第44話 ― 過去
リビングの柔らかな灯りが、食卓に皿を並べる葵の横顔を優しく照らしていた。
作りたての料理の温かい香りがまだ家の中に漂っていて、その空気はどこか懐かしく、心を落ち着かせるものだった。
しばらくして、玄関の扉が開く。
「ただいま、葵」
雪子は疲れたように息を吐きながら靴を脱いだ。
「おかえり。今日はちょっと違う料理作ったの」
雪子は少し驚いたように目を瞬かせる。
「あら……ほんと? すごくいい匂いね」
葵は少し照れたように視線を逸らした。
「カツ丼と……味噌汁作った」
雪子はバッグをソファに置き、ふっと笑う。
「今日はやけに気合入ってるじゃない」
その時、インターホンが鳴った。
「はーい!」
葵は玄関へ向かい、扉を開ける。
そして小さく目を見開いた。
「あ……武雄くん」
武雄は小さな袋を軽く持ち上げた。
「急にごめん。ゲーム持ってき――」
「武雄!?」
突然、雪子が葵の後ろから勢いよく現れ、武雄は思わず肩を跳ねさせた。
「あ、あの……坂本さん、こんばんは……」
「うわぁ、久しぶり! すごく大きくなったわねぇ! ご両親元気? お母さんまだあの――」
「お母さん、ちょっと落ち着いて!」
葵が雪子の袖を軽く引っ張る。
武雄は苦笑いしながら、すでに少し汗をかいていた。
「あはは……大丈夫です」
「あら、ごめんね武雄ちゃん」
武雄は持っていたゲームケースを差し出した。
「これ、持ってきた」
葵は丁寧に受け取る。
「ありがとう……でも、借りてるゲーム機で動くかな」
武雄はきょとんとした。
「借りてるの? 自分のじゃなかったんだ」
葵は少しだけ寂しそうに笑った。
「もう何年も持ってなくて……でも、久しぶりにやりたくなって」
雪子はそんな二人を静かに見つめながら、どこか懐かしそうに笑う。
「こうして二人並んでるの見ると……なんだか懐かしいわねぇ」
「ですね……」
武雄も小さく笑った。
そして雪子は、何気ない調子で聞いた。
「そういえば武雄くん、彼女いるの?」
「お母さん!?」
武雄は思わず吹き出した。
「いますよ。しかも……葵とも友達です」
「そ、そう……」
「じゃあ立ち話もなんだし、入りなさい!」
雪子はすぐに道を開けた。
「え、でも俺ゲーム届けに来ただけで――」
「だめだめ」
雪子は武雄の背中を軽く押す。
「ご飯食べていきなさい」
葵は顔を赤くしながら俯いた。
「ご、ごめん武雄くん……」
「ほんと気にしないで、はは……」
しばらくして、三人は食卓を囲んでいた。
「いただきます」
食べ始めた途端、雪子はまたすぐに話題を戻す。
「で、本当に彼女いるの?」
「お母さん、今ご飯中……」
「だって武雄ちゃん来るの久しぶりなんだもの。可愛い子? 葵とも仲いいの?」
「う、うん……」
「また今度みんなで来なさいよ」
武雄はすぐに頷いた。
「もちろんです。蒼真も呼べますし」
その瞬間、一瞬だけ空気が止まった。
雪子はゆっくり葵を見る。
「……蒼真?」
葵は危うくむせそうになる。
「な、なんでもない! 学校の友達だから!」
武雄は明らかに楽しそうに笑った。
「いい奴ですよ」
雪子の笑みが意味深になる。
「へぇ~……葵、いつまで隠すつもりだったのかしら?」
「お母さぁぁん!!」
葵の顔は真っ赤だった。
隣で武雄が小さく笑う。
「はいはい、ごめんごめん」
その後は穏やかな空気に戻り、三人は笑いながら食事を続けた。
食べ終わると、武雄は立ち上がる。
「じゃあ……もう遅いので帰ります」
「また遊びに来なさいね、武雄」
雪子は優しく笑った。
「小さい頃なんて、ほとんどここに住んでるみたいだったのに」
武雄の笑顔が少しだけ弱くなる。
「……色々、変わってきましたから」
葵は腕を組みながら視線を逸らした。
「もう子供じゃないんだから。前みたいに部屋で二人きりとか変でしょ」
武雄は後頭部を掻きながら苦笑する。
「た、確かに……はは」
そして玄関へ向かった。
「おやすみ、葵。坂本さんも」
「おやすみ」
扉が閉まると、リビングは静かになった。
葵はもう一度、手の中のゲームケースを見る。
その時、雪子が小さく目を見開いた。
