第53話 ― 告白
体育館の照明が、ゆっくりと再び灯り始める。
そして次の瞬間――
拍手が爆発した。
大きく。
熱く。
止まることを知らない波のように、太陽館の高い壁へ響き渡っていく。
保護者たちは涙ぐみながら立ち上がり、教師たちは平静を装おうとする。OB・OGたちは感嘆したように互いを見ながら、立ったまま拍手を送っていた。
けれど、アオイにとって――
その音はどこか遠かった。
まるで水の中から聞いているみたいに。
世界そのものが、自分からほんの少しだけ遠ざかってしまったように。
演劇部の十五人が舞台に整列する。
十五人の身体。
十五人の乱れた呼吸。
中央にはタケオ。
左にはシノハラ。
右にはアオイ。
そして全員で、深くお辞儀をした。
頭を下げた瞬間、濡れた髪が頬へ滑り落ちる。
一滴の雫がこめかみを伝い、静かに舞台の木床へ落ちた。
アオイは、その場所を覚えていた。
昨日、自分が雑巾で磨いた場所だ。
丁寧に。
力を込めて。
「今日のために完璧にしなきゃ」と思いながら。
そこには、また新しい跡ができていた。
涙の跡が。
再び。
やがて幕が閉じる。
すると、一気に現実が押し寄せてきた。
走る足音。
開く扉。
弾んだ声。
スマホを掲げた保護者たちが次々と舞台裏へ入ってくる。
熱を帯びた舞台の匂いが、まだ空気に残っていた。
アオイはしばらく、その場に立ち尽くしていた。
胸の奥にある感情を、自分でも理解できなくて。
そんな彼女のもとへ、ユキコがゆっくり近づいてくる。
すぐには笑わなかった。
抱きしめもしなかった。
ただ、静かに娘の顔を見つめていた。
まるで――
何年も待ち続けていた表情を、ようやく見つけた人みたいに。
そして、小さな声で問いかける。
「今日……何を感じたの、アオイ?」
アオイはゆっくり瞬きをする。
ユキコは震える瞳のまま、彼女を見つめ続けていた。
「あなた……あの人の答えを、ちゃんと届けたのね」
その瞬間、アオイの胸が強く締めつけられた。
声では答えられない。
ただ、小さく俯くことしかできなかった。
ユキコは、かすかに笑う。
けれどそれは、単純な誇らしさじゃなかった。
安堵だった。
深く、長い安堵。
まるで、何年も届かなかった娘の声を、ようやく聞けたみたいに。
少し離れた場所で、ソウマはその様子を静かに見つめていた。
袖を握る指先に力が入る。
鼓動が速すぎる。
(今しかない……)
彼は小さく息を吐く。
(武雄先輩……あなたの言う通りだといいんですけど)
――
舞台の魔法は、すぐに消えていく。
衣装は脱がれ。
再び部活用ジャージへ戻る。
演劇は、拍手で終わらない。
汗で終わる。
アオイは金属製の台車を引き、客席の椅子を片づけ始めた。
ガシャン。
ガシャン。
乾いた金属音が、ほとんど無人になった体育館へ響く。
冷たい鉄が、少しずつ指の感覚を奪っていく。
腕も痛い。
脚もまだ力が入らない。
それでも彼女は止まらなかった。
椅子を畳むたびに、まるで何かが囁く。
――「本当にあったんだ」って。
体育館の反対側では、タケオとカイトが舞台セットを運んでいた。
学校の屋上が、少しずつ消えていく。
フェンス。
ベンチ。
照明機材。
すべてが、ただの木材と塗装へ戻っていく。
シノハラは濡れ雑巾で舞台を磨きながら言った。
「ちゃんと綺麗にしてよ。月曜はここでバスケ部が練習するんだから」
口調はいつも通りだった。
けれど、その目はまだ赤い。
少しずつ。
舞台の痕跡が消えていく。
別れの跡も。
涙の跡も。
ミズキが存在していた証拠も。
アオイは黙ってそれを見つめていた。
そして胸の奥に、奇妙な感覚を覚える。
(なんだろう……)
彼女は雑巾を握る手に力を込めた。
(……何かを、外へ出してしまったみたい)
――
体育館は、もうやけに広かった。
冷たくて。
静かすぎるほどに。
タケオが舞台中央で手を叩く。
「よし、みんな。円になろう」
十五人が床へ座り込む。
その中心に、ユミだけが立っていた。
黒い服。
相変わらず真剣な表情。
場の空気が、一瞬で静まり返る。
やがて彼女は口を開いた。
「第四幕、照明が二秒遅れた」
全員が固まる。
誰も口を挟まない。
だが、ユミは続けた。
「でも――ミズキ」
彼女は真っ直ぐアオイを見る。
「あなたのおかげで、みんな“演劇”だってことを忘れてた」
アオイは目を瞬かせた。
「え……?」
ユミは腕を組む。
「身体が、溢れてた」
「……溢れてた?」
シノハラが小さく苦笑する。
「あの時、本当に固まったのかと思った」
ユミも頷いた。
「私も、二人とも止まったのかと思った」
そして少しだけ口元を緩める。
「なのに……あんな風に驚かされるなんて」
短い沈黙。
彼女の視線が、少し優しくなる。
「本当に……いい部を残してきたみたいね」
シノハラはすぐアオイを見る。
「私たちも、そう思います」
アオイは少しだけ頬を赤くして、視線を落とした。
するとシノハラが深呼吸する。
そしてまた、静かに涙を流した。
「……今年、ありがとう」
声が少し震える。
「こんな思い出、ずっと残したかった」
タケオが彼女の肩へ手を置いた。
「来年には、もうここ離れるんだよな……」
彼は懐かしそうに笑う。
「先生たちも、あの雨漏りするバス停すら恋しくなりそうだ」
何人かが小さく笑った。
