第52話 — 発表の日
アオイは、目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
完全に目を開けるまで、数秒ほどかかった。
一週間ずっと続いた練習の疲れが、まだ身体に残っている。
彼女はゆっくりとベッドから起き上がり、少しふらつきながら洗面所へ向かった。
蛇口をひねる。
冷たい水が頬に当たった。
アオイは鏡の中の自分を見つめながら、深く息を吐く。
そして、小さな声で呟いた。
「……ファイト」
数秒間、自分の顔をじっと見つめたあと、彼女は静かに身支度を始めた。
丁寧に髪を整える。
軽く化粧をする。
制服を着て、その上から演劇部の公式ジャージを羽織った。
準備を終えると、アオイは静かに階段を下り、弁当を作り始めた。
静かな朝のキッチンに、包丁の音だけが小さく響いていた。
数分後、まだ眠そうなユキコが階段を下りてくる。
「……あら、もう起きてたの?」
アオイは手を止めないまま頷いた。
「うん。もう出るし。今日は本番だから、集中しないと」
ユキコはテーブルへ近づいた。
「そうね。でも、せめて朝ごはんは食べなさい」
「はいはい、食べるって」
アオイは弁当をバッグへ入れようとして――
ふと目を見開いた。
「あ……スマホ、部屋に忘れた」
彼女は再び階段を上がる。
部屋へ入ると、ベッドの上にスマホが置かれていた。
だが、彼女の視線は別のものに止まる。
ヒナから借りたゲーム機。
そして――
タケオが何年も大事に保管していたゲームソフト。
アオイはゆっくりベッドへ近づいた。
両手でそのゲームを持ち上げる。
静かに見つめる。
脳裏に、あの誕生日メッセージが蘇った。
七歳の誕生日。
彼女の指先に、少しだけ力が入る。
数秒後、アオイはゲームを持ったまま階段を下りた。
ユキコはすぐに気づく。
「それ、何持ってるの?」
アオイはゲームを見つめながら言った。
「お母さん……お父さんがこれ、私の七歳の誕生日のために作ってたって知ってた?」
ユキコの動きが止まる。
箸が静かにテーブルへ落ちた。
数秒間、彼女はただ虚空を見つめていた。
まるで、遠い記憶に引き戻されたように。
アオイは静かに尋ねる。
「……知ってたの?」
ユキコはゆっくり現実へ戻る。
「アオイ……」
彼女は深く息を吸った。
「お父さんね、最後の年……あなたのために何か作ってたの」
アオイは黙って見つめる。
「……じゃあ、なんで教えてくれなかったの?」
ユキコは目を伏せた。
「だってあの頃のあなた……何にも反応しなかったから」
声は小さかった。
「笑わなかった。泣きもしなかった。ただ……ずっと空っぽみたいな目をしてた」
静寂がキッチンを包む。
「だから、タケオのお父さんに預けたの。お父さん同士、本当に仲良かったから……その方がいいと思って」
アオイは真剣な表情のまま彼女を見つめ続けた。
ユキコは疲れたように小さく息を吐く。
「そんな目で見ないで、アオイ……私だって、辛かったのよ」
彼女はテーブルの上で指を軽く握った。
「あなたに見せることで、助けになるのか……もっと傷つけるだけなのか、分からなかったの」
アオイは視線を落とした。
そして小さな声で尋ねる。
「……お母さん。あの日、お父さんは出かける前に何て言ったの?」
ユキコの身体が止まる。
目が少し見開かれた。
やがて、彼女は静かに息を吸う。
「……“仕事が終わったらすぐ帰るよ。アオイと君に、お土産も買ってくる”って」
その声は、少し震えていた。
「……“いってきます”って」
再び静寂が落ちる。
ユキコはカップを見つめながら呟いた。
「結局、何を買ってくるつもりだったのか……今でも分からないのよ」
「……そっか」
アオイは目を伏せる。
ユキコは、彼女の手の中のゲームへ視線を向けた。
「不思議ね。今になって、そんなこと聞くなんて」
少し首を傾げる。
「そのゲームのせい?」
アオイはゆっくり頷いた。
そして深呼吸をする。
「お母さん……」
少し迷ってから。
