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第47話 ― すべてが遠く

午後の風が、何事もなかったかのように静かな通りを吹き抜けていた。


けれど葵にとって、世界は止まってしまっていた。


蒼真の言葉が、今も胸の中で響き続けている。


『俺は……君の気持ちに応えられない』


まるでその言葉が空気そのものに刻み込まれたみたい

に、何度も頭の中で繰り返されていた。


ゆっくりと。


冷たく。


逃げられないまま。


葵にはもう、鳥の声も聞こえなかった。


風も感じられない。


周りの家並みすら、視界に入ってこない。


すべてが遠かった。


すべてが消えてしまったみたいだった。


彼女はただ、蒼真を見つめていた。


信じられないものを理解しようとするように、大きく見開かれた瞳で。


唇がわずかに震える。


「……え……?」


蒼真は拳を強く握り締めた。


指先が震えている。


何かを振り払うように、何度も首を横に振った。


「……俺のせいだ」


低く、かすれた声だった。


「最初から……ちゃんとするべきだったんだ……」


葵はゆっくり瞬きをした。


何かがおかしい。


言葉の意味が、うまく頭に入ってこない。


けれど――


ひとつだけ、気になることがあった。


その拒絶と、まったく噛み合わないもの。


葵は目を細める。


「……泣いてるの?」


その瞬間――


蒼真の身体が止まった。


その言葉は、刃のように真っ直ぐ彼を貫いた。


そして彼は顔を背ける。


何も答えないまま――


走り出した。


速い足音。


乱れた呼吸。


どこかへ逃げるように。


あるいは、自分自身から逃げるように。


葵はその場に立ち尽くしていた。


風だけが、静かに通りを吹き抜けていく。


そして残ったのは、沈黙だった。


その時――


近くの塀の後ろから、三つの頭がぴょこっと現れた。


陽菜。


美緒。


そして山田。


陽菜は何度も瞬きをする。


完全に混乱した様子で。


「え……な、なに今の……?」


美緒は眉をひそめ、葵と通りを交互に見た。


「葵……なんか変なこと言ったの……?」


慎重に一歩近づく。


「……葵?」


でも、葵は反応しなかった。


目を開いたまま。


動かない。


表情もない。


まるで心のどこかが壊れてしまったみたいに。


そして彼女は、空っぽな声で言った。


「……何が起きたのか、わからない」


ゆっくりと振り返る。


「家に帰るね」


「葵?」


陽菜が腕を掴もうと手を伸ばす

けれど葵は、そのまま彼女の横を通り過ぎた。


見ない。


止まらない。


反応もしない。


美緒が慌てて追いかける。


「葵、私たちに話していいんだよ! 別に盗み聞きしよう

としてたわけじゃなくて、その……心配で……」


彼女は足を止める。


「……葵?」


返事はなかった。


葵はただ歩き続ける。


前だけを見つめながら。


感情も。


表情もなく。


そのまま家に入っていった。


ドアが閉まる。


沈黙。


外では、山田が拳を握り締めていた。


「なんだよあいつ……!」


苛立った声で吐き捨てる。


「俺、あいつに話してくる」


すると美緒がすぐに振り向いた。


「やめな、山田」


陽菜は不安そうに腕を組む。


「でも……蒼真くんとも話した方が――」


「今はダメ」


美緒が低い声で遮った。


真剣な声だった。


陽菜と山田が彼女を見る。


美緒は葵の家の玄関を見つめたまま、小さく息を吐い


た。


「何があったのか分かんないけど……」


そして、ゆっくり呟く。


「葵の目……」


喉を鳴らした。


「あの子と初めて会った時と、同じだった」


陽菜はゆっくり口元を押さえる。


目を見開いたまま。


「……そんな……」


家の中では――


