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第35話 — 言葉にならないもの

病院 — 土曜日


病院は静まり返っていた。


白い光がワックスがけされた床に反射し、冷たく無機質な空気を作り出している。遠くから聞こえる心電モニターの音が、一定のリズムで廊下に響いていた。

規則的で……途切れることなく……どこか催眠のように。


病室のひとつで、玲香はベッドの上に座り、枕にもたれていた。

顔にはまだ少し疲れが残っている。

それでも――その瞳は、生きていた。


確かな光が宿っていた。


ベッドの横の椅子には、美緒が座り、膝の上にバッグを置いたまま、静かに見守っている。


玲香はやわらかく微笑んだ。


「このまま順調なら……来週には退院できるって言われたの」


美緒はまばたきをした。


一瞬、反応が遅れる。

言葉を理解するのに、ほんの少し時間が必要だった。


そして――


瞳が一気に輝いた。


「ほんとに!?」


玲香はゆっくりとうなずく。


「やっと……家に帰れそう」


その言葉に、美緒の表情がぱっと明るくなった。


「よかった……ずっと寂しかったよ」


そのとき、ドアがゆっくりと開いた。


看護師が顔だけをのぞかせる。


「面会時間は終了です」


美緒は慌てて立ち上がった。


「あっ、ごめんなさい!」


バッグを手に取る。


「明日また来るね」


玲香は穏やかに手を振った。


「うん、大丈夫」


「また明日ね、美緒」


「また明日、正人さん」


ドアの前には、すでに正人が立っていた。


彼は落ち着いた笑みで応える。


「また明日、気をつけて」


美緒はそのまま彼の横を通り過ぎる。


「行こ?」


正人は少し驚いたように目を瞬かせた。


「え、ああ……行こうか」


車の中


夕暮れの街が窓の外を流れていく。


オレンジ色に染まった光が、建物や道路をゆっくりと包み込みながら、少しずつ消えていく。


美緒はスマートフォンを見つめていた。


通知がひとつ。


田中 俊

『お願いだから返信してくれ。俺、変わったんだ』


美緒の顎に力が入る。


画面を閉じた。


「どうした、美緒?」と正人が前を見たまま尋ねる。


「なんでもない」


数秒の沈黙。


「玲香がもうすぐ退院できそうでよかったな」


美緒は少し間を置いてから言った。


「……お父さんは、またドイツに戻るんでしょ」


正人は小さく息をついた。


「いや……日本に転勤願いを出したんだ」


美緒はすぐに顔を向ける。


「え?」


「向こうで全部片付けてからにしようと思ってたけど……もう大体終わったからな」


軽く笑う。


「それで、戻ることにした」


「会社はなんて?」


「上司はあまりいい顔しなかったよ。給料は下がるって言われた」


苦笑する。


「でも、日本でのポジションは用意してくれるらしい」


美緒はじっと彼を見る。


「ほんとに?」


正人はうなずいた。


「そろそろ戻るべきだと思ってな」


声が少しだけ低くなる。


「……悪かったな、美緒」


彼女はすぐには答えなかった。


そのとき、また通知が届く。


『明日会えないか?』


指に力が入る。


彼女は素早く入力した。


『もう関わらないで。会うつもりもない』


送信。


ブロック。


画面が暗くなる。


「怒ってるみたいだな」と正人。


「別に」


「……そうか」


車は家の前に入った。



正人はエンジンを止めた。


「明日は何か予定あるのか?」


美緒はドアを開ける。


「日曜日だし……ちょっと買い物に行こうかな」


正人は微笑む。


「送っていこうか?」


ドアを閉めながら言う。


「女の子向けのお店だし」


少しだけ笑う。


「大丈夫」


正人も笑った。


「それならいいか」


美緒は軽く頭を下げる。


「今日はありがとう、お父さん」


彼は首を振った。


「礼はいらない」


玄関のドアを開ける。


「それくらいしかできないからな」


美緒は階段を上がる。


「明日はコスメ見てくる」


「楽しんでこい」


「おやすみ」


「おやすみ、美緒」


日曜日


朝は明るく、穏やかだった。


美緒は歯を磨き、軽く朝食を済ませて家を出る。