「今日、応援しててね」
ユキコは数秒間、娘の顔を見つめた。
それから優しく笑う。
「時々、本当にお父さんにそっくりになるわね」
アオイは瞬きをする。
「緊張してる時のその顔……本当にそっくり」
アオイは口を開きかけた。
「お母さん、私――」
「あなたを誇りに思ってるわ、アオイ」
ユキコは優しく言葉を重ねた。
少しだけ目が揺れていた。
「あなた、あの頃……私のために強くいてくれたもの」
その後に訪れた沈黙は、重かった。
アオイは慌てるように立ち上がり、顔を隠す。
「い、行ってくるね。準備手伝わないと」
急いでバッグを掴む。
「いってきます、お母さん」
そして、涙ぐんだ目を見られる前に家を飛び出した。
外の道はまだ静かだった。
吐く息が白く空気に溶けていく。
駅へ向かう足音だけが朝の街に響いていた。
改札を通る。
ピッ――
その電子音は、まるで何かが始まる合図のように聞こえた。
ローカル線の電車の中。
アオイはいつもの窓際の席へ座る。
学校までたった十分。
それなのに、その朝だけは妙に長く感じた。
流れていく景色をぼんやり眺めているうちに、ふと記憶が蘇る。
仕事帰りで疲れているはずなのに、帰宅するといつも全力で自分と遊んでくれたヒロシ。
その記憶があまりにも突然胸へ刺さり、アオイは小さく唇を噛んだ。
バッグを胸元へぎゅっと抱き寄せる。
窓ガラスに映る自分の姿が、電車の揺れに合わせて微かに揺れていた。
アオイはゆっくり目を閉じる。
頭の中で、舞台を思い返す。
台詞。
立ち位置。
呼吸。
電車の一定の揺れが、少しずつ彼女の高鳴る心を落ち着かせていった。
駅へ着くと、朝の冷たい空気が制服のスカートから伸びた足を撫でた。
彼女は演劇部のジャージを少し身体へ寄せながら学校へ向かう。
校門をくぐった瞬間、いつもの学校とは違う空気を感じた。
廊下を埋める騒がしい声はない。
聞こえるのは、特別活動のために早く来ていた他の部活の遠い声だけ。
体育館へ入ると、暖房用ヒーターの灯油の匂いがすでに充満していた。
カイトとタケオが、誰より早く来て暖房を付けていたのだ。
「おはようございます!」
アオイが声をかける。
「おはようございます!」
ほぼ同時に返事が返ってきた。
皆の顔には緊張が浮かんでいた。
けれど、それは悪い緊張ではない。
大切な瞬間の前だけに生まれる、特別な空気だった。
練習の前に、十五人全員が濡れた布を持ち、舞台や客席を磨き始める。
スポットライトの下では、小さな埃すら目立つ。
だから誰一人、手を抜こうとはしなかった。
体育館の隅には、簡易的な更衣スペースとして衝立が置かれていた。
アオイは化粧道具を並べながら、シノハラとタケオの衣装の乱れも確認していく。
やがて、静かだった体育館は発声練習の声で満たされ始めた。
伸ばされた声。
繰り返される音節。
奇妙な響きが広い空間へ反響していく。
少しずつ――
その場所は、本物の舞台へ変わっていった。
体育館の扉が、来場者のためにゆっくりと開かれた。
保護者たちはどこか遠慮がちに中へ入り、入口で靴を脱いで学校用のスリッパへ履き替えていく。新入部員たちが作ったパンフレットを受け取りながら、静かに客席へ向かっていた。
教師たちは中央付近の決められた列へ座り、誇らしさを滲ませながらも、どこか厳しい目で舞台を見つめている。
そして、一番目立っていたのはOB・OGたちだった。
歩き方からして空気が違う。
舞台装置や照明の位置を技術的な目線で確認しながら歩き、慣れた様子で舞台裏へ向かっていく。
中には差し入れとして、お菓子の箱を持ってきている者もいた。
「タケオ、シノハラ。これ、頑張ってる後輩たちにも渡してあげて」
そんな声と共に、差し入れが手渡されていく。
その時だった。
シノハラが突然、入口の方を見て動きを止めた。
一人の女性が体育館へ入ってくる。
その歩き方を見た瞬間、シノハラの背筋がぞくりと震えた。
(……あの歩き方……)
彼女の目がゆっくり見開かれる。
(……ユミ先輩?)
