第55話 ― 暗い知らせ
青井は公園のベンチに座ったまま、角を曲がって消えていく蒼真の背中を見つめていた。
冷たい風が木々の間を吹き抜ける。
頭の中には、コンクリートに額を押しつけながら泣いていた蒼真の姿が、まだ焼き付いていた。
青井はコートの袖をぎゅっと握る。
そして、ゆっくり歩き出した。
重たい足取り。
駅に着いても、周りの人たちはいつも通りに行き交っていた。
まるで世界は何も変わっていないみたいに。
でも――
青井の中では、全部が変わってしまった気がした。
電車に乗り、窓際の席へ座る。
その瞬間、ふと思い出す。
あの日、同じ車両の中で笑っていた弘。
――この窓を見ながら、お前の名前を決めたんだよ。へへ。
青井は小さく歯を食いしばった。
制服のスカートを握る指に力が入る。
ゆっくり視線を落とした。
「急に……」
「帰り道が長く感じる……」
暗い窓ガラスに、自分の顔がぼんやり映る。
その姿は――
まるで、世界に一人きりみたいだった。
家に着くと、青井は静かにドアを開けた。
「ただいま……」
キッチンから雪子が顔を出す。
「おかえり。うちのアーティストさん。」
青井は無理やり微笑んだ。
「……ありがとう、お母さん。ちょっと横になるね。疲れた……」
「……そっか。」
雪子は、ゆっくり階段を上がっていく娘の背中を見つめた。
(……疲れてるだけじゃないわね。)
部屋へ入った青井は、そのままベッドへ倒れ込む。
暗い天井を見つめながら、静かに目を閉じた。
「……何だったんだろう。」
「蒼真……」
「事故……」
「……あの車……」
「お父さんだったの……?」
そして――
記憶が蘇る。
六歳の頃。
三人で夕食を囲んでいた。
雪子がお茶を注ぎながら言う。
「新しい会社、少し遠いのね……」
弘は笑った。
「大丈夫だよ。車ならすぐ着くし。」
そして青井を見る。
「俺は、いつだって二人に会いに帰ってくるから。」
雪子は少し照れたように目を逸らした。
青井は首を傾げる。
「パパ、お仕事遠くなるの?」
「そうだよ。でも、ちゃんと毎日帰ってくるからな。」
雪子は小さくため息をついた。
「スピードだけは気をつけてね……少しくらい遅くなってもいいから……」
弘は苦笑した。
「大丈夫。俺、ちゃんと安全運転だから。」
それでも雪子は数秒、彼を見つめ続けていた。
「……本当に気をつけて。」
次の日の夜。
青井はソファに座り、父を待っていた。
雪子が時計を見る。
「青井、もう寝ないの? 九時近いわよ。」
青井はぶんぶん首を振った。
「パパに会ってから寝る!」
雪子は困ったように笑う。
「じゃあ、あと十分だけね。」
青井は目を閉じ、両手を合わせた。
「早く帰ってきて、パパ……」
その時――
ガチャ。
「ただいまー!」
「おかえり!」
雪子がすぐに答える。
青井は走って弘へ飛びついた。
弘は笑いながら抱き上げる。
「帰ってきたぞー。」
雪子は彼の顔を見て眉をひそめた。
「クマできてるじゃない……」
「一晩寝れば治るよ。」
そんな日々が続いた。
遠くで働いていても――
弘は毎日、九時五分前には帰ってきた。
必ず。
……あの日までは。
21時30分。
雪子はもう一度時計を見る。
「……遅い。」
青井はクッションを抱きしめる。
「パパ来るよ、お母さん。」
雪子は娘の頭を撫でた。
「もちろん。」
そして携帯を取る。
「ちょっと電話するだけ。」
コール音。
何度も鳴る。
でも、出ない。
もう一度かける。
それでも繋がらない。
青井は母の顔を見つめた。
「……怖いの?」
雪子は慌てて笑顔を作る。
「ち、違うわ。大丈夫。」
そして静かに携帯を下ろした。
「少し部屋行ってなさい。お父さん帰ってきたら起こしてあげる。」
青井は笑顔になる。
「やったー!」
階段を駆け上がっていく。
時間は過ぎていった。
22時30分。
23時40分。
深夜1時40分。
リビングには、一つの明かりだけが灯っていた。
雪子は冷めきった紅茶を持ったまま、部屋を行ったり来たりする。
そして、警察へ電話をかけた。
声が震えていた。
「……全然連絡がつかないんです。」
目を閉じる。
「もし会社に泊まるなら……絶対に連絡してくれる人なんです……」
翌朝。
制服姿の青井が現れる。
「お母さん! 起こしてくれなかった!」
雪子は数秒反応できなかった。
「……え?」
「パパ帰ってきたら起こすって言ったじゃん。」
青井は外を見る。
車はまだなかった。
「もう仕事行っちゃったの?」
雪子の唇が震える。
それでも笑った。
「……ごめんね、青井。今日はお父さんに会いに行こうね。」
青井は少し不思議そうに目を細めた。
「……うん。」
だが――
その日一日、何の連絡も来なかった。
学校帰り。
雪子は曲がり角で待っていた。
「ただいまー!」
