第51話 — 最後のリハーサル
一週間はあっという間に過ぎていった。
毎日、放課後になると葵は演劇部に残り、体が疲れ切るまで練習を続けていた。
台詞を何度も繰り返し、声のトーンを調整し、舞台上の動きを確認する。家に帰ってからも、寝る前まで部屋で練習を続けていた。
そして、ついに金曜日がやってきた。
最後の授業が終わった頃、武雄が二年B組の教室の扉に姿を見せた。
「葵」
葵はゆっくり顔を上げる。
「先生が言ってた。今日は本当の最後の通し練習だって。倒れるまでやるぞ」
葵はノートを閉じ、鞄の中へしまった。
「……うん、行こう」
二人は並んで教室を出た。
階段を下りている途中、少し前を歩いている颯真の姿が見えた。
ポケットに手を入れたまま、陸上部の方へ向かっている。
武雄は数秒間、彼を見つめていた。
「葵……あいつ、どうしたんだ?」
葵は鞄の肩紐を強く握る。
「知らない」
視線を逸らした。
「……知りたくもない」
武雄は少しだけ目を見開き、歩く速度を落とした。
「……あー」
葵はすぐ気づく。
「何?」
「いや、何でもない」
武雄は軽く笑ってごまかした。
「ごめん、葵。なんか今週のお前、ちょっと上の空っぽかったからさ」
葵は小さく息を吐く。
「ごめん、武雄。ちょっと色々考えすぎてただけ」
それから少し真剣な目で彼を見る。
「でも、練習はちゃんとしてたよ」
武雄は優しく笑った。
「分かってる」
肩の鞄を掛け直しながら続ける。
「でも演劇ってさ、足がどこにあるかじゃなくて……心がどこにあるかだろ?」
葵は数秒黙っていた。
すると武雄が前を指差す。
「ほら、急ごうぜ。今日の体育館、めちゃくちゃ寒いし……みんな待ってるはずだから」
二人は静かな校舎の廊下を歩いていった。
十二月の冷たい空気が制服の隙間から入り込み、暖房の匂いが少しずつ校舎に広がっている。
体育館の大きな扉を開けると、蛍光灯の白い光の下に舞台セットが現れた。
手作業で塗られた木のパネル。
簡易的なカーテン。
床に散らばるコード。
「お、やっと来たー!」
脚立の上でスポットライトを調整していた海斗が叫ぶ。
「葵! 篠原がお前の声量チェックしたいって! この体育館、声小さいと全部飲まれるぞ!」
葵はゆっくり舞台へ上がった。
足音が広い体育館に響く。
彼女は舞台前に並べられた金属製の椅子を見つめた。
百五十席以上。
保護者。
教師。
卒業した先輩たち。
明日、その全てが埋まる。
ストップウォッチを持った篠原が姿を見せた。
目は完全に真剣そのものだった。
「全員いる? よし」
深呼吸をする。
「金曜日最後のリハーサルね」
そして葵を真っ直ぐ見た。
「位置について」
声が少し低くなる。
「外のことは全部忘れて。今日は“水城”として立って」
葵はゆっくり息を吸った。
舞台の埃っぽい匂い。
金属椅子から伝わる冷たさ。
体育館の強い照明。
全部がようやく現実味を帯びてくる。
そして数週間ぶりに――
頭の中を占めていた“別の問題”が静かになった。
彼女は舞台上の武雄を見る。
武雄はただ一度だけ頷いた。
葵も小さく頷き返す。
そして、最後のリハーサルが始まった。
台詞が体育館に響く。
足音。
立ち位置。
声の抑揚。
次々と続くシーン。
時間は驚くほど早く過ぎていった。
気づけば二時間が経っていた。
篠原舞が最後にストップウォッチを止める。
乾いた音が静かな体育館に響いた。
海斗がメイン照明を消し、舞台奥の小さな灯りだけが残る。
その時、武雄が一歩前へ出た。
「全員、中央集合」
部員たちは舞台中央へ集まっていく。
一年生たちは少し震えていた。
十二月の寒さのせいでもあり、緊張のせいでもある。
上級生たちは比較的落ち着いていたが、それでも張り詰めた空気が漂っていた。
やがて全員で輪になる。
葵の右手は、武雄の少し硬くて温かい手に握られた。
左手には一年生の女子の冷たい手。
その輪の温もりは、不思議と心地良かった。
武雄は周囲を見渡してから口を開く。
「明日、この体育館は満員になる」
低く、しっかりした声だった。
「保護者、先生……そして俺たちより前にこの部を作ってきた先輩たち」
武雄はゆっくり息を吐く。
「みんな、ただ劇を見に来るわけじゃない」
視線が一人一人へ向けられる。
「俺たちが、先輩たちの残したものを守れたかを見に来るんだ」
舞台に静寂が広がった。
葵は周りの顔を見る。
篠原は感情を抑えるように唇を噛んでいた。
いつもふざけてばかりの海斗も、今夜だけは真剣な顔をしている。
すると武雄が葵を見る。
「葵」
彼女は顔を上げた。
「何か言うか?」
数秒間、葵は黙っていた。
そして仲間たちの手を少し強く握る。
胸の奥がじんわり熱くなった。
他のことなんて、どうでもよく思えた。