由紀子がテーブルの上でカップを片付けていた。


その時、玄関の開く音が聞こえる。


「あら、葵? おかえり――」


そこで言葉が止まった。


葵は何も言わず、彼女の横を通り過ぎる。


そのまま階段を上っていく。


一歩。


また一歩。


また一歩。


由紀子はわずかに眉を寄せた。


そして階段の近くまで歩いていく。


「葵?」


手を手すりに添えた。


「何かあった?」


二階から聞こえた葵の声は、妙に落ち着いていた。


落ち着きすぎていた。


「……大丈夫だよ、お母さん」


少しの沈黙。


「ちょっと疲れただけ」


部屋のドアが閉まる音。


葵はゆっくりベッドへ向かった。


横向きに寝転がる。


そして壁を見つめ続けた。


瞬きもせず。


動きもせず。


頭の中では、ただ同じ言葉だけが繰り返されている。


『俺は君の気持ちに応えられない』


月曜日になった。


試験週間。


葵は朝早く学校へ来ていた。


午前八時。


教室にはまだほとんど誰もいない。


彼女は机を拭き、椅子を整えた。


そして静かに自分の席へ座る。


数分後、美緒と陽菜がやって来た。


陽菜は葵の隣に座り、しばらく彼女を見つめる。


「……葵、メッセージ返してくれなかったね」


葵は顔を上げなかった。


美緒は明るく振る舞おうとしながら、バッグを椅子に置く。


「試験終わったらさ、一緒にコスメのお店とか見に行かない?」


沈黙。


そして葵は、平坦な声で答えた。


「試験週間だから」


ノートを開く。


「今日のテスト終わった後も勉強しなきゃ」


美緒は何度か瞬きをした。


「あ……そ、そっか……」


無理やり笑う。


「じゃ、じゃあ――」


その時、教室の扉が開いた。


蒼真が入ってくる。


静かに。


視線を落としたまま。


誰も見ない。


彼はそのまま席へ向かい、座って机を見つめた。


葵はすぐに目を逸らす。


スマホを取り出し、画面を操作するふりを始めた。


美緒は二人を見比べる。


そして小さな声で聞いた。


「……葵、そんなにヤバい喧嘩だったの?」


「その話したくない」


葵は彼女を見ずに答える。


「喧嘩でもないし」


陽菜は慌てて両手を振った。


「わ、わかった! もう聞かないから!」


無理に笑おうとする。


「はは……」


でも、その笑顔はすぐに消えた。


二人は葵を見る。


彼女は机に伏せたまま、動かなかった。


そして再び扉が開く。


「おはようございます」


佐々木先生が教室へ入ってきた。


「それでは試験を始めます。教材は片付けてください」


カバンを閉じる音が教室に響く。


問題用紙が配られる。


そして静寂が教室を包み込んだ。


何時間もの試験時間を終えて――


ようやく。


昼休みになった。


チャイムが鳴った瞬間――


蒼真はすぐに立ち上がった。


周りを見ることもなく、


そのまま教室を出て行った。


花江はそれに気づいた。


拓海も。


美咲も。


葵は弁当を開く。


そして静かに食べ始めた。


花江が笑顔で近づいてくる。


「こんにちは、葵ちゃん」


彼女は椅子を引き、


いつも蒼真が座っていた場所へそのまま腰を下ろした。


「ここ座っていい?」


……もう座っていた。


陽菜は小さく息を吐く。


「今ならちょっとくらい休めそうだね……」


美緒は机に突っ伏した。


「このあともまだ試験あるのにぃ……ああぁ……」


花江はじっと葵を見つめる。


「今日の葵ちゃん、静かだね」


葵は箸でご飯を軽く混ぜながら答えた。


「ちょっと疲れてるだけ」


そう言って、一口食べる。


花江は美緒を見る。


それから陽菜を見る。


二人は静かに首を横に振った。


花江は少し眉を上げる。


「もし何かあったなら……私に話していいからね?」


葵は返事をしなかった。


ただ静かに食べ続ける。


陽菜が空気を変えようと笑った。


