第28話:朝の光と、胸に残るもの
朝の光が、まるで誰も無理に起こしたくないかのように、やさしくホテルのカーテンをすり抜けていた。
部屋にはまだ、あまり眠れなかったけれど…たくさん夢を見た人のような、静かで壊れそうな空気が残っている。
葵はゆっくりと目を開けた。
しばらくの間、ただ天井を見つめたまま動かなかった。
こんな何でもない朝のはずなのに、自分の心臓が少し速く打っているのを感じていた。
頬はほんのりと赤い。
彼女は体を起こし、
ベッドから降り、
一歩ずつ、ゆっくりと鏡の前まで歩いていく。
そして――止まった。
自分の姿を見つめる。
まるで、何かが変わってしまった理由を探しているみたいに。
「……蒼真くん……」
その名前が、小さな囁きのようにこぼれた。
葵はそっと手を上げて、二本の指で自分の唇に触れる。
まるで、その仕草で昨夜の“途切れた瞬間”を取り戻せるかのように。
(あのとき……何を言おうとしてたんだろう……?)
胸がぎゅっと締めつけられる。
あたたかくて、落ち着かなくて、どうしていいかわからない感覚。
(一晩中……そればっかり考えてた……)
ぎゅっと目を閉じる。
「はぁ……もう……」
「忘れられない……」
「葵ー!」
部屋の向こうから、由紀子の声が響いた。
「朝ごはん行って、そのあと準備するわよ?」
葵は大きく息を吸って、現実に戻る。
「は、はい!お母さん!」
急いでバスルームに入り、冷たい水を顔にかける。
一回。
二回。
三回。
でも――
その熱は、消えてくれなかった。
もう一度、鏡を見る。
その瞬間――
彼女は一瞬、固まった。
自分の瞳が……いつもより青く見えた。
「……え?目……?」
軽くこすって、顔を近づけてもう一度見る。
――次の瞬間には、
いつも通りの色に戻っていた。
「……気のせい……かな……」
ホテルのレストランは穏やかな空気に包まれていた。
食器が触れ合う軽い音、淹れたてのコーヒーの香り、小さく交わされる会話。
葵、ミオ、陽菜は同じテーブルに座っていた。
ただ――
陽菜の様子が少しおかしい。
静かすぎる。
スマホを手に持ったまま、
ゆっくりと画面をスクロールしている。
服。
ワンピース。
コート。
靴。
(こういうの、気にするタイプじゃなかったのに……)
ミオが後ろからそっと覗き込む。
「なにそれ?」
陽菜はビクッと体を固めた。
まるで悪いことをしていたかのように、すぐにスマホを隠す。
「な、なに!?」
ミオはわざとらしく口元を押さえ、目に涙を浮かべる演技をする。
「うちの陽菜が……成長してる……」
「そんな服見てるなんて……デートでしょ!?」
陽菜の顔が一瞬で真っ赤になる。
「ち、違うから!!」
葵が首をかしげる。
「ほんとに誰かと会うの?」
陽菜は真剣な顔で言う。
「私だって人間だからね?」
葵は苦笑した。
「はは……ごめん……だって……」
「プリンスジョン……」
陽菜は腕を組む。
「プリンスジョンは永遠に私の旦那だから」
視線をそらす。
「これはただの……テスト」
ミオがニヤッとする。
「ふーん、テストねぇ」
「で、その“テスト”はどこでやるの?」
「……秋葉原」
ミオは額に手を当てた。
「マジで?」
葵は小さく笑う。
「もう少し静かな場所の方がよくない?」
陽菜は肩をすくめる。
「本当のデートじゃないし」
「ただ歩くだけ」
ミオは目を細める。
「“ただ歩くだけ”ねぇ……」
「で、その相手は誰?」
陽菜はジュースを一口飲む。
「言わない」
「ただ……ちょっと知るだけ」
少しだけ言葉を濁す。
「……たぶん」
葵が瞬きをする。
「それ、もうデートだよ」
ミオがため息をつく。
「陽菜がデートとか、歴史的事件なんだけど」
「うるさい」
「はは、ごめんって!」
葵は少し考え込む。
「……デート……」
陽菜が眉を上げる。
「三人で行ってもいいけどね」
「でもやめといた方がいいかも」
葵が目を見開く。
「三人で!?」
「うん」
陽菜は指をさす。
「葵は蒼真」
「ミオは……適当に」
ミオが耳を引っ張る。
