第29話:言えなかった想い
葵の部屋は静まり返っていた。
午後のやわらかな光がカーテン越しに差し込み、ベッドや机、そして鏡の上に淡い影を落としている。
その鏡には、朝の水滴がまだ小さく残っていた――まるで、遠くなってしまった“始まり”の名残のように。
葵はゆっくりと階段を上がった。
ドアを開けて、部屋に入り、静かに閉める。
数秒間、彼女は部屋の真ん中に立ったまま――
何もせず、
ただ、感じていた。
慣れ親しんだ家の匂い。
この空間の落ち着き。
音のない静けさ。
やがて、ゆっくりとベッドへ歩き、腰を下ろす。
マットレスが柔らかく沈んだ。
彼女はスマホを手に取る。
画面が光る。
LINEの通知。
グループ:「エターナルズ」
陽菜からのメッセージ。
「今日はちょっとだけ遊ぶつもり。他に来る人いる?」
葵の口元に、ほんのりとした笑みが浮かぶ。
「私も行く」
と打ち込む。
数秒後――
新しいメッセージ。
ソウマキー:
「今帰ってるところ。今日は遊べない」
葵はそのメッセージをじっと見つめた。
「もう帰ってるんだ…」
視線が、思ったより長くそこに留まる。
その時、また通知。
武雄が写真を送ってきた。
夜空の写真だった。
薄い雲に隠れかけた月が、ゆっくりと姿を見せている。
添えられた一言。
「この景色…誰かと見る方がいいな」
陽菜がすぐに笑いの絵文字を返す。
続けて――
マドウサキ:
「私、入れるよ」
陽菜:
「じゃあ、私と葵とミサキちゃんで?」
葵:
「そうみたい」
――数分後。
三人はゲーム内で合流した。
目の前には、小さなゴブリンの村。
歪んだ木と骨で作られた家々。
杭に刺さった松明が、不安定な光で周囲を照らす。
壁には歪な影が這い、低いうなり声が空気に混ざる。
その時――
最前線にプリンス・ジョンが現れた。
松明の光を受けて、剣が鈍く光る。
チャットに文字が浮かぶ。
「ゴブリン相手なら余裕だな」
ヒロがすぐに突っ込んだ。
鋭い一撃。
二体のゴブリンがほぼ同時に倒れる。
マドウサキが杖を掲げる。
足元に魔法陣。
緑の光。
回復魔法。
ヒロの傷が一瞬で消える。
プリンス・ジョンが隣で戦う。
正確な動き。
息の合った連携。
戦闘は数分続き――
やがて静寂。
村は空になった。
葵が打つ。
「次どこ行く?」
マドウサキ:
「あまり奥に行かない方がいい」
プリンス・ジョン:
「三人しかいないしな」
葵はその一文を見つめる。
指が止まる。
そして、ゆっくりと――
「その中でプリンス・ジョンはどうなるの?」
と打ち込んだ。
すぐに返事。
「どういう意味?」
葵は小さく微笑む。
答えずに。
その時――
個別メッセージ。
陽菜。
「今のどういう意味、葵?」
「プリンス・ジョンがどうとかって」
葵は小さく息を吐く。
「デートで嫉妬しちゃうかもね」
数秒後――
ボイスメッセージ。
再生すると、
陽菜の声が勢いよく飛び出した。
「やめてよ葵!!」
「葵まで?!」
「今普通にプレイ中なんだけど!!」
葵は固まる。
慌てて打つ。
「ごめん、陽菜」
スタンプを送る。
星を抱きしめる小さなクマ。
陽菜:
「かわいい」
葵:
「ちょっと舞台のセリフ練習してくる」
数秒後――
陽菜:
「その前に…秋葉原って微妙かな?」
葵は瞬きをする。
「微妙?」
「ああ…デートか」
少し考える。
「静かな場所の方がいいかも」
陽菜:
「秋葉原にも静かな場所あるよ」
葵は小さく笑う。
「じゃあ…そのあと公園とかどう?」
少しの沈黙。
そして――
陽菜から画像が届く。
その日の服。
淡いクリーム色のコート。
柔らかい生地で、少し長めの袖。
中にはシンプルな白いブラウス。
上品な襟。
濃い青のスカート。膝丈で、やわらかなプリーツ。
黒いストッキング。
シンプルな茶色の靴。
派手さはない。
でも――
とても繊細で、
とても、彼女らしい。
葵は微笑む。
「本当に散歩だけ?」
「冗談」
すぐに返信。
「今のちょっとムカついた」
葵はくすっと笑う。
その時――
ゲームチャットに5件。
マドウサキ:
「ねえええ?」
「やってる?」
「放置で落ちるよ?」
「いるの?」
「ねえ??」
葵:
「いる!」
「ごめんミサキちゃん!」
ミサキからスタンプ。
怒った力士。
――エターナルズの中で。
葵と陽菜は、見えない視線を交わして、
笑った。
――翌日。
教室はざわめきに満ちていた。
会話。
足音。
動き。
廊下で、葵は美緒と陽菜と話していた。
その時――
足早な音。
美咲が通り過ぎる。
まっすぐ前を見て。
止まらずに。
葵は笑って声をかける。
「おはよう」
「おはよう」
短い返事。
そのまま教室へ。
美緒が首をかしげる。
「どうしたんだろ」
陽菜は考える。
「グループで唯一、街に残ってたよね…」
「寂しかったのかな」
葵が瞬く。
「海のこと?」
美緒は腕を組む。
「みんな行ってたって聞いたら…」
「ちょっと嫌かもね」
葵は少し眉を寄せる。
「でも、家族でだし…」
陽菜:
「誰が言ったんだろ」
葵:
「違うかもしれないよ」
沈黙。
数秒後。
陽菜がぎこちなく笑う。
「かもね…」
美緒が微笑む。
「そう思うってことは…気にしてるってことだよ」
陽菜は腕を組む。
「見た感じでそう思っただけ」
その時――
廊下の奥。
ソウマが歩いてくる。
あくびをしながら。
美緒がにやりと笑う。
「じゃあ陽菜…」
「ここは任せた」
葵が赤くなる。
「え?!なんで?!」
美緒はもう教室へ。
「またね」
「美緒ぉぉ!!」
ソウマが来る。
「おはよ…ふぁあ…」
葵は少し緊張しながら笑う。
「おはよう…」
「寝不足?」
「昨日帰るの遅くて」
葵は、ほとんど無意識で言った。
「海に来てくれて…嬉しかった」
ソウマが瞬く。
「え?」
葵は一気に赤くなる。
「い、いや!
みんなで行けて楽しかったって意味!」
ソウマは一瞬止まる。
「あ、ああ!
楽しかったな」
視線を逸らす。
そして――
「その…水着も、似合ってた」
沈黙。
二人とも固まる。
「ち、違う!
色が似合ってたって意味で――」
彼は言葉を切る。
教室のドアの前で止まる。
動かない。
葵は後ろで顔を覆う。
「ソウマ…?」
反応がない。
一歩、近づく。
「気にしなくていいよ…私は――」
言葉が止まる。
「どうしたの?」
ソウマは教室の中を見ていた。
美咲。
席に座り、
静かに荷物を整理している。
彼は小さく言う。
「昨日…」
「美咲に告白された」
世界が、一瞬止まる。
「…え?」
「電話で」
胸が、きゅっと締めつけられる。
何かが、内側に引き寄せられるように。
葵は胸に手を当てる。
表情は変わらない。
でも――
内側で、
確かに何かが変わっていた。