ユミは三人を静かに見つめる。
そして言った。
「カイト、タケオ、マイ……本当に良かったわ」
タケオは目を瞬かせる。
「先輩……東邦学園、受かったって本当ですか?」
ユミは小さく笑う。
「うん。最初からそこを目指してたから」
その瞬間――
「うおおお!?」
「マジで!?」
「あの東邦学園!?」
「天才じゃん……!」
教師も眼鏡を直しながら近づいてくる。
「古川由美……久しぶりね」
ユミは珍しく、本当に自然に笑った。
「先生……その“優しい要求”、懐かしいです」
教師はため息をつく。
「さすが、うちの“演劇モンスター”ね」
カイトが即座に指をさす。
「映像部に四十七テイク撮らせた時についたあだ名ですよね!?」
ユミは小さく笑った。
「完璧を求められたから」
頬杖をつきながら続ける。
「当時は、本当に完璧だと思ってた」
その目が少し遠くなる。
「でも今なら分かる。まだまだだったって」
全員が静かになる。
するとタケオが苦笑した。
「もっとボロクソ言われると思ってましたよ、先輩」
ユミはポケットから小さなメモを取り出す。
「実際、十四個ミス書いてるけど」
全員が凍りつく。
「でも――」
彼女は再びアオイを見る。
「結局、この子に全部持っていかれた」
短い沈黙。
「ミズキ。名前は?」
アオイは背筋を伸ばす。
「坂本アオイです。よろしくお願いします」
ユミはゆっくり頷く。
「二年生?」
「はい」
「なら、東邦学園も視野に入れなさい」
アオイは目を見開く。
「……え?」
ユミは次にタケオ、シノハラ、カイトを見る。
「その前に――」
口元に笑みを浮かべる。
「まずは、この三人に来てもらわないと」
三人とも固まった。
「せ、先輩!?」
シノハラは青ざめる。
「む、無理ですよ……あんな大学……」
「俺もです……」とカイト。
しかしユミは即答した。
「今日のあなたたちは良かった」
真っ直ぐ三人を見る。
「私は、それを認める」
タケオは言葉を失う。
シノハラはまた涙ぐんだ。
「そ、そんなことで……からかわないでくださいよ、先輩……」
カイトは深く息を吐いて笑う。
「じゃあ、今の時間をもっと大切にしないとな」
ユミはスマホを取り出す。
「はい、LINE」
タケオは危うくスマホを落としかけた。
「ほ、本気ですか!?」
「有望な後輩は放っておけないから」
ユミは少しだけ笑った。
その瞬間――
アオイは気づく。
時間は、自分が思っていたよりずっと速く進んでいるのだと。
――
空はすっかり濃い紺色になっていた。
十二月の寒さが、手を刺す。
部員たちは並んで校門へ向かう。
そして、まるで自然に――
全員が同時に足を止めた。
静かに校舎を振り返る。
最後のお辞儀。
「お疲れ様でした」
その言葉が、アオイの胸を震わせた。
タケオは、少しだけ彼女の隣に残る。
吐く息が白く空へ溶けていく。
そして静かに言った。
「君のお父さんが作ったゲーム……」
アオイは彼を見る。
「今日のラストシーン、きっと誇りに思ったと思う」
一瞬、世界が揺れた気がした。
でも今度は――
壊れなかった。
アオイは小さく笑う。
「ありがとう、タケオ」
リュックの紐を握りしめる。
「私を諦めないでくれて」
タケオも穏やかに笑った。
「またね、アオイ」
「……またね」
アオイはしばらく校舎を見つめ続ける。
その時だった。
後ろから声がする。
「……アオイ」
彼女は少し肩を震わせた。
「あ……ソウマ?」
ソウマは一人で立っていた。
緊張した様子で。
落ち着かない目をして。
アオイは少し眉をひそめる。
「ソウマ……」
彼は視線を落とした。
「あの日、ちゃんと説明すればよかった。ごめん」
アオイは静かに息を吐く。
「別に……謝らなくていい」
視線を逸らす。
「ただ……またね、ソウマ」
彼女は背を向けようとした。
だが――
ソウマが彼女の腕を掴む。
「待って、アオイ!」
彼女は目を見開いた。
「ソ、ソウマ……もう――」
「全部、間違えたんだ!」
思った以上に大きな声が出る。
アオイは動きを止めた。
冷たい風が二人の間を抜けていく。
ソウマの手は震えていた。
「……全部、間違えた?」
「何を言ってるの?」
彼の唇が震える。
「ずっと……言わなきゃって思ってたことがある」
アオイは少し苦笑した。
「……なんか、その始まり方前にも聞いた」
ソウマは深く息を吸う。
そして小さく尋ねた。
「少し、静かな場所に行ける?」
アオイは視線を逸らす。
「……なんで?」
袖を握りしめる。
「ソウマは、“私の気持ちには応えられない”って言ったじゃん。もうこれ以上、引きずりたくない」
ソウマは数秒間、目を閉じた。
「傷つけたかったわけじゃない」
やがて顔を上げる。
その目は怖がっていた。
でも、真っ直ぐだった。
「ちゃんと、本当のことを言わなきゃいけなかったんだ」
沈黙が、空気ごと凍らせる。
そしてソウマは最後に深く息を吸った。
アオイの目を真っ直ぐ見つめながら、言う。
「俺……一年前の君を知ってる」
アオイは意味が分からず瞬きをした。
ソウマは続ける。
「実は俺、この街に来たの……坂本弘の家族に会うためなんだ」
アオイの世界が止まった。
身体が動かない。
目が見開かれる。
呼吸が、一瞬止まる。
「……ソウマ……」
声は、ほとんど囁きだった。
「……何、言ってるの?」




