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第5話 空っぽの席

教室2-Bは静まり返っていた。

最もよく聞こえるのは、先生のペンが黒板を引っかく音だった。数式や説明が次々と書かれていくが、その朝、それに本気で興味を持っている生徒はほとんどいないように見えた。

葵と雛は静かだった。

あまりにも静かだった。

二人とも授業に集中していなかった。

視線は何度も同じ場所へと戻っていく。

神崎澪の席。

空っぽだった。

カバンもない。

筆箱もない。

何もない。

そのせいで、教室の空気がどこかおかしく感じられた。

葵はときどき机の下でスマホを確認した。

何度も、素早く。

LINE。

返信はない。

葵は小さく息を飲み、ノートへと視線を落とした。

「……と、とりあえず授業、写しておこう」小さくつぶやく。「あとで澪に渡せるし」

雛はすぐにうなずいた。

「うん……私も手伝う」

二人は必死に書き写し始めた。

黒板の内容。

先生の説明。

細かい部分まで。

普段なら流すようなところでさえも。

先生が黒板を早く消してしまっても、なんとか追いつこうとした。

時間はゆっくりと過ぎていく。

科目が変わり、先生も変わった。

それでも、澪の席は空のままだった。

それが、だんだんと二人の中で大きな違和感になっていく。

やがてチャイムが鳴った。

昼休み。

さっきまでの静けさが嘘のように、教室に一気に音が戻ってきた。

椅子を引く音。

会話の声。

窓際で誰かが大きく笑う声。

葵はカバンを開け、母が作ってくれた弁当を取り出した。

雛は立ち上がる。

「メロンパン買ってくるね」

リュックを背負いながら葵を見る。

「何か飲む?」

葵は少し考えて答えた。

「ジュース……お願いしてもいい?」

雛は親指を立てた。

「任せて!」

そう言って教室を出ていった。

葵は弁当を開ける。

ご飯、野菜、鶏肉。丁寧に詰められている。

教室の反対側では、山本蒼真も弁当を広げていた。

そのとき、一人の女子が自然な動きで彼の隣に座る。

長い黒髪。

整った姿勢。

落ち着いた所作。

黒沢華絵。

クラス委員であり、学年でも有数の優等生だ。

二人は会話を始める。

葵は少し離れた場所からそれを見ていた。

何を話しているのかは聞こえない。

華絵が笑う。

小さく、上品に。

蒼真は少し緊張した様子だが、それでも笑っていた。

葵は気づかないうちに、じっと見ていた。

蒼真が何かを言う。

華絵が手で口元を隠して笑う。

その瞬間――

蒼真が、まっすぐ葵のほうを見た。

葵は目を見開き、慌てて顔を逸らす。

すぐに箸を持ち、忙しそうに食べ始めた。

まるで何も見ていなかったかのように。

廊下から足音が近づいてくる。

「ただいまー!」

雛が教室のドアから顔を出した。

オレンジジュースの小さなパックを葵の机に置く。

「はい」

それから席に座り、メロンパンを開けた。

「いただきます」

葵は彼女を見て言った。

「今日、お弁当忘れたの?」

雛はパンを一口かじる。

「うん……急いで出てきたから」

いたずらっぽくウインクする。

「ヒロくんが待ってたし」

葵はジュースを吹き出しそうになった。

「ちょ、ちょっと!ここで言わないで!」

雛は笑い出す。

「ははは、冗談だって!」

気づけば、二人は同じ方向を見ていた。

澪の空席。

葵はまたスマホを手に取る。

「何か来てた?」

雛は首を横に振る。

「何も……ほんとに何も」

葵は小さく息を吐いた。

「ちょっと……心配になってきた」

しばらく無言で食べる。

やがて雛が首をかしげた。

「ねえ、山本と黒沢さん、こっち見てない?」

葵は瞬きをした。

「え?」

ゆっくりと顔を向ける。

華絵は蒼真のすぐ隣に座っている。

けれど二人とも、確かに葵のほうを見ていた。

蒼真は少し笑っている。

華絵は興味深そうな表情。

葵はびくっとして、すぐ前を向いた。

何も見ていないふりをして、また食べ始める。

そのとき、足音が近づいてきた。

一歩。

二歩。

三歩。

葵の机の前に、手が置かれる。

やわらかな声がした。

「ねえ、葵ちゃん」

葵は顔を上げる。

華絵だった。

「少し話してもいい?」

雛がすぐに答える。

「今はちょっと――」

華絵は落ち着いて手を軽く上げた。

「大丈夫。すぐ終わるから」

葵はまばたきする。

「……何?」

