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第48話 ― 蒼い瞳

一週間が過ぎた。


試験期間だったこともあり、葵が演劇部に顔を出したのは二回だけだった。


そして金曜日の午後五時半過ぎ――


葵は誰にも声をかけず、静かに部室を後にした。

その背中に、篠原が声をかける。


「……葵。公演まで、もうあと数日だよ」


「本当に、その状態で舞台に立てるの?


葵は何も答えず、そのまま昇降口へ向かって歩き続けた。


篠原は小さくため息をつくと、不意に駆け出し、葵の前へ回り込む。


葵はようやく足を止めた。


その表情には、何の感情も浮かんでいない。


「……すみません、先輩」


「ちゃんと演じます。もうこの劇をやるって決めたので」

篠原は静かに葵を見つめた。


そして優しく口を開く。


「そんなふうに、感情を凍らせたまま舞台に立ったら……台詞を忘れるより、ずっとひどいよ」


葵の目がわずかに鋭くなる。


冷たい。


真剣な眼差し。


「……何が言いたいんですか、先輩」


篠原は一瞬だけ視線を落とした。


「私が一年生だった頃ね……卒業した先輩に言われたことがあるの」


再び葵を見る。


「“本気でシーンを感じた時、人の身体は感情で溢れる”って」


葵はわずかに眉をひそめた。


唇が少し開く。


けれど、言葉は出てこなかった。


篠原は静かに続ける。


「私はこの三年間、その意味をずっと理解しようとしてた」


夕方の風が、静かに昇降口を吹き抜けていく。


「台本はいつも真剣に読む」


「台詞も、空気も、感情も……全部ちゃんと考えてる」


篠原の口元に、小さな笑みが浮かんだ。


どこか寂しげな笑みだった。


「でも……まだ完全には分かってない気がするんだ」


葵の表情はゆっくりと元に戻る。


無感情で。


遠くを見るような目。


「……覚えておきます」


そう言うと、葵は篠原の横を通り過ぎた。


篠原は遠ざかっていく背中を見つめながら、小さく呟く。


「良い週末を、葵」


葵は振り返ることなく、小さく頷くだけだった。


――

家に戻った葵は、一人で夕食を作り、シャワーを浴びた。


しばらくして、由紀子が仕事から帰宅する。


玄関を開けた瞬間、疲れたようなため息を漏らした。


「ただいまー……」


「長い一週間だったわね、葵」


「……うん」


由紀子は軽く髪をほどきながら言う。


「今日はほんと疲れちゃった」


「先にご飯食べてていいからね」


「分かった」


その後――


葵は静かに一人で夕食を食べた。


そして席を立つ。


「お母さん、先に部屋行くね」


浴室の中から由紀子の声が返ってくる。


「うん、後でお皿そのまま置いといてね」


「ありがと、葵」


「うん」


葵は二階の自室へ向かった。


ベッドに横になりながら、静かにスマホを眺める。


その視線が止まったのは、古い『エターナル・イージス・オンライン』のグループチャットだった。


最後のメッセージは九日前。


部屋を静寂が満たす。


葵はゆっくりと、昔の会話をスクロールしていった。


楽しそうなメッセージ。


スクリーンショット。


くだらない冗談。


深夜まで続いた通話。


皆で遊んでいた記憶が、次々と頭に浮かび上がる。


ドラゴンレイド。


最後の吸血鬼王戦。


ボイスチャットで叫びながら盛り上がっていたみんな。


葵は無言で画面を見つめながら、ぽつりと呟いた。


「……もう、エターナル って全然楽しくない」


沈黙。


そして突然――

葵の目が見開かれた。


勢いよく身体を起こす。


「……待って」


記憶が脳裏によみがえる。


「思い出した……」


声が小さくなる。


「このゲームのクレジットに……お父さんの名前があった」


呼吸がゆっくりになる。


「武雄のお父さんも……」


葵はすぐに武雄との個人チャットを開いた。


未読メッセージが三件。


『葵、話したい』


『大丈夫か?』


『ゲームのことか?』


葵は何度か瞬きをした。


そして軽く頬をかく。


「あ……これ忘れてた」


「週の初めに送ってたんだ……」


彼女はすぐに文字を打ち始める。


『武雄、今メッセージ見た。エターナル・イージス・オンライン でくれたゲームについてだけど……何を見つけたの?』

葵は画面を見つめながら返事を待った。


しかし、返信は来ない。


葵は少し視線を逸らす。


「……怒ってるのかな」


スマホを隣に置く。


そして視線が、テレビ横に置かれた陽菜のゲーム機へ向いた。


その隣には――

