儀正しく笑った。


そして青井は腕を軽く組む。


「……それで?」


美緒は真っ直ぐ青井を見る。


「メッセージ返さなくなったから、絶対何かあると思った。」


数秒見つめる。


「やっぱり当たり。」


陽菜は首を傾げた。


「え? 普通に見えるけど。」


美緒はため息をつく。


「ちゃんと顔見なさい、陽菜。」


陽菜は改めて青井を見る。


青井はすぐ顔を逸らした。


「ち、違うから……」


「あとで部屋行っていい?」と美緒。


「行く行く!」と陽菜。


青井はため息をついた。


「私の部屋なんだけど、陽菜。」


「あ……そっか。」


その瞬間――


青井の口元から、小さな笑いが漏れた。


ほとんど無意識に。


美緒はすぐ気づく。


そして優しく笑った。


「ほら。ちゃんと笑えるじゃん。」


青井は静かに目を伏せた。


そして小さく呟く。


「……来てくれて、ありがと。」


そうして――


三人はゆっくり階段を上がっていった。



そして部屋の中で、美緒は腕を組みながら、ベッドの端に座る蒼依を見つめていた。


「……何があったの? もう話してくれない?」


蒼依は数秒ほど視線を逸らしたあと、小さな声で答えた。


「その……二人に、影響されちゃうかもしれないから……」


美緒は眉をひそめる。


「影響って、何について?」


蒼依が答える前に、陽菜がゆっくりスマホから顔を上げた。


「ライブの後、蒼依が蒼真くんと一緒にいたって聞いたよ……」


美緒はすぐに目を見開いた。


「まさか、また会いたいって言われたとか?」


「ち、違う……そういうんじゃないから……」


蒼依はそう言いながら、そっとスカートを握りしめる。

その声はどこか震えていて、自分自身に言い聞かせているようだった。


陽菜は小さく首を傾げた。


「じゃあ、何なの?」


部屋の中に数秒間、静かな沈黙が落ちる。

蒼依はゆっくりと視線を落とした。


「私……少し考える時間が欲しいの……そのあと話すから。簡単なことじゃなかったから……待ってて、いい……?」


美緒は小さくため息を漏らした。


「はぁ……わかった。

でも告白だったんでしょ? 誰も付き合ったわけじゃないんだから、もう少し気楽にしてもいいと思うけど」


陽菜は苦笑しながら頬をかく。

蒼依がどれだけ心の中で迷っているのか、なんとなく分かっていた。


そして蒼依はゆっくり二人を見上げた。


「……来てくれて、ありがとう。

でも……今はまだ、うまく言えないくらい難しくて……」


その瞬間、誰も言葉を返さなかった。


けれど、その沈黙だけで十分だった。

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