華絵は椅子を引いて座り、ごく自然に聞いた。

「山本くんのこと、どう思ってる?」

雛がむせた。

「えっ、なんで!?」

葵は眉をひそめる。

「どうしてそんなこと聞くの?」

華絵は微笑んだ。

「昨日、一緒に帰ってたでしょ?」

頬杖をつく。

「もしかして、どんな子がタイプか知ってるのかなって」

葵は少し慌てる。

「そ、そんなの知らないよ、黒沢さん」

華絵は首をかしげた。

「もう仲いいのかと思ってた」

くすっと笑う。

そのとき、教室のドアのほうから声がした。

「華絵ー!行こー!」

華絵は立ち上がる。

「またね」

「……またね」

葵と雛も返した。

彼女は教室を出ていった。

澪の前の席に座っていた男子二人が振り返る。

山田陸が手を挙げた。

「よっ」

葵と雛は彼を見る。

山田は後頭部をかいた。

「神崎さん……今日来てないみたいだな」

雛は落ち着いて答える。

「うん」

そして指をさす。

「山田くんの後ろ、空いてるでしょ」

もう一人の男子も振り向いた。

松田蓮だった。

「何かあったか知ってる?」

葵は首を振る。

「……ううん、何も聞いてない」

山田と松田は目を合わせる。

明らかに様子がおかしい。

葵はそれに気づいた。

「何かあるの?」

目を細める。

「知ってるの?」

松田は小さく息を吐いた。

「新井美咲が、職員室にいたらしい」

葵と雛は黙って聞く。

「そこで、佐々木先生が神崎と電話してるのを聞いたって」

葵と雛は教室の窓側を見る。

新井美咲は、まるで関係ないかのように静かに弁当を食べていた。

葵はすぐに立ち上がる。

「……ちょっと、聞いてくる」

雛が腕をつかむ。

「待って、食べ終わってから――」

でも葵はもう歩き出していた。

美咲のところへ行き、隣に座る。

美咲は少し驚く。

「え……坂本?」

葵は軽く頭を下げる。

「ごめん、ちょっと聞きたいことがあって」

美咲は眉をひそめる。

「何?」

葵は深呼吸する。

「職員室にいたって聞いて……」

「佐々木先生が神崎と電話してたって……」

美咲は数秒、葵を見つめる。

それから椅子に少しもたれ、疑うような表情になる。

葵の後ろ、ドアの方を見る。

松田と山田がじっと見ていた。

目が合うと、二人は慌てる。

山田はスマホをいじるふり。

松田は雛に話しかけた。

「や、やあ雛、元気?」

雛はきょとんとする。

「え?」

美咲はため息をついた。

「……坂本さん」

落ち着いた声で言う。

「星見総合病院って言ってたのを聞いただけ」

その瞬間――

葵の時間が止まったように感じた。

顔から血の気が引く。

目がゆっくりと開く。

「……星見……病院?」

「坂本さん?」

美咲の声で我に返る。

「あ……」

葵は無理に笑った。

「ありがとう……新井さん」

美咲は両手を上げる。

「聞いたこと言っただけだからね?」

「それだけ」

葵はうなずく。

「うん、大丈夫」

軽く頭を下げる。

「少しでも情報が欲しかったから……ありがとう」

席へ戻る。

山田がすぐに聞く。

「わかったのか?」

葵は小さく答える。

「……だから返信ないのかも」

スマホを見る。

「何があったんだろう……」

雛は少し考える。

「昨日さ」

「澪、スマホ見てたでしょ……ちょっと悲しそうな顔で」

葵は目を見開く。

「あ……ほんとだ」

そのとき、後ろから声がした。

「やあ」

山本蒼真だった。

雛は笑う。

「やっほー、ソウマキー」

蒼真は顔を赤くする。

「た、高瀬さん……それやめて……」

松田が振り向く。

「ソウマキー?」

蒼真は頭をかく。

「あ……どうも」

松田が手を上げる。

「松田蓮。よろしく」

「こっちは山田陸」

「よっ」と山田。

蒼真も答える。

「山本蒼真。よろしく……」

山田が興味深そうに聞く。

「なんでそんな呼び方なんだ?」

蒼真は肩をすくめる。

「さあ……?」

雛は腕を組む。

「秘密のコードだから」

「詮索しないで」

山田は目を丸くする。

「コード?」

そのとき、葵がぽつりと言った。

「……星見病院、行ったほうがいいかな」

全員が彼女を見る。

「澪、返信ないし……」

静寂が落ちた。

そして――

後ろの席には、変わらず空の椅子があった。



感想、いつも楽しみに読んでいます。

本当にありがとうございます。

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