武雄から渡されたゲーム。


葵は数秒間、黙ってそれを見つめる。


そして小さく呟いた。


「……せめて今夜くらい、退屈しなくて済むかも」


彼女はカセットを差し込み、ゲーム機の電源を入れた。


映し出されたのは、ピクセルアートのタイトル画面。


二次元グラフィック。


シンプルなタイトル。


『The Birthday』


葵は瞬きをする。


「……このゲーム、このハード専用みたい」


胸の奥に、わずかな違和感が走った。


「……変な偶然」


ゲームが始まる。


操作できるキャラクターは一人だけ。


名前のない小さな少女。


葵はわずかに眉をひそめる。


「名前のない主人公……?」


ゲームが進む。


六歳くらいの元気な少女が、カラフルな足場を飛び回っていた。


葵の指が、コントローラーの上でゆっくり止まる。


「この子……」


目がわずかに見開かれる。


「……私に、似てる……?」


彼女はゆっくりコントローラーを下ろした。


そしてベッドから立ち上がる。


小さなピクセル少女を見つめながら、拳を強く握り締めた。


胸の奥に、不気味な不安が広がっていく。


葵は再びスマホを掴んだ。


まだ武雄から返信はない。


彼女はもう一度打ち込む。


『武雄、このゲーム何?』


『なんでこの子、私に似てるの?』


数秒が過ぎる。


返信はない。


葵はさらに打つ。


『お願いだから答えて』


『これ、どこで手に入れたの?』


その手は、今や震えていた。


奥歯を軽く噛み締める。


「……早く答えてよ」


さらに数秒後、彼女は深く息を吐き、無理やり落ち着こうとした。


そして静かに打ち込む。


『今週ずっと冷たくしてごめん』


数秒後――

通知が表示された。


武雄から返信。


『謝罪は受け取った』


『ゲームについては……最後までやって』


葵の目が一気に見開かれる。


「読んでたの!?!?」


苛立ったように自分の髪を軽く掴む。


「もう、武雄……!」


深呼吸する。


「落ち着いて……取り乱さないで……」


そして再び打ち込む。


『このゲーム、武雄が作ったの?』


すぐに返信が来た。


『違う』


『でもエンディングまで行ってほしい』


『もっと前に渡すべきだった』


『ごめん』


葵はそのメッセージを見つめた。


深く眉を寄せる。


「エンディングまで……?」


「しかも作ったわけじゃない……?」


彼女は最後のメッセージを打つ。


『分かった。最後までやる』


『そのあと全部説明して』


スマホをベッドへ放り投げ、再びコントローラーを手に取った。


「……最後まで、ね」


ゲームを続ける。


少女は足場を飛び越え、アイスバーやスクラッチくじを集めていく。


ステージは明るく。


暖かく。


穏やかだった。


だが突然――

一匹の犬が走ってきた。


葵は反射的に飛び越える。


だが直後、目を見開いた。


「……この犬」


そのスプライトに見覚えがあった。


「昔死んだ近所の犬にそっくり……」


さらに進むと――

少年キャラクターが現れる。


誇らしげにミニカーを掲げながら言う。


『俺の車は世界最速なんだ!』


葵は再びコントローラーを落とした。


片手で口を覆う。


瞳が震える。


「……この子」


呼吸が乱れる。


「武雄だ……」


「間違いない……」



葵はすぐにスマホを掴んだ。


新しいメッセージは一件だけだった。


『お願いだ』


『最後まで進めてくれ』


葵はその言葉をじっと見つめる。


それから再びゲーム画面へ視線を戻した。


そして深く息を吐く。


「……分かった」


低い声だった。


「でも、そのあと全部説明してもらうから」


葵は再びゲームを進めた。


キャラクターは家の中へ入る。


リビングルーム。


そして――

葵は完全に動きを止めた。


キッチンでは、由紀子によく似た女性が料理をしていた。


吹き出しが現れる。


『あなたの大好きなカレー作ったわよ』


葵は固まった。


手が震える。


そしてソファには――

宏がよく似た男性が新聞を読んでいた。


別の吹き出しが現れる。


『君にサプライズがあるんだ』


『二階へ行ってごらん』


葵の呼吸が速くなる。


二次元のキャラクターたちは、小さな少女へ優しく微笑んでいた。


まるで生きた記憶のように。


まるで過去の欠片が、そのゲームの中に閉じ込められているみたいに。


「……この部屋……」


声が震える。


「……この場所……」


瞳が揺れ始める。


「……私の家だ……」