「試験のストレスだよ、きっと」


「ほら、食べよ?」


花江はゆっくり頷く。


「……うん」


昼食は静かなまま続いた。


その時、


山田が陽菜を見る。


視線に気づいた陽菜は、


優しく微笑み返した。


山田も少し笑う。


「ほんと仲いいよな、お前ら……」


美緒がすぐに振り向いた。


「え?」


山田は目を逸らす。


「いや、なんでもない」


彼は立ち上がった。


「メロンパン買ってくるわ、蓮」


松田蓮は弁当から目を上げる。


「おう、ここで待ってる」


自販機の近く――


山田がパンを選んでいると、


後ろから声がした。


「あっ! 君って……山田くん、だよね?」


山田はすぐ振り返る。


そこには武雄がいた。


その隣には篠原舞。


「せ、先輩!? 俺の名前覚えてたんですか?」


武雄は笑う。


「もちろん」


「この前、なんか元気なさそうだったし」


篠原は軽く手を振った。


「こんにちは」


「こ、こんにちは……」


武雄は腕を組む。

「君、葵のクラスメイトだよね?」


「はい……なんでですか?」


武雄は答えた。


「葵、俺にも舞にもメッセージ返してくれないんだ」


山田は頭をかく。


「あー……」


「ちょっと話してあげてよ。土曜から様子おかしいし」


「土曜……?」


武雄は少し黙り込む。


考える。


「……もしかして、あのゲームやったのか?」


彼の目が少し見開かれる。


自然と手が顎へ伸びた。


「武雄くん?」


篠原が首を傾げる。


武雄は数回まばたきした。


「あっ、いや! なんでもない」


すぐに笑顔を作る。


「あとで葵と話そうか、舞?」


篠原はため息をつく。


「今は勉強するべきじゃない? 覚えてる?」


「あー……」


武雄は苦笑した。


「だよな……まだ数学あるし」


そして再び山田を見る。


「俺と舞が連絡したって伝えてくれる?」


「はい! 言っときます!」


武雄は笑顔を見せた。


「山田ってほんといい奴だな!」


「じゃあまた!」


二人は階段を上がっていく。


するとその直後――


山田の背後から声がした。


「君は学校で一番人気の二人と友達なんだね?」


山田は飛び上がる。


「た、拓海ぃ!?」


拓海は静かに眼鏡を直した。


「突然現れてすまない」


「だが、少し気になることがある」


山田は瞬きをする。


「気になること……試験の?」


拓海は答えた。


「山本くんと坂本さんが話していない」


彼は腕を組む。


「クラスの空気に影響が出ている」


山田は目を見開いた。


「マジで観察してたのかよ!?」


「クラス全員には良い成績を維持してもらいたい」


拓海は落ち着いたまま言う。


「このままでは二月の試験にも影響する」


山田は頭をかく。


「あー……もう期末のこと考えてるのか……」


「当然だ」


拓海は即答した。


「何か対策をするべきだ」


「対策?」


「山本くんと坂本さんについてだ」


山田はため息をつく。


「女子たちですら、今の葵とはまともに話せてないんだぞ……」


拓海は少し首を傾けた。


「なら山本くんと話すべきだ」


「男性同士の方が話は単純な場合が多い」


山田は少し考える。


「……まあ、確かに」


「でも、どこにいるんだ?」


拓海は窓の外を指差した。


「外だ」


「木の近くに座っている」


山田は目を丸くする。


「なんで分かるんだよ……」


一歩後ずさる。


「時々ほんと怖いぞ、拓海……」


二人は中庭へ向かった。


蒼真は木にもたれ、


芝生の上に座っていた。


遠くを見るような目。


拓海が先に口を開く。


「山本くん」


「少し話せるか?」


蒼真は視線を上げた。


「あぁ……委員長か」


「いいよ」


「何?」


山田は後頭部をかく。