その反応にすぐ気付いたタケオが、嫌な予感を浮かべながら振り返った。
「は? まさか、“演劇モンスター”がもう来たのか?」
すると、カイトが悪びれもなく手を挙げる。
「呼んだの俺だけど?」
「「あああああっ、カイト!!」」
タケオとシノハラの声が綺麗に重なった。
シノハラは顔を青くしながら呟く。
「お、お前だったの……」
タケオは額を押さえて深いため息を吐いた。
「はぁ……落ち着け、落ち着け俺たち。別にユミ先輩だけが来てるわけじゃない……」
そう言いながらも、声は少し引きつっていた。
その頃、アオイは舞台袖のカーテンの隙間から客席を覗いていた。
少しずつ埋まっていく椅子。
重なっていく話し声。
スマホの電源を切る小さな光。
その全部が、現実感を強くしていく。
心臓が速く打ち始めた。
でも、それは恐怖じゃなかった。
“始まる”という感覚だった。
その時、アオイの視線が客席の一角で止まる。
そこには、すでに席についていたユキコの姿があった。
静かに舞台を見つめながら、小さく息を吐いている。
(懐かしいわね……)
ユキコは少しだけ目を細めた。
(私も昔、このカーテンの向こうで緊張してたっけ……)
開演まで、あと五分。
その瞬間――
学校のチャイムが鳴った。
いつも聞いているはずの音なのに、今日はまるで別の合図のように聞こえる。
“公演開始”を告げる音だった。
舞台裏では、十五人の部員たちが黒い幕の後ろに集まり、小さな円を作っていた。
タケオがアオイとシノハラを見る。
そして、ふっと笑った。
「……行くぞ」
そう言葉にしなくても伝わる笑みだった。
“俺たちは一緒だ”
シノハラは最後にもう一度、衣装に付けたピンマイクを確認する。
カイトは慌てて照明と音響卓の方へ走っていった。
やがて――
体育館の照明がゆっくりと落ち始める。
客席が、一瞬で静まり返った。
残った音はただ一つ。
熱を持ち始めたスポットライトが、金属を軋ませる小さな音だけだった。
アオイは深く息を吸った。
肩には、ミズキのリュックの重み。
でも今の彼女には、それがただの小道具には思えなかった。
まるでミズキ自身の感情を背負っているようだった。
舞台のセットは夕暮れの学校の屋上。
幕の向こうから、観客たちのざわめきが小さく聞こえてくる。
心臓が鳴る。
怖いわけじゃない。
期待だった。
すでに春人になりきっていたタケオが、アオイの近くで小さく呟く。
「行ってきます」
アオイは一瞬だけ目を閉じた。
そして心の中だけで返す。
(いってらっしゃい)
その瞬間――
劇のBGM、最初の一音が静かに体育館へ流れ始めた。
胸の奥まで響くような音だった。
カーテンがゆっくりと開いていく。
舞台が完全に見える直前、マイクを持った部員の声が響く。
「本日はご来場ありがとうございます。それでは――演劇『またね』を始めます」
照明がゆっくり点灯した。
夕暮れの屋上が姿を現す。
リョウは床に座り、スマホを弄りながらもどこか上の空。
アヤはフェンスにもたれ、遠くの景色を静かに眺めている。
シノは腕を組み、不安を隠すように立っていた。
そしてミズキは、ベンチに腰掛けたまま、両手を静かに重ねている。
その時――