「葵……このゲーム……」
「え?」
雪子はケースをそっと手に取る。
そして記憶が蘇った。
――十一年前。
雪子が皿を洗っていると、洋が嬉しそうな顔でキッチンへ入ってきた。
「ただいま」
「おかえり、洋。なんだか嬉しそうね」
「葵の誕生日プレゼント、もう決めたんだ」
「でも誕生日三ヶ月前に終わったばかりよ?」
洋は笑った。
「これは特別なんだ。葵のためにゲームを作る」
雪子は小さく吹き出した。
「あなたってほんと変わってるわねぇ。仕事はどうなの?」
「プレッシャーはすごいよ。でも頑張ってる」
「昔から開発者になりたいって言ってたものね」
洋はゆっくり頷く。
「うん。でも……一番欲しかったのは家族なんだ」
――現在。
雪子はゲームケースを優しく握る。
「葵……このゲーム、覚えてる」
葵は柔らかく笑った。
「武雄くん、ずっと持っててくれたんだって」
雪子はゆっくり娘を見る。
「……本当にあの子、彼女いるの?」
「お母さん!!」
その頃。
武雄は夜の街を一人歩いていた。
涼しい夜風が静かに吹き抜ける。
彼はポケットに手を入れたまま前を見つめていた。
「毎日この道歩いてたな……」
記憶が自然と蘇る。
「十二ブロックくらい……全然遠いと思わなかった」
――昔。
「父さん! 葵の家行こう!」
リビングを飛び跳ねる武雄を見て、藤本浩司はソファで笑っていた。
「落ち着けって。洋はまだ仕事してるだろ」
その時、固定電話が鳴る。
浩司は電話を取った。
「ああ……わかった。今から行くよ」
電話を切り、笑う。
「葵ちゃんの家行くぞ。洋が面白いもの見せたいってさ」
「やったー!」
そこへ由美も現れる。
「私も行くわ。雪子さんと全然話してないし」
しばらくして、一家は坂本家へ到着した。
家に入った瞬間、武雄は元気よく叫ぶ。
「葵ぃー!」
廊下から小さな女の子が顔を出した。
「た、武雄……」
武雄はおもちゃの車を掲げる。
「勝負しようぜ! 俺の車と葵の人形、どっちが速いか!」
葵の目が輝いた。
「私の人形は負けないもん!」
二人はそのまま二階へ駆け上がる。
「走らないのー!」
雪子と由美の声が重なり、二人は顔を見合わせて笑った。
「ほんと久しぶりね」
「だね、はは」
その頃、洋はノートパソコンを浩司に見せていた。
「来年の誕生日用のゲーム作ってるんだ」
「見せてくれよ」
「誕生日過ぎてからな、はは」
浩司は笑う。
「仕事はどうなんだ?」
洋はため息をついた。
「大変だよ。でも傑作になる。昔、父さんと働いてた人の本を参考にしてるんだ。覚えてる?」
浩司は目を丸くする。
「あの本か? まだ持ってたのかよ、はは。あの人今どうしてるんだろうな」
「元気だといいけどな」
二階では、武雄がカーペットの上でおもちゃの車を走らせていた。
「俺の車が先に壁まで行く!」
「やってみれば!」
「いっせーの!」
武雄は車を走らせながら叫ぶ。
「ブゥゥゥン――!」
だが次の瞬間。
何かが横を飛んでいった。
ドンッ。
葵の人形が壁にぶつかる。
武雄は目を見開いた。
「お前何してんだ!? なんで投げた!?」
葵は胸を張る。
「私の人形、飛べるもん。だから速いの」
「はぁ!?」
武雄も車を持ち上げる。
「じゃあ俺のも飛べる!」
だが投げようとして止まった。
「……壊れるじゃん」
葵は大笑いした。
「やってみなよー!」
武雄はジト目になる。
「葵、お前なぁ……」
だが葵は笑い続ける。
「はははっ! 今の顔!」
武雄は腕を組んでそっぽを向いた。
「うるさい」
それでも数秒後には、彼も笑っていた。
「……ばか」
――現在。
武雄は家に着き、夜空を見上げる。
「勉強しないとな……遅れてる」
一方その頃、葵の部屋では、雛から借りたゲーム機の上にゲームが置かれたままだった。
葵は静かに勉強を続けていたが、ふと時計を見る。
「……もう十一時」
ゆっくり伸びをする。
「続きは明日かな……」
そして再びゲームへ視線を向ける。
静かに近づき、ケースに触れた。
「今日はやめとこ……」
彼女は小さく目を伏せる。
「今は試験に集中しなきゃ」




