第31話 ― 山田の勇気
放課後のやわらかな光が、まるで液体の黄金のように教室の窓から流れ込み、机や鞄、木の床を温かい琥珀色に染めていた。
先生の声はもう重みを持っていなかった。いつものように、授業の終わりがチャイムよりも先に訪れるあの時間、空気の中に溶けていく。
時計の針が、ゆっくりと進む。
そして――
椅子が引かれる音。
最初に立ち上がったのは美緒だった。
「部活行くね。またね」
まるで心はもう別の場所にあるかのように、自然な仕草でバッグを肩にかける。
葵は机に頬を乗せたまま顔を上げた。
「またね、美緒」
二列後ろから、ひなも声をかける。
「またね」
美緒は足早に教室を出ていき、夕焼けに染まる廊下の光の中へと消えていった。
数秒後、葵も立ち上がる。
バッグを手に取り、少しだけ後ろを振り向く。
「私、先に部活行くね、ひな」
ひなは耳にかかった髪をそっとかき上げた。
「うん、すぐ行く」
葵も教室を出る。
足音が廊下に響き、その背中はやがて柔らかな夕暮れの光に溶けていった。
教室は少しずつ静かになっていく。
残っているのは、ほんの数人。
その中に、山田と松田蓮がいた。
蓮は隣の机にもたれかかっている。
「じゃあまた明日。ゲームは来週返すよ」
山田は少し眉をひそめた。
「蓮…さっきの話、なんか気にしてたみたいだけど――」
蓮は言葉を遮る。
「陸、その話は今はいい…また今度な」
山田は小さく頷いた。
「分かった」
蓮は教室を出ていった。
そして――静寂。
教室はほとんど空になった。
ひなが、ぼんやりとした様子で山田の席の横を通り過ぎる。
そのとき――
触れた。
軽く。
ほんのわずかに。
山田の指が、ひなの手に触れる。
ひなは小さく跳ねた。
「えっ!?」
反射的に胸に手を当てる。
山田は慌てて両手を上げた。
「お、驚かせるつもりじゃ…!」
ひなは目を逸らす。
「ご、ごめん…急に触られたから…」
沈黙が広がる。
教室全体を満たすように。
山田は深く息を吸った。
そして、少しぎこちなく言う。
「その…いつ、行く?」
ひなは瞬きをする。
一度。
二度。
「私?」
「ああ…デート」
頬に手を当てるひな。
「あ…それ…」
山田は少しだけ眉を寄せる。
「忘れてないよな?」
ひなは照れたように視線を逸らした。
「だって…本気にすると思わなくて…」
山田の顔が一気に赤くなる。
「ほ、本気に決まってるだろ!」
ひなの目が見開かれる。
手が口元へ。
山田は視線を逸らす。
「そ、そんな顔で見るなよ…」
ひなは少し考えてから言う。
「えっと…私は――」
「秋葉原、だろ?」山田が遮る。「いいよ」
ひなは驚いて瞬いた。
「…本当にいいの?もっと静かな場所でもって思ってたけど」
山田は後頭部をかいた。
「いや…どっちでもいいんだけど…」
「だけど?」
山田は顔を上げ、まっすぐひなを見る。
「秋葉原の話してる時、お前すごく楽しそうだったからさ」
少しの間。
「また、ああいう顔見たいなって」
沈黙。
ひなは動けなかった。
その瞳が、少しだけ違う輝きを帯びる。
驚き。
戸惑い。
そして――どこか、心を打たれたように。
胸に手を当てる。
「ど、どうしてそんなに優しいの…?」
山田は迷わず答える。
「ただ正直なだけだ」
息を吸う。
「ああいうお前、好きだなって思ったんだ。王子様の話ばっかしてる時じゃなくて」
ひなが小さく笑う。
「ふふ…プリンス・ジョンは特別だから」
山田は目を伏せる。
でも――
「内緒にしといてね?」
山田は顔を上げる。
小さく笑った。
そのとき、ふと頭をよぎる。
(なんだこれ…)
(なんか…軽い)
スマホを取り出す。
「番号、交換しようぜ。じゃないと決められないし」
LINEのQRコードを見せる。
ひなが読み取る。
追加完了。
山田がスマホを受け取る。
「名前どうしよ――」
その瞬間――
ひながスマホを奪った。
「おい、ひな――!」
「ちょっと待って」
背を向けて入力する。
数秒後、返す。
「またあとでね、山田くん」
そして教室を出ていった。
扉が閉まる。
静寂。
山田は画面を見る。
登録名は――
「ひなちゃん✨☺️」
気づかないうちに、笑みがこぼれる。
「ひなちゃん…」
しばらく見つめる。
さっきの彼女の表情を思い出しながら。
口元に手を当てる。
(落ち着け…)
(ただ出かけるだけだ)
(変に期待するな)
スマホをしまう。
バッグを持つ。
教室を出る。
廊下はもう賑やかだった。
声。
足音。
始まる部活。
そのとき――
前方に見えた。
蒼真と美咲。
話している。
「本当は二人の予定だったのに…葵も来るし、委員長まで…」
美咲はスカートの裾を強く握っていた。
「返事…くれるの?」
蒼真は頭をかく。
「ああ…あのメッセージのことか…」
美咲は顔を赤らめる。
「直接言うの…恥ずかしくて…」
蒼真はため息をつく。
「今ちょっと色々あってさ…」
その時、美咲が山田に気づく。
「どうしたの?山田くん」
山田は驚く。
「い、いや…」
そのまま通り過ぎる。
でも――
(なんだこれ…)
(ちょっと…気になる)
(まるで…)
(カップルみたいな…)
足を止める。
目を見開く。
「…カップル?」
振り返る。
蒼真はもう反対方向へ歩いている。
美咲はその場に立ち、スマホを見つめていた。
少し不満そうに。
「待てよ…」
小さく呟く。
「美咲…告白したのか?」
息を吐く。
「部活行くか」
そして歩き出した。
演劇部。
夕日がカーテンの隙間から差し込み、舞台に金色の帯を描く。
中央に立つ葵。
もう一度。
「私は…あなたを忘れない…」
武雄がため息をつく。
「違うな、葵」
篠原が腕を組む。
「感情が足りない。もっと強く」
葵は目を逸らす。
「難しい…こんな風に言えない…」
ため息。
「もういい」
でも、もう一度。
「いつか別れるって分かってる…さよならも言えないかもしれない…それでも、あなたはずっと私の中にいる…」
武雄が言う。
「もっと情熱を。リアルに」
篠原も頷く。
「クライマックスに繋がるセリフだから」
葵は手を見る。
震えている。
「泣く感じで言えない…」
武雄が言いかける。
「でも俺たち――」
葵が遮る。
まっすぐ見て。
「あなたの言う通りにはできない」
沈黙。
武雄は一歩下がる。
篠原は見つめる。
そして、葵の手を取る。
「少し休もうか?」
その夜。
部屋。
ひなはベッドに寝転び、スマホを見ていた。
プリンス・ジョン。
いつも通り。
そのとき――
「ひなー!ご飯よ!」春の声。
「はーい!」
起き上がる。
でも――
通知。
止まる。
スマホを見る。
メッセージ。
山田から。
開く。
目が見開く。
少し頬が赤くなる。
そこには――
「土曜日、出かけない?ひなちゃん✨☺️」
ひなは動けなかった。
時間がゆっくり流れる。
そして――
気づかないうちに。
小さな笑みが、唇に浮かんでいた。