春人がリュックを背負ったまま舞台へ入ってきた。
一歩進みかけて、ほんの少し止まる。
その僅かな間が、迷いを感じさせた。
シノもまた、旅立つ準備を終えていた。
シーン1 ―― 言葉にならないもの
亮
(春人を見ずに)
「……今日なんだな。」
春人
(小さく笑って)
「ああ。」
彩
(空を見上げながら)
「今日は空、綺麗だね。」
静かな間が流れる。
シノは腕を組んだまま、小さく息を吐いた。
「別に、出発前にここへ来る必要なんてなかったのにね。」
春人は少しだけ笑う。
「シノも、もう一回ここを見たかったんだろ?」
そう言いながら、春人は屋上を見回した。
いつもならすぐ逸らすはずの視線が、ほんの少しだけ長く景色に留まる。
まるで、この瞬間を心に焼き付けようとしているみたいに。
瑞希は静かに目を伏せた。
その瞬間――
アオイの脳裏に、不意に昔の記憶が蘇る。
六歳の頃の自分。
玄関先で、母の雪子と一緒に立ちながら、仕事へ向かう坂本浩司を見送っていた。
「いってらっしゃい、あなた!」
雪子が笑顔で言う。
幼いアオイも元気よく手を振った。
「いってらっしゃーい、お父さん!」
浩司は苦笑しながら手を振り返し、そのまま門を出ていく。
すると雪子は、しゃがみ込んでアオイに笑いかけた。
「今日は土曜日だし、お父さんのお誕生日だから、サプライズしようか。」
「お父さんの誕生日!?」
「そう。帰ってきたら、びっくりさせてあげようね。」
「やったー!」
記憶の中の自分は、無邪気に笑っていた。
あまりにも鮮明なその光景に、アオイの胸がぎゅっと締めつけられる。
一瞬だけ、舞台の感覚が遠のいた。
けれど――
アオイは小さく息を吸った。
(集中して、アオイ……)
そう心の中で呟きながら、再び“瑞希”へ戻っていく。
シーン2 ―― 軽すぎる約束
亮
(気楽そうに)
「夏休みには戻ってくるんだろ?」
春人
(小さく笑って)
「もちろん。少なくとも俺はな。」
シノはふん、と鼻を鳴らす。
「私も戻るわよ。一緒にしないで。」
その時――
シノハラは何気なく客席へ視線を向けた。
そして、一瞬で表情が固まる。
そこにいたのは、結城由美。
かつて演劇部を率いていた伝説の先輩。
“演劇モンスター”とまで呼ばれていた存在。
離れているはずなのに、その圧倒的な存在感が舞台の上まで伝わってくる。
シノハラの呼吸が一瞬止まった。
「……そ、そんな簡単に約束できないけど。」
春人がゆっくり彼女を見る。
今度は笑っていなかった。
春人
「……俺は、戻れるように頑張るよ。」
小さな沈黙。
その空気の中に――
初めて、“別れ”の気配が混ざった。
シーン3 ―― 残される側の重さ
彩が静かに瑞希を見る。
「瑞希……さっきから静かだね。」
瑞希はゆっくり顔を上げた。
瑞希
「ちょっと考えてたの。」
指先を小さく握りしめる。
「全部、いつも通りに見えるのに……」
彼女は屋上を見渡した。
「もう変わり始めてるんだなって。」
その言葉の後――
空気が少し重くなる。
その瞬間、また父の声が頭の中に響いた。
『俺はちゃんと帰ってくるからな、アオイ。』
アオイの身体が一瞬だけ固まる。
拳がゆっくり握られた。
(なんで今……こんなの思い出してるの……?)