まだ静かな住宅街。


人も少なく、音も少ない。


ゆっくりと歩きながら、いくつかの店を通り過ぎ――

ひとつの洗練されたショーウィンドウの前で足を止めた。


Lumière Cosmétiques


中へ入る。


店内は柔らかな光に包まれ、色とりどりの商品が並んでいる。


アイシャドウ。

口紅。

アイライナー。

ファンデーション。

整然と並ぶブラシ。

宝石のように輝く香水。


美緒はひとつのパレットを手に取った。


「わあ……」


店員が微笑みながら近づく。


「初めてですか?」


「はい」


「こちら、新作なんです」


ケースを開く。


鮮やかな色が広がる。


「暖色系で、日中にとても映えますよ」


美緒は首を傾げる。


「これ、きれい……」


「お客様に似合います」


店員がブラシを手に取る。


「試してみますか?」


美緒は小さく笑った。


「お願いします」


数分後、美緒は小さな袋を手に店を出た。


ほんのりとした笑顔とともに。


公園


風がやさしく吹いていた。


木々の葉が揺れる。


世界が少しだけ穏やかに感じられる。


美緒はベンチに座り、目を閉じた。


「気持ちいい……」


小さく笑う。


「ここで寝れそう……」


そのとき――


「やあ、美緒」


目を開く。


振り返る。


そして、固まった。


「しゅ、俊……?」


彼はそこにいた。


笑っている。


「無視されてさ、ちょっと落ち込んだよ」


一歩近づく。


「埋め合わせ、してくれるよな?」


美緒は立ち上がる。


「もう関わらないで。何もないから」


彼は腕を掴んだ。


「そんな冷たくするなよ――」


その瞬間。


ドンッ


一瞬で体をひねり、腕を引き、地面に叩きつける。


そのまま押さえ込む。


「触らないで!」


俊は笑う。


「そうだったな……お前、やれるんだった」


体をひねる。


「俺も多少はな」


力任せに抜け出した。


美緒は距離を取る。


息が荒い。


(まずい……)


彼が手を上げる。


目を閉じた――


「君、誰だ?」


目を開く。


正人が俊の手首を掴んでいた。


しっかりと。


「お、お父さん……!?」


俊が腕を引く。


「このジジイが親かよ」


引いても――動かない。


(外れない……!?)


正人は落ち着いて言う。


「この子は誰だ?」


「元カレ……もう終わってる」


正人はうなずく。


「そうか」


手を離す。


だが次の瞬間、表情が変わる。


完全に。


俊を真っ直ぐ見据える。


「もう一度この子に触れたら――」


声が低くなる。


「後悔することになる」


俊は息を呑んだ。


後ずさる。


「なんだよ……お前ら」


背を向ける。


「頭おかしいだろ」


去っていく。


美緒は下を向く。


「ありがとう……」


正人はポケットに手を入れる。


「いい」


小さく笑う。


「娘だからな」


その頃 — 葵


モニターの光だけが部屋を照らしていた。


葵は集中していた。


ヘッドホンをつけて。


画面の中では、ヒロが《エターナル・イージス・オンライン》のマップを走っている。


チャットが点滅する。


「どこ行くの?」


「最後のボスの城」


葵の手が止まる。


胸が少し締めつけられる。


(終わるの……?)


「その後は?」


「特にない」


「強化して遊ぶだけ」


「つまらないな」


「別のゲーム行く」


「そこからが楽しいんだろ」


「続けるかも」


葵はゆっくり打つ。


「わからない」


ヒロは止まったまま。


彼を見つめる。


そして――微笑んだ。


気づかなかった。


ドアの前に――


由紀子が立っていたことに。


口元を手で覆い。


目を見開き。


涙が一筋流れる。


画面の中のヒロ。


(どうして……こんなに、ヒロシに似てるの……?)


「葵……」


小さくつぶやく。


そっとドアを閉める。


外で――


その場に座り込む。


壁にもたれながら。


ただ――


静かに。


一人で。


その感情を抱えたまま。

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