第34話 ― 夢みたいな一日
土曜日がやってきた。
ヒナは朝8時、まるで大事な約束に遅れそうな人みたいにベッドから飛び起きた。まだ少しぼんやりしたまま、服を脱ぎながらバスルームへ駆け込む。
シャワーの温かい水が肩に落ちる。
荒くなった呼吸を落ち着けようとするけれど――
心臓は、ずっと速いまま。
「落ち着いて…落ち着いて…」
でも、全然効かない。
部屋に戻ると、まだ髪をタオルで拭きながら、クローゼットの前で足を止めた。
そこにあった。
何週間も前から見つめていた服。
深く息を吸って――着た。
軽やかな白いブラウス。繊細な袖と柔らかなシルエットが、さりげなく彼女の体を引き立てる。
ハイウエストのベージュのスカートは、動くたびに優しく揺れる。上品で、女性らしい。
その上に、薄いピンクのカーディガン。柔らかくて、どこか安心する雰囲気。
タイツを履いて、フラットシューズを履く。
小さなショルダーバッグを手に取って――
そして。
コンタクトレンズ。
机の上に置かれたメガネ。
ヒナは鏡の前に立つ。
しばらく、無言。
「……これ、ほんとに私?」
髪はいつもより整っていて、毛先がほんの少しだけカールしている。
顔も――いつもよりはっきりして見えた。
少しだけ、恥ずかしくなって視線をそらす。
キッチンには、まだコーヒーの香りが残っていた。
母のエミが顔を上げる。
そして――固まった。
「……ヒナ?」
「お、おはよう…」
「……出かけるの?」
「あ、うん。午後には帰るから、大丈夫だよ」
できるだけ普通に振る舞いながら、席に座る。
ハルが眠そうにやってきた。
「父さんはもう仕事行ったよ」
「じゃあ今日は家の手伝いしてくれる?」とエミ。
「えー、俺は友達の家に――」
「お姉ちゃんは出かけるの。大事な用事かもしれないでしょ」
ハルはヒナを見る。
そして――目を見開いた。
「え、メガネ女が出かけるの?」
「ハル!」
すぐに頭を叩かれる。
「お姉ちゃんに失礼でしょ!」
「聞こえてるからね!?」ヒナは腕を組んだ。
「いてぇ…」
もう一度、じっと見る。
「……その格好、マジで姉ちゃんに見えないんだけど」
「うるさい!」
「もう9時半だし…行ってくるね、お母さん」
立ち止まる。
「……お母さん?」
エミは少し口を開けたまま、じっとヒナを見ていた。
「……本当に友達と?」
「も、もちろんだよ!」
ハルが口笛を吹く。
「怪しいな〜」
「……デートじゃないの?」エミがにやっと笑う。
「違うってば!秋葉原に行くだけ!」
エミは口元を隠して笑った。
「はいはい、気をつけてね〜ふふ」
「お母さん!」
耐えきれず、ヒナは家を飛び出した。
朝の空気は冷たくて、気持ちいい。
駅まで早足で歩く。
ホームで立ち止まる。
待つ。
そのとき――
「うわ…可愛い」
「こんな子いたっけ?」
一瞬で顔が赤くなる。
髪を触る。
「や、やっぱり変かな…こんな格好、慣れてないし…」
電車が来た。
座る。
本を読んでいた男子が顔を上げて――赤くなって、すぐに目を逸らした。
「え、なに…なんで見られてるの…?」
スマホをいじるふりをする。
JR秋葉原駅・電気街口。
空気が変わる。
店。
声。
アニメの話。
自然と笑みがこぼれた。
「やっと来た…」
少し歩いて――
見つけた。
山田。
シンプルだけど整った服装。落ち着いたシャツにダークなパンツ、清潔なスニーカー。
髪もいつもより整っていて、顔がよく見える。
少し緊張しているみたいだった。
ヒナが近づく。
「や、山田くん?」
周りを見て――ヒナを見つける。
そして――固まる。
見つめる。
長く。
「え、えっと…山田くん、私…変?」
「……綺麗。」
沈黙。
「えっ?」
「ひ、ヒナ…気づかなかった…」
頭をかいて笑う。
「変じゃない?」
「全然!めっちゃ似合ってる!」
「や、山田くんも…かっこいいよ…」
「ありがとう…」
少しの沈黙。
「行こっか」
「…うん」
秋葉原を歩く。
ヒナの目は輝いていた。
「あ!ラジオ会館行こう!」
少し前を歩く。
周りの男たちの視線。
「彼氏いるのかな」
「めっちゃ可愛い」
山田はすぐ隣に並ぶ。
「入ろうか」
中へ。
フィギュア。
カード。
電子機器。
ヒナは楽しそうに見て回る。
「見てこれ!」
「すごい…!」
「山田くん見て!」
山田は――ただ見ていた。
笑っていた。
一つのキーホルダーを手に取る。
少し見つめて――戻す。
外に出る。
「すごかったね!あんなに――え?」
山田はヒナを見ていた。
「そういう顔、好き」
沈黙。
「え?」
「あ、ごめん!その…楽しそうで…」
「急にそういうこと言わないで…」
「ごめん…」
時計を見る。
11:55。
「お腹空いたな…ヒナ――」
「行く!」
即答。
笑う。
ゴーゴーカレー秋葉原店。
香り。
料理。
「おいしい…!」
「うん!」
笑う。
食べる。
時間を忘れる。
神田明神。
アイス。
階段。
「買い物しまくると思ってた」
「したかったけど…」
「なんで?」
「一緒に歩きたかったから」
沈黙。
フリスビー。
「危ない!」
守る。
「大丈夫?」
赤くなる。
「ありがとう…」
ベンチ。
「ちょっと疲れた…」
「水買ってくる」
戻ると――
知らない男。
モデル。
会話。
胸が締め付けられる。
カード。
去る。
「似合うよ、あいつのほうが」
「違う!」
カードを破る。
捨てる。
「似合わない」
沈黙。
「手…つなぐ?」
「…うん」
A Happy Pancake。
ふわふわ。
甘い。
笑う。
ゆっくり食べる。
夕方。
駅。
「ありがとう」
「また行こう」
「うん」
「次、伝えたいことある」
「なに?」
「内緒」
「ずるい」
笑う。
別れる。
部屋。
ヒナ。
壁。
笑う。
プリンス・ジョンを見る。
裏返す。
「……ごめんね、プリンス・ジョン」