春人は小さく息を呑む。
シノは景色を見るふりをして視線を逸らした。
春人は何か言おうとして口を開く。
けれど――
言葉は、最後まで出てこなかった。
シーン4 ―― 瑞希の言葉
瑞希はゆっくりとベンチから立ち上がった。
舞台の照明が静かに落ちていき、やがて柔らかな光だけが彼女を包み込む。
体育館全体が、息を潜めたように静まり返っていた。
その瞬間――
アオイはふと客席へ視線を向けてしまう。
ほんの一瞬だけ、集中が途切れた。
そこには雪子の姿があった。
静かに舞台を見つめている母。
そしてアオイの脳裏に、また父の姿が浮かぶ。
雪子の隣で、昔みたいに穏やかに笑っている浩司。
まるで本当に、この舞台を観に来てくれているみたいに。
胸が強く揺れた。
呼吸が乱れる。
アオイは慌てるように瑞希へ意識を戻した。
けれど、唇はわずかに震えていた。
彼女はシノを見る。
シノハラは異変に気づいていた。
表情は役のままだったが、その目だけが不安そうにアオイを見つめている。
そしてアオイは、無意識に小さく呟いた。
「……どうして……?」
シノハラの眉がぴくりと動く。
その台詞は、台本にはない。
だがアオイは止まらなかった。
瑞希
「いつか……私たちが離れていく日が来るって、分かってた。」
声が震える。
それでも彼女は続けた。
「それは……自分たちで選んだことじゃないかもしれない。」
アオイは深く息を吸う。
今にも声が崩れそうだった。
けれど、必死に耐える。
「ちゃんと……さよならも言えないままかもしれない。」
空気が重く沈んでいく。
春人は動けない。
彩は静かに目を伏せる。
亮も、小道具のスマホを触る手を止めていた。
シノハラは次の台詞を言おうとして口を開く。
だが――
止まった。
アオイが、まだ話し続けていたからだ。
もう台本通りではなかった。
彼女の身体は目に見えて震えている。
瞳もわずかに揺れていた。
それでもアオイは笑おうとした。
壊れそうなほど不器用な笑顔。
そして――
二粒の涙が、頬を伝ってゆっくり零れ落ちた。
瑞希
「だから……私のことは心配しないで。」
声が掠れる。
震えている。
けれど、その言葉はあまりにも真っ直ぐだった。
「私は……大丈夫だから。」
涙がまた落ちる。
静かに舞台へと染み込んでいく。
「みんなと、たくさん思い出を作れたから……」
彼女は胸の前で手を強く握り締めた。
崩れないように。
必死に立っていられるように。
「あなたは……ずっと、私の心の中で生き続けるから。」
体育館が完全に静まり返る。
誰も動かない。
誰も咳一つしない。
聞こえるのは――
アオイの震える声と、
涙が床へ落ちる小さな音だけだった。
アオイは涙を拭わない。
瑞希としての姿勢を保ったまま、次の台詞を待っている。
舞台袖では、顧問教師が台本を強く握りしめていた。
紙がくしゃりと音を立てる。
手が震えている。
顔は真っ青だった。
「そ、それ……台本に、なかったわよ……アオイ……」
客席から、小さなざわめきが漏れ始める。
「……あれ、本当に泣いてる?」
「演技……だよな?」
「すご……」
「こんなの、ただの学園劇じゃない……」
「これも演出なの……?」
シノハラはまだアオイを見つめていた。
もう理解していた。
これはただの演技じゃない。
アオイ自身の感情が、舞台の上で溢れているのだと。
その時、シノハラはふと客席へ目を向ける。
そして、由美と目が合った。
元演劇部部長。
“演劇モンスター”と呼ばれた存在。
由美は完全に動きを止めていた。
目を大きく見開き、
わずかに口を開けたまま、
ただ舞台を見つめている。
その姿を見た瞬間、シノハラは一年生の頃に由美から言われた言葉を思い出した。
――「心で芝居を感じた時、人の感情は身体から溢れ出す。」
シノハラは再びアオイを見る。
涙の跡が残る頬。
震える肩。
それでも立ち続ける姿。
そして――
シノハラ自身の目にも、涙が滲み始めていた。
シノは涙を滲ませながら、ゆっくりと言葉を続けた。
シノ
「私たちってさ……」
小さく息を呑む。
「別れって、もっと特別なものだと思ってた。」
視線がわずかに揺れる。
「綺麗な言葉があって。」
「忘れられない約束があって。」
短い沈黙。
