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第50話 ― カラオケの夜

その日の放課後――

美緒、葵、そして陽菜は一緒にカラオケへ向かった。


店に入るとすぐ、美緒は受付へ歩み寄る。


「部屋、お願いします」


受付の女性は小さく微笑いた。


「あれ? 今日はお友達も一緒なんですね?」


美緒は一瞬だけ固まる。


「えっ……あ、う、うん。まあそんな感じで」


受付は何かを察したように頷いた。


「5号室になります」


数分後――

三人はカラオケルームの中へ入った。


陽菜は目を輝かせながら辺りを見回す。


「わぁ~……カラオケ来るの久しぶり~!」


「……私も」


葵も静かに頷いた。


陽菜は腕を組み、少し頬を膨らませる。


「ていうか美緒ちゃん、もっと前から誘ってくれてもよかったのに。ひとりで来てたなんて全然知らなかったよ?」


美緒は冷や汗を浮かべながら苦笑する。


「お、おっけーおっけー……冬休みになったら一日中ここで遊ぼう? ごめんって~……」


彼女は慌ててリモコンを掴み、曲一覧をスクロールし始めた。


そして突然、リモコンとマイクを葵へ押し付ける。


「はい。今回は葵からね」


葵は驚いたように瞬きをした。


「え……私から? なんで? 陽菜が先でいいじゃん」


陽菜は即座に首を振る。


「だめ~。今日は葵ちゃんが最初! 少しはリラックスしなきゃ、ね?」


葵は小さくため息をついた。


「……分かった」


彼女は数秒間メニューを眺め――

ある曲で手を止めた。


「……これ。“声にならない音” 月島愛莉」


美緒と陽菜はすぐに小さく拍手する。


「おお~、いい選曲!」


葵は少し眉を寄せた。


「……笑わないでよ?」


陽菜は優しく微笑む。


「笑ったりしないよ、葵」


美緒はソファにもたれながら笑った。


「もっと気楽にいこうよ。カラオケってそういう場所でしょ? あはは」


葵は少しだけ躊躇し――


再生ボタンを押した。


静かなイントロが部屋に流れ始める。


葵はゆっくりマイクを口元へ近づけた。


最初の声は、小さかった。


柔らかく。


慎重で。


けれど少しずつ――

胸の奥に押し込めていた感情が、歌へ溶け込んでいく。


「置き去りにした言葉たち

声の奥へ沈めたまま

時間が癒すふりをしても

まだ胸は痛んでる


昔みたいに笑えたなら

誰も気づかないのかな

心の奥に残った音が

今も消えないままだって


誰のせいでもないけれど

意味がなかったわけじゃない

手を伸ばす前に消えていくものが

この世界にはあるから……」


歌う葵を、美緒は静かに見つめていた。


――葵ちゃん、こんなに上手かったんだ……


最後に歌声を聞いたのがいつだったか、思い出せない。


美緒は少し身を乗り出して陽菜へ囁く。


「ねぇ……見て」


しかし陽菜はすでにキラキラした目で葵を見ていた。


まるでライブ会場のファンみたいに、静かに手を振って応援している。


美緒は思わず吹き出した。


「……なんでもない、ふふ」


リズムに合わせて軽く手を叩きながら思う。


――この曲、わざと選んだのかな。葵ちゃん……


曲が終わり、葵はゆっくりマイクを下ろした。


少し息が上がっている。


額にはうっすら汗が浮かんでいた。


「……ほんと、歌うの久しぶりだった」


そして目を細める。


「だから……笑わないでよね」


その瞬間――


陽菜が勢いよく葵へ抱きついた。


「すごかった!! ほんとにすごかったよ葵ちゃん!! 感情めっちゃ伝わってきた!!」


「ひ、陽菜……もう離して……褒めてくれるのはありがたいけど――」


葵は突然言葉を止めた。


陽菜の目が潤んでいた。


涙が端に溜まっている。


「もう蒼真なんかに気持ち使わなくていいよ!! あいつ絶対、葵ちゃんがどれだけ素敵か分かってないもん!! またカラオケ来よう!? 一緒に買い物とかも! コスメショップとか!!」


美緒は目を丸くした。


それから小さく笑う。


「……あー、なるほどね。本音そっちか」


陽菜は慌てて涙を拭った。


そして突然、両手で葵の頬を掴む。


「葵ちゃん! 笑って!」


人差し指で無理やり口角を上げる。


その瞬間――


記憶が蘇った。


六歳の葵。


部屋の中で静かに座っている。


キッチンからは、由紀子の泣く声が微かに聞こえていた。


幼い葵は無表情のまま壁を見つめている。


唇が少し開いていた。


そして突然――


部屋のドアが勢いよく開いた。


そこには武雄が立っていた。


何本もの道を全力で走ってきたみたいに、息を切らしている。


七歳。


肩で呼吸しながら、彼は葵へ駆け寄った。


「遊ぼう、葵!」


「やだ。帰って」


武雄は一瞬固まった。


顔が少し赤くなる。


数秒の沈黙のあと――

彼はポケットからおもちゃの車を取り出した。


「これ……あげる。俺の一番いいやつ」


葵はちらりと見る。


「車のおもちゃ嫌い。どっか行って」


武雄は静かに車を床へ置いた。


それからもう一度、葵を見る。


「じゃ、じゃあ別のことしようよ……」


声が震えていた。


「葵がまた笑えるようになるまで、毎日来るから」


葵は動かない。


壁を見つめたまま。


すると突然、武雄は両手で彼女の頬を掴んだ。


「笑ってよ、葵! ほら、笑って……お願いだから……」


必死に口角を上げようとしていた。


現在――


葵は優しく陽菜の手首を掴み、そっと下ろした。


「陽菜……そんなことしなくていいよ」


陽菜は瞬きをする。


「え? 何が?」


葵は少し視線を逸らした。


「無理に笑わせようとすること」


声が少し柔らかくなる。


「……それに関係する記憶、もうあるから」


陽菜はすぐに手を引っ込めた。


「あっ……ご、ごめん葵! 調子乗っちゃって……」


葵は軽く首を振る。


「ううん。大丈夫……ほんとに」


それからしばらくして――

三人はカラオケを出て、それぞれ帰宅した。


その夜。


自室で、葵は疲れたようにベッドへ倒れ込む。


「……劇の練習しなきゃなのに」


天井を見つめる。


「疲れた……」


その時、スマホが震えた。


武雄からのメッセージ。


『今週の練習、かなり厳しくなるぞ葵』


数秒後――

今度は篠原から通知が届く。


『放課後、追加で練習したかったらいつでも言ってね』


葵は小さく笑った。


「……ちゃんと集中しないと」


だがその瞬間――


記憶が頭をよぎる。


昼休みに並んで座っていた自分と蒼真。


目が合って。


お互い顔を赤くして、気まずそうに逸らしたこと。


葵はゆっくり目を閉じた。


「……陽菜の言う通りかも」


消えそうな声だった。


「忘れようとしないと」


静寂が部屋を満たす。


葵は布団を被り、電気を消した。


「……寝なきゃ」


小さなため息が漏れる。


「今日は楽しかった……でも、公演までにはちゃんとしないと」


彼女は静かに目を閉じた。


そして少しずつ――


記憶も。


感情も。


歌声も。


笑顔も。


消えきらない痛みも。


すべてが混ざり合うように、意識の中へ沈んでいった。

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