青井が元気よく言う。
雪子は小さく笑った。
「まだ家着いてないでしょ。」
「あ……そっか、へへ。」
二人は家へ入る。
「ただいまー。」
雪子は娘を見つめる。
(……本当に弘そっくり。)
「どうしたの、お母さん?」
「……何でもないわ。」
青井が階段を上がり始めた時――
コンコンコン。
雪子はドアを開けた。
立っていたのは二人の警察官。
「坂本雪子さんで間違いありませんか?」
雪子はゆっくり頷く。
「は、はい……何か……?」
警察官は帽子を整え、深く息を吸った。
「単刀直入に申し上げます。」
時間が止まったようだった。
「ご主人の坂本弘さんが……崖下の車内で、遺体となって発見されました。」
雪子の携帯が手から滑り落ちる。
床に落ちた。
彼女の瞳から、一瞬で光が消えた。
警察官の声は続いていた。
でも、遠かった。
とても遠く感じた。
「ご遺体は星見病院へ――」
もう一人の警察官が携帯を拾い、そっと差し出す。
「……携帯です。」
でも雪子は反応しない。
その時――
膝から崩れ落ちた。
「後ほど病院へ……ご愁傷様です……」
若い警察官が肩へ手を伸ばしかける。
「だ、大丈夫ですか――」
そして二人は気づく。
階段の途中。
手すりを掴みながら立っていた青井に。
目を見開いたまま。
口を震わせながら。
涙だけが静かに流れていた。
「……お、お母さん……」
声が掠れる。
「……パパ……?」
二人の警察官は黙り込んだ。
雪子は慌てて涙を拭く。
「青井……部屋に戻りなさい。」
青井は一段降りる。
「……嘘だよね。」
また一段。
「パパ、帰ってくるって言ったもん……」
声がどんどん震えていく。
「昨日……帰ってきたんだよね……?」
雪子は娘を見られなかった。
「……上に行きなさい、青井……」
でも青井は最後の階段を駆け下りた。
そして雪子の脚にしがみつく。
「パパ帰ってくるよね!? お母さん!!」
雪子は強く目を閉じた。
涙が堰を切ったように溢れる。
それでも必死に声を保とうとする。
「……警察の方、ありがとうございました……後で病院へ行きます……」
「……はい。ご愁傷様です。」
警察官たちは静かに頭を下げた。
ドアが閉まる。
そして――
雪子は気づく。
青井がまだ震えながら言い続けていることに。
「帰ってくるよ……ママ……帰ってくるよぉ……」
雪子はその場に崩れ落ちた。
強く娘を抱きしめる。
「ごめんね、青井……」
涙が頬を伝う。
「……ごめんね……」
青井は数秒、何も言わなかった。
空っぽの目で母を見つめる。
そして――
震える手で、ゆっくり雪子を抱き返した。
小さな指が服をぎゅっと掴む。
「……パパ……」
沈黙。
その次の瞬間――
「うあああああああああっ!!」
幼い叫び声が家中に響いた。
外のパトカーの中。
年配の警察官がキーを握る。
「俺が運転する。」
若い警察官は目を擦っていた。
「……どうやったら慣れるんですか……?」
年配の警察官は静かに帽子を直す。
そして車へ乗り込んだ。
「……慣れねぇよ。」
若い警察官は俯く。
「……あの子、うちの娘と同じくらいの歳なんです……」
エンジンがかかる。
パトカーは静かに走り去っていった。
――現在。
青井は今も天井を見つめていた。
疲れ切った目。
何も映していない瞳。
「……少し寝よう。」
コンコン。
「青井、お腹空いてない?」
ドアの向こうから雪子の声が聞こえる。
「……大丈夫。ありがとう、お母さん。」
数秒後、スマホが震えた。
陽菜。
美緒。
『終わったあと急にいなくなったけど大丈夫?』
『どこいるの?』
『蒼真と一緒だったって聞いた』
『青井、何かあった?』
青井は画面を見つめる。
でも返信はしなかった。
ただ画面を消して――
静かに枕を抱きしめた。
翌日。
冷たい日曜日。
青井は顔を洗い、静かに言う。
「お母さん……ちょっと歩いてくる。」
雪子はすぐ顔を上げた。
「大丈夫? 今日はかなり寒いわよ。」
「うん。すぐ戻る。」
「……いってらっしゃい。」
青井はポケットに手を入れたまま歩き出す。
公園を通る。
弘が笑いながらブランコを押してくれた記憶が蘇る。
角を曲がる。
コンビニの前を通る。
記憶の中の弘がアイスを隠しながら笑う。
――お母さんには内緒な。怒られるから、しーっ。
青井は同じアイスを見つめた。
(……寒くても。)
(……お父さんなら買ってたな。)
遠くで電車が通り過ぎる。
そして、初めて学校で自分を見つめていた蒼真の姿を思い出す。
高鳴る鼓動。
でも今は――
人気のないバス停で、青井はゆっくり俯いた。
「……どうしたらいいのか分からない。」
「……何を思えばいいのかも。」
涙が一滴、冷たい地面へ落ちる。
その時――
「……青井?」
驚いて顔を上げる。
そこには武雄が立っていた。