震える声のまま、シノは続ける。
「でも……たぶん、ほとんどの別れって――」
彼女は静かに春人を見る。
「こんな風に来るんだよね。」
「何でもない午後に。」
「突然。」
体育館が静まり返る。
シノは涙を堪えながら、小さく笑った。
シノ
「だから……行こう。」
声がわずかに掠れる。
「みんなが、引き止めたくなる前に。」
沈黙。
重く、静かな空気が舞台を包む。
その時、蛍がゆっくり瑞希へ近づいた。
制服のポケットからハンカチを取り出し、そっと差し出す。
蛍
「はい、瑞希。」
優しい声だった。
「私たちのことで泣かなくていいよ。」
少しだけ笑う。
「ずっと繋がってるから。」
瑞希はしばらくハンカチを見つめていた。
それから、小さく笑う。
涙を流したまま。
「……ありがとう。」
彼女はハンカチを受け取り、静かに涙を拭った。
シーン6 ―― 踏み出せない一歩
亮
(無理に笑いながら)
「俺たちのこと、忘れんなよ。」
彩
(小さく)
「身体、気をつけてね……シノ、春人。」
春人はリュックを背負い直した。
シノも静かに隣へ並ぶ。
そして春人は歩き出した。
一歩。
二歩。
――止まる。
振り返れないまま。
春人
「……行くの、怖いよ。」
その声は、今までで一番弱々しかった。
シノは静かに目を閉じる。
「……私も。」
ゆっくり目を開ける。
「でも、もう決めたから。」
悲しそうに微笑んだ。
「別々でも……進むって。」
春人は俯き、小さく笑う。
緊張をごまかすみたいに。
春人
「でもさ……」
短い間。
「挑戦しないまま終わる方が、もっと怖い。」
再び静寂が落ちる。
そして春人は少しだけ振り返った。
春人
「ありがとう。」
「亮。」
「瑞希。」
「彩。」
「……そばにいてくれて。」
そう言って、ゆっくり舞台の奥へ歩き出していく。
最終シーン ―― 残響
瑞希は静かに一歩前へ出た。
照明がゆっくり落ち始める。
広かった屋上が、急に空っぽに見えた。
瑞希
「……いってらっしゃい。」
小さな間。
彼女の瞳がまた震える。
それでも――
瑞希は笑った。
壊れそうなくらい儚い笑顔で。
「……あんまり待たせないでね。」
春人は舞台袖へ消えていく。
シノもその後ろを歩いていった。
泣かないまま。
振り返らないまま。
ただ最後に、小さく手を振って。
瑞希だけが、舞台に残る。
涙の跡を頬に残したまま。
それでも真っ直ぐ立っていた。
照明がゆっくり暗くなっていく。
稽古の時よりも、ずっとゆっくり。
やがて舞台は完全な暗闇に包まれた。
静寂。
一秒。
二秒。
――その時。
パチ。
パチ。
パチ。
誰かの拍手が、静かな体育館に響いた。
全員が一斉にそちらを見る。
立ち上がっていたのは――由美だった。
無表情のまま、静かに拍手を続けている。
けれど、その瞳だけは強く揺れていた。
由美
「……素晴らしい。」
もう一度、拍手。
「本当に、素晴らしいわ。」
タケオが目を見開く。
「う、嘘だろ……」
シノハラは口元を押さえた。
また涙が溢れてくる。
「ゆ、由美先輩……」
カイトは呆然としていた。
「俺たち……そんなに良かったのか……?」
すると、もう一人立ち上がる。
雪子だった。
彼女も静かに拍手を始める。
涙を流しながら。
何も言わずに。
ただ、娘へ拍手を送り続けていた。
それを見た瞬間――
アオイの胸が強く締めつけられる。
舞台の照明が再び点灯した。
キャスト全員の姿が照らされる。
誰も動けなかった。
誰も言葉が出なかった。
そして――
一人。
また一人。
拍手が増えていく。
二人。
十人。
四十人。
気づけば、体育館中の全員が立ち上がっていた。
歓声はない。
ただ、真っ直ぐな拍手だけが響いている。
長く。
熱く。
まるで今感じたものを、言葉にできない代わりみたいに。
演劇部のメンバーたちは、ただ立ち尽くしていた。
信じられないものを見るように。
顧問の教師ですら、何も言えない。
ただ呆然と、拍手に包まれた舞台を見つめていた。
そして最後列――
蒼真は静かにアオイを見つめていた。
服を握る手に力が入る。
胸が苦しい。
震える瞳で、舞台の上の彼女を見つめながら――
心の中で、小さく呟く。
(アオイ……)
喉が詰まる。
(……君を、失いたくない。)