「適当ってなんだよ!」
葵は一瞬で真っ赤になる。
「わ、私と蒼真くん!?」
両手で顔を隠す。
ミオが笑う。
「完全に恋してる顔じゃん」
「うるさいミオ!!」
陽菜が笑う。
「もっとさりげなく言わないと」
「かわいそうに、葵」
「陽菜もうるさい!!」
一瞬――
沈黙。
そして――
三人同時に吹き出した。
「ははははは!」
その後、ホテルの外。
由紀子は車に荷物を積んでいた。
朝の空気はまだ少し冷たく、海の匂いが残っている。
ふと顔を上げると――
少し離れた場所に、
蒼真の姿が見えた。
女性と並んで歩いている。
山本順。
由紀子は一瞬ためらい――
「……すみません」
と声をかけた。
順が振り向く。
「あ……どうも」
「坂本さん、ですよね?」
由紀子はうなずく。
「少し気になって……」
「新聞で名前を見たって言ってましたよね?」
順は眉をひそめる。
「ええ……それが?」
由紀子は静かに息を吸う。
「夫が……」
「その記事に出ていたんです」
「運転中に体調を崩して……この近くの崖の道路で、車が見つかったと」
順の目が見開かれる。
「待って……」
「坂本……」
少し考え、
「……浩司?」
由紀子は小さくうなずいた。
「はい」
順もゆっくりとうなずく。
「しばらく話題になってました……」
沈黙が落ちる。
波の音が、どこか遠くに感じられた。
「ここで名前を聞くとは思いませんでした」
由紀子が呟く。
順は目を伏せる。
「……すみません」
由紀子は微笑む。
けれど――
それはどこか欠けた笑顔だった。
「もう……お別れは済ませましたから」
「ずっと前に」
少し間を置く。
「でも……やっぱり残りますね」
息を吐く。
「特に、娘には」
順は言葉を失う。
風が二人の間を通り過ぎた。
一瞬、時間が止まったように感じる。
そして――
由紀子はもう一度笑った。
「もう過去のことです」
振り返る。
「それでは、山本さん」
「お気をつけて」
車は走り出した。
海が遠ざかっていく。
まるで――
大切な記憶を、そっと置いていくように。
街に戻り、ミオを先に降ろした。
「また明日ね、葵!」
「うん、またね!」
その後――家。
葵はドアを開ける。
「わあ……」
「なんか……リフレッシュした感じ」
由紀子が優しく笑う。
「私もよ」
二人はテーブルに座る。
「今日はどうするの?」
「ゲームでもしようかな」
「陽菜からもう連絡来てるし」
由紀子が首をかしげる。
「ゲーム?オンラインで?」
「うん……」
「陽菜が本体貸してくれたの」
由紀子は少し驚いたように微笑む。
「意外ね」
葵は頬をかく。
「みんなが……助けてくれてる」
「それはいいことね」
葵はじっと見る。
「なんか変だよ?」
由紀子は腕を組む。
「娘を褒めちゃいけないの?」
「そ、そうじゃなくて!」
由紀子はくすっと笑う。
「お父さんのこと思い出すわね」
天井を見る。
「よくゲーム大会開いてたの」
「藤本くんもよく来てたわ」
葵が瞬きをする。
「武雄のパパ?」
「そう」
懐かしそうに微笑む。
「カラオケ行ったり」
「コンビニ行ったり」
「ゲーセンで遊んだり」
小さく笑う。
「時々ね、私よりゲームの方が好きなんじゃないかって思った」
葵が笑う。
「ははは!」
「怒られてたでしょ?」
「もちろん」
由紀子は続ける。
「それから結婚して」
「この家を買って」
葵を見る。
「あなたが生まれた」
「自然にね」
葵は静かになる。
「……なんか不思議」
由紀子はうなずく。
「思い出すのは疲れるけど……」
「でも、あたたかいの」
時計を見る。
その瞬間――
ある記憶がよぎる。
(ちょうどこの時間……)
(ドアが叩かれて……)
(警察が……)
(遺体が見つかったって……)
笑顔はそのまま。
でも――
瞳はどこか遠くを見ていた。
向かいでは、
葵がまだ笑いながら、何気ない話をしている。
気づかないまま――
由紀子はただ見つめていた。
静かに。
今、自分の手の中にあるものを、
失わないように、大切に抱きしめるように。