彼女はゆっくりとキャラクターを階段の上へ動かした。


そして部屋の前へ辿り着く。


ドアには、大きなアイスの絵がぶら下がっていた。


葵は目を見開く。


彼女は部屋へ入った。


画面いっぱいに映し出された部屋。


小さくて。


色鮮やかで。


綺麗に玩具が並べられている。


低い棚には古い人形が並び、 壁には星型シールで貼られた絵。


雲の形をしたふわふわのカーペット。


小さなベッドの上に散らばるぬいぐるみ。


歪んだ手作りシールで飾られた玩具箱。


そして窓の近くには――

色鉛筆だらけの小さな子供用机。


葵は無言のまま、それを見つめ続けた。


記憶が蘇り始める。


六歳の葵が家の中を走り回っていた。


一歳年上の武雄が、おもちゃの車を持って追いかけてくる。


「俺の超高速カーが勝つからな!」


「私は人形取りに行くの!」


幼い葵は笑いながら階段を駆け上がっていく。


リビングでは――

宏がソファで新聞を読んでいた。


「おかえり、葵」


由紀子は笑顔で料理をしている。


「あとで大好きなカレー食べに来てね」


すると宏は新聞を下ろし、優しく笑った。


「上に行ってごらん、葵」


「君にサプライズがある」


幼い葵は目を輝かせる。


「何!?」


宏は笑った。


「自分で見つけないとな」


葵は勢いよく階段を駆け上がった。


部屋へ飛び込む。


そして箱を見つけた。


そこには書かれていた。


『葵へ』


彼女は急いで箱を開ける。


そして目を輝かせた。


「わああっ!」


新しい人形。


ずっと欲しかったものと全く同じだった。


箱の中には、歪な手描きのハートも入っていた。


幼い葵は人形を強く抱きしめる。


そのまま数秒間、動かなかった。


本当に幸せそうに。


現在――

葵は無言でゲームを見つめていた。


声が掠れる。


「……この部屋……」


コントローラーを強く握る。


「昔の私の部屋と……同じ……」


彼女の瞳が震えていた。


「な、何なの……これ……?」


呼吸が乱れる。


「誰が……こんなゲームを……?」


画面の中で――

再び箱が現れる。


『葵へ』


彼女はゆっくりとキャラクターを近づけた。


箱を開ける。


そして現れたのは――

赤いハートを抱えた白いうさぎのぬいぐるみ。


キャラクターはそのうさぎを抱きしめた。


そして――

画面が真っ白になる。


ゲームクリア。


葵は目を見開いた。


「……このうさぎ……」


口元へ手を当てる。


「覚えてる……」


彼女は勢いよくクローゼットを開けた。


古い箱を次々と引っ張り出す。


忘れ去られていた引き出しを開けていく。


そして――

見つけた。


同じ白いうさぎ。


赤いハートを抱えている。


葵はその場で立ち尽くした。


本物のうさぎを腕に抱えながら、 画面の中のうさぎを見つめる。


「……同じ……」


その時、ゲームに新しいメッセージが表示された。


『七歳のお誕生日おめでとう、葵』


『うさぎ、気に入ってくれた?』


『パパが選んだんだよ』


『パパとママは、葵のことが大好きだよ』


画面の下には――

抱き合いながら笑っている宏と由紀子の二次元イラスト。

葵は動けなかった。


部屋は完全な静寂に包まれている。


彼女は瞬きすらせず、画面を見つめ続けていた。


何分もの間。


やがて彼女は、うさぎをそっとベッドへ置く。


ゲーム機の電源を切った。


そしてゆっくりと浴室へ向かう。


明かりをつける。


蛇口を開く。


顔へ水をかけた。


記憶が蘇る。


リビングで笑う宏。


彼女は再び水をかける。


別の記憶。


宏に抱き上げられている自分。


さらに水をかける。


また別の記憶。


三人で夕食を囲む光景。


優しく笑う宏。


『俺はいつでも家に帰ってくるよ、葵』


葵の手が震え始めた。


口元も震える。


彼女は動きを止めた。


洗面台に身体を預ける。


水が頬を伝い落ちる。


ゆっくりと排水口へ滴っていく。


数分が過ぎた。


そして――

葵はゆっくり鏡を見上げた。


鏡の中の自分が、こちらを見返している。


濡れていて。


壊れそうで。


迷子みたいに。


その瞳は、いつもより青く見えた。


そして、掠れた小さな声で――

今にも壊れそうな声で、彼女は尋ねた。


「……お父さん……」


沈黙。


瞳が震える。

「……これを作ったの……?」


投稿が遅れてすみません。

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