「私……」
深く息を吸う。
何度も練習した通りに声を響かせる。
「ここにいたのに……ずっと、どこか遠くにいた気がする」
視線が一瞬だけ下がる。
「でも今日、みんなの手を握って……分かったことがある」
再び前を見る。
「明日は、ただ上手く演じるための日じゃない」
声が少し震えた。
「みんなで“またね”を伝える日なんだって」
静寂は続いていた。
でも、さっきよりずっと温かかった。
「だから……一言一言、ちゃんと届けよう」
輪の中に小さな賛同の声が広がる。
篠原が感動したように笑った。
「うん、すごくいい」
彼女は深呼吸する。
「明日はいよいよ本番」
そして手を中央へ差し出した。
「演劇部の誇り、見せてやろう」
全員が手を重ねる。
武雄が笑う。
「演劇部!」
「ファイト!!」
全員の声が体育館に響き渡った。
その反響は天井へぶつかり、冬の寒ささえ吹き飛ばしたようだった。
手を離した後もしばらく誰も動かなかった。
その空気がまだ残っていたから。
すると突然、海斗が手を叩く。
「はい解散ー!」
彼は大げさに指を差した。
「温かいもん食べて、厚い靴下履いて、早く寝ろよ! 明日風邪引いて来たやついたら、俺がカツラ被って代役するからな!」
その言葉でようやく笑いが起きた。
みんな少しずつ鞄を持ち始める。
葵は舞台の端まで歩き、もう一度空っぽの客席を見つめた。
明日――
ここが全部埋まる。
彼女は鞄の肩紐を軽く握る。
少し考え込むように。
そして学校を後にした。
空はもう完全に暗い。
スマホを見る。
「……20時か」
小さく息を吐く。
「お母さん、もう帰ってるよね」
少し後ろでは、武雄と篠原が一緒に正門から出てきていた。
篠原は、一人で歩いていく葵の背中を見つめる。
「今日は、ちょっと元気そうだったね」
武雄はゆっくり頷く。
「ああ……あいつ——」
だが、途中で言葉が止まった。
篠原はすぐ気づく。
「武雄?」
武雄は前を見ていた。
少し先を、一人で歩く男子。
颯真。
武雄は目を細める。
「ちょっと待ってて、舞」
篠原は瞬きをした。
「何かあった?」
「いや。ちょっと聞きたいことがあるだけ」
彼女はため息をつく。
「はいはい。前で待ってるからね」
「すぐ行く」
武雄は少し早足で颯真を追いかけた。
「おーい、颯真くん!」
颯真が振り返る。
「あ……武雄先輩」
武雄は自然に肩へ腕を回した。
「どこ行くんだ? 葵の家? ははっ」
颯真はすぐ眉をひそめる。
「は?」
声が少し低くなった。
「なんでそんなこと言うんですか」
武雄は軽く笑う。
「冗談だって。お前、緊張しすぎ」
「離してもらっていいですか?」
「あ、悪い悪い」
武雄は腕を離した。
だが次の瞬間、表情が変わる。
真剣だった。
「……で、マジな話」
武雄は真正面から颯真を見る。
「お前、どうした?」
颯真は黙ったまま。
冷たい空気の中、白い吐息だけが浮かぶ。
やがて小さく息を吐いた。
「……先輩って、葵のことどれくらい前から知ってるんですか?」
武雄は眉を上げる。
「親同士が親友だったからな」
少し笑った。
「まあ、かなり長い」
颯真は視線を落とす。
「……そうですか」
沈黙。
武雄は首を傾げた。
「なんで?」
颯真はポケットの中で拳を握る。
「……もう、どうしたらいいのか分からなくて」
武雄は疲れたように息を吐く。
「お前、話がめちゃくちゃだぞ」
颯真は数秒黙ったあと、小さく呟いた。
「全部……俺のせいなんです」
武雄は無言で彼を見る。
颯真は俯いたままだ。
「お前のせい?」
武雄が聞く。
「何したんだ? 他の女とでも遊んだ?」
「違います」
颯真は一瞬目を閉じる。
「葵に伝えたいことがあったんです」
声が少し震えていた。
「……もう二回、言おうとしました」
武雄の表情が真剣になる。
颯真は歯を食いしばった。
「先輩……」
少し迷ってから口を開く。
「葵って……俺のこと、一生嫌いになりますかね」
武雄は疲れ切った彼の顔をしばらく見つめていた。
それからため息をつく。
「なんか、お前……昔の恋してた友達みたいだな」
少し目を細める。
「でも、それだけじゃない気もする」
颯真は黙ったままだった。
武雄は両手をポケットに入れる。
「なあ」
声が少し柔らかくなる。
「葵のこと好きなら、ちゃんと話せ」
一歩横へ動いた。
「前にも言っただろ」
颯真は再び拳を握る。
武雄は続ける。
「本当に酷いこと言わない限り、葵はお前を嫌いになったりしないよ」
冷たい風が二人の間を通り抜ける。
そして武雄は歩き出した。
「じゃ、俺は行くわ」
振り返らずに手を上げる。
「ちゃんと正直に話せよ」
その声が静かな夜道に響いた。
颯真は俯いたまま、心の中で呟く。
――でも……問題はそこなんだよ。