「いや、その……今日ちょっと変っていうか――」


拓海が真っ直ぐ遮った。


「坂本さんと喧嘩したのか?」


「なぜだ?」


山田が飛び上がる。


「もうちょいオブラート包めよ!?」


蒼真はため息をついた。


地面を見る。


それから拓海を見る。


「……一時的なものだよ」


「でも今は話したくない」


拓海は静かに答える。


「君たちの距離感はクラスに影響している」


「二月まで続いてほしくはない」


蒼真はゆっくり立ち上がった。


「あぁ、そう」


彼は拓海を真っ直ぐ見る。


「それって生徒会として困るから?」


拓海は表情を変えずに答える。


「影響はある」


「だが、それが本題ではない」


蒼真は疲れたように息を吐いた。


「なぁ、委員長……」


そのまま歩き出す。


「好きにすればいい」


「でも、しばらく俺に関わらないでくれ」


山田が一歩前に出る。


「おい蒼真! なんで急にそんな感じなんだよ!?」


蒼真は立ち止まった。


振り返らないまま。


「山田……」


低い声。


「陽菜との時間、大事にしろよ」


「全部が終わるのなんて、一瞬かもしれないんだから」


そう言って再び歩き出す。


山田は目を見開いた。


「はぁ!?」


「何言ってんだお前!?」


「蒼真! 戻ってこいって!」


だが蒼真はもう去っていた。


拓海は静かに眼鏡を直す。


「任務失敗だな」


山田は深く息を吐いた。


「……だな」


眉をひそめる。


「でも、なんであんなこと言ったんだ……?」


放課後――

すべての試験が終わったあと。


葵は一人で廊下を歩いていた。


静かに。


彼女は演劇部の部室へ入る。


今日は部員も少ない。


葵はゆっくり腰を下ろした。


「今日は人少ないな……」


「葵、もう来てたんだ!」


武雄が笑顔で現れる。


その後ろから篠原も入ってきた。


だが葵を見た瞬間、


彼女の表情が少し変わる。


「……なんか、雰囲気違うね」


葵は短く返した。


「こんにちは、先輩たち」


二人は顔を見合わせる。


先に口を開いたのは武雄だった。


「そんな固くならなくていいって」


「普通に話していいんだぞ?」


篠原も優しく微笑む。


「そうだよ、葵」


「舞って呼んでくれていいし」


葵は二人を見る。


無表情のまま。


「今日はあまり調子よくないんです、先輩」


彼女は小さな舞台へ上がる。


「発声テスト、続けますか?」


篠原は小さく息を呑む。


「う、うん……やろっか」


武雄が尋ねた。


「貸したゲーム、やった?」


「まだです」


葵の声が部室に響く。


「そんな気分じゃないので」


武雄は眉をひそめる。


「じゃあ、なんでそんな感じなんだ?」


「何があった?」


篠原が止めようとする。


「武雄くん……私が――」


「もうやめて!」


葵の声が部室に響き渡った。


壁に反響する。


「私は大丈夫だから!」


呼吸が荒い。


拳を強く握りしめている。


「そんなふうに気を遣われたくない!」


彼女は鞄を掴む。


そしてそのまま走り去った。


「葵!」


篠原が叫ぶ。


「待って、戻ってきて!」


武雄は立ち尽くしていた。


「……葵」


その瞬間。


彼の脳裏に記憶が浮かぶ。


古い部屋。


幼い頃の自分。


ベッドに座って泣いていた。


その隣には――


葵。


小さな葵。


静かに座っていた。


目は完全に空っぽだった。


前だけを見つめている。


無表情のまま。


幼い武雄は泣きながら言った。


「葵……笑ってよ……」


記憶が消える。


武雄は現在へ戻った。


篠原の隣で、


小さく呟く。


「こんな葵を見るのは……」


彼の目が真剣になる。


「子供の頃以来だ